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槇 慎一

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捨てられたチワワがオペラ歌手を目指す物語

6 私はチワワの飼い主

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 まるで、私はチワワの飼い主になった気分だった。

 徹くんは、もともとチワワ……じゃなかった、捨てられた犬みたいな雰囲気だったのだ。ピアノ演奏科を目指していたのが、お父さんの弟子になり、本当の本当に、基礎の基礎の発声から教わっていた。徹くんのピアノは聴いたことがなかったし、冬休みにやってきて、その年度末に受験って、私が知っている範囲では最短勝負だった。


 発声をしながらイタリア歌曲を歌うようになり、演技のことを意識するようになっていく様を見るのは、すごく感動した。同時に、私にはそんな才能がないこともわかった。それくらい、徹くんはすごかった。それを見抜いたお父さんのことを、流石だなと思った。おうちでは歌が好きなただの優しいお父さんだけど、大学生に歌を教えるだけの「サラリーマン教授」じゃない。歌に向いている人を発掘して育て上げ、声楽界の未来に送り込んでいる。


 何年も一緒にいて、徹くんが歌い手として成長していくのを、ずっとすぐそばで見守っていった。声楽家としての発声を身につけ、チワワではなくなっていった。大人の男性になり、たった数年で、学内オペラの主役を張る人材になった。
 優秀者演奏会には必ず出演し、性格とノリの良さで学内の声楽科のイベントにもあちこちから駆り出されて引っ張りだこだった。そしてそれを追いかける私の毎日。

 ずっとそうしていたかった。それなのに。

 徹くんが大学院二年の年末。

 家族揃ったある日の夕食で、お父さんが口を開いた。

「ちえみ、徹は夏からフランスに留学することになった。準備で、春に出発する。少し寂しいだろうが、待っててやりなさい。素晴らしい男になって戻ってくるだろう」


 だからか……。

 私は納得した。最近、徹くんは私を抱いてくれなくなった。他に好きな人ができたのかな、と一瞬そう思った。でも、私に接する態度は変わらないどころか、見つめてくれる眼差しも、指先までも愛情にあふれていたし、歌ってくれる愛の歌も私の為だとわかっていた。
 演技の勉強もしている徹くんのことは、何が演技でどこが素なのかまで判る。素はチワワだ。


 お父さんは、後で私の部屋に来て話をした。徹くんは私と結婚したいと考えていること。それに対してお父さんが留学しろと言ったこと。帰ってくる頃には私が大学を卒業するだろうからと徹くんに話したことを。その時にも二人が愛し合っているなら結婚したらいい、と。

 徹くんが私に対して真剣に想ってくれているのはわかる。
 歌に対してもそう。師匠であるお父さんに対しても、そうなのだろう。わかる。私はそれがわからない子供じゃない。でも…………。



 遠距離恋愛なんて、辛すぎる。

 フランスなんて、遠すぎる。

 私が大学を卒業するまでなんて、長すぎる。


 泣いているところは、徹くんには絶対に見せないようにした。私が困らせちゃいけない。私はこれまで以上にお料理を頑張った。徹くんの体づくりで応援するんだ。声楽は体が楽器なのだから。


 徹くんが出て行った日のことは、思い出したくもない。
 あの話を聞いてから、セーターを編んでいた。お母さんが得意だったから教えてもらった。私がセーターなんて、本当は無謀だった。でも、マフラーでは自分で納得できなかった。どうしてもどうしても徹くんのためにセーターをつくりたくて、学校の休み時間まで使って編んでいた。


 あの夜、最後の仕上げをするはずだった。ギリギリとは言え、絶対に間に合うはずだった。なのに。


 徹くんはお父さんにもお母さんにも言わず、出発予定日の前日に、突然成田に行ってしまった。明日じゃないの?



 お父さんとお母さんが見ていても、セーターを渡して、
「絶対に待ってるからね」
って笑顔で言うつもりだった。


 なのに。





「ちえみ、待っててくれ。先生、行ってきます」

「あぁ。気をつけて、元気で」





 そんな短いやりとりで、行ってしまった。

 抱きしめてもくれなかった。


 お父さんのバカ!お父さんのバカ!お父さんのバカ!

 お父さんのバカ!お父さんのバカ!お父さんのバカ!

 お父さんのバカ!お父さんのバカ!お父さんのバカ!

 お父さんのバカ!お父さんのバカ!お父さんのバカ!








 だめだ。思い出しても泣きそうだ。

 どうしてこんなことを思い出したのかって、今日は優秀者披露演奏会のチケットの発売日初日だからだ。あ、だめ。やっぱり徹くんの舞台の一つ一つを思い出す。あの声、あの手、私を見る熱い眼差し、キスしてくれる唇、厚い胸……。


 発売開始時刻だ。仕事だ。

 私は仕事用の表情を作り、窓口のカーテンを開けた。


















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