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11 書けなくなった手紙

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 翌日。
 ちえみが目覚めたのは朝でも昼でもなく、とうに午後になっていた。

 自分のベッドで洋服を着たままの姿に、何だっけ?と思いつつ、彼に何度も何度も抱かれた夢を思い出して幸せだった。
 もう一度寝たい。同じ夢をもう一度見たい。目を瞑り、夢で彼が触れてくれたところに、手を伸ばした。
 あんな夢を見たからか、そこはすごく潤っていて、恥ずかしいよりも、恥ずかしい欲求を抑えられなかった。


 徹くん…………。



「ちえみ、自分でしてみろ」

 徹くんがまだこの家にいた頃、そこに自分の指を入れるよう教えられた。エッチな戯れに何でもつきあえるわけじゃない。私の手は小さいし、当然指だって短い。そもそも、そういう問題じゃない。

「こんなのイヤ!徹くんにしてほしいの!」

 そう言ったら、何かのスイッチが最大値になったみたいに大変なことになったっけ。

「煽るな!優しくしてやれなくなる……後ろ向いて……」

 後ろから腰をつかまれて、激しく抱かれた。あれが最後だった…………。


 そんなことを思い出しつつ、ちえみはもう一度眠った。徹くんに会いたい。夢の中でもいいから抱いてほしい。彼のために編んだ大きなセーターを抱きしめた。これだって、渡したかったのに。徹くん…………。


 ちえみは再び眠り、うっすらと起きてはまた眠り、結果的にしばらく大学を休んだ。何度か母親に起こされたのは記憶にあるが、起こされたとわかるだけで、目と体は起きなかった。




 あれ以来、夢で彼に会えることはなかった。



 寂しさが募った。

 彼に送るつもりで書いていた独り言のような手紙も、いつからか筆が進まなくなった。ずっと眠っていたからだ。そして、起きても書くことができなくなった。

 言葉が、出てこなかった。


 翔子からは、あのヴァリエーションの続きと手紙が郵便でその都度送られてきた。それは、ちえみに時間の経過を意識させた。


 あまり欠席が多くなると単位が取れない。
 留年したり、卒業が遅れたりしたくない。ちえみは単位が取れるギリギリまで休んだ後は、とにかく登校して年度末の学科試験の範囲の勉強をすることで乗り切った。友達がたくさん話しかけてくれ、心配をかけたのだとわかった。


 声楽科の前期試験は実技のみで、翔子に伴奏をお願いした。二年生の後期試験ではドイツ語の歌曲を中心に取り組むのだが、前期試験は自由曲のため、以前から歌ってみたかったドビュッシーの『星の夜』を歌った。歌詞の意味は、いろいろな意味に解釈できる。アルペジオの綺麗な和音に乗せて、祈るように歌った。



 何かが足りないと感じていた。そうだ、本田を最近見かけないと気がついた。いつも何かと話しかけてきたのに。必修科目のクラスにもいないなんて、どうしたのかなと奈緒に聞いてみたら、教えてくれた。

「ちえみに聞かれたら言うつもりでいたの。本田、転科したの。作曲科にいる。だから、今までと同じ科目も翔子のクラスで授業受けてるみたい。変な時期の転科だったけど、きちんと試験受けて移ったみたいよ。もともと合唱畑の出身で、和声学なんて完璧だったしね。翔子は女声合唱書いてるし、本田は男声合唱書いて、二人合作で混声合唱書いてるみたい。だから、翔子も忙しくなって月曜日のランチも来なくなっちゃったの。ちえみ、無理しないで、私達待ってるから、何か助けが必要なら話してね」

 ちえみは頷いた。なんだろう……。ありがとう、って言いたかったような気がした。でも、探しに行くことはしなかった。何か、ためらわれた。でも、何に?


 なんだろう……。それからも、ちえみはもやがかかったような生活だった。明るかったお父さんも、なんだか演技にキレがないし、お母さんのお料理も下ごしらえを省略するようになって、品数が少なくなった。私があまり食べないし、一緒に料理をしなかったからだ。それでも、いつか訪れる未来に向かって、ゆっくり導かれるような日々を過ごした。


 松本が「待っててくれ」と言った。

 家族皆で、あの言葉を信じていた。


 それは、そんなに単純でも簡単なことでもなかった。
 ちえみにとって普段の生活を過ごすということは、とてつもなく長く感じ、明日が途方もなく遠く感じた。入浴を面倒に感じたり、時間の感覚がおかしくなっていた。
 ある時は起きていられなかったり、またある時は眠れなかったりした。起きている時は、奈緒にしてもらっていたメイクを自分で出来るようにした。自分で薄くしたり濃くしたり実験したら、お料理と同じだなと気づいた。お母さんにメイクを教えてもらった。お母さんもメイクの映える顔だったことがわかった。私はお母さんに似ているんだ……。


 お母さんと話をしたのも久しぶりのような気がした。お父さんも昔留学していて、お母さんは待っていたと話してくれた。帰ってきて、プロポーズしてくれて嬉しかったと。ゆっくりと、ただひたすらその日を迎えるために生きていたと、話してくれた。貴女にも、どうかその日がきますようにと言い、母親は娘を優しく見つめた。


 少女だった娘は綺麗になった。恋をして、愛する人と幸せになってほしい。


 そうして、心の中で皆で手を取り合うように、一日一日を過ごしていった。



 また、母娘で料理をするようになった。

 食欲も戻り、朝から丁寧に出汁をとる毎日になった。

 時間と共に、父親の怒りも凪いでいった。









 ちえみが、ようやく大学を卒業するという頃。
 篠原宛に電話が来た。電話を取ったのは父親だった。相手は松本だった。ちえみは側にいたが、動けなかった。松本は、ちえみの卒業式の日に東京に行くと言う。現在は郷里にいるらしい。父親の顔をした篠原は、ちえみに聞いた。

「ちえみ、徹に何と返事する?」



「どうぞ、来て、ください」

「わかった。そう伝えよう」





 日本に帰ってきたんだ。東京に来る。この家に来る。待ってた。もう、待ちすぎて何も言えない。彼は、私に何と言うのだろう?プロポーズしてくれる?それとも?

 急に怖くなった。





 卒業式の日。
 ちえみは用意してもらった袴姿で、正門の前や学内のコンサートホールで友人とたくさん写真を撮った。翔子は大学院に行くらしく、卒業はするけれどあまりそういう気分にはならないからと、パンツスーツで、私達声楽科三人の卒業祝いばかりしていた。あれからヴァリエーションの創作も続けていて、だんだん後半になると一週間に一つのヴァリエーションとはいかず、壮大なものを何週間もかけて創ったらしい。製本していないから五線紙が束になっているけど、「これはもう、松本氏に見せなきゃだよね!」と奈緒も美穂も感嘆の声をあげた。


「松本氏、帰ってきたんでしょう?日本に」 
「そうみたい」


 卒業式の会場に向かおうとしたその時。






「ちえみ」


 この声…………。

 ハッとした。 

 「待っててくれ」と短く告げたまま、予定より一日早く行ってしまった人。


 そこにいる?この声。夢じゃない。

 ちえみは、その声の方に、ゆっくりと振り向いた。















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