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俺から僕への迷惑メール
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拝啓、ゴスロリババア様。
先日はずばり的確な指摘をしてしまい、大変失礼いたしました。
現在の時刻は深夜の二時。俺は明かりが点いてない暗ーい部屋の中、パソコンの青白い光だけを頼りにこのメールを打っている。そういう環境の方が、そっちに届きやすいんじゃないかと思うからだ。なあ、若作りさん。地獄の住み心地はどうだい。
さて、時候の挨拶はここまでにして……。
本題に入る前に、仲人として一言祝辞を。
ま、どんまい。
俺は本当はこんなメールを書くつもりはなかった。だが、今回ばかりは、一応大学以来の腐れ縁であるおまえの門出が、タイタニック号もかくやという撃沈ぶりを見せたものだから、さすがに不憫に思ったのと、一年分くらい笑わせてもらったので、特別にこっちから報告の便箋を送ってやることにするよ。
月宮恋衣なる小娘を介して、月光蛾を確保したこと。それが間もなく羽化すること。町が雪糸に覆われてゴーストタウン、いや、ゾンビタウンになっていることetc...。
あのムカつく電話の後で、おまえは詳細な説明のメールを送ってきたな。事細かに話しておけば、俺の関心を掻き立てられると思ったんだろうが、お生憎様、その正体が判明するにつれて、俺の興味は削がれていった。いくら魔性の生き物とはいえ、虫に俺は興味はない。俺が心惹かれるのは、あくまで魔性の女だけだ。
というわけで、おまえのメールを最後まで読み終えた時には、宮坂町に赴くつもりは、毛ほどもなくなっていた。どれくらいなかったかと言うと、サイコパスが野良猫にかける憐れみの心と同じくらいだ。
だが、まあ、わかるだろう。
その日が近づいてくるにつれて胸騒ぎが強くなってな。種類に違いはあるが、おまえは幼少期に、俺は大学生の時に、ふたりとも魔性のモノを見ている。一度そういうのを目にしちまうと逃れられないんだよな。まるで影みたいにぴったりと、俺達の後ろについて回る。振り返ればいつだってそこにいるが、そこにいない。掻痒感にも似た居心地の悪さに、ついに限界を迎えた俺は、車を出して宮坂町に向かうことにした。無論、魔障に対する防御は固めた上でな。丸一日、車を走らせて、どうにかカーナビに表示されない町へ辿り着いた。それが、まさに羽化日の夜のことだった。
……町の様子が明らかになるにつれて血の気が引いていったぜ。
町一帯を覆う雪。生命の温かみをかき消すような凍える白。冴え凍るってやつか。真夏だっていうのに、背筋がぞくぞくして来やがった。魔匠のコートは衣服としても防魔としても厚手なのにだ。当時の俺が持ちうる最大の防護を固めていたにもかかわらず、町に入る気にはなれなかった。そもそも入ることもできなかった。蛾は、町全体を繭にしちまっていたようだった。
仕方なく、俺は雪の侵食の範囲外にある山まで行って、そこに車を止めて町を俯瞰することにしたんだ。時間とともにどんどん濃くなる闇の中心で、命を吸う糸が輝きを増していくのは恐ろしくも綺麗な光景だった。
そうして、日付が変わる頃、俺は見た。
輝く巨大な蛾が月に向かって飛んでいくのを。
まあ、おまえの言うとおり厳密には蛾じゃないんだろうよ。足が多かったり翅が多かったり、なによりヤバい色の光を纏ってたからな。遠目かつ魔匠を着ていなければ俺も蒸発してたに違いない。防魔の遠見眼鏡を通しても、あの光はガンガンと頭に響いた。そもそも人間の脳みそってのは、異次元の色彩とか紋様ってのを見ることを想定した設計になってないのを思い知ったぜ。酷い二日酔いみたいに痛むこめかみを抑え、吐き気を喉奥に押しやりながらどうにか凝視したさ。
確かに、綺麗だった。
才能はないが、そのセンスだけは認めてやる。
生涯をかけて追いたくなる気持ちも、まあ、わからなくもねえなって思ったよ。
ただ、一つ妙なもんに気付いた。よく見るとさ。蛾の背中に何か乗ってるようだったんだよ。
最初はわからなかった。位置が遠かったし、その蛾は不思議な形をしていたから、羽毛か突起物か何かを見間違えた可能性はある。
だが、よぉく見ると、どうやら人間のように見えた。
それも女にな。
瞬間的に頭に血が昇った。それで死んじまうかと思った。
腹立ったよな。
だって、おまえが乗ってると思ったんだ。おまえは魔性に辿り着けない無才と俺は信じているから、おまえは死ぬまで無才でいてくれると信じていたから、裏切られた気がしてカッとなったのさ。
思った、おまえが蛾に乗ってどこか別の世界に行こうとしてんだと。
学生時代におまえが話してた胡蝶之夢のことを思い出したよ。この世界が夢だなんて戯言を俺は信じちゃいないが、別次元の可能性については否定しない。おまえは勘違いしたまま、其処に往こうとしている。ああ、嫉妬さ。俺だって行ってみたいと常々思っていたんだから。
烈しい怒りと異界の極彩色に脳の血管を焼き切られそうになりながらも、俺は乗り手を凝視した。ありったけの恨みを視線に込めてな。
ただ、そうするうちに徐々に違和感を覚えていって……その正体がわかったときには腹ぁ抱えて笑い転げることになっちまった。
だって、アレ、おまえじゃないだろ。
おまえ、往けなかったんだ。連れてってもらえなかったんだろ。何が起きたか知んないけど、羽化する前に死んじまったのか、羽化とともに死んじまったのか、とにかくあの背中に乗っていたのはおまえではないことだけは確かだった。
蛾が六枚の翅をゆったりと羽ばたかせると、そのたびに死の息吹がまき散らされる。町一帯に無情の鱗粉をまき散らしながら、一人と一匹は蒼い満月に向けて高度を上げていき、やがて同化するみたいに薄れていった。
おまえへの憐れみと、若人二人への旅路への祝福を兼ねて、俺は煙草を取り出して火を点け、立ち上る紫煙を祝辞とすることにした。
やがて彼らはこの世界から消え、あとには白い眠りについた町だけが残されたよ。
九月某日
まだしぶとく夏の暑さが残っている時分、俺は再び宮坂町に赴くことにした。
いや、それは正確ではないかもしれない。そこはかつて宮坂町と呼ばれたところだった。魔性の誕生により匣庭と化した宮坂町は、完全にこの世界の意識の裏側に置かれてしまい、もはや人が寄り付ける場所ではなくなっている。遭難者の類が偶然迷い込むことも絶対にない。意識の裏側に置かれたということは、無意識がその場所を避けてしまうということだからだ。俺のように、頭のねじが何本か外れた人間でもなければ、奇跡が起きなきゃ辿り着けない。
町民の高校生やおまえから事前に町の状況は聞いていた。汚染された地に踏み入ることになると判断した俺は、可能な限りの魔匠を刻んだ装備を追加で用意し、宮坂町だった場所に向け車を出した。
近付くにつれて徐々に緑が増えてくる。伸び放題の草木はまるで俺の行く手を遮ろうとしているかのようだ。片田舎の町だとは聞いていたが、ここまで未開の地だとは思わなかった。前に来たときはこんなに緑豊かではなかった気がしたのだが……。ついには草がタイヤに絡まり始め、車を走らせるのも困難になったから、やむなく俺は車を捨てて行くことになった。
背丈ほどの草をかき分け進むこと一時間。ついに俺は宮坂町だった場所に辿り着いたが、そこは想像していたのとは全く違う場所だった。
事前の情報によれば、町はきっと荒廃し、地は割れ、生き物の姿など影もない、この世の最果てのような場所になっていなければおかしいはずだ。月光蛾の有する異次元の色彩の翅は、識の羽ばたきを以て一帯を汚染していくのだから。
だが実際はその真逆だった。
――そこは、生き物の楽園だった。
露を弾く草木の青臭さ、葉から葉へ飛び移る昆虫はとても都会では見られないほどに巨大化している。髪をそよがせる清澄なる空。吸い込む空気に味がある。ツタに覆われた建物の抜け殻からは、見慣れない犬が飛び出してきた。都会育ちの俺はそいつを犬だと思ったけど、よく見れば狐だった。そいつは俺のことなんて気にもかけない様子で、悠々といずこかへと歩いて行った。黒い影が俺の上に落ちてきた。見上げたら、大きな白い鳥が力強く羽ばたきながら、湖みたいに綺麗な空を飛んでいた。多分、トキだったと思う。さらにちょっと歩いてみて、妙な匂いを感じて見渡してみれば、密林の奥地でしかお目にかかれないようなグロテスクでデケエ花が腐ったような臭いを立ち込めさせていやがる。
人工物なんて、ひとつもない。せいぜい苔が生えたおんぼろのアコースティックギターが転がっているだけだった。それは俺に見つけられる直前まで音を奏でていたようだったが……まあ、風の仕業か気のせいだろう。
馬鹿馬鹿しくなったのと残暑の熱気が手伝って、俺は魔匠のコートを脱いだ。
殺人光線の傷痕? 土壌汚染? 放射能?
そんなものどこにもない。絶滅危惧種の動物すら生息する環境に生まれ変わっていたんだよ。俺は生物学に明るくはないが、そんな俺でも知っているような絶滅動物すら闊(かっ)歩(ぽ)しているのが確認できた。ともすると、時間の流れすら超越して、世界中のあらゆる種類の生き物がそこに集められているのではないかとさえ思ったさ。物陰からヴェロキラプトルが飛び出したとしても驚かなかったと思う。死ぬけどな。
俺は携帯電話を取り出し、一枚の画像を表示した。例の事件の最中におまえから送られた写真データだ。異界からの発信だったせいで、解像度が低くぼやけていたが、椅子に腰かけた少女、月宮恋衣が何かを抱いているのははっきりと確認できた。おまえは人形だと言っていた。だが俺にはどう見てもそうは見えない。
これは赤ん坊だ。
案の定、深山安綺羽は重大な勘違いをしたまま、終わりを迎えたらしい。寄生虫は少女の方ではなく、人形の方を宿主に選んだのだろう。
俺の前に広がる、緑豊かな草原がその証拠だ。
エデンの園、そこかしこに母なる大地を連想させる慈愛が満ちている。
情報によれば、月光蛾という生き物は母体から様々なことを学んで成長する生き物らしいじゃないか。
月宮恋衣は良い母親だったのだろうな。彼女は命の尊さや優しさを余すことなく教え込んだのだから。それはしっかりと宮坂町の成れの果てに反映されている。まあ、寄生体の理解が本質的なものか、あるいは機械的なものかはわからないがね。
だけどな。そんな優しさに満ちた楽園に、そんなエデンの園なのに。
たった一種類だけ存在が許されない動物がいたんだよ。
なにかわかるか?
そう、人間だ。
地上で一番に多種多様な命が芽生える土壌でありながら、人間は俺一人しかいなかった。
なぜそこに人間だけがいないのか。人間だって動物の一種に違いないのに、なぜその恩寵にあずかれないのか。単純に考えて人間のことが憎かったのだとしても、だとしてもここまで排他的な無菌室を創り上げることができるだろうか。絶対に無理だ。なぜなら好きと嫌いは限りなく同じ感情だからだよ。
だからさ、思うんだよ。
月光蛾の母体は、人間じゃなかったんじゃないかって。
人間のことを完全に度外視できてしまう生き物だったんじゃないかって。
きっと彼女の世界に、人間は存在しなかったんだろうな。彼女の意識は人間とはきっと違うところに在った。だから、嫌うのでもなく、憎むのでもなく、シンプルに『いない』。意識の外だから。故に楽園の園にも『いない』。
娘は、母親に教えられた世界を忠実に顕現させたんだ。
今になって後悔している。
俺は、もっと必死になって、我が身のことなど顧みずに、そいつに会いに行くべきだったのかもしれない。
こんなにも混じりけのなく排他的な天国を創り上げられる純粋さ、狂気は、俺にとって馬鹿デカい蛾よりも遥かに興味深い。
人ならざる心の在り方はきっと何よりも魔性に近く、ならばそれを宿す彼女を呼称するならこの名称しかあるまい。
――魔女とね。
もう少しフロンティアを散策しようとも思ったが、すぐに思いとどまり、車へと引き返した。わざわざ人間を排斥した絶対の聖域、親子水入らずをこれ以上踏み荒らすのは気が引けたからな。
最後に、俺はもう一度だけ雪解けの町を振り返った。頬を撫でる風は暖かく、それは夏の名残だったのだろうが、仄かな春の香りを運んでいる気がした。
地上の楽園は、これからもきっと人間を寄せ付けまい。
人の営みの隣にありながら、我々のような踏み外した人間以外は認知しえない、真実秘境として在り続けるんだろう。
ま、彼女についてはおいおい俺がそっちに行ったときに聞かせてもらうことにする。本人はそっちにはいないだろうからな。
いやあ、お疲れさまでした。そしてご愁傷さまでした。地獄でも元気にお過ごしください。ああ、返信は結構。必要があったらこっちからします。
ご指摘のとおり、三十路を越えた身だ。できるだけ早く行けるように善処する。今からおまえの悔しがる顔を見るのが楽しみだよ。
そこまで打ち終えて、東崎惟子はメールの送信ボタンをクリックした。
宛先にhellとだけ書かれたメールは、アドレス不明のエラーにより、即座に自分の下へ帰ってきたのだった。
先日はずばり的確な指摘をしてしまい、大変失礼いたしました。
現在の時刻は深夜の二時。俺は明かりが点いてない暗ーい部屋の中、パソコンの青白い光だけを頼りにこのメールを打っている。そういう環境の方が、そっちに届きやすいんじゃないかと思うからだ。なあ、若作りさん。地獄の住み心地はどうだい。
さて、時候の挨拶はここまでにして……。
本題に入る前に、仲人として一言祝辞を。
ま、どんまい。
俺は本当はこんなメールを書くつもりはなかった。だが、今回ばかりは、一応大学以来の腐れ縁であるおまえの門出が、タイタニック号もかくやという撃沈ぶりを見せたものだから、さすがに不憫に思ったのと、一年分くらい笑わせてもらったので、特別にこっちから報告の便箋を送ってやることにするよ。
月宮恋衣なる小娘を介して、月光蛾を確保したこと。それが間もなく羽化すること。町が雪糸に覆われてゴーストタウン、いや、ゾンビタウンになっていることetc...。
あのムカつく電話の後で、おまえは詳細な説明のメールを送ってきたな。事細かに話しておけば、俺の関心を掻き立てられると思ったんだろうが、お生憎様、その正体が判明するにつれて、俺の興味は削がれていった。いくら魔性の生き物とはいえ、虫に俺は興味はない。俺が心惹かれるのは、あくまで魔性の女だけだ。
というわけで、おまえのメールを最後まで読み終えた時には、宮坂町に赴くつもりは、毛ほどもなくなっていた。どれくらいなかったかと言うと、サイコパスが野良猫にかける憐れみの心と同じくらいだ。
だが、まあ、わかるだろう。
その日が近づいてくるにつれて胸騒ぎが強くなってな。種類に違いはあるが、おまえは幼少期に、俺は大学生の時に、ふたりとも魔性のモノを見ている。一度そういうのを目にしちまうと逃れられないんだよな。まるで影みたいにぴったりと、俺達の後ろについて回る。振り返ればいつだってそこにいるが、そこにいない。掻痒感にも似た居心地の悪さに、ついに限界を迎えた俺は、車を出して宮坂町に向かうことにした。無論、魔障に対する防御は固めた上でな。丸一日、車を走らせて、どうにかカーナビに表示されない町へ辿り着いた。それが、まさに羽化日の夜のことだった。
……町の様子が明らかになるにつれて血の気が引いていったぜ。
町一帯を覆う雪。生命の温かみをかき消すような凍える白。冴え凍るってやつか。真夏だっていうのに、背筋がぞくぞくして来やがった。魔匠のコートは衣服としても防魔としても厚手なのにだ。当時の俺が持ちうる最大の防護を固めていたにもかかわらず、町に入る気にはなれなかった。そもそも入ることもできなかった。蛾は、町全体を繭にしちまっていたようだった。
仕方なく、俺は雪の侵食の範囲外にある山まで行って、そこに車を止めて町を俯瞰することにしたんだ。時間とともにどんどん濃くなる闇の中心で、命を吸う糸が輝きを増していくのは恐ろしくも綺麗な光景だった。
そうして、日付が変わる頃、俺は見た。
輝く巨大な蛾が月に向かって飛んでいくのを。
まあ、おまえの言うとおり厳密には蛾じゃないんだろうよ。足が多かったり翅が多かったり、なによりヤバい色の光を纏ってたからな。遠目かつ魔匠を着ていなければ俺も蒸発してたに違いない。防魔の遠見眼鏡を通しても、あの光はガンガンと頭に響いた。そもそも人間の脳みそってのは、異次元の色彩とか紋様ってのを見ることを想定した設計になってないのを思い知ったぜ。酷い二日酔いみたいに痛むこめかみを抑え、吐き気を喉奥に押しやりながらどうにか凝視したさ。
確かに、綺麗だった。
才能はないが、そのセンスだけは認めてやる。
生涯をかけて追いたくなる気持ちも、まあ、わからなくもねえなって思ったよ。
ただ、一つ妙なもんに気付いた。よく見るとさ。蛾の背中に何か乗ってるようだったんだよ。
最初はわからなかった。位置が遠かったし、その蛾は不思議な形をしていたから、羽毛か突起物か何かを見間違えた可能性はある。
だが、よぉく見ると、どうやら人間のように見えた。
それも女にな。
瞬間的に頭に血が昇った。それで死んじまうかと思った。
腹立ったよな。
だって、おまえが乗ってると思ったんだ。おまえは魔性に辿り着けない無才と俺は信じているから、おまえは死ぬまで無才でいてくれると信じていたから、裏切られた気がしてカッとなったのさ。
思った、おまえが蛾に乗ってどこか別の世界に行こうとしてんだと。
学生時代におまえが話してた胡蝶之夢のことを思い出したよ。この世界が夢だなんて戯言を俺は信じちゃいないが、別次元の可能性については否定しない。おまえは勘違いしたまま、其処に往こうとしている。ああ、嫉妬さ。俺だって行ってみたいと常々思っていたんだから。
烈しい怒りと異界の極彩色に脳の血管を焼き切られそうになりながらも、俺は乗り手を凝視した。ありったけの恨みを視線に込めてな。
ただ、そうするうちに徐々に違和感を覚えていって……その正体がわかったときには腹ぁ抱えて笑い転げることになっちまった。
だって、アレ、おまえじゃないだろ。
おまえ、往けなかったんだ。連れてってもらえなかったんだろ。何が起きたか知んないけど、羽化する前に死んじまったのか、羽化とともに死んじまったのか、とにかくあの背中に乗っていたのはおまえではないことだけは確かだった。
蛾が六枚の翅をゆったりと羽ばたかせると、そのたびに死の息吹がまき散らされる。町一帯に無情の鱗粉をまき散らしながら、一人と一匹は蒼い満月に向けて高度を上げていき、やがて同化するみたいに薄れていった。
おまえへの憐れみと、若人二人への旅路への祝福を兼ねて、俺は煙草を取り出して火を点け、立ち上る紫煙を祝辞とすることにした。
やがて彼らはこの世界から消え、あとには白い眠りについた町だけが残されたよ。
九月某日
まだしぶとく夏の暑さが残っている時分、俺は再び宮坂町に赴くことにした。
いや、それは正確ではないかもしれない。そこはかつて宮坂町と呼ばれたところだった。魔性の誕生により匣庭と化した宮坂町は、完全にこの世界の意識の裏側に置かれてしまい、もはや人が寄り付ける場所ではなくなっている。遭難者の類が偶然迷い込むことも絶対にない。意識の裏側に置かれたということは、無意識がその場所を避けてしまうということだからだ。俺のように、頭のねじが何本か外れた人間でもなければ、奇跡が起きなきゃ辿り着けない。
町民の高校生やおまえから事前に町の状況は聞いていた。汚染された地に踏み入ることになると判断した俺は、可能な限りの魔匠を刻んだ装備を追加で用意し、宮坂町だった場所に向け車を出した。
近付くにつれて徐々に緑が増えてくる。伸び放題の草木はまるで俺の行く手を遮ろうとしているかのようだ。片田舎の町だとは聞いていたが、ここまで未開の地だとは思わなかった。前に来たときはこんなに緑豊かではなかった気がしたのだが……。ついには草がタイヤに絡まり始め、車を走らせるのも困難になったから、やむなく俺は車を捨てて行くことになった。
背丈ほどの草をかき分け進むこと一時間。ついに俺は宮坂町だった場所に辿り着いたが、そこは想像していたのとは全く違う場所だった。
事前の情報によれば、町はきっと荒廃し、地は割れ、生き物の姿など影もない、この世の最果てのような場所になっていなければおかしいはずだ。月光蛾の有する異次元の色彩の翅は、識の羽ばたきを以て一帯を汚染していくのだから。
だが実際はその真逆だった。
――そこは、生き物の楽園だった。
露を弾く草木の青臭さ、葉から葉へ飛び移る昆虫はとても都会では見られないほどに巨大化している。髪をそよがせる清澄なる空。吸い込む空気に味がある。ツタに覆われた建物の抜け殻からは、見慣れない犬が飛び出してきた。都会育ちの俺はそいつを犬だと思ったけど、よく見れば狐だった。そいつは俺のことなんて気にもかけない様子で、悠々といずこかへと歩いて行った。黒い影が俺の上に落ちてきた。見上げたら、大きな白い鳥が力強く羽ばたきながら、湖みたいに綺麗な空を飛んでいた。多分、トキだったと思う。さらにちょっと歩いてみて、妙な匂いを感じて見渡してみれば、密林の奥地でしかお目にかかれないようなグロテスクでデケエ花が腐ったような臭いを立ち込めさせていやがる。
人工物なんて、ひとつもない。せいぜい苔が生えたおんぼろのアコースティックギターが転がっているだけだった。それは俺に見つけられる直前まで音を奏でていたようだったが……まあ、風の仕業か気のせいだろう。
馬鹿馬鹿しくなったのと残暑の熱気が手伝って、俺は魔匠のコートを脱いだ。
殺人光線の傷痕? 土壌汚染? 放射能?
そんなものどこにもない。絶滅危惧種の動物すら生息する環境に生まれ変わっていたんだよ。俺は生物学に明るくはないが、そんな俺でも知っているような絶滅動物すら闊(かっ)歩(ぽ)しているのが確認できた。ともすると、時間の流れすら超越して、世界中のあらゆる種類の生き物がそこに集められているのではないかとさえ思ったさ。物陰からヴェロキラプトルが飛び出したとしても驚かなかったと思う。死ぬけどな。
俺は携帯電話を取り出し、一枚の画像を表示した。例の事件の最中におまえから送られた写真データだ。異界からの発信だったせいで、解像度が低くぼやけていたが、椅子に腰かけた少女、月宮恋衣が何かを抱いているのははっきりと確認できた。おまえは人形だと言っていた。だが俺にはどう見てもそうは見えない。
これは赤ん坊だ。
案の定、深山安綺羽は重大な勘違いをしたまま、終わりを迎えたらしい。寄生虫は少女の方ではなく、人形の方を宿主に選んだのだろう。
俺の前に広がる、緑豊かな草原がその証拠だ。
エデンの園、そこかしこに母なる大地を連想させる慈愛が満ちている。
情報によれば、月光蛾という生き物は母体から様々なことを学んで成長する生き物らしいじゃないか。
月宮恋衣は良い母親だったのだろうな。彼女は命の尊さや優しさを余すことなく教え込んだのだから。それはしっかりと宮坂町の成れの果てに反映されている。まあ、寄生体の理解が本質的なものか、あるいは機械的なものかはわからないがね。
だけどな。そんな優しさに満ちた楽園に、そんなエデンの園なのに。
たった一種類だけ存在が許されない動物がいたんだよ。
なにかわかるか?
そう、人間だ。
地上で一番に多種多様な命が芽生える土壌でありながら、人間は俺一人しかいなかった。
なぜそこに人間だけがいないのか。人間だって動物の一種に違いないのに、なぜその恩寵にあずかれないのか。単純に考えて人間のことが憎かったのだとしても、だとしてもここまで排他的な無菌室を創り上げることができるだろうか。絶対に無理だ。なぜなら好きと嫌いは限りなく同じ感情だからだよ。
だからさ、思うんだよ。
月光蛾の母体は、人間じゃなかったんじゃないかって。
人間のことを完全に度外視できてしまう生き物だったんじゃないかって。
きっと彼女の世界に、人間は存在しなかったんだろうな。彼女の意識は人間とはきっと違うところに在った。だから、嫌うのでもなく、憎むのでもなく、シンプルに『いない』。意識の外だから。故に楽園の園にも『いない』。
娘は、母親に教えられた世界を忠実に顕現させたんだ。
今になって後悔している。
俺は、もっと必死になって、我が身のことなど顧みずに、そいつに会いに行くべきだったのかもしれない。
こんなにも混じりけのなく排他的な天国を創り上げられる純粋さ、狂気は、俺にとって馬鹿デカい蛾よりも遥かに興味深い。
人ならざる心の在り方はきっと何よりも魔性に近く、ならばそれを宿す彼女を呼称するならこの名称しかあるまい。
――魔女とね。
もう少しフロンティアを散策しようとも思ったが、すぐに思いとどまり、車へと引き返した。わざわざ人間を排斥した絶対の聖域、親子水入らずをこれ以上踏み荒らすのは気が引けたからな。
最後に、俺はもう一度だけ雪解けの町を振り返った。頬を撫でる風は暖かく、それは夏の名残だったのだろうが、仄かな春の香りを運んでいる気がした。
地上の楽園は、これからもきっと人間を寄せ付けまい。
人の営みの隣にありながら、我々のような踏み外した人間以外は認知しえない、真実秘境として在り続けるんだろう。
ま、彼女についてはおいおい俺がそっちに行ったときに聞かせてもらうことにする。本人はそっちにはいないだろうからな。
いやあ、お疲れさまでした。そしてご愁傷さまでした。地獄でも元気にお過ごしください。ああ、返信は結構。必要があったらこっちからします。
ご指摘のとおり、三十路を越えた身だ。できるだけ早く行けるように善処する。今からおまえの悔しがる顔を見るのが楽しみだよ。
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「こんな高完成度の作品は感想を伝えなアカン!」と強く思い、今回送らせて頂いた次第です。
個人的な解釈ですが、作風から「もしかしたらオリジナルのクトゥルー神話かな?」とかも思ったのですが……的外れならスイマセン。
是非『ホラー・ミステリー大賞』で投票したかったのですが……こちらの作品は登録されていないようでしたので同じく東崎惟子様の作品『ハルヒを5分~』の方へ投票させて頂きます(記念すべき初投票 ♪ )。
現在は『ギャル魔王』を遅々と読み始めさせて頂いてます。
こちらは明るく楽しそうな作品ですね。
まだまだ読み始めなのですが……やっぱウマッ!
私は文才無いので毎回ヒィヒィ……羨ましい限りです。
これからも東崎惟子様の御活躍を期待して、今回はこれにて失礼します。
m(_ _)m
『雪の匣庭』読ませて頂きました。
m(_ _)m
私は『グチョエググロ』は不得意なので、殊に『あの子の惨殺シーン(ツルハシ&暴徒の)』とかダメなのですが、とにかく上手すぎてグイグイ読まされてしまいました。
文面&構成&トリック&キャラ立ち……全部が上手過ぎです。
グチョエグ苦手なのに心に響くし(泣けるし)、(いい意味で)スッキリしないで心に残る不思議な読後感でした。
私的には「モダンクトゥルフ?」とかも思ったのですが……的外れならスイマセン。
ともかく感想送られずにはいられませんでした。
そのぐらい高完成度な小説でした。
では、失礼します。
m(_ _)m