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来年からは

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 普通の日だった。
 何も特別な日ではない、記念日でも祝日でもない、ごく普通の日。
 仕事から帰ってきて風呂入って飯食って、コーヒーで一息ついた頃に彼女から一枚の紙を渡されたことで普通の日ではなくなった。

「これに名前かいて欲しいんだけど」
「ん。なに?······え」

 渡された紙を見て驚愕に固まる。

「え、な、なにこれ?」
「なにって婚姻届けだけど」
「いや、婚姻届けなのはわかるけど、何で今ってことで······っ」

 まさか。

「もももしかして子供できた?」

 思わずイスから半立ちになってテーブルの向こう側にいる彼女に詰め寄ると、彼女はきょとんとした。

「生理中だから子供はできてないかなあ」
「あ、はい」

 なんだ。びっくりした。つか、生理うんぬんは言わんでほしかった。女って妙にえぐいこと平気で言うよな。虫はダメなのに。
 それはともかく。

「んで、何で今これだしたの?こういうのって、もっとこう、それらしい前置きっていうか」
「流れでさらっと名前かくかと思って」
「騙し討ち!?」
「冗談よ」
「どっからどこまでが!?」
 
 いったん下ろした腰を再び上げてツッコむ。
 だめだ。まだ動揺している。落ち着け。落ち着こう。
 何度か呼吸を繰り返してからイスに座る。

「結婚したいっていうのは本当。というか子供が欲しいのよ。子育てするなら結婚した方がいいし、欲しいからって、すぐに子供ができる訳じゃないから、年齢的にも今が瀬戸際かなと」
「······」
 
 まじめに話してくれてるのはわかってるけど、なんというか、こう、ロマンがないなあ。
 でも子供か。考えたことなかった。······もし、子供が嫌だと言ったら別れることになるのか、これ。いや、子供が嫌なわけではないけども。

「ちょっと考えさせてくれ」
「うん」

 さみしげに笑う彼女と婚姻届けをリビングに残して自室に向かう。
 彼女とは十年くらい前の学生時代に付き合い初めて、しばらくして同居を始めた。
 狭いアパートだった。必然的に近くに居られていちゃつけるのは嬉しかったが、喧嘩をしたときのいたたまれなさときたらない。アパートを追い出されて友人宅に泊めてもらったこともある。働いて十分な収入ができたら別々の部屋がある場所に引っ越そうと誓った。
 誓いどうりに引っ越せたのは数年前だ。掃除は自分でしている。······彼女がしてくれない訳じゃない。ただ、ちょっと見られたら困るものがあるから断った。そのときの彼女の目が忘れられない。きっと年齢制限がかかるものがあると思ったんだろうな······。

 誤解である。誤解だとも。だがいまだに誤解は解けていない。

 過ぎたことは仕方ない。問題は今だ。
 机の上に手を置いて考える。彼女になんと言えばいいのか。

「············」

 いい案が思い浮かばない。ここでまた変な誤解があってはいけないのだ。
 いろいろ釈明したいが、まずはシンプルに一言。
 うん。これでいこう。
 引き出しの奥に隠していた箱を取り出すとリビングに戻る。
 
「遅くなってごめん」
「ううん。まだ三十分くらいだよ。もっとかかると思ってた」

 先程のイスに座ったまま驚いた様子で彼女は言った。
 彼女のかたわらに膝まづき、小さな箱を両手で捧げてふたを開ける。

「俺と結婚してください」
 
 彼女は目を丸くして箱の中にある指輪を見た。まばたきをくりかえし、視線をさまよわせながら何度も指輪を見る。

「何で、指輪が、いつ買いに出たの?」
「······この指輪を買ったのは五年前だ」
「え」
「五年前にプロポーズしようと思ったんだ。でもあのとき両親が死んで、機会を逃して、なんだか言い出せずにずるずると······」
「······さっき、遅くなったって謝ってたのは」
「遅くなってごめん」
「遅いよっ!」

 驚き、とまどい、怒りをあらわにする彼女は、次第に泣きだした。泣きながら箱を両手でもって胸に抱く。

「それで、その、返事は?」

 もはや断られることはないだろうけど、ここは明確に聞いておきたい。

「返事は五年後にしようかな」
「ほんとごめん。だから勘弁して」
「あはははは」

 彼女はいたずらっぽく笑い続けて、了承の返事をくれたのはしばらくたってからだった。
 なんでもない普通の日。
 来年からは記念日になる。

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