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碧海渚沙(七月二十一日)
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七月二十一日
夏休みが始まった。
開幕初日から、私は遊ぶ約束をしていた。服を見に新宿まで行かないかというメールが昨晩美雪から来ていたのだ。きっと、他の三人にも同じメールが行っているだろう。私は二つ返事で了承していた。
だが当日、集合場所に来たのは恋衣を除いた三人だった。
「アイツを財布にしようと思ったのによー」
買い物を終え、最寄りの駅の階段を下りながら美雪が愚痴を言ったが、私は恋衣が来ないことにひそかに安心していた。
「三人は三人で楽しかったよ」
「そうだよ。美雪、いつもうざがってるじゃん」
「そういう問題じゃないの。すっぽかされたのが気に入らないの」
プライドの高い美雪のことだ。恋衣ごときに誘いをないがしろにされたなんて許せないのだろう。彼女への態度は各々違っていたが、ここにいる三人は、月宮恋衣を虫けらくらいにしか思っていないという点で共通している。
町はすっかり暗闇に包まれている。人工物の灯りが密集している駅前だけは昼間のようだが、その外には心許ない光がぽつりぽつりと在るだけである。
ふと視界に白いものが横切った。
それは小さい粉のようだった。
ふわふわと舞って、地面に吸い込まれて消えていく。
「……雪?」
今は夏休み序盤の七月下旬である。夜になって些か涼しくなったとはいえ、湿気を多分に含んだ熱気は健在である。とても雪が降る天候ではない。
だが、そうとしか言えない白が空からちらちら降ってきている。
「渚沙、何か言った?」
「え? ああ、うん。雪が……」
「雪?」
「うん、ほら、雪が降ってるよ」
「は?」
美雪と姫子は怪訝な顔をして私を見る。
「見てよ。あそこにも、ここにも……」
私は雪を受け止めようと手のひらを差し出す。粉雪はふわりと私の手をかわして落ちていってしまった。それは、どの雪も同じだった。
「渚沙、何言ってるの?」
「え……二人こそ。降ってるじゃん、雪が……」
「暑さで頭おかしくなった?」
美雪の言葉で、私はそれ以上話すのをやめた。彼女の言うとおり、私の頭がおかしくなったのかもしれないと思ったからだ。常識的に考えて、この時期に雪なんて降るはずがない。実際に触れることもできないし、私だけに見えている雪なのかもしれない。
聞いたことがある。重度の片頭痛には、発症する前兆として、視界にちらちらとした光が現れるものがあるという。確か閃輝暗点とかいった……。
今、自分の眼に映っているのもその類のものだと思った方が遥かに現実的だ。
「うん、ちょっと疲れてるみたい」
言って、私は作り笑いをした。
すると二人は、「今日はたくさん歩いたからなー」とか「帰ってちゃんと休みなよ」とか言って適当に流してくれた。
「それはそうと……恋衣だよ、恋衣。一言言ってやらないと気が済まない」
帰り道、ずっと美雪は恋衣の悪口を言い続けていた。
途中、滝野を見かけた。
先日と同じように、男みたいに低い声で何かを歌っている。いや、なんだか今日は前より楽しそうだ。視線はどこか遠く……少し上の方を見ていて、どうにも陶酔しているような印象を受けた。声量もいつもより大きい。
気分よく歌っている彼女には申し訳ないことだが、彼女の皺枯れ声は、人の感情を逆なでする旋律だ。
最初、私達は滝野の前を何もせずに通り過ぎるつもりだった。だが私と姫子はともかく、恋衣の件でひどく苛ついている美雪にとってそれは難しいことだった。悪いことに滝野の忌まわしい声は怒りを烈しくさせる。
美雪は立ち止まって、じっと滝野を見た。その視線には、今すぐ汚い声を出すのをやめろという強い意志が込められていた。だが明白な敵意すら、恍惚の滝野には届かなかった。それほどまでに彼女はすっかり自分の世界に入ってしまっていた。
美雪は肩を怒らせて滝野に近付く。それでも滝野は中空を見つめて歌い続け、彼女の存在にすら気付いていない。無視に限りなく似た態度が、美雪を沸点に達させた。
「うるせえよ」
美雪が滝野の喉を殴る。拳は古傷にクリーンヒットし、滝野の口から蛙が潰されたときのような嗚咽が漏れた。彼女は咳き込みながら美雪を見る。そこでようやく美雪の存在に気付いたようだった。
「滝野、気付いてないようだから教えてやるけど、アンタの声、すっげー気持ち悪いよ」
言いながら、美雪は滝野を何度も殴った。一度頭に血が昇ってしまうと美雪は手が付けられなくなる。しかも、幼いころから格闘技をやっているとのことで、女子とは思えないほど強いというのだからたちが悪い。一時期はインターハイも狙っていたらしく、学校では男子すら歯向かうものがいない暴君なのだ。
ギターが浮き上がった僅かな隙をくぐって、鳩尾にパンチがめり込んだ。滝野は目を見開き、唾液をまき散らしながら、身体をくの字に折って倒れ込んだ。
「もう終わってんだよ、アンタ」
唾とともに吐き捨てると、ひとまず気は済んだのか、滝野に背を向けて歩き出す。滝野は腹を抑えながら呻いていた。
断続的に漏れる音。私にはそれが、未だ歌い続けているように聞こえた。
夏休みが始まった。
開幕初日から、私は遊ぶ約束をしていた。服を見に新宿まで行かないかというメールが昨晩美雪から来ていたのだ。きっと、他の三人にも同じメールが行っているだろう。私は二つ返事で了承していた。
だが当日、集合場所に来たのは恋衣を除いた三人だった。
「アイツを財布にしようと思ったのによー」
買い物を終え、最寄りの駅の階段を下りながら美雪が愚痴を言ったが、私は恋衣が来ないことにひそかに安心していた。
「三人は三人で楽しかったよ」
「そうだよ。美雪、いつもうざがってるじゃん」
「そういう問題じゃないの。すっぽかされたのが気に入らないの」
プライドの高い美雪のことだ。恋衣ごときに誘いをないがしろにされたなんて許せないのだろう。彼女への態度は各々違っていたが、ここにいる三人は、月宮恋衣を虫けらくらいにしか思っていないという点で共通している。
町はすっかり暗闇に包まれている。人工物の灯りが密集している駅前だけは昼間のようだが、その外には心許ない光がぽつりぽつりと在るだけである。
ふと視界に白いものが横切った。
それは小さい粉のようだった。
ふわふわと舞って、地面に吸い込まれて消えていく。
「……雪?」
今は夏休み序盤の七月下旬である。夜になって些か涼しくなったとはいえ、湿気を多分に含んだ熱気は健在である。とても雪が降る天候ではない。
だが、そうとしか言えない白が空からちらちら降ってきている。
「渚沙、何か言った?」
「え? ああ、うん。雪が……」
「雪?」
「うん、ほら、雪が降ってるよ」
「は?」
美雪と姫子は怪訝な顔をして私を見る。
「見てよ。あそこにも、ここにも……」
私は雪を受け止めようと手のひらを差し出す。粉雪はふわりと私の手をかわして落ちていってしまった。それは、どの雪も同じだった。
「渚沙、何言ってるの?」
「え……二人こそ。降ってるじゃん、雪が……」
「暑さで頭おかしくなった?」
美雪の言葉で、私はそれ以上話すのをやめた。彼女の言うとおり、私の頭がおかしくなったのかもしれないと思ったからだ。常識的に考えて、この時期に雪なんて降るはずがない。実際に触れることもできないし、私だけに見えている雪なのかもしれない。
聞いたことがある。重度の片頭痛には、発症する前兆として、視界にちらちらとした光が現れるものがあるという。確か閃輝暗点とかいった……。
今、自分の眼に映っているのもその類のものだと思った方が遥かに現実的だ。
「うん、ちょっと疲れてるみたい」
言って、私は作り笑いをした。
すると二人は、「今日はたくさん歩いたからなー」とか「帰ってちゃんと休みなよ」とか言って適当に流してくれた。
「それはそうと……恋衣だよ、恋衣。一言言ってやらないと気が済まない」
帰り道、ずっと美雪は恋衣の悪口を言い続けていた。
途中、滝野を見かけた。
先日と同じように、男みたいに低い声で何かを歌っている。いや、なんだか今日は前より楽しそうだ。視線はどこか遠く……少し上の方を見ていて、どうにも陶酔しているような印象を受けた。声量もいつもより大きい。
気分よく歌っている彼女には申し訳ないことだが、彼女の皺枯れ声は、人の感情を逆なでする旋律だ。
最初、私達は滝野の前を何もせずに通り過ぎるつもりだった。だが私と姫子はともかく、恋衣の件でひどく苛ついている美雪にとってそれは難しいことだった。悪いことに滝野の忌まわしい声は怒りを烈しくさせる。
美雪は立ち止まって、じっと滝野を見た。その視線には、今すぐ汚い声を出すのをやめろという強い意志が込められていた。だが明白な敵意すら、恍惚の滝野には届かなかった。それほどまでに彼女はすっかり自分の世界に入ってしまっていた。
美雪は肩を怒らせて滝野に近付く。それでも滝野は中空を見つめて歌い続け、彼女の存在にすら気付いていない。無視に限りなく似た態度が、美雪を沸点に達させた。
「うるせえよ」
美雪が滝野の喉を殴る。拳は古傷にクリーンヒットし、滝野の口から蛙が潰されたときのような嗚咽が漏れた。彼女は咳き込みながら美雪を見る。そこでようやく美雪の存在に気付いたようだった。
「滝野、気付いてないようだから教えてやるけど、アンタの声、すっげー気持ち悪いよ」
言いながら、美雪は滝野を何度も殴った。一度頭に血が昇ってしまうと美雪は手が付けられなくなる。しかも、幼いころから格闘技をやっているとのことで、女子とは思えないほど強いというのだからたちが悪い。一時期はインターハイも狙っていたらしく、学校では男子すら歯向かうものがいない暴君なのだ。
ギターが浮き上がった僅かな隙をくぐって、鳩尾にパンチがめり込んだ。滝野は目を見開き、唾液をまき散らしながら、身体をくの字に折って倒れ込んだ。
「もう終わってんだよ、アンタ」
唾とともに吐き捨てると、ひとまず気は済んだのか、滝野に背を向けて歩き出す。滝野は腹を抑えながら呻いていた。
断続的に漏れる音。私にはそれが、未だ歌い続けているように聞こえた。
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