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三章
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九年前、桔梗の家と家族ぐるみの付き合いがあった頃、田舎の観光地に遊びに行った。
深見山という山で私は桔梗と遊んだ。うっそうとした森の中に、大きな洋館を見つけたのをよく覚えている。幼い私達は、誰か住んでいるかもとか考えないで、好奇心の赴くままに侵入し、鬼ごっこをした。二階建ての洋館だったが、あれだけドタバタ走り回って誰にも出会わなかったのだから、幸いにして無人だったのだろう。金縁の窓枠に広がる風景が幻想的にきれいだったのを覚えている。木々に触れそうな位置の太陽が屋敷の廊下を朱色に染め上げていた。夏の太陽は長生きだからか、あるいは往生際が悪いというべきか、夕日はその高さで踏ん張って、いつまでも沈む気配を見せなかった。
その屋敷で、私は桔梗を襲った。
押し倒して、首に口を当てた。
それからだ。私が食人欲求を抱くようになったのは。
あの日から、あの場所から、私は狂ってしまった。
始発電車が動き出す時間に合わせて、私は家を出た。
目指すは九年前に訪れた森の洋館。あそこはある意味で私の始まりの場所だから、寝具や調度品、絨毯までよく覚えている。送られてきた写真から、桔梗の死体が深見山の屋敷にあることは間違いなかった。
荷物は最低限にした。夏の森林を歩くのなら身軽な方がいいと思ったからだ。財布、家にあったペットボトルのジュース、携帯およびバッテリー、一応の護身用に彫刻刀。それらをリュックに放り込んでいく。
深見山の最寄駅である桂木寺駅に着くには、何本も電車を乗り継ぎ、何時間も揺られ続けなければならない。私が金欠だったなら、下手すると往復の運賃を捻出できなかったかもしれない小旅行だ。電車に揺られながら、私は桔梗からのメッセージを見直す。
――私、死んじゃったわ。
……そっか、死んじゃったんだ。
死んだのは桔梗なのか、と思う。
私は、桔梗との思い出を呼び起こす。
あの告白以降で、言葉をかけてくれた日の記憶を。
厳密言えば……一回だけ、桔梗が受け答えしてくれたことがあったのだ。
うちの中学は、時代錯誤なことに屋上が開放されていた。桔梗は屋上からの眺めが好きで、お昼休みは屋上でお弁当を食べていた。中二の途中までは、私も一緒だった。ベンチに座って、互いのおかずをつつきあっていたなんて、今となっては信じられない。
中学三年の春、昼休み。屋上に出る桔梗を私は追った。その頃、私はまだ桔梗のことを諦めてはいなかった。自分に害がないこと、純粋に好きなんだということを訴え続ければ、せめて友達くらいには戻ってくれると信じていた。
屋上に出ると、仄かに暖かい風。春の柔らかな日差し、ぽかぽかしている。
屋上にいたのは桔梗だけだった。柵に寄りかかって、町を俯瞰していた。手にビニール袋。中に入っているのは、コンビニのパンとかそこらだろう。そういえば、このところ桔梗がお弁当を持っているのを見たことがない。
「ね、ねえ、桔梗……」
おずおずと私は声をかける。桔梗は、春の陽射しに似つかわしくない冷たい目で私を一瞥した。雪解けはまだまだ遠い。
それでも、私はめげずに、手に持っていたお弁当の包みを顔の高さまで上げて、ぎこちなく笑った。
「たまにはお弁当、一緒に……」
言葉の途中で、桔梗は柵から身を離した。そして、私の横を素通りしていく。私の言葉なんて、耳を貸すつもりがないのだった。
それで、私は珍しく怒ったんだ。
友達に戻れると、この頃はまだ信じていたから。
「どうして無視するの!」
振り向きざまに珍しく怒鳴った。
けど、桔梗は足を止めるそぶりも見せなかった。つかつかと塔屋に向って歩いている。その背中に、私は叫び続けた。
「私、何か迷惑かけた? 桔梗のこと、少しでも食べたりした? しないよ、そんなこと。これからだって絶対しない。我慢できるんだよ。あんまり馬鹿にしないでよ!」
それでも、桔梗は止まらない。むしろ、うるさいモノから遠ざかりたいとばかりに歩みは速まった。
「私、桔梗が好きなの!」
塔屋のドアに手がかけられる。
「桔梗の為なら死ねるんだから!」
子供が地団駄を踏むように、全身から叫んだ。
その言葉は確かに届いて、桔梗の動きが止まった。ゆらりと振り向くと、黒髪が揺れる。私に向けられる眼。それは、告白の日以来、初めてきちんと私を捉えていた。
「なら……」
呟くような声。聞き取れたと思った時には、桔梗は私の目の前に移動していた。運動神経が抜群とはいえ、こんなに早く動けるなんて、と驚く暇もない。
桔梗は私の首を右手で掴むと、床にたたきつけるように押し倒した。ガツンという脳を揺らす衝撃。私は後頭部をしたたかに打ちすえてしまった。手にしていたお弁当箱がやかましい音を立てて、中身をぶちまけながら床を滑っていく。
腰のあたりに柔らかい重みを感じる。桔梗が私に跨っているのだった。
桔梗は、仰向けの私にキスをするみたいに前のめりになった。右手はまだ私の首触れている。そこに左手も重なる。
「なら、死んでよ」
途端、首に強い圧力が加わった。血液がせき止められる感覚と、気道を圧し潰される痛みに私は悶えた。
「死ね」
上靴が床を引っかく。
「死ね」
身をよじらせる。
「死ね」
潰れた蛙みたいな断末魔。
「死ね」
口角に泡が漏れる。
「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」
私は桔梗の手を剥がすべく彼女の腕を掴もうとして……やめた。
今、自分は何をしようとしたんだろう。
今、自分は言ったばかりじゃないか。
桔梗の為なら死ねるって。
なら、どうして抵抗する?
だから、受け入れることにした。足をばたつかせるのは止めた。
あっという間に脳は酸欠に陥る。不思議と気持ちが良くなってきた。息が詰まるのも心地いい。ぼーっとしてくる。暖かな羽毛に包まれ、どこまでも落ちていくような感じ。眼前で繰り返される桔梗の呪詛の声もどんどん遠ざかっていく。こんな楽な死に方があるなんて知らなかった。
桔梗は、私を見下ろして、必死の形相で首を絞めている。それは幸せなことに思えた。触れる彼女のぬくもりと、私を見つめる目と、私だけへ迸る想いと、そして、何より――。
桔梗ためなら命すら差し出すなんて、それはとてもステキな恋に思えた。
身体は叫ぶ。
このままでは、死んでしまうと。
心は歌う。
このまま、死にたい。
けど、そうはならなかった。
気付いたときには、私の意識は明瞭になっていて、酸欠の体は酸素を求めてえずいていた。
桔梗は相変わらず私に馬乗りのままだったが、もう私を殺そうとはしていなかった。彼女の両掌は屋上の床をついていた。
私の頬に暖かな雫が落ちてきた。
それが桔梗の涙だなんて、すぐにはわからなかった。
「酷い……」
揺れる声で、桔梗は言った。人形のように整った顔をぐじゅぐじゅにして泣いている。幼馴染の私ですら、そんな彼女は初めて見た。
「どうして……私が、私があなたを殺さなきゃならないのよ」
一瞬、それはとても優しい言葉に思えた。
桔梗は私を殺したくないんだって。いや、そういう意味なのは間違いないんだろうけど。でも、ニュアンスが致命的に異なっていた。私の身を慮るような口ぶりではなかった。
そもそも、それは私に向けられてはいなかったし。
どうしてか、それは悔しさに震えている。
どうしてか嫉妬の炎に燃える目で睨んでいる。
ああ、そうか。
これは悔し涙。
湖面のように静かな桔梗を震わせるほどの嫉妬と怒り。どうしてか、そんな激情にかられて、それで桔梗は泣いている。
やがて桔梗はのそのそと立ち上がると、屋上を出ていった。
以降は、桔梗の態度はそれまでどおりの無視に戻ったし、今度こそ一切、私とは口をきいてくれなくなった。
涙についても、無視についても、理由なんて、わからない。
いつだって、私は桔梗に恋するばかりで、桔梗のことはわからないのだ。
「死ね」
それが、三年間で唯一、桔梗が私に贈ってくれた言葉だった。
そんな言葉をくれた桔梗の方が死んでしまうなんて皮肉だった。
桂木寺駅に到着したときにはもうお昼を過ぎていた。
ホームの向こうには海が広がっていて、太陽の陽射しを受けてうるさいくらいにきらめいている。大きな亀が甲羅だけ海面に出しているかのような小島がいくつか浮かんでいた。空は怖いくらいに真っ青で、ところどころに千切れたパンのような雲がくっついている。
駅を出ると痛いくらいに熱い日差しが肌を射した。周辺にコンビニのような気の利くものはなかったが、自動販売機はあったので、そこでスポーツドリンクのペットボトルを五本ほど購入した。リュックが一気に重くなったけれど、一応山に向かうのだからこれくらいは持っておくべきだろう。ルートは覚えているが、道に迷わないとは言い切れない。
黄色い陽光に目を細めながら、町を囲むいくつかの山々を見る。その中の一番大きい山が深見山だ。
私は灼けたアスファルトを往き、程なくして深見山に入った。
山には道らしい道はなく、足場が悪い。いつも履いてる厚底のローファーで来ていたら、すぐに足首を痛めてしまったに違いない。スニーカーで落ち葉のカーペットを踏みしめ、たまに木の根や岩場に乗り上げながら進む。
館にはすぐに辿り着けると高を括っていた。
けれど、いくら歩きまわっても館は見つからなかった。
九年前の記憶を手繰る。アレはかなり大きな洋館だった。木々が不思議に組み合わさってできたアーチを抜けると開けた場所に出て、そこに鎮座していたのだ。そんな大きな建物だから適当に歩いていても目に付くはずだ。けれども、行けども行けども木々ばかりで風景に代わり映えがない。土砂降りの蝉しぐれが、顎を伝う汗を叩き落した。肌がじりじりと焼けていく。
四時間ほど歩いただろうか。視界がふらふらしてきた。このままでは熱中症で倒れてしまうかもしれないと、ひとまず木陰に逃げ込む。そこには大きくてひんやりした平らな岩があって、座ると生き返る心地がした。水分補給をしながら、携帯電話で時間を確認する。五時を過ぎたところだった。
一時間ほど休もう。幾分か涼しくなって探しやすくなるはずだ。リュックを枕にして、岩の上に横になる。途端、うつらうつらしてきてしまう。夏の行軍は私から思いのほか体力を奪っていたようで、足元を掬うような強い眠気に意識が攫われる。そういえば、昨夜はろくに寝ていなかった。
あの日も夏だった。
私達の人生の大きな分岐点には、いつだって強い日差しが射していた。
鮮やかな紅色の教室。痛みを伴って胸を締め付ける夕日。
窓辺に寄りかかる桔梗がいる。中学時代の制服を着ていて、顔つきが今より幾分丸く、身体の起伏も大人しい。
ああ、またか。
「それで」
悪夢の始発駅は、いつも此処だ。
「改まって、私に話って何かしら」
話しかける声音は優しい。まだ、私達が友達だった頃。否、友達以上の関係だった頃。
失いたくない。そう、強く思う。
「桔梗、あのね……」
けれど、私は胸から湧き上がる温かな気持ちを抑えられない。桔梗ともっと近づきたい。桔梗と恋人になりたい。振られた今だって、それは変わらない。
この頃の桔梗は優しかった。私に対して、思わせぶりな態度も多かった。絶対に、私のことを意識していたという確信がある。普通に告白していたなら、普通に恋人になれたはずなのだ。
だから、隠せばいい。
悪いのは食人欲求だ。人間としてタブーな欲求があるから、そういう嗜好の持ち主だとバレたから、無視されるようになってしまったのだ。だから、それを隠しさえすればすべてうまくいく。万一、振られたとしても、友達ないし幼馴染のままでいられるはずだ。
胸に手を当てる。下劣な欲求を押しとどめるように。
そして言う。
「私、桔梗が好きなの」
「何よ、どうしたの。私だって好きよ」
私は首を振る。
「友達としてじゃないよ。その……」
緊張を和らげるように、すう、と息を吸い込む。覚悟を決める必要があった。告白の覚悟じゃない。嘘をつく覚悟。
「あなたに恋をしているの」
桔梗は大きく目を見開いた。夕暮れの夏風が彼女の長い髪を梳くように撫でていった。何とも言えない間があった後、桔梗は目を薄くして笑った。
「ふふ。あんずったら、おかしい」
小さな口に手を当てて上品に肩を揺らしている。彼女が笑ってくれたことに安心して、私も笑った。
「そりゃあ、女同士じゃおかしいかもしれないけど、本気なの。私、本気で桔梗が好きなのよ」
「いいえ、そこではなくて」
桔梗が嗤う。
いつの間にか彼女の目の色が変わっている。細められた視線はナイフのように鋭く、私のあばら骨の間を滑り抜けて心を刺す。
「隠せたつもりになっているのが滑稽で」
「……つもりって」
声が震える。
桔梗がくるりと回る。スカートが翻る。血色のいい腿が覗く。見てはいけないとわかっているのに、目が勝手に追ってしまう。奥底の衝動がそうさせる。
無論、桔梗は私の視線に気付いている。わかっていて、やっている。
「恋に恋するのはおやめなさいな」
歌うような拒絶。
「だって、あなた……」
鼻をつまんで、嗤っている。
「こんなにもケモノ臭いじゃない」
自分の叫び声で目を覚ました。
夜闇に圧迫されるみたいに胸が苦しい。寝汗でびしょびしょになった下着が体に張り付いて気持ちが悪い。起き上がろうとすると、岩に接し続けて強張った体が悲鳴を上げた。
群青色の夜空に浮かぶ白い月、その下を飾る影法師のような木々。森にはすっかり闇の帳が降りていた。草むらから聞こえる、姿なき虫達の声。
寝すぎてしまった。ろくに眠らずに朝の早い時間から行動していたから、無自覚のうちに疲れが相当溜まっていたようだ。
気温は落ち着いてくれている。夏の夜風は、日中の大気のような湿り気もなく、心地よかった。
私は携帯電話のライト機能を起動させた。
捜索を再開しよう。
家に帰るという考えはなかった。またここまで遠出するのは大変な時間のロスだ。
町に降りるのもダメだ。未成年じゃカラオケや漫画喫茶にとまることはできないし、そもそも桂木寺駅周辺にそういう施設があるとは思えない。最悪、警察に保護されてしまう。
夜の山は、不思議と怖くなかった。前にも来た事があるせいだろうか。不思議と慣れているような感覚があった。まあ、野生動物も怖くないと言えば嘘になるけれど、大丈夫。私は動ける。私は桔梗のことが好きだから。彼女の為なら死ねる。三年前にそう言っただろう。ほんのちょっとの恐怖心がなんだ。
ここで怖気づいたら、桔梗が鼻をつまんでしまう。
歩きに歩いた。
けれど、夜更けになっても、館は見つからない。
どう考えてもおかしい。周囲の山よりは大きいと言っても、深見山の広さなんてたかが知れている。ちっちゃい小屋を見つけようというのならともかく、あの大きな屋敷が見つからないなんて考えにくい……。
――あんずがここに辿り着けないのはわかっているの。
桔梗のメッセージを思い出す。
よもやあの大層な自信は、館が通常の手段では辿り着けない場所にあるからではないか。なにせ鬼がいるところだ。地獄の入り口や三途の川のような場所なのかも。ああ、ありうる。そもそも死者からメッセージが来てるわけだし。
疲れた頭は、そんな本気とも冗談ともつかないことを考えてしまう。私の口から嘆息と自嘲の混じった笑いが漏れたとき。
――木陰の闇に、小さな姿が見えた。
最初は動物かと思った。けど、それにしては体高が高すぎる。私の見間違いでなければ、アレは……子供だ。
小学二、三年生の男子。坊主頭の少年が、木の幹に隠れ、顔だけ覗かせてじっと私を見ていた。
見つめ返す視線に気付いた少年は、びくりとして、木影に引っ込んだ。
少年が、尋常ならざる存在であることは直感していた。こんな夜山にいる子供なんているはずがない。
けれど、怖くはなかった。むしろ、少年の方が私に怯えているようだったから、怖がらせたくないと思ってしまったほどだ。
「大丈夫。何もしないよ」
できるだけ柔らかな声音で呼びかける。ややあって、少年は再び顔を覗かせた。
「……帰ってきたの?」
少年はおずおずとした様子で、私から距離を取ったまま問いかけた。いつでも逃げ出せるように身構えているようだった。
「また、遊んでくれるの?」
「また……?」
視線だけを交差させる時間が続く。
少年の方から私に近付いてきた。堆積している落ち葉の上を歩いてきているのに、足音ひとつしない。まるで浮いているみたいに。いや、足はちゃんと地面に接している。どうやらこの子はモノに触れられないらしい。
少年は照れ笑いを浮かべた。
「ごめんね。人違いだったみたい。前にもこういうことがあったから」
「前?」
「うん。夏休みに、鬼に捕まっちゃったときのこと」
少年が提げている虫籠。中に朽ちた甲殻が堆積している。小さな体を透かして青白い月光が私を照らしている。この少年は……鬼に襲われた幽霊か何かなのか。
私は屈み、少年と視線の高さを同じにした。
「ねえ、ボク。私はね、鬼を探しているの。鬼のいる館、知らないかな」
「知ってるよ」
「行き方を教えてほしいんだけど」
少年は首を横に振った。
「お願いよ。私の大事な友達が鬼に捕まってるの。早く行かないと食べられてしまうのよ」
「行ったら、ひどい目に遭うよ。おねえちゃん、また死んじゃうよ」
「……ま、た?」
何を言っているんだろう。だってその言いぶりでは。
私が、死んでるみたいじゃないか。
「僕はね、鬼のせいで死んだ子供。お母さんが家に入れてくれなくて、帰る場所がないから仕方なく山をさまよってるんだ。ここにいるみんな、似たようなもの。仲間さ」
視線たちに気付く。辺りに首を巡らせば、爛々とした目の数々が私を取り囲んでいた。まるで狼の群れの中に放り込まれたかのような有様だったが、彼らの目に獰猛な色は全く見受けられなかった。むしろ、ひたむきなほどの同情の念を私へ注ぎ込んできている。
「お姉ちゃんも仲間だよ。仲間だから僕らのことが見えるんだ」
「そんなわけないじゃない」
私は、足元の木の葉を拾い上げ、それ指の腹で擦りつぶした。葉はボロボロの欠片になって、手のひらから落ちていく。
「ほら、ちゃんと肉体がある。これをどう説明するの」
「知らないよ。あ、でも待って」
少年は私を凝視した。
「確かに、仲間って言うとちょっと違うかも。よく似てるんだけど、幽霊じゃないのかな」
「私は幽霊じゃない。死んでいるのは、私の友達の方なの。このままだと友達が食べられちゃうのよ。だから、お願い。館への行き方を教えて」
「教えても、どうせ行けないよ」
「どうにかするわ」
「ふぅん、じゃあいいけど。館に辿り着けるヤツは二種類いる。鬼に標的にされた人間か、鬼自身。僕たちくらいの歳の子供は鬼の大好物だけど、お姉ちゃんはちょっと大人になりすぎかな」
「他の方法は知らないかな? 私でも行ける方法」
「だから無理だって。でも……」
私の体、足の先から頭のてっぺんまでを、少年は無遠慮に眺めてから言った。
「獲物は無理だけど……鬼になれればもしかしたら。最初お姉ちゃんを見た時、鬼かと思ったんだ。それくらい良く似てたんだ。顔とかは違うんだけど、こう、空気みたいな……」
少年は鼻の付け根にしわを作って言葉を探していたが、うまい表現が見つからないようだった。けど、言わんとしていることは、悲しいかな、わかってしまった。彼が言っているのは、私の食欲のことだろう。隠し切れないそれが鬼に似ているのだ。
自分の胸を見下ろし、手を当てる。ドクンドクンという脈動を感じる。内なる食欲が、体を自分に明け渡すよう催促しているかのよう。
「けど、ダメだよ、それは」
少年が諫める。年齢に不相応の毅然とした言い切りだった。
「友達を助けたいんでしょ。だったら、鬼になったらダメだよ。鬼になった途端、優しい気持ちも消えてしまうよ。鬼は人の命なんて玩具くらいにしか思ってないんだから」
「……けど」
私は自分の食欲が大嫌いだ。けど、これに身を任せるしか手がないなら、私は……。
再び顔を上げたときには、少年も、私を取り囲んでいた眼光たちも消えていた。
見計らったかのように、軽薄な電子音が鳴った。
新たなメッセージの受信音だった。
深見山という山で私は桔梗と遊んだ。うっそうとした森の中に、大きな洋館を見つけたのをよく覚えている。幼い私達は、誰か住んでいるかもとか考えないで、好奇心の赴くままに侵入し、鬼ごっこをした。二階建ての洋館だったが、あれだけドタバタ走り回って誰にも出会わなかったのだから、幸いにして無人だったのだろう。金縁の窓枠に広がる風景が幻想的にきれいだったのを覚えている。木々に触れそうな位置の太陽が屋敷の廊下を朱色に染め上げていた。夏の太陽は長生きだからか、あるいは往生際が悪いというべきか、夕日はその高さで踏ん張って、いつまでも沈む気配を見せなかった。
その屋敷で、私は桔梗を襲った。
押し倒して、首に口を当てた。
それからだ。私が食人欲求を抱くようになったのは。
あの日から、あの場所から、私は狂ってしまった。
始発電車が動き出す時間に合わせて、私は家を出た。
目指すは九年前に訪れた森の洋館。あそこはある意味で私の始まりの場所だから、寝具や調度品、絨毯までよく覚えている。送られてきた写真から、桔梗の死体が深見山の屋敷にあることは間違いなかった。
荷物は最低限にした。夏の森林を歩くのなら身軽な方がいいと思ったからだ。財布、家にあったペットボトルのジュース、携帯およびバッテリー、一応の護身用に彫刻刀。それらをリュックに放り込んでいく。
深見山の最寄駅である桂木寺駅に着くには、何本も電車を乗り継ぎ、何時間も揺られ続けなければならない。私が金欠だったなら、下手すると往復の運賃を捻出できなかったかもしれない小旅行だ。電車に揺られながら、私は桔梗からのメッセージを見直す。
――私、死んじゃったわ。
……そっか、死んじゃったんだ。
死んだのは桔梗なのか、と思う。
私は、桔梗との思い出を呼び起こす。
あの告白以降で、言葉をかけてくれた日の記憶を。
厳密言えば……一回だけ、桔梗が受け答えしてくれたことがあったのだ。
うちの中学は、時代錯誤なことに屋上が開放されていた。桔梗は屋上からの眺めが好きで、お昼休みは屋上でお弁当を食べていた。中二の途中までは、私も一緒だった。ベンチに座って、互いのおかずをつつきあっていたなんて、今となっては信じられない。
中学三年の春、昼休み。屋上に出る桔梗を私は追った。その頃、私はまだ桔梗のことを諦めてはいなかった。自分に害がないこと、純粋に好きなんだということを訴え続ければ、せめて友達くらいには戻ってくれると信じていた。
屋上に出ると、仄かに暖かい風。春の柔らかな日差し、ぽかぽかしている。
屋上にいたのは桔梗だけだった。柵に寄りかかって、町を俯瞰していた。手にビニール袋。中に入っているのは、コンビニのパンとかそこらだろう。そういえば、このところ桔梗がお弁当を持っているのを見たことがない。
「ね、ねえ、桔梗……」
おずおずと私は声をかける。桔梗は、春の陽射しに似つかわしくない冷たい目で私を一瞥した。雪解けはまだまだ遠い。
それでも、私はめげずに、手に持っていたお弁当の包みを顔の高さまで上げて、ぎこちなく笑った。
「たまにはお弁当、一緒に……」
言葉の途中で、桔梗は柵から身を離した。そして、私の横を素通りしていく。私の言葉なんて、耳を貸すつもりがないのだった。
それで、私は珍しく怒ったんだ。
友達に戻れると、この頃はまだ信じていたから。
「どうして無視するの!」
振り向きざまに珍しく怒鳴った。
けど、桔梗は足を止めるそぶりも見せなかった。つかつかと塔屋に向って歩いている。その背中に、私は叫び続けた。
「私、何か迷惑かけた? 桔梗のこと、少しでも食べたりした? しないよ、そんなこと。これからだって絶対しない。我慢できるんだよ。あんまり馬鹿にしないでよ!」
それでも、桔梗は止まらない。むしろ、うるさいモノから遠ざかりたいとばかりに歩みは速まった。
「私、桔梗が好きなの!」
塔屋のドアに手がかけられる。
「桔梗の為なら死ねるんだから!」
子供が地団駄を踏むように、全身から叫んだ。
その言葉は確かに届いて、桔梗の動きが止まった。ゆらりと振り向くと、黒髪が揺れる。私に向けられる眼。それは、告白の日以来、初めてきちんと私を捉えていた。
「なら……」
呟くような声。聞き取れたと思った時には、桔梗は私の目の前に移動していた。運動神経が抜群とはいえ、こんなに早く動けるなんて、と驚く暇もない。
桔梗は私の首を右手で掴むと、床にたたきつけるように押し倒した。ガツンという脳を揺らす衝撃。私は後頭部をしたたかに打ちすえてしまった。手にしていたお弁当箱がやかましい音を立てて、中身をぶちまけながら床を滑っていく。
腰のあたりに柔らかい重みを感じる。桔梗が私に跨っているのだった。
桔梗は、仰向けの私にキスをするみたいに前のめりになった。右手はまだ私の首触れている。そこに左手も重なる。
「なら、死んでよ」
途端、首に強い圧力が加わった。血液がせき止められる感覚と、気道を圧し潰される痛みに私は悶えた。
「死ね」
上靴が床を引っかく。
「死ね」
身をよじらせる。
「死ね」
潰れた蛙みたいな断末魔。
「死ね」
口角に泡が漏れる。
「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」
私は桔梗の手を剥がすべく彼女の腕を掴もうとして……やめた。
今、自分は何をしようとしたんだろう。
今、自分は言ったばかりじゃないか。
桔梗の為なら死ねるって。
なら、どうして抵抗する?
だから、受け入れることにした。足をばたつかせるのは止めた。
あっという間に脳は酸欠に陥る。不思議と気持ちが良くなってきた。息が詰まるのも心地いい。ぼーっとしてくる。暖かな羽毛に包まれ、どこまでも落ちていくような感じ。眼前で繰り返される桔梗の呪詛の声もどんどん遠ざかっていく。こんな楽な死に方があるなんて知らなかった。
桔梗は、私を見下ろして、必死の形相で首を絞めている。それは幸せなことに思えた。触れる彼女のぬくもりと、私を見つめる目と、私だけへ迸る想いと、そして、何より――。
桔梗ためなら命すら差し出すなんて、それはとてもステキな恋に思えた。
身体は叫ぶ。
このままでは、死んでしまうと。
心は歌う。
このまま、死にたい。
けど、そうはならなかった。
気付いたときには、私の意識は明瞭になっていて、酸欠の体は酸素を求めてえずいていた。
桔梗は相変わらず私に馬乗りのままだったが、もう私を殺そうとはしていなかった。彼女の両掌は屋上の床をついていた。
私の頬に暖かな雫が落ちてきた。
それが桔梗の涙だなんて、すぐにはわからなかった。
「酷い……」
揺れる声で、桔梗は言った。人形のように整った顔をぐじゅぐじゅにして泣いている。幼馴染の私ですら、そんな彼女は初めて見た。
「どうして……私が、私があなたを殺さなきゃならないのよ」
一瞬、それはとても優しい言葉に思えた。
桔梗は私を殺したくないんだって。いや、そういう意味なのは間違いないんだろうけど。でも、ニュアンスが致命的に異なっていた。私の身を慮るような口ぶりではなかった。
そもそも、それは私に向けられてはいなかったし。
どうしてか、それは悔しさに震えている。
どうしてか嫉妬の炎に燃える目で睨んでいる。
ああ、そうか。
これは悔し涙。
湖面のように静かな桔梗を震わせるほどの嫉妬と怒り。どうしてか、そんな激情にかられて、それで桔梗は泣いている。
やがて桔梗はのそのそと立ち上がると、屋上を出ていった。
以降は、桔梗の態度はそれまでどおりの無視に戻ったし、今度こそ一切、私とは口をきいてくれなくなった。
涙についても、無視についても、理由なんて、わからない。
いつだって、私は桔梗に恋するばかりで、桔梗のことはわからないのだ。
「死ね」
それが、三年間で唯一、桔梗が私に贈ってくれた言葉だった。
そんな言葉をくれた桔梗の方が死んでしまうなんて皮肉だった。
桂木寺駅に到着したときにはもうお昼を過ぎていた。
ホームの向こうには海が広がっていて、太陽の陽射しを受けてうるさいくらいにきらめいている。大きな亀が甲羅だけ海面に出しているかのような小島がいくつか浮かんでいた。空は怖いくらいに真っ青で、ところどころに千切れたパンのような雲がくっついている。
駅を出ると痛いくらいに熱い日差しが肌を射した。周辺にコンビニのような気の利くものはなかったが、自動販売機はあったので、そこでスポーツドリンクのペットボトルを五本ほど購入した。リュックが一気に重くなったけれど、一応山に向かうのだからこれくらいは持っておくべきだろう。ルートは覚えているが、道に迷わないとは言い切れない。
黄色い陽光に目を細めながら、町を囲むいくつかの山々を見る。その中の一番大きい山が深見山だ。
私は灼けたアスファルトを往き、程なくして深見山に入った。
山には道らしい道はなく、足場が悪い。いつも履いてる厚底のローファーで来ていたら、すぐに足首を痛めてしまったに違いない。スニーカーで落ち葉のカーペットを踏みしめ、たまに木の根や岩場に乗り上げながら進む。
館にはすぐに辿り着けると高を括っていた。
けれど、いくら歩きまわっても館は見つからなかった。
九年前の記憶を手繰る。アレはかなり大きな洋館だった。木々が不思議に組み合わさってできたアーチを抜けると開けた場所に出て、そこに鎮座していたのだ。そんな大きな建物だから適当に歩いていても目に付くはずだ。けれども、行けども行けども木々ばかりで風景に代わり映えがない。土砂降りの蝉しぐれが、顎を伝う汗を叩き落した。肌がじりじりと焼けていく。
四時間ほど歩いただろうか。視界がふらふらしてきた。このままでは熱中症で倒れてしまうかもしれないと、ひとまず木陰に逃げ込む。そこには大きくてひんやりした平らな岩があって、座ると生き返る心地がした。水分補給をしながら、携帯電話で時間を確認する。五時を過ぎたところだった。
一時間ほど休もう。幾分か涼しくなって探しやすくなるはずだ。リュックを枕にして、岩の上に横になる。途端、うつらうつらしてきてしまう。夏の行軍は私から思いのほか体力を奪っていたようで、足元を掬うような強い眠気に意識が攫われる。そういえば、昨夜はろくに寝ていなかった。
あの日も夏だった。
私達の人生の大きな分岐点には、いつだって強い日差しが射していた。
鮮やかな紅色の教室。痛みを伴って胸を締め付ける夕日。
窓辺に寄りかかる桔梗がいる。中学時代の制服を着ていて、顔つきが今より幾分丸く、身体の起伏も大人しい。
ああ、またか。
「それで」
悪夢の始発駅は、いつも此処だ。
「改まって、私に話って何かしら」
話しかける声音は優しい。まだ、私達が友達だった頃。否、友達以上の関係だった頃。
失いたくない。そう、強く思う。
「桔梗、あのね……」
けれど、私は胸から湧き上がる温かな気持ちを抑えられない。桔梗ともっと近づきたい。桔梗と恋人になりたい。振られた今だって、それは変わらない。
この頃の桔梗は優しかった。私に対して、思わせぶりな態度も多かった。絶対に、私のことを意識していたという確信がある。普通に告白していたなら、普通に恋人になれたはずなのだ。
だから、隠せばいい。
悪いのは食人欲求だ。人間としてタブーな欲求があるから、そういう嗜好の持ち主だとバレたから、無視されるようになってしまったのだ。だから、それを隠しさえすればすべてうまくいく。万一、振られたとしても、友達ないし幼馴染のままでいられるはずだ。
胸に手を当てる。下劣な欲求を押しとどめるように。
そして言う。
「私、桔梗が好きなの」
「何よ、どうしたの。私だって好きよ」
私は首を振る。
「友達としてじゃないよ。その……」
緊張を和らげるように、すう、と息を吸い込む。覚悟を決める必要があった。告白の覚悟じゃない。嘘をつく覚悟。
「あなたに恋をしているの」
桔梗は大きく目を見開いた。夕暮れの夏風が彼女の長い髪を梳くように撫でていった。何とも言えない間があった後、桔梗は目を薄くして笑った。
「ふふ。あんずったら、おかしい」
小さな口に手を当てて上品に肩を揺らしている。彼女が笑ってくれたことに安心して、私も笑った。
「そりゃあ、女同士じゃおかしいかもしれないけど、本気なの。私、本気で桔梗が好きなのよ」
「いいえ、そこではなくて」
桔梗が嗤う。
いつの間にか彼女の目の色が変わっている。細められた視線はナイフのように鋭く、私のあばら骨の間を滑り抜けて心を刺す。
「隠せたつもりになっているのが滑稽で」
「……つもりって」
声が震える。
桔梗がくるりと回る。スカートが翻る。血色のいい腿が覗く。見てはいけないとわかっているのに、目が勝手に追ってしまう。奥底の衝動がそうさせる。
無論、桔梗は私の視線に気付いている。わかっていて、やっている。
「恋に恋するのはおやめなさいな」
歌うような拒絶。
「だって、あなた……」
鼻をつまんで、嗤っている。
「こんなにもケモノ臭いじゃない」
自分の叫び声で目を覚ました。
夜闇に圧迫されるみたいに胸が苦しい。寝汗でびしょびしょになった下着が体に張り付いて気持ちが悪い。起き上がろうとすると、岩に接し続けて強張った体が悲鳴を上げた。
群青色の夜空に浮かぶ白い月、その下を飾る影法師のような木々。森にはすっかり闇の帳が降りていた。草むらから聞こえる、姿なき虫達の声。
寝すぎてしまった。ろくに眠らずに朝の早い時間から行動していたから、無自覚のうちに疲れが相当溜まっていたようだ。
気温は落ち着いてくれている。夏の夜風は、日中の大気のような湿り気もなく、心地よかった。
私は携帯電話のライト機能を起動させた。
捜索を再開しよう。
家に帰るという考えはなかった。またここまで遠出するのは大変な時間のロスだ。
町に降りるのもダメだ。未成年じゃカラオケや漫画喫茶にとまることはできないし、そもそも桂木寺駅周辺にそういう施設があるとは思えない。最悪、警察に保護されてしまう。
夜の山は、不思議と怖くなかった。前にも来た事があるせいだろうか。不思議と慣れているような感覚があった。まあ、野生動物も怖くないと言えば嘘になるけれど、大丈夫。私は動ける。私は桔梗のことが好きだから。彼女の為なら死ねる。三年前にそう言っただろう。ほんのちょっとの恐怖心がなんだ。
ここで怖気づいたら、桔梗が鼻をつまんでしまう。
歩きに歩いた。
けれど、夜更けになっても、館は見つからない。
どう考えてもおかしい。周囲の山よりは大きいと言っても、深見山の広さなんてたかが知れている。ちっちゃい小屋を見つけようというのならともかく、あの大きな屋敷が見つからないなんて考えにくい……。
――あんずがここに辿り着けないのはわかっているの。
桔梗のメッセージを思い出す。
よもやあの大層な自信は、館が通常の手段では辿り着けない場所にあるからではないか。なにせ鬼がいるところだ。地獄の入り口や三途の川のような場所なのかも。ああ、ありうる。そもそも死者からメッセージが来てるわけだし。
疲れた頭は、そんな本気とも冗談ともつかないことを考えてしまう。私の口から嘆息と自嘲の混じった笑いが漏れたとき。
――木陰の闇に、小さな姿が見えた。
最初は動物かと思った。けど、それにしては体高が高すぎる。私の見間違いでなければ、アレは……子供だ。
小学二、三年生の男子。坊主頭の少年が、木の幹に隠れ、顔だけ覗かせてじっと私を見ていた。
見つめ返す視線に気付いた少年は、びくりとして、木影に引っ込んだ。
少年が、尋常ならざる存在であることは直感していた。こんな夜山にいる子供なんているはずがない。
けれど、怖くはなかった。むしろ、少年の方が私に怯えているようだったから、怖がらせたくないと思ってしまったほどだ。
「大丈夫。何もしないよ」
できるだけ柔らかな声音で呼びかける。ややあって、少年は再び顔を覗かせた。
「……帰ってきたの?」
少年はおずおずとした様子で、私から距離を取ったまま問いかけた。いつでも逃げ出せるように身構えているようだった。
「また、遊んでくれるの?」
「また……?」
視線だけを交差させる時間が続く。
少年の方から私に近付いてきた。堆積している落ち葉の上を歩いてきているのに、足音ひとつしない。まるで浮いているみたいに。いや、足はちゃんと地面に接している。どうやらこの子はモノに触れられないらしい。
少年は照れ笑いを浮かべた。
「ごめんね。人違いだったみたい。前にもこういうことがあったから」
「前?」
「うん。夏休みに、鬼に捕まっちゃったときのこと」
少年が提げている虫籠。中に朽ちた甲殻が堆積している。小さな体を透かして青白い月光が私を照らしている。この少年は……鬼に襲われた幽霊か何かなのか。
私は屈み、少年と視線の高さを同じにした。
「ねえ、ボク。私はね、鬼を探しているの。鬼のいる館、知らないかな」
「知ってるよ」
「行き方を教えてほしいんだけど」
少年は首を横に振った。
「お願いよ。私の大事な友達が鬼に捕まってるの。早く行かないと食べられてしまうのよ」
「行ったら、ひどい目に遭うよ。おねえちゃん、また死んじゃうよ」
「……ま、た?」
何を言っているんだろう。だってその言いぶりでは。
私が、死んでるみたいじゃないか。
「僕はね、鬼のせいで死んだ子供。お母さんが家に入れてくれなくて、帰る場所がないから仕方なく山をさまよってるんだ。ここにいるみんな、似たようなもの。仲間さ」
視線たちに気付く。辺りに首を巡らせば、爛々とした目の数々が私を取り囲んでいた。まるで狼の群れの中に放り込まれたかのような有様だったが、彼らの目に獰猛な色は全く見受けられなかった。むしろ、ひたむきなほどの同情の念を私へ注ぎ込んできている。
「お姉ちゃんも仲間だよ。仲間だから僕らのことが見えるんだ」
「そんなわけないじゃない」
私は、足元の木の葉を拾い上げ、それ指の腹で擦りつぶした。葉はボロボロの欠片になって、手のひらから落ちていく。
「ほら、ちゃんと肉体がある。これをどう説明するの」
「知らないよ。あ、でも待って」
少年は私を凝視した。
「確かに、仲間って言うとちょっと違うかも。よく似てるんだけど、幽霊じゃないのかな」
「私は幽霊じゃない。死んでいるのは、私の友達の方なの。このままだと友達が食べられちゃうのよ。だから、お願い。館への行き方を教えて」
「教えても、どうせ行けないよ」
「どうにかするわ」
「ふぅん、じゃあいいけど。館に辿り着けるヤツは二種類いる。鬼に標的にされた人間か、鬼自身。僕たちくらいの歳の子供は鬼の大好物だけど、お姉ちゃんはちょっと大人になりすぎかな」
「他の方法は知らないかな? 私でも行ける方法」
「だから無理だって。でも……」
私の体、足の先から頭のてっぺんまでを、少年は無遠慮に眺めてから言った。
「獲物は無理だけど……鬼になれればもしかしたら。最初お姉ちゃんを見た時、鬼かと思ったんだ。それくらい良く似てたんだ。顔とかは違うんだけど、こう、空気みたいな……」
少年は鼻の付け根にしわを作って言葉を探していたが、うまい表現が見つからないようだった。けど、言わんとしていることは、悲しいかな、わかってしまった。彼が言っているのは、私の食欲のことだろう。隠し切れないそれが鬼に似ているのだ。
自分の胸を見下ろし、手を当てる。ドクンドクンという脈動を感じる。内なる食欲が、体を自分に明け渡すよう催促しているかのよう。
「けど、ダメだよ、それは」
少年が諫める。年齢に不相応の毅然とした言い切りだった。
「友達を助けたいんでしょ。だったら、鬼になったらダメだよ。鬼になった途端、優しい気持ちも消えてしまうよ。鬼は人の命なんて玩具くらいにしか思ってないんだから」
「……けど」
私は自分の食欲が大嫌いだ。けど、これに身を任せるしか手がないなら、私は……。
再び顔を上げたときには、少年も、私を取り囲んでいた眼光たちも消えていた。
見計らったかのように、軽薄な電子音が鳴った。
新たなメッセージの受信音だった。
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