雪の匣庭

東崎 惟子@ 日曜西C24a

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安藤美雪(七月二十六日)

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七月二十六日
 相変わらず体がだるい。熱のせいで全身の筋肉が緩んでしまったような感覚。少し頭もぼーっとする。
 夕方ごろ、渚沙と恋衣について愚痴の電話をする。いい加減無視されるのが我慢の限界になって、誰かに話さなければ収まりがきかなかった。話しているうちにどんどんボルテージが上がってきて、恋衣の家に乗り込む決心をした。もう夜と言って差し支えない時間帯だったが、まあ大丈夫だろう。相手はあの月宮恋衣なのだから事情なんて考えてやる必要がない。
 恋衣の家に着き、インターフォンを押してみるが誰も出ない。試しにドアノブを触ってみたら、なんと鍵がかかっていないことが分かった。熱っぽさで思考能力が鈍っていたことも手伝って、私は恋衣の姿を求めて家に上がり込んだ。途端、足が滑って転倒してし、私は、私を転ばせた滑りの中に頭から突っ込んでしまう。
 玄関に汚水が広がっていたようだ。粘々した半液状の物体に指が沈んでいく感覚、爪の間に染み込む感触。生理的嫌悪感が私の背筋をヤスデのように駆け抜けていった。鼻をつく腐った肉の臭い。小さく悲鳴を上げながら、私は汚水から這い出るように退いた。そして手や服に着いたそれを振り払って落とす。汚わいの欠片は水音を立てて靴箱に張り付いた。
 玄関に明かりはない。
 奥の廊下にも、二階に続く階段にも。月宮家には一切の電気が点いておらず、玄関は薄闇に覆われている。不明瞭な視界のせいで最初は自分が突っ込んでしまった半液体を汚水だと思った。 
 だが微妙に違うようだ。
 その粘液は影の中でゆっくりと揺れているように見えた。
 手に付着している粘液の残滓は緑色をしていた。
 風邪のせいで頭が判然としないせいだろうか。私にはわからない。一体何の肉を腐らせればこんな鮮やかな緑色になるのか。
 目が闇に慣れてきて、目の前の粘液の正体がわかり始める。
 それはやはり揺れていた。
 蛞蝓のような緩慢な動きで、私に向かって這っていたのだった。
 悪臭を放つ緑の粘液体。それが、確かな意思を以て私に近付いてきていたのである。

 それは、私の知りえない生き物のはずだった。
 それは、怪物と呼んでしかるべき形状をしていた。
 それは、常識ある人間をして悲鳴を上げさせるに十分な異形だった。
 しかし、私は声の一つもあげられない。掠れた小さな悲鳴さえも。

 なぜならば……玄関ドアのガラスから差し込む光が、粘液の中のある物体を照らし出したからである。
 目玉だ。 
 汚らわしい緑の水溜りに、二つに目玉が浮かんでいる。
 その球体は、まごうことなき感情を孕んだ視線で私を見つめていたのである。そのように直截かつ繊細な感情をした眼差しをする生き物を私はよく知っていた。なぜなら私もまたその種族の一員なのだから。
 この粘液は、人間である。
 だから、私は恐怖しなかった。目の前の生き物が同族だとわかってしまったからだ。
 汚わいが訴えかけてきている感情はただ一つ、至極シンプルなメッセージだった。
 ――殺してくれ。 
 素朴で悲痛な願いだった。苦しんでいるのがわかった。粘液の体は呼吸するだけで喉が焼けつくように痛いのだと言ってきている気がした。痛恨の眼差しは、その体を襲っている痛みの強さを正確に私に理解させた。
 だから私は立ち上がり、タックルするように扉を開けて逃げ出した。
 同族だとわかったから、恐怖はなかった。
 同族だとわかったからこそ、殺すことを恐怖した。 
 たとえ地獄めいた苦しみの只中なのだとしても、もはや人間としてのパーツを致命的に欠いているのだとしても、私には人間を殺すような度胸はない。
 振り返ることすらなく走り続けた。一度振り返れば最後、罪悪感に追いつかれそうだった。
 家に着き、すぐにシャワーを浴びて汚れを落とした。濡れた髪を乾かすことすら忘れて、私は自室に閉じこもった。そして自分が見たものがなんのか、どうしてあのような人間がいたのか考えようとした。恋衣の家は母子家庭だからきっと、アレは恋衣の母親なのだろう。けれどそこまで考えるのが限界だった。
 ――寒い。
 真夏だというのに歯がかちかちと打ち鳴っている。まとわりつく悪寒で体はガタガタと震えているのに、体内は熱くてたまらない。ここ数日の風邪が一気に悪化したかのような症状だ。
 気が付けばもう夜更けになっていた。誰かに助けてもらいたいけれど、こういう時に限って親は家を留守にしている。だから渚沙にライン電話をかけた。夜遅くに電話することに少しだけ申し訳なさはあったが、そうしなければ私の心が持たなかった。蕩けてしまった頭で見たことを説明したが、渚沙にはいまいち伝わっていないようだった。無理もないことだ。私にまともな思考能力が健在であったとしても、きっと十全には伝えられなかったろうから。
 とりあえず今から会ってくれることになった。待ち合わせ場所は公園。体が溶けた鉛のように熱くて重い。けれど寒い。公園までの距離は大して離れていないはずなのに辿り着くのにやたら時間がかかった。
 渚沙はまだ来ていなかった。
 ベンチに座って待つ。夏の夜風が私を凍えさせる。冴え凍るとはこういうことを言うのだろうか。
 息が苦しい。夏の大気は熱くて冷たい。呼吸するだけで肺に熱風が送り込まれ、私の体温を奪っていく。
 喉、痛い。痰を吐く。喉の肉が一緒に剥がれて飛び出し砂利にまみれた。私の肉は溶けて緑色をしていた。背後から忍び寄ってきていた絶望が、ついに私の肩に手をかけたように思えた。
 もうダメだ。
 私はあの人と同じものに感染してしまった。すぐに溶けて汚水になってしまう。
「美雪」
 声に振り返る。ようやく渚沙が来た。
 私は残る力を振り絞って彼女に駆け寄る。私のお腹と頭の中でタプンタプンと汚わいが揺れるのを感じた。
 私は困惑する彼女を置き去りにして彼女に抱きついた。渚沙は突然の事態に戸惑いながらも、不器用に私の背中に手を回してくれた。
 それでも寒い。
 もっと強く抱きしめてもらわないと。暖めてもらわないと、熱くて凍えてしまう。
 視界が緑色に染まっていく。
 私は泣いていて、その涙が緑色になっているのだとわかった。
 見下ろせば私の足元には私で作った汚らしい水たまりができていた。重力に耐え切れず、私の右目が汚わいに落ちて吸われていった。
 私の背がどんどん縮んでいく。渚沙の服に縋りつくも、すぐに筋線維が溶けて力が入らなくなり、みるみるうちに私は私に溺れていく。
 ああ、これは罰なのだろうか。
 あのとき、彼女を殺してあげられなかった私への報いか。
 ごめんなさい。
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 ついに私はほとんど地面と同じ高さから渚沙を見上げることしかできなくなった。
 息ができない。辛うじて取り込めた酸素は灼熱じみた熱さで、呼吸の度に肺を焼かれるような痛みに見舞われる。息をするのも地獄、しないのも地獄。それに加えて全身の痛覚神経がむき出しにされやすりをかけられているかのような激痛。あまりの辛さに絶叫したかったが、発声器官が融解してしまった私には微かな声すらあげられなかった。
 だから私は汚水の中で渚沙を見上げる。
 見上げることしかできない。
 ただ、殺してくれと。
 素朴に悲痛に痛切に。
 ただ一つの感情を乗せた視線を渚沙に送り続けたのだった。
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