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一話 この子誰の子
十
土間に立ったまま待っていると、主人の惣兵衛が、商人らしく、笑みを浮かべて奥から出てきた。
「こんな時刻に赤ん坊を連れてどうしなすった。ここは口入屋だ。仕事がほしいなら昼間に来てもらわないと困るんだが」
張り込み中に何度か見かけている。
主人自ら外回りに出かけるらしく、仙次の話では、方々の武家屋敷に顔を出している。
仕事柄、おかしいこともなく、佐々木ともそうやって知り合い、仲を深めていたようだ。
その武家への顔の広さから、赤子の行き先は武家だと検討をつけている。
「いくらになるんだい?」
文四郎はいきなり言った。
惣兵衛が声を立てて笑った。
「何を言っているのかね」
「買ってくれるんだろ? 佐々木さまに聞いたんだ」
惣兵衛の目が一瞬だけ鋭くなった。
「口が軽い男だなあ」
と、舌打ちするように低く呟いた。
その言葉で、一皮剥けたように印象が変わった。
「困ってんだ。助けてくれ」
「本当にお前さんの子かい? 盗んできたんじゃないだろうね」
「盗んじゃいない。育てられねえんだ。所帯を持っちゃいけねえのに子ができちまった」
「しょうがないねえ、本当に」
「佐々木さまの子はどちらにもらわれていったんだ? この子もいいところにやってくれよ」
「それは、お前さんに言う義理はないね。あの方にもそこまでは言ってないよ。どこだっていいじゃないか。子供に幸せになってもらいたいと思うなら、余計な詮索はしないことだ。なんたって、お前さんがそうそう入れるような場所じゃない。親の素性など、知らない方がいい。里子に出したと思いな」
「というと、やっぱりお武家さまで?」
「詮索はするなと言ったよ。命が惜しいだろ?」
口調は優しげだが、油断ならない凄みがあった。
貼り付けた笑みが不気味だ。
「・・・」
文四郎は黙る。
さすがに一筋縄ではいかなさそうだ。
どうやって口を割らせようか考える。
「会いたいと思った時は会わせてくれないか。どんなふうに育ってるのか知りたいじゃないか」
惣兵衛が憐れむような、蔑んだ目になって、文四郎を見下ろした。
本性を出してきたかと冷や汗が流れた。
「そんな未練があるなら、やめとくんだな。こっちからお前さんの素性を聞かずに取引しようってんだ。お前さんもそこのところをよくわきまえなくちゃな」
「わかった。聞かねえ」
「で? どうするね」
「証文は書かねえのか」
「そんなもの、いるか」
ふんと鼻で笑った。
己の頭を指差した。
「ここに入れてある分で十分だ。そりゃあ人間だから忘れていく。それでいいだろう。おれが忘れれば、その子は本当にその家の子になる。証拠は残さないよ。お前さんもこの子を置いたら忘れることだ。それができないと言うのなら、やめときな。・・・もう最後だよ。引き返せるのは今だけだ」
「・・・」
すべては惣兵衛の采配。頭の中。
例えば、ここに踏み込んだとしても、証拠はないということか。
文四郎は、唾を飲み込んだ。
「ああ・・・あー」
腕の中で、赤子が急にぐずり出した。
泣きそうに顔をしかめている。
「さあ、どうするね。帰るかい?」
「すまねえ」
文四郎は赤子に謝った。
迷いが伝わるのかもしれない。
自分の子じゃなくても胸が痛み、手が震えた。
少しの間だけ、辛抱しろよ。
そう心の中で語りかけて、畳の上に下ろした。
下ろした途端にぐずるのをやめてまた眠ってしまった。
文四郎の腕の中が居心地悪かったらしい。
惣兵衛が懐から黙って小判を出した。
三両。
受け取れば、取引は成立する。
顔をこわばらせる文四郎を、惣兵衛が見守っている。
悪相だ。
だが、どんな悪党でもこの子は殺しはすまい。
相手に手渡すまでは大事な品物だ。
長居は無用だった。
文四郎は、差し出された三両を黙って受け取り、袂に落とした。
逃げるように大和屋を出た。
まだ油断はできない。
八丁堀には帰らない。
つけられてもいいように、行き先を打ち合わせている。
小伝馬町の方へ向かう。
八丁堀とは逆方向だ。
そして途中で道を東に曲がり、大川の方へ。
だが、橋は渡らない。
裏長屋へ、迷いなく入って行った。
灯りのついていない一部屋の戸を開けて中にはいる。
闇に慣れた目に、暗い部屋の様子がぼんやりと見えた。
履き物を脱いで部屋に上がり、行灯に灯りをともした。
部屋の隅に、縮こまるようにして男がいた。
竹蔵だ。
ここは竹蔵の長屋だった。
わけを話し、灯りをつけず、心張り棒もせずに待つように頼んでいた。
「すまねえな」
「いえ・・・」
と首を振ったが、緊張しているのか、隅に寄ったまま動かない。
「もし、不審なことが起こったら、すぐに知らせてくんな」
「はい・・・」
何か言いたそうだ。
見張られているといけないから、すぐには出られない。
「どうした」
文四郎はどかりと、自分の家のように腰を落ち着けた。
「水をもらえるか?」
竹蔵がのそりと動き出し、湯呑みに水をくんで来てくれた。
「与力さまのお子を囮に使うなんて、ばちが当たります」
「そうかもしれんな。おれも大汗かいちまった」
一気に飲み干した。
これからまた大和屋の方へ戻らなければならない。
竹蔵には言えないが、佐々木が持ち込んだ子の行き先を探すのは刻がかかるような気がした。
惣兵衛の頭の中にしか、それはなく、口を割らせる方法を思いつかない。
あの男を黙らせる弱みを見つけるしかないだろう。
しょっぴくにしても、今のところ証拠もないのだ。
仙次たちの報告を待つより他なかった。
見張られていないことを確かめて日本橋へ戻る。
大はどうなっただろうか。
見張り場所にしている仕舞屋の二階へ上がった。
仙次が暗い部屋で文四郎を待っていた。
表情は見えないが、切羽詰まったような動揺した気配が伝わってくる。
「旦那。やられました」
「何があった!?」
心臓が鷲掴みにされたような痛みが走る。
「旦那が出られてからすぐに、惣兵衛が自ら赤子を抱いて店を出ました。つけたところ、武家屋敷に入って行きました。おそらくお旗本の屋敷かと。その後、惣兵衛一人で出てきて、旦那よりひと足さきに、店に戻ってきております」
「まさか・・・」
血の気が引いていく。
「武家屋敷では、手が出せません。こんなに早く持ち込むとは。これでは尻尾どころか、影を踏むこともできやせん」
これほど早く動くとは想定外だった。
どこかに預けるにしても、持ち込むまでには刻がかかると思っていた。
行き先の準備も、すぐに整うとは思えない。
「行き先がわかっただけでもよしとしよう」
まだ失敗だったとは言い切れないし、思いたくなかった。
「旦那、どうしやす?」
「・・・」
今は、混乱して策が何も思い浮かばない。
「こんな時刻に赤ん坊を連れてどうしなすった。ここは口入屋だ。仕事がほしいなら昼間に来てもらわないと困るんだが」
張り込み中に何度か見かけている。
主人自ら外回りに出かけるらしく、仙次の話では、方々の武家屋敷に顔を出している。
仕事柄、おかしいこともなく、佐々木ともそうやって知り合い、仲を深めていたようだ。
その武家への顔の広さから、赤子の行き先は武家だと検討をつけている。
「いくらになるんだい?」
文四郎はいきなり言った。
惣兵衛が声を立てて笑った。
「何を言っているのかね」
「買ってくれるんだろ? 佐々木さまに聞いたんだ」
惣兵衛の目が一瞬だけ鋭くなった。
「口が軽い男だなあ」
と、舌打ちするように低く呟いた。
その言葉で、一皮剥けたように印象が変わった。
「困ってんだ。助けてくれ」
「本当にお前さんの子かい? 盗んできたんじゃないだろうね」
「盗んじゃいない。育てられねえんだ。所帯を持っちゃいけねえのに子ができちまった」
「しょうがないねえ、本当に」
「佐々木さまの子はどちらにもらわれていったんだ? この子もいいところにやってくれよ」
「それは、お前さんに言う義理はないね。あの方にもそこまでは言ってないよ。どこだっていいじゃないか。子供に幸せになってもらいたいと思うなら、余計な詮索はしないことだ。なんたって、お前さんがそうそう入れるような場所じゃない。親の素性など、知らない方がいい。里子に出したと思いな」
「というと、やっぱりお武家さまで?」
「詮索はするなと言ったよ。命が惜しいだろ?」
口調は優しげだが、油断ならない凄みがあった。
貼り付けた笑みが不気味だ。
「・・・」
文四郎は黙る。
さすがに一筋縄ではいかなさそうだ。
どうやって口を割らせようか考える。
「会いたいと思った時は会わせてくれないか。どんなふうに育ってるのか知りたいじゃないか」
惣兵衛が憐れむような、蔑んだ目になって、文四郎を見下ろした。
本性を出してきたかと冷や汗が流れた。
「そんな未練があるなら、やめとくんだな。こっちからお前さんの素性を聞かずに取引しようってんだ。お前さんもそこのところをよくわきまえなくちゃな」
「わかった。聞かねえ」
「で? どうするね」
「証文は書かねえのか」
「そんなもの、いるか」
ふんと鼻で笑った。
己の頭を指差した。
「ここに入れてある分で十分だ。そりゃあ人間だから忘れていく。それでいいだろう。おれが忘れれば、その子は本当にその家の子になる。証拠は残さないよ。お前さんもこの子を置いたら忘れることだ。それができないと言うのなら、やめときな。・・・もう最後だよ。引き返せるのは今だけだ」
「・・・」
すべては惣兵衛の采配。頭の中。
例えば、ここに踏み込んだとしても、証拠はないということか。
文四郎は、唾を飲み込んだ。
「ああ・・・あー」
腕の中で、赤子が急にぐずり出した。
泣きそうに顔をしかめている。
「さあ、どうするね。帰るかい?」
「すまねえ」
文四郎は赤子に謝った。
迷いが伝わるのかもしれない。
自分の子じゃなくても胸が痛み、手が震えた。
少しの間だけ、辛抱しろよ。
そう心の中で語りかけて、畳の上に下ろした。
下ろした途端にぐずるのをやめてまた眠ってしまった。
文四郎の腕の中が居心地悪かったらしい。
惣兵衛が懐から黙って小判を出した。
三両。
受け取れば、取引は成立する。
顔をこわばらせる文四郎を、惣兵衛が見守っている。
悪相だ。
だが、どんな悪党でもこの子は殺しはすまい。
相手に手渡すまでは大事な品物だ。
長居は無用だった。
文四郎は、差し出された三両を黙って受け取り、袂に落とした。
逃げるように大和屋を出た。
まだ油断はできない。
八丁堀には帰らない。
つけられてもいいように、行き先を打ち合わせている。
小伝馬町の方へ向かう。
八丁堀とは逆方向だ。
そして途中で道を東に曲がり、大川の方へ。
だが、橋は渡らない。
裏長屋へ、迷いなく入って行った。
灯りのついていない一部屋の戸を開けて中にはいる。
闇に慣れた目に、暗い部屋の様子がぼんやりと見えた。
履き物を脱いで部屋に上がり、行灯に灯りをともした。
部屋の隅に、縮こまるようにして男がいた。
竹蔵だ。
ここは竹蔵の長屋だった。
わけを話し、灯りをつけず、心張り棒もせずに待つように頼んでいた。
「すまねえな」
「いえ・・・」
と首を振ったが、緊張しているのか、隅に寄ったまま動かない。
「もし、不審なことが起こったら、すぐに知らせてくんな」
「はい・・・」
何か言いたそうだ。
見張られているといけないから、すぐには出られない。
「どうした」
文四郎はどかりと、自分の家のように腰を落ち着けた。
「水をもらえるか?」
竹蔵がのそりと動き出し、湯呑みに水をくんで来てくれた。
「与力さまのお子を囮に使うなんて、ばちが当たります」
「そうかもしれんな。おれも大汗かいちまった」
一気に飲み干した。
これからまた大和屋の方へ戻らなければならない。
竹蔵には言えないが、佐々木が持ち込んだ子の行き先を探すのは刻がかかるような気がした。
惣兵衛の頭の中にしか、それはなく、口を割らせる方法を思いつかない。
あの男を黙らせる弱みを見つけるしかないだろう。
しょっぴくにしても、今のところ証拠もないのだ。
仙次たちの報告を待つより他なかった。
見張られていないことを確かめて日本橋へ戻る。
大はどうなっただろうか。
見張り場所にしている仕舞屋の二階へ上がった。
仙次が暗い部屋で文四郎を待っていた。
表情は見えないが、切羽詰まったような動揺した気配が伝わってくる。
「旦那。やられました」
「何があった!?」
心臓が鷲掴みにされたような痛みが走る。
「旦那が出られてからすぐに、惣兵衛が自ら赤子を抱いて店を出ました。つけたところ、武家屋敷に入って行きました。おそらくお旗本の屋敷かと。その後、惣兵衛一人で出てきて、旦那よりひと足さきに、店に戻ってきております」
「まさか・・・」
血の気が引いていく。
「武家屋敷では、手が出せません。こんなに早く持ち込むとは。これでは尻尾どころか、影を踏むこともできやせん」
これほど早く動くとは想定外だった。
どこかに預けるにしても、持ち込むまでには刻がかかると思っていた。
行き先の準備も、すぐに整うとは思えない。
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