雪の匣庭

東崎 惟子@ 日曜西C24a

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月宮恋衣(七月二十三日)

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七月二十三日
 虫だ。 
 昨日よりさらに大きくなったそれは、いまでは親指ほどの太さを得ていて、もはや見間違いようがない。柔らかな肢体をくねくねと動かし、瞳を満たす液体の中を浮遊するように移動している。良い見方をすればクリオネ、品のないたとえを出せばボウフラのようだった。ガラスの瞳の中を満たす溶液は、光によって色を変える無限の色彩をしていた。
 私は直感で思った。これは芋虫である。いずれ巨大で美しい翅を得る蛾蝶(がちょう)の類である。
 芋虫は、外からやってきた燐光を人形の中に取り込むと、水に溶かして摂取しているようであった。なるほど、あの光は食事であったのか。
 通常の判断能力を持った人間であれば、このような人形はすぐにでも捨てるのであろうが、生憎私はそうした人間ではなかったし、人よりも人形、虫、動物の方が好きであるからそのような破壊的な行動をとろうとは露(つゆ)ほども思わなかった。それに――どういうわけか――私の中に生涯初めてと言っていい、不思議な慈し(いつく)みのような気持が生じていた。この芋虫の行く末を見届けたい。無事に成長させてあげたいという気持ち。
 恐らく母性というやつだと思う。
 私は女の本能にしたがって、彼女に「ルナ」と名前を付けた。人形には「ビスケ」という名を元々つけていたが、新たに命を宿した以上、もはやそれでは相応しくないと思ったのである。
ルナのためにできることを考えた。栄養の補給については日々の成長から判断するに問題はないのだろう。だが、聞いたことがある。十分な栄養を与えられていても、他人から愛を与えてもらえなかった赤ん坊は成長できずに死んでしまうと。私はルナに愛情を与える方法を模索し、一つの方法に行き当った。
 絵本の朗読である。
 私は押入れから幼稚園の頃に使っていた絵本を引っ張り出してきて読み聞かせを始めた。溶液を通してまで私の声が聞こえるかはわからないし、そもそもルナには耳がなかったが、この際、関係はないだろう。人間の赤ん坊だって、生まれたときは言葉の意味を理解できないのだから。
読ませる本は全て人間が登場しないものを選んだ。そして優しい子に育ってほしいという願いを込めて悲劇は避けるようにした。親馬鹿と思われるかもしれないが、読み聞かせを始めると溶液の中でのルナの活動は活発になったように思う。だから、私は嬉しくなり飲食も忘れて本を読み上げ続けた。
 夜更けすぎ、母親が怒鳴り込んできた。なんでも、私の声が耳障りなんだそうだ。咄嗟のことであった為、ルナを隠すこともできなかった。彼女はルナに気付くやいなや、豹のような素早さを以て私の傍らから取り上げた。わざわざごみを拾ってくるなと怒鳴られる。私は二度と離れ離れになるまいと必死に取り返そうとしたが、力は母の方が強いため歯が立たない。彼女は悪意に満ちた仕草でルナの頭を叩いた。瞬時に、私の頭が怒りで真っ白になる。たとえ殺してでも奪い返してやると決意したが、すぐにその必要はなくなった。叩かれたルナの頭がぺしゃんこに潰れ、霧のようなモノをまき散らしたからである。ルナを掴み高々と掲げていた母はまともにこれを浴びることとなった。辺りに腐った柑橘系の匂いが漂う。母はたまらず人形を取り落としたので、床に打ち付けられる前に滑り込んでキャッチした。その時には人形の頭の形は元に戻っていて、中で蠢く虫も無事であった

 問題は母の方であった。灼けた鉄板の上に裸足で立たされたようにたたらを踏むと、霧を浴びた部分から融解を始めたのである。彼女の上半身はあっというまに蕩けていき、十数秒ののちには血のように赤いゼリー体になっていた。だが、それでも母は死んでいなかった。ルナを抱えてそばに腰を下ろしてみると、中に浮いている二つの目玉が怯えを孕んだ視線で私達を見上げていたからである。
 ルナが口を開くと、カタツムリの殻のように丸められた口吻が姿を見せた。ルナはそれを伸ばしきってストローのようにすると、母に突き刺した。ゼリーの体は痛みでも感じているかのようにびくりと動いた。ルナが何かを吸い上げ始めると、母はひどく苦しみ始め、弛緩した筋肉を懸命に伸び縮みさせて逃れようとした。が、それはせいぜい数センチ位置を変える程度のことしかできなかった。口吻は半透明であった為、吸い上げていくものが外からやってくる燐光と同じ橙色をしていたことがわかった。私は、逃げようとする母の隣に人形を置き、食事を終えるまでじっと見守った。母は気持ち良さそうにたるんだ体を波打たせていた。
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