Variation

槇 慎一

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4 『彼』を知らない新しい友達

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 数日後。
 ちえみは友達になった葵と伴奏あわせをすることにした。

 正門前で待ちあわせ、葵の住む一人暮らしの部屋に行くことになった。ちえみはこの沿線以外の場所へ出かけるのも、久しぶりのことだった。こんなことすら楽しく感じた。


「葵さん、今日はよろしく」
「ありがとう。葵って呼んで?」

「うん、私も『ちえみ』で」
「やったー!ちえみは可愛くって、こっち……ピアノ科でも『歌科のチビハム』って有名なんだよ?」

「そうなの?チビハムって何?」 
「小さくて可愛いハムスターみたいって意味かな。嫌だったらゴメンだけど」

「知らなかった。そうなんだ?……今日は、初見で弾いてもらえそうな歌の楽譜を持ってきたの。手土産とか持ってきてなくて、何かデザートでも買っていきたいんだけど、どうかな?」
「ありがとう!まぁ、そんな気を使わなくていいよ。簡単なものでよければパスタでもつくるから、練習終わったら一緒に食べない?」

「食べる!」

 葵が住んでいるのは、大学からは遠くないが、ちえみの自宅からは反対方向の、別の私鉄沿線で、いくつか先の駅近のワンルームだった。
 駅前のコンビニで、季節限定のデザートを二つ買った。
 ちえみはコンビニすらあまり行かなかったし、ちえみの友達は自宅から通学する学生ばかりだったから、「ワンルーム」や「一人暮らし」が珍しくて、ついつい目をキョロキョロさせた。

 部屋には小さなキッチンが付いていて、グランドピアノがある。部屋の広さに対してピアノの面積の割合が異様に多すぎる……。今更ながら、グランドピアノって大きいんだなと思った。手を洗うために洗面所を借りると、玄関のすぐ隣にあった小さな扉がユニットバス、トイレだった。
 そういえば、「彼」もうちに下宿していて、自宅生ではないなと、また「彼」を思い出してしまったことは胸にしまっておいた。


 新しい友人との交流は楽しかった。友達の友達という気安さもあった。それに、葵は「彼」のことを知らないようだった。ちえみには、それが何よりも新鮮だった。


 ちえみは、音大受験までに必ず歌う、コンコーネとイタリア歌曲集という楽譜を持ってきていた。
 一応、歌いやすくて合わせやすい曲を選んでおいたので、「これをお願いします」と楽譜を開いた。


 葵がどんな演奏をする人なのか、どのくらいピアノを弾けるのかは知らなかった。ピアノ演奏科で伴奏意欲があるという事しか知らない。

 歌の伴奏は他の楽器の伴奏と比較すると、そんなに難しくないと言われる。しかし、ピアノの人は伴奏をしたがらない人が密かに多いと噂で聞いていたから、伴奏者探しは大変なのだそうだ。誰でもいい訳でもないだろうし。ちえみはもともと仲良しの翔子が引き受けてくれていたから、そんな苦労さえもしたことがなかった。
 それ故、少なくとも伴奏をしたいという気持ちのある人との交流は、何だかそれだけで嬉しかった。だって、自分はそれほどピアノは弾けない。


 ところがだ。
 葵が弾き出した前奏から、何かが違うと妙な感じがした。いや、葵の演奏は正しい。正しいのだけれど、テンポのとり方からして何かが違う。そうだけど、そうじゃない、何とも言えない伴奏だった。歌ってみたけれど、その違和感はなくならなかった。「音が固い」というのだろうか。それだけじゃない。歌を聴いてくれている気がしない。合わせてもらっている気がしない。むしろ、こちらが合わせている錯覚に陥る。これでは歌いにくい……歌えない。息が吸えない。息を吐ききることもできない。
 こんなに合わせやすい曲でこの状態だなんて……。かと言って「ここはこういう風に弾いてほしい」と手本を弾くこともできないし、上手く伝えられないということがわかった。 
 決して、遠慮して言いづらい、という訳ではなく、どう言っていいかわからなかった。まぁ、今日は初めてだし、何曲か合わせるうちに何かコツを掴んでくれるかな?と気を取り直した。


 だが、何曲歌っても特に変わらなかった。悪いところがあるなら直してもらいたいが、悪いとかではない。「全体的に変」としか言い様がなかった。何だかわからないが、気持ちよく歌えない。

 あ、葵が悪いんじゃなく、私のコンディションが悪いのかも…………。体調は悪くないけど、ちえみはそう思うことにした。あとはレッスンに同行してもらって先生に指摘してもらうか、その前に先生に相談しようか。お父さんでもいいし。『チビハム』はそんな風に、他人と上手くやることは苦ではなかった。


「ありがとう。あわせにくい曲は持ってこなかったけど、試験の曲もまだ決まってないし、先生に決めてもらったらまた連絡するね」
「わかった。夕ご飯にはちょっと早いけど、遅くならないうちに何かつくるね!」

「ありがとう。一緒につくるよ。何したらいい?」


 友人の家で自分たちだけの食事を作るということが、調理実習のようで、とても新鮮だった。
 葵の様子を見ると、自炊はしているのだろう。しかし、歌よりも料理の得意なちえみには、うわぁ……と驚くくらいの腕前で、伴奏よりも突っ込みたいことで満載だった。特別な材料を使わなくても、ちえみがお母さんと一緒につくる、お父さんと徹くんのための料理は、献立の栄養バランスはもちろんのこと、下ごしらえに手間暇かけたすごいものだったんだと、初めてわかった。
 小さなキッチンは設備が充分ではないのだし、できることも限られるのだろう。一人暮らしなんてしたこともないのに、そんなことを思ってはいけない。自分は一人暮らしなんてする機会もないだろう。

 一人暮らしって寂しいのかな?ちえみは聞いてみたくなった。


「葵、あの……一人暮らしって、寂しくない?」


 こんなことを聞いたら悪いかな、と思いつつおそるおそる問うてみると、意外な返事が返ってきた。


「一人暮らしはしてみたかったし、自炊も慣れたし寂しくないけど、彼氏と別れたばっかりなのは寂しいかな」


 ちえみは、この後何と返すか迷った。

 今まで自分のことばかりで、誰かに相談されたことも、恋の話を聞かせてもらうこともなかった。



















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