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doctor
5 王子様に会うための代償
しおりを挟むピアノのコーチに聞かれたことがきっかけで、私は小石川先生のレッスンに行った日に、「藤原かおり」さんのことを聞いてみた。
小石川先生は、
「仁のお母様ね。素晴らしいピアニストよね。今はあまり目立った活動はしていないけれど……」
と仰った。
自分でも調べてみた。藤原かおりさんが高校三年生で一般部門に出場し、一躍有名になったというコンクールは、史上最年少のグランプリということだった。
それから、そのコンクールのピアノ協会のテストを受けると、参加特典として、希望者にミニCDがもらえるらしい。課題曲の難易度は様々だったから、私でもちょっと練習すればすぐに弾けそうな曲を三曲練習し、三回エントリーして、三枚のCDを手に入れた。私が自発的に何かをしたのは珍しく、母親に驚かれたけれど、嫌味を言われたり、機嫌が悪くなったりもしなかった。
それからは、部活で基礎練習という名の各自練習が終わると、急いで帰ってひたすらCDを聴いた。母親にお願いして、ヘッドフォンの良い物を買ってもらった。それを耳にあてて聴くと、まるですぐ近くで弾いてくれているかのようだった。打鍵した瞬間に、とんっ……と木の音さえするような優しい音で、至福のひとときだった。50分ずつの三枚のCDは、リサイタルのライブ録音だったらしい。CDでも涙がこぼれてきた。幸せだった。生で聴いてみたい。そんな機会はあるだろうか……。
鬱々とした毎日の中で、夜にヘッドフォンでそのCDを聴くのが日々の慰めになった。
「莉華ちゃん、待って」
いつものように、部活の基礎練習時間という名の各自練習程度で切り上げて、こっそり帰宅しようとしたら、例のピアノのコーチにひき止められた。昇降口まで追いかけてきて「莉華ちゃん」呼びとか、まずいんじゃないの?部室だったら皆に変な目で見られる……と思ったけど、それさえどうでもよくなっていた。私がコーチに好意を持ってるわけじゃないし。
「すみません。あとは家で練習しますから。ちょっとやることがあって……」
私は体よく帰ろうとした。
「わかった。じゃそこまで」
コーチはなぜか校門までついてくる気だ。いったい何?
「あのさ、これ…………皆がいる前で渡せないから」
ジャケットの内側から、折りたたまれたチラシとチケットを出した。
それは「史上最年少のグランプリ、史上最年少の最優秀指導者賞」と銘打った「藤原かおり」と「槇慎一」という人のピアノデュオの演奏会だった。
藤原かおりさんの写真……生成りのワンピースに上品な朱色のショールを掛けた、ちょっと頬がピンクで、恋してるみたいな、可愛らしい、幸せそうな表情の写真。
私は思わずそれに釘付けになった。
「莉華ちゃんに似てるよね」
「えっ?そうですか?」
「うん、似てる。可愛い人だよね。でも、珍しいね。これね、多分ていうか絶対に槇慎一のファンで殺到するよ。学生はもちろん、ピアノ習い系の保護者にも人気だからね。男の子のいる母親なんてすごいんだから。チケット取るの、大変だったんだ。ほら、僕等とは学閥が違うから。槇慎一の大学関係者に頼んで、いい席取ってもらったんだ。メンデルスゾーンの演奏会だから、莉華ちゃんのメンコンにも役立つよ。一緒に行こう」
コーチは、有無を言わさない勢いだった。もちろん、断る理由もない。
無事に帰宅した私は、コーチの「似てる」と言う言葉にドキドキした。そうかな?私はちょっと嬉しくなって、そのチラシの写真から目が離せなかった。「槇慎一」という指導者は、男性演奏者が普通に着ているタキシードの写真だった。何だっけ、誰だっけ、知ってる人だっけ?と思って、やっと気がついた。
これ、仁君のお父さんだ!
弦楽アンサンブルで「こんにちは」と声をかけてくれた仁君のお父さん。仁君にそっくりだった。格好良くて、背が高かった。サラサラな仁君とは髪質が違うのか、ちょっとふわふわヘアーだった。
夫婦なんだ。仁君のご両親なんだ。
なんて素敵なんだろう。
仁君に惹かれるわけだ。
それから、心の中では仁君……王子様を思いつつも、ピアノのコーチとは彼氏同然のつきあいになった。
恩着せがましく「チケット取るの大変だった」と言われたのは有り難かったし、私だったら演奏会があったことすら知らないまま終わっていただろう。
今度は生演奏が聴けるからと気を取り直して、また基礎練習時間外まで残って練習し、車で送ってもらう生活になった。
当然ながら親には秘密。バレたらまずい。学校にバレるより、親にバレる方が怖かった。
一方、どうにでもなれと思う自分もいた。
家まで送ってもらうのは、見つかったらまずい。家はクリニックだ。少し離れたところで降ろしてもらった。車を停めるのは、駅前でもない、住宅街でもない、ちょっと人気のないところだった。
ピアノのコーチは音大生とはいえ、やはり大人だった。
音楽のことについていろいろ教えてくれて勉強になった。部活のコーチとして、それ以上に個人的に教えてくれるのは、単に好意というだけでもなかったのかなと思わせるほど。
心の駆け引きをされていても、私にはわからなかったし、流されまいと思う貞操観念すらなかった。
基本的に『いい子』でいた私は、面倒事が嫌いだった。皆にいじめられても泣かなかったからか、無視されるくらいだったし。
部員として迷惑をかけるようなことはしていない。むしろ、この学園の弦楽部の格が上がったと褒められる人材なのだ。技術的には。
そこをコーチに指摘された。
「技術的にも音楽的にも弾けているのに、心の成長が伴っていない」と。
「もう、高校生だろ」と。
「自分の意見を言え」と。
「自分というものはないのか」と。
小石川先生の厳しいレッスンでさえ気丈に耐えていた私は、隠していた物を勝手に暴かれたようで、私はついに口に出した。いつもだったら口にもしないし、顔にも出さない。でないとあの母親と同じだから。でも!
心の成長ってナニ?
何をもって成長っていうの?
成長したらどうなるっていうの?
私は未来に希望を持ってない!
未来なんていらない!
いつ人生を終わりにしたっていい!
今終わりにしたって、心残りなんてない!
私なんて、私なんて別に誰からも……
物理的に止められた。
車の中でコーチにきつく抱きしめられ、とびきり優しいキスをされていた。そのキスは甘くて、大切にされていると感じることができた。やめないで、いつまでもしてほしいと思った。
幸せがこういうものなのかどうか、わからないけれど、コーチが、本音をさらけ出した、そのままの私を抱きしめてくれたことに、たまらなく慰められた。
そう、私は慰められたのだ。
コーチが私を好きかどうかなんてわからないし、どうでもいい。
いつの間にか、そんなふうにキスをされ、それ以上のこともされた。
帰宅した時に気まずいかと一瞬思ったけれど、いつもの時間に帰宅して、いつものように「ただいま」と言えば、母親に顔を見られることもなく、自室に行くことができた。
なあんだ、と思ったのは何だったんだろう。
ある意味、予想通りだった。
変な言い草だけど、見つかって怒られた方がよかったなんて思ってしまった。
それがマトモだろうと、頭の何処かでわかっていた。
「莉華ちゃん、好きだよ」
そう言われながら抱きしめられることは、確かに私の心を埋めてくれた。
手を伸ばして髪を撫でてくれること。長い髪を掬った後で頬を包んでくれること。唇を重ねてくること。制服のブレザーのボタンを外して、ブラウスの上から胸を触ること。優しく触ったり、時には強く揉むこともあった。ブラウスの隙間から長い指先で弄ばれることもあった。それから、スカートの中に……。
異変というべきか、来るはずのものが来ないことに気づいた。
そうだよね…………。
今度こそ死のうと思った。
でもその前に、演奏会に行こう。
藤原かおりさんの演奏が聴きたかった。
願わくば、仁君に会いたかった。
私の王子様に。
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