Variation

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8 まるで彼が助けてくれたみたいな

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 ちえみが合コンする店の、入り口も出口もわかった。本田はその真ん前よりも少し離れた場所で待機して、そこから出入りする人間を見ていた。
 流石に直ぐには出てこないだろう。ボディーガードの出番はまだだ。




 松本が本田に話をしたのは、松本の大学院の卒業式間近のことだった。


「フランスに留学することになった。ちえみが卒業する頃には戻る予定だ。カリキュラムと試験をクリアして、最短で帰国できればだが……。結婚するつもりでいる。だが、離れても上手くやっていく自信がない。側にいたって難しいこともあるのに、離れてなんて……。今まで、ちえみの家族ごと仲良くやってきた。俺がいなくなった後、ちえみがどうなるのか見当もつかない。本田に『頼む』って言って、かっ攫われたとしても、俺には何も言う資格はないだろう。ただ、誰かに盗られるなら、本田がいいと思ったんだ。何ていうか……もし、俺がダメだったら、本田が盗ってくれ。ちえみだって、誰でもいいわけじゃない。きっと本田なら……。俺の代わりに、気にかけてやってほしい。何を言っているんだろうな、俺は。……頼む」

 松本がフランスに行くことすら知らなかった。本田にとって、篠原門下の先輩である松本は、一番尊敬する兄弟子だった。自分に話してくれたのは嬉しかったが、『シノ』がこれから三年間も一人になるということにショックを受けた。信じられなかった。チャンスだなんて思えなかった。『シノ』は愛らしくて声楽科のマスコットだし、松本先輩と『シノ』の関係は声楽男子皆の憧れだった。


 篠原教授と声楽出身の奥様は、先細りするオペラ界やクラシック界、声楽家を、口先だけでなく人材の発掘から育成まで応援している家庭だ。
 若輩者の自分達にだってわかる。声楽科男子は年々減っている。毎年恒例の、年末にテレビでも放映されるベートーヴェン作曲『第九』の合唱は、声楽科男子だけでは人数が足らず、ピアノ科男子を入れても足りないのが現状だ。弦楽器や管楽器は合唱の授業で歌うが、本番は本来の専攻楽器で舞台に乗る。エキストラを使わずに学生だけで音楽を成り立たせるには、絶対的に人数が足らない。
 きっと松本先輩と『シノ』がその精神を受け継いでいくだろうと考えられていた。だからこそ皆、松本先輩と『シノ』を応援しているのだ。


 松本の、そんな男の正直な気持ちを自分に吐露したことにも驚いた。いつでも自信満々で、あんなに体格良く、見目麗しく、音大声楽科トップ教授の娘婿にと期待されている松本先輩…………。彼の、そんな気弱な素の姿は初めてだった。


「誰かに盗られるなら本田がいい」


 松本のそんな言葉を勿論本気にする訳もないが、心の何処かで『許可が出てるんだから遠慮なく行け!』と解釈する自分もいた。
 このまま松本先輩からの連絡がなく、篠原教授の信頼を取り戻さないのならば、後釜は自分になるのでは?とも思う。
 『シノ』との関係も悪くない。『シノ』は老若男女誰にでも優しいが、篠原教授の門下ということで、僕は他の男より一段上にいる。その遥か上に松本先輩がいるが、見えない奴は知らない。





 そんなことを考えていたら『シノ』が出てきた。一人だ。本田はすぐに駆け寄り、つかまえて一緒に帰ろうとしたその時。


「ちえみちゃん、待ってよ!」


 男の声がした。

 ほら見ろ!やっぱり狼が来たじゃないか。あれは間違いなく、人間の仮面を被った狼だ。


「待ってよ。何も言わずに帰っちゃうなんて。俺とデートしようよ。まだいいでしょ?」 


 男は背が高く、小さい『シノ』は肩をすっぽりと抱かれて後ろからは見えなくなった。ヤバい!

「遅くなったらお父さんにおこられるから。はなして………やっ!」

 ちえみの声が聞こえる。声楽女子らしく、声はよく通る。ちえみは必死に抵抗を試みているが、男はびくともしない。
 あたりまえだ。そんなの無茶に決まってるだろ!『シノ』も逃げるようにしていたし、男が歩くスピードも速かった。男は駅の改札には真っ直ぐに向かっておらず、雑踏の中、本田は人にぶつかり、一瞬彼等の行方がわからなくなった。

 見ていたのに!! 何処だ…………。辺りを見回した。











 いた!

 男は『シノ』を抱いたまま、駅前広場のガードレールに寄りかかるように座り、『シノ』を自分の股座に入れて抱えこんでいた。あれではもう逃げられない。本田は走った。

「いや、はなして、かえらせて……」
「キスだけ、ちえみちゃん、可愛いから。こっち向いて」

「いや、いや、やめて……」


 『シノ』のバカ!そんなの通用するか!男だって、完全に反応を見て遊んでいる。ニヤニヤしやがって………。


「ちえみ!何してる!」


 本田は男の前に真っ直ぐに立ち『シノ』を奪い、抱きかかえた。自分の胸にきつく閉じ込めた。


 松本先輩だったらこう言うだろう、という台詞を、松本徹の口調で、松本徹になりきって言った。
 リハーサルもない、本番一発の本気の演技だ。本田は普段、こんな相手に関わることすらない、温厚な音大男子だ。しかし、こんな小柄な、しかも好きな女が弱っている時につけこむ男は許すわけにはいかない。自分ですら、それは卑怯だとわかっている。





 ちえみは、もうダメだと思っていた。あの男に足で挟まれて一歩も動かせなかったし、体も自由にならなかった。腕を掴まれ、男の顔がすぐ近くにあり、頬に唇を感じ、本当に本当に怖かった。「キスだけ」って言ったけど、絶対にキスだけでは済まないと、恐怖を感じた。

 父親や松本と同じくらい背の高い逞しい男。
 体の厚みは多少違うが、一回だけその姿を彼に重ねて見てしまったのが、おそらくいけなかった。このくらいの背丈だった、このくらいの胸の厚さだった、抱いてくれた腕がこんな感じだったと思い、もうそこにいられなくなって、飛び出してきたのだった。まさか追いかけてくるなんて。まさかまさか、男の人の力があんなに強いなんて。徹くんは優しかったから、知らなかった。
 徹くんは「キスだけ」と言ったら本当にキスだけだった。首すじや項など、唇だけではなかったけれど、家族もいる家の中なので服を脱がすようなことはしなくて、高校を卒業するまではそれ以上されなかった。
 それ以降も、私が本当に嫌だったら振り解ける程度の力で抱いてくれていたのだとわかった。それだって、すごく強く感じたのに。好きな人にならきつく抱きしめられても幸せだったのに……。あんな男の片手程度の腕力にさえ、ちえみは自分が女で非力なことを初めて自覚した。


 なぜここに本田がいるのかわからないけど、まるで松本に助けられたような気持ちだった。どうしてだろう。もちろん、松本じゃないのに。


 徹くん…………。


 そしてまた、ここにいない松本を想い、本田にすがりついて泣いてしまった。

 泣いたのは、松本が出発した日以来だった。

 涙と感情があふれてきて、止まらなかった。


















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