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氷の舞
二枚看板
叔母であり、世話人でもある吉次の馴染み客へのお披露目がすむと、本格的に芸者としての活動が始まった。
初めてにしては、途切れることなくお呼びがかかって、お座敷を忙しく行き来する日々だった。
歌舞伎役者の中村梅太郎が贔屓の芸者という噂が立ったこともあって、人気も鰻登り。
そして、錦絵が世に出て、一気に火がついた。
新し物好きの江戸っ子が、雪也を一目見ようと、別のお座敷からも人が見にくる。
「どうだね、調子は。すごい人気だろう」
越後屋徳右衛門は、時々、雪也を呼んで話を聞く。
予想した通りの人気に、機嫌よく盃をあける。
「旦那さまのおかげです。ありがたいこと」
満面の笑みで手を合わせるのは、吉次だ。
雪也はお酌をしながらも、その顔に笑みはない。
「きっとそのうち下火になります」
「そう思うかい?」
「最初だけです。こんな愛想のない女、誰も相手にしなくなるでしょう」
「それでいい。お客をふるいにかけるのさ。愛想を振りまいて、客が勘違いしても困るだろう。だが、人気に胡座をかいてもいけない。己を貫くことだ」
「はい」
「辛くはないね」
「大丈夫です」
「あっちの方はどうかね」
雪也が目を細める。
目だけで笑った。
「今のところ、どなたとも」
「そうか。そこまではなかなか到達しないか。難攻不落だな」
「お城ではございません」
「たまには抱いてやろうか」
「結構です」
「梅太郎の方がいいか」
「知りません」
と、軽く体をぶつけた。
「梅太郎が寂しがっていたぞ。たまには呼んでくれとな」
正直、どうにも体が疼くことがある。
そんなときは、和馬に抱かれる夢を見る。
体に刻み込んだ和馬の記憶をたどる。
それだけで、心が解けて癒やされ、満足するのだった。
会いたくなってしまい、悲しくなるが、その思いは、胸の奥深くにしまって出すことはない。
元気にしているだろうか。
平助と相変わらず仕事に励んでいるに違いない。
「どうした。好きな男のことでも考えているのだろう」
越後屋がニヤニヤして言った。
「違います」
たくさん芸者を呼んで豪遊するお座敷には、今のところ行くことはないが、呼ばれたお店が同じだと、隣か近くのお座敷がそういう宴会だったりする。
廊下を通るとき、そんなお座敷から漏れてくる、嬌声や男女の笑い声、酒に酔った客が芸者を口説く声などを聞くと、いつかそれほど遠くない日に、そんなお座敷に呼ばれることもあるだろうと思う。
今は幸いに、越後屋の仲間内や、芸を見たい通の客層がほとんどで、乱れたお座敷には呼ばれていない。
お座敷が選べるのは、ありがたいことだった。
次のお座敷に向かう途中の縁廊下で、賑やかなお座敷の脇を通る。
不意に戸が開いて、酔った客が出てきたようだ。
雪也が通った後だったので、姿は見なかったが、濁声とドタドタと歩く足音で、かなり酔っているのがわかる。
「おっ! こんなところにもおったか。お前もこっちに来い」
と、後ろから抱きつかれた。
派手な着物の袖から、太い逞しい腕がのぞく。
「いえ、私は・・・」
「こっちにきて、酌をしろ」
強引に引っ張られて、お座敷に放り込まれ、畳に転んだ。
「おい、浜田、何をやってる」
他の客がその武士に言い、どっと笑いが起こった。
武士が五、六人いて、それぞれに芸者を抱えて飲んでいた。
「お前の女は違うだろう」
「飽きたんだよ。この女に変えるぞ」
「お待ちください」
雪也は起き上がると、畳に手をついた。
「私には、お声がかりのお座敷がございますので」
「あら、誰かと思えば、雪也じゃないの」
上座から、そう声が聞こえた。
「蔦吉姐さん・・・」
お武家の旦那にしなだれかかっている、一際艶やかな芸者が笑っていた。
「雪也? 聞いたことがないな」
その旦那が盃をあけた。
姿のいい偉丈夫だ。
美しい蔦吉と並ぶととても絵になっている。
思わず見惚れた。
「新しい妓ですよ。駆け出しのくせに、今売れている妓で。錦絵なんて出しちゃって」
「ほう」
「この蔦吉と、張り合おうってんだから」
「・・・」
雪也を見下すように、顎をあげている。
蔦吉も錦絵を出していた。
深川で一番人気の芸者だった。
「ここは、あたしのお座敷だよ」
他の芸者も、雪也を見る目は冷たい。
「申し訳ございません」
「謝ることはあるまい。悪いのは浜田だ」
「失礼いたします」
出て行こうとすると、待て、と声がかかった。
「これも何かの縁だ。盃を受けよ」
と、盃を前に差し出した。
「・・・」
雪也は下座の端にいる。
近くまで寄ってもいいものか、迷った。
「さあ。おれの盃が受けられぬと言うのか」
浜田と呼ばれた武士が、動かない雪也の肩を抱くようにして、強引に上座の方へ連れてきた。
「そんなに人気なのか、お前は。今度呼んでやろう」
上座の武士の前に座らせると、酒臭い息を吐きながら、顔を近づけてくる。
「だめですよ。この妓のお座敷はひと月先まで埋まってるって話さ」
蔦吉が面白くなさそうに言う。
雪也は、盃に酒を注いだ。
「それで、蔦吉がヤキモチを焼いているのだな」
「な、なんであたしが駆け出しにヤキモチなんか」
つんと横を向いた。
「深川の二枚看板というわけか」
蔦吉の旦那は、盃を干すと、空になった盃を差し出した。
雪也が受け取ると、酒が注がれた。
「おれは、松平左京大夫だ」
「松平・・・」
「これでも、徳川の縁者だ」
別の武士が言った。
「これでもは余計だろう」
また笑いが起こる。
どこの松平家かは知らないが、御曹司が、取り巻きを引き連れて遊んでいるのだ。
盃をさっと干すと、返した。
「いい飲みっぷりだ」
「失礼いたします」
長居したくない。
今度こそ、座敷を出ようと、立ち上がった。
「お愛想もなしか」
左京大夫が言い、場の空気がピリッと引き締まる。
「盃も交わしたことだし、せっかく二枚看板がそろったのだ。何かやってくれ」
「何をやれと言うのです?」
蔦吉が左京大夫を見上げた。
嫌な予感がして、構わず背を向ける。
初めてにしては、途切れることなくお呼びがかかって、お座敷を忙しく行き来する日々だった。
歌舞伎役者の中村梅太郎が贔屓の芸者という噂が立ったこともあって、人気も鰻登り。
そして、錦絵が世に出て、一気に火がついた。
新し物好きの江戸っ子が、雪也を一目見ようと、別のお座敷からも人が見にくる。
「どうだね、調子は。すごい人気だろう」
越後屋徳右衛門は、時々、雪也を呼んで話を聞く。
予想した通りの人気に、機嫌よく盃をあける。
「旦那さまのおかげです。ありがたいこと」
満面の笑みで手を合わせるのは、吉次だ。
雪也はお酌をしながらも、その顔に笑みはない。
「きっとそのうち下火になります」
「そう思うかい?」
「最初だけです。こんな愛想のない女、誰も相手にしなくなるでしょう」
「それでいい。お客をふるいにかけるのさ。愛想を振りまいて、客が勘違いしても困るだろう。だが、人気に胡座をかいてもいけない。己を貫くことだ」
「はい」
「辛くはないね」
「大丈夫です」
「あっちの方はどうかね」
雪也が目を細める。
目だけで笑った。
「今のところ、どなたとも」
「そうか。そこまではなかなか到達しないか。難攻不落だな」
「お城ではございません」
「たまには抱いてやろうか」
「結構です」
「梅太郎の方がいいか」
「知りません」
と、軽く体をぶつけた。
「梅太郎が寂しがっていたぞ。たまには呼んでくれとな」
正直、どうにも体が疼くことがある。
そんなときは、和馬に抱かれる夢を見る。
体に刻み込んだ和馬の記憶をたどる。
それだけで、心が解けて癒やされ、満足するのだった。
会いたくなってしまい、悲しくなるが、その思いは、胸の奥深くにしまって出すことはない。
元気にしているだろうか。
平助と相変わらず仕事に励んでいるに違いない。
「どうした。好きな男のことでも考えているのだろう」
越後屋がニヤニヤして言った。
「違います」
たくさん芸者を呼んで豪遊するお座敷には、今のところ行くことはないが、呼ばれたお店が同じだと、隣か近くのお座敷がそういう宴会だったりする。
廊下を通るとき、そんなお座敷から漏れてくる、嬌声や男女の笑い声、酒に酔った客が芸者を口説く声などを聞くと、いつかそれほど遠くない日に、そんなお座敷に呼ばれることもあるだろうと思う。
今は幸いに、越後屋の仲間内や、芸を見たい通の客層がほとんどで、乱れたお座敷には呼ばれていない。
お座敷が選べるのは、ありがたいことだった。
次のお座敷に向かう途中の縁廊下で、賑やかなお座敷の脇を通る。
不意に戸が開いて、酔った客が出てきたようだ。
雪也が通った後だったので、姿は見なかったが、濁声とドタドタと歩く足音で、かなり酔っているのがわかる。
「おっ! こんなところにもおったか。お前もこっちに来い」
と、後ろから抱きつかれた。
派手な着物の袖から、太い逞しい腕がのぞく。
「いえ、私は・・・」
「こっちにきて、酌をしろ」
強引に引っ張られて、お座敷に放り込まれ、畳に転んだ。
「おい、浜田、何をやってる」
他の客がその武士に言い、どっと笑いが起こった。
武士が五、六人いて、それぞれに芸者を抱えて飲んでいた。
「お前の女は違うだろう」
「飽きたんだよ。この女に変えるぞ」
「お待ちください」
雪也は起き上がると、畳に手をついた。
「私には、お声がかりのお座敷がございますので」
「あら、誰かと思えば、雪也じゃないの」
上座から、そう声が聞こえた。
「蔦吉姐さん・・・」
お武家の旦那にしなだれかかっている、一際艶やかな芸者が笑っていた。
「雪也? 聞いたことがないな」
その旦那が盃をあけた。
姿のいい偉丈夫だ。
美しい蔦吉と並ぶととても絵になっている。
思わず見惚れた。
「新しい妓ですよ。駆け出しのくせに、今売れている妓で。錦絵なんて出しちゃって」
「ほう」
「この蔦吉と、張り合おうってんだから」
「・・・」
雪也を見下すように、顎をあげている。
蔦吉も錦絵を出していた。
深川で一番人気の芸者だった。
「ここは、あたしのお座敷だよ」
他の芸者も、雪也を見る目は冷たい。
「申し訳ございません」
「謝ることはあるまい。悪いのは浜田だ」
「失礼いたします」
出て行こうとすると、待て、と声がかかった。
「これも何かの縁だ。盃を受けよ」
と、盃を前に差し出した。
「・・・」
雪也は下座の端にいる。
近くまで寄ってもいいものか、迷った。
「さあ。おれの盃が受けられぬと言うのか」
浜田と呼ばれた武士が、動かない雪也の肩を抱くようにして、強引に上座の方へ連れてきた。
「そんなに人気なのか、お前は。今度呼んでやろう」
上座の武士の前に座らせると、酒臭い息を吐きながら、顔を近づけてくる。
「だめですよ。この妓のお座敷はひと月先まで埋まってるって話さ」
蔦吉が面白くなさそうに言う。
雪也は、盃に酒を注いだ。
「それで、蔦吉がヤキモチを焼いているのだな」
「な、なんであたしが駆け出しにヤキモチなんか」
つんと横を向いた。
「深川の二枚看板というわけか」
蔦吉の旦那は、盃を干すと、空になった盃を差し出した。
雪也が受け取ると、酒が注がれた。
「おれは、松平左京大夫だ」
「松平・・・」
「これでも、徳川の縁者だ」
別の武士が言った。
「これでもは余計だろう」
また笑いが起こる。
どこの松平家かは知らないが、御曹司が、取り巻きを引き連れて遊んでいるのだ。
盃をさっと干すと、返した。
「いい飲みっぷりだ」
「失礼いたします」
長居したくない。
今度こそ、座敷を出ようと、立ち上がった。
「お愛想もなしか」
左京大夫が言い、場の空気がピリッと引き締まる。
「盃も交わしたことだし、せっかく二枚看板がそろったのだ。何かやってくれ」
「何をやれと言うのです?」
蔦吉が左京大夫を見上げた。
嫌な予感がして、構わず背を向ける。
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