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四章
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七月二十四日
桔梗からのメッセージ。
今日は文言はなく、画像だけが送られてきていた。
桔梗の死体の画像。
ただ昨日と違うのは……桔梗の上半身の服が剥かれていたこと。大胆なオフショルダーがおろされて、乳房が露わになっている。黒いブラジャーが白のベッドシーツの上に力なく落ちていた。
私は口元を押さえて、嗚咽を漏らした。
桔梗は鬼に抱かれ、食われていた。
鬼は、顔が真っ二つに割れるのではと思わせるくらい大きく口を開けている。小さな黄色の欠片と赤の粒子が。粘液をまとって飛び散っている。
桔梗には、右胸がなかった。
首につけられていた創が拡大したかのように、首から胸ないし二の腕までの肉がなくなっていた。あるのは食い残された肉がこびりついた骨だけである。
鬼は空いている手で桔梗の残っている乳房を握っていた。腰の細さから考えると大きい胸が、邪悪な手の形に歪んでいた。
チリチリと脳裏を刺激するノイズ。喉が干上がるような感覚。
外に出ようと暴れる欲望を、懸命に抑えこんだ。
ただ、抑圧する力は昨日より弱まっていた。
精神的、肉体的疲労も理由ではあるが、何より、先の少年との会話が気がかりなのだった。私の中に息づく者、それに身を預けてしまえば、館に……。
いいや、駄目だ。
こんな下劣な感情に負けていいはずがない。
私の恋心は、浅はかな肉欲より、遥かに尊いはずだ。
思い出せ、桔梗のことを思い続けた歳月を。
そうすれば、こんな気の迷い、たちどころに消し飛んでしまう。
私は桔梗が好きなのだ。
ずっと好きなのだ。
好きだろう?
ずっと昔から……。
九年前、桂木寺駅を訪れたのは、ここが当時お母さんが好きだったドラマのロケ地だったからだ。
花柄のワンピースをひるがえし、帽子を押さえているお母さんの後ろ姿。あちこちを飛ぶように行ったり来たりしながら、高い声を張り上げて写真を撮っていたのを覚えている。大人でもあんなに夢中になることがあるんだなと引いてしまうほどに、お母さんはドラマの熱狂的なファンだった。それは、桔梗のお母さんも同じで、だから私たち母子は一緒になってこんな田舎まで観光に来たのだった。付き合わされる子供の気持ちも考えてほしい。よりにもよって桔梗と夏休みを過ごすなんて、私はひどく憂鬱だった。
――憂鬱だった?
楽しげな大人たちと打って変わって、私は退屈だった。件のテレビドラマは、録画映像を繰り返し居間で再生されていたから、何となく知っていた。けれど、それだけだった。なのに、どういうわけか……お母さんは、娘もそのドラマが大好きだと思い込んでいた。
だから、私の手持無沙汰には気付かない。ロケ地なる道路に差し掛かっても、私には家の近所と変わらない普通の道にしか見えなかった。違いは、せいぜい周囲の建物の多さくらい。
しゃがみ込んで道路わきの草むらを覗き込んでいた。
緑の細長いバッタが、同じように細長い葉っぱにしがみついていた。
葉と一緒に揺れる触角を眺めている。別に虫は好きではなかったが、道路とにらめっこするよりはマシだった。
「ショウリョウバッタね」
いつの間にかとなりに桔梗がいた。
ショウリョウバッタというのは、この細長いバッタの名前か。昔から物知りな子だった。
私はショウリョウバッタなるものを見つめたまま会話する。
「田舎ってすごいね。家の近くでもこのバッタを見たことあるけど、それより何倍も大きい」
「馬鹿ね。それは別の種類のバッタよ。同じ種類なら、田舎だからってそう大きさは変わらないわ。白亜紀じゃないのよ?」
シュルイ? ハクアキ?
うるさい。知ったかぶりやがって。
――うるさい? 知ったかぶりやがって?
「ショウリョウバッタに似てるバッタはたくさんいるのよ。オンブバッタとか、ショウリョウバッタモドキとか……。どっちもショウリョウバッタよりずっと小さいの。それと混同してしまっているんじゃないかしら」
「……桔梗はすごいね。何でも知ってる」
私は、やはりバッタを見つめたまま、鉄のように無機質な声で言った。
アンタが頭がいいのは知ってる。だからって、ひけらかすな。私みたいな劣等生を捕まえて、悦に浸るな。
「すごくなんてないわ。本に書いてあったことを言ってるだけだもの。誰にでもできるわよ」
誰にでもね、とわざとらしく強調して付け加える。ホント、鼻につくヤツ。
桔梗はおもむろにバッタによると、小さな足で蹴り飛ばした。
緑の細長いシルエットは宙を舞って、奥の草葉の陰に落ちて消えてしまった。途中、不格好に長い足の片方が千切れて、身体とは別の方向へ飛んでいくのが見えた。
「いなくなっちゃったね」
桔梗は、悪戯っぽい……いや、意地の悪い笑顔で私を見た。並びの良い歯をむき出しにして。
お母さんたちはまだ道路に夢中だった。
私の目は再び灰色に落ちていく。虫は嫌いだが、あのバッタだけが今は唯一の拠り所だった。私は何の変哲もない道路とにらめっこをするか、この高慢ちきな幼馴染の相手をするかという地獄のような二択を選ばなければならない。
「そんなに虫が好きなら、探しに行っちゃおうか」
返答を待たずに、桔梗は私の手を引いて走り出した。道路に夢中なお母さんたちは私たちがいなくなっても気づかない。
一瞬だけ迷った。
桔梗と一緒に遊ぶくらいなら、道路を見ていた方がマシかもしれないと。でも、まあ、どっちでもいいか。どっちも辛いんだから。五十歩百歩ってやつ。私は引かれるままに走った。
サンダルが路面を蹴る足音が二つ。
十七歳の私たちなら、日焼けと発汗が鬱陶しくて外に出ようなんて発想も浮かばないかんかん照り。けれど、八歳になったばかりの私たちは柔い肌を惜しげもなく日に晒し、焼けるがままにしていた。
青空の下を大きなアゲハ蝶が遊ぶように飛んでいた。
「あの山なら、きっと色んな虫がいるわ」
桔梗が走りながら指差す方向には、他の山より頭一つ大きな山があった。
向かっている途中、駄菓子屋を通りかかった。暑かったから飲み物を持っていった方がいいだろうと桔梗が提案したので、三十円のコーラドリンクを一本ずつ買った。コーラドリンクにはくじがついていて、当たればもう一本貰うことができる。桔梗だけが当たりだった。
駄菓子屋のおばあちゃんは、桔梗にもう一本のコーラドリンクを手渡す。相当なお年寄りで顔はしわくちゃだったが、それがむしろ優しそうな印象を形作っていた。
「どこに遊びに行くんだい」
ニコニコしながら聞いてきたから、桔梗は目的地の山を指したのだが、途端におばあちゃんは少し怖い顔になった。
「深見山に行ってはいけないよ。神隠しが起きるからね。最近はめったに聞かないけど、おばあちゃんが小さかったときは時々子供が消えちまったもんだ。あの山に棲む鬼が、子供を食べてしまうんだよ。嘘じゃない。おばあちゃんの友たちも、攫われたきり帰ってこなかったんだからね」
「わかりました。深見山には行きません」
いかにも素直そうな声音を巧みに操る桔梗。おばあちゃんの顔は優しそうなしわくちゃに戻った。大人は従順な子供が好きだから、桔梗の気持ち悪さを感じ取れない。
駄菓子屋を出ると、桔梗が再び私の手を引いて歩き出す。そら、見たことか。おばあちゃんの忠告にもかかわらず、向かっているのは深見山の方だった。
「やめようよ、神隠しに遭っちゃう。鬼に食べられちゃうよ」
「バカね、そんなことあるわけないじゃない」
「でも、怖いよ」
本当は怖いなんて思っていなかった。もう少し駄菓子屋にいたかったのだ。あのしわくちゃなおばあちゃんの前では、桔梗も私に意地の悪いことはできないと思っていた。
「ダメよ。深見山に行くの」
「けど……」
「ダーメ。もう決めたの。私が決めたことは絶対よ」
それにさ、と桔梗は繋ぐ。
周囲には誰もいない。駄菓子屋のおばあちゃんも、通行人も誰も。
だから、その邪悪な笑顔を見るのは、私だけだ。
「鬼が出たとしてもさ、食われるのはトロいあんずの方じゃない」
彼女の方が遥かに優秀で強かった。だから、私は深見山に引きずられていくしかなかった。
田舎の森は、何の変哲もない道路よりは変化に富んでいた。かすかな風に葉が揺れて、土の上に自由気ままな模様を作っていた。
森には虫よりも魅力的なモノがあった。
花だ。緑の茂みの合間には、ちらほらと水色の花が咲いている。五枚の花びらを控えめに開かせた、涼しげで綺麗な花だった。
「私、この花好きなの」
桔梗はラッパみたいな花に顔を寄せた。人形のような顔立ちをしていた彼女には、涼やかなその花は……悔しいが似合っていた。
「どう? 私にぴったりな花でしょう? だって、この花の名前は――」
耳から意識を遠ざける。コイツのうんちくはもうたくさんだ。歌うように花の紹介をする桔梗は、上品ぶってて、いかにもご満悦と言った様子だった。
花に飽きた桔梗は、山野を舞台に鬼ごっこを始めた。
いいや、始めさせられたというのが正しいか。
私が鬼。桔梗を追う。
桔梗は私よりずっと足が速かった。向こうも当然それをわかっていて、私に鬼を押し付けたのだ。
それでも私は、馬鹿にされたままはごめんだったから、必死になって桔梗を追いかけた。なんとかして、一泡吹かせてやりたかった。
けれど、桔梗を捕まえることはとてつもなく難しかった。アイツは頭もよかったから、巧みに身を隠して、いつのまにか私の後ろに回っていたりした。
「ほんっとトロいわね」
背後から蹴飛ばされ、地面に頭から突っ込む。すぐに起き上がったけれど、そのときにはもう桔梗は高笑いをしながら遠くに駆けて行ってしまった後だ。間に合わない。
追いすがるうち、着ていたワンピースは泥だらけになり、小枝に引っかかって何か所かが破れた。いかにも女の子らしいピンクのワンピースだったのに、男子の服みたいな末路を辿ったなんて、さぞ浮かばれなかったことだろう。
泣き出したかったが、そんなことしてもアイツつけあがらせるだけだ。私は泣きながら走り続けた。
すばしっこい桔梗の後ろ姿を視界の遠くに捉えながら、どうにかこうにかついていく。小さな背中が、木々で組まれたアーチに入っていくのが見えた。
そうして、あの洋館に辿り着いた。
夕焼けで、燃え上がるような赤に染められた館。
私は突然現れた大きな屋敷に驚いたけれど、桔梗は物怖じせず屋敷の中に入ってしまった。アイツは、自分が無敵だと思ってやがる。不意に建物が出現したからって、鬼ごっこは中断されなかった。
私もあとから屋敷に入る。中に誰かいたら怖いとは思ったけど、ビビッたらアイツに負けてしまう気がした。
こんな山奥にある屋敷だから、中はお化け屋敷みたいに蜘蛛の巣が張っているものと思っていたけれど、思いのほか綺麗だった。
膝小僧についた泥を払う。その拍子に指が擦り傷を掠めてしまって痛みを発した。
馬鹿正直に桔梗を追うことはもうしなかった。まともな追いかけっこで勝ち目はないことは思い知っていた。作戦を待ち伏せに切り替える。
館にある部屋の一室に忍び込む。ベッドの下に身を潜めて、桔梗がやってくるのを待った。
やがて、扉が開く音がした。足音が十分に近づいてきたのを確認して、私は勢いよく飛び出した。
勢い余った私は、桔梗の足に思い切りぶつかった。私は桔梗に抱きついて、逃げられないようにした。完全に捕まえた。あの高飛車女に一矢報いたと思うと嬉しかった。もう絶対離さない!
私は抱きついた相手を見上げる。
見上げる……?
なぜ、見上げた?
桔梗は私と同じくらいの背だったのに。
そもそも。
どうやって、足にぶつかった?
瞬間、視界に火花が散った。
脳裏に押し付けられる強烈な刺激。
触れられてはいけないところを舐められ、愛撫され、咀嚼される快感。
穴という穴から体液が漏れ出す、背徳と無様。
脳が発するでたらめな電気信号に、悦び、打ち震える手足。
次の瞬間には、私は桔梗を押し倒していた。
いつの間にか、廊下に出ていた。床を突く私の両手の間に桔梗の顔があった。大きな目が私を見つめていた。なだらかな肩が作る曲線に目がいった。ノースリーブのワンピースから覗く脇や首筋。スカートがお腹までめくれていて、リボンのついたパンツが見えてしまっている。そこから傷一つない綺麗な足が伸びていた。
どうしてか、私は彼女に釘付けになっていた。訝しそうに彼女が私を見ていたのはわかっていたが、夢中になってしまっていた。
ゆっくりと顔を彼女の首元に埋めた。赤く焼けた肌に遠慮がちに口をつけた。じゃりじゃりとした感触。外で遊んでいたときに張り付いた砂が口の中に広がった。汗のしょっぱさがじわじわと舌に染みていく。噛みはしなかった。突如としてわき上がった欲求が何なのか、まだ自分にもわかっていなかったからだ。だから、どうしていいかわからず、口に含んだ肉を懸命に舐めまわしていた。
くすぐったいよと彼女は笑い、私の後頭部を掴むと
自分の肌に押し付けた。
そうだ。
押し付けたのだ。
自分から、肉を私の口に当てがったのだ。
「もっと……していいんだよ」
その煽り言葉で、逆に私は自分を取り戻し、桔梗から飛びのいた。
それは、とてもいけないことで、破滅的なことだとわかっていたから。私が私でなくなってしまうような、不吉なことだと直感していた。
桔梗は物足りないという目で私を見上げていた。そんな弱弱しい桔梗は見たことがなかった。
私はもう帰りたかった。お母さんたちのところに戻りたかった。けれど、桔梗は私が隠れていた部屋に私を連れ込んだ。彼女はまだこの屋敷にいたかったのだ。ここならば、「してはいけないこと」をしても咎められないから。私にそれをさせたかったから。
私たちは長い時間、ベッドの上で隣り合って座っていた。桔梗は何度も私の手を取り、自分の体を触れさせた。腕に、顔に、足に、お腹に……。時には自分の指を、私の口の中に突っ込んできたりもして、触れ合うたび、例の欲求がわき上がりそうになって大変だった。桔梗がクラスの男の子たちに人気がある理由がわかった気がした。敵意のない桔梗は、この上なく綺麗で、かわいくて、魅力的だった。私に意地悪する桔梗は、何故かもういなかった。それがわかると、私の方もそんなに桔梗のことは嫌いじゃなかった気がしてきた。桔梗の笑顔の種類が明らかに変わっていた。少女漫画の主人公のように、うっとりとした目。気恥ずかしくて見れなかったから、代わりに部屋の電燈とか箪笥とかを眺めていた。だから、九年経っても調度品のことはよく覚えていたのだ。
やがて、私たちは、互いに互いを変に意識して、なんだか恥ずかしいような気まずいような空気で屋敷を後にした。
それが私の初体験。
生まれて初めて、東雲あんずが幼馴染の榊葉桔梗を食べたいと思った最初の記憶だ。
そうだった。どうして今まで忘れていたのだろう。この山は、私の奥底の記憶を呼び起こす。
あの時桔梗は、私の食人欲求に嫌悪感は示していなかったし、何より私は……。
アイツが大嫌いだった。
朝露に濡れる一輪の花を見つけた。
桔梗が好きだと言っていた青い花だった。説明を聞き流していたから名前は覚えていない。
九年前は、山のあちこちに自生していた気がしたが、時間が流れてずいぶんと数を減らしてしまったようだ。丸一日山狩りをしていたのに、見かけたのはこの一輪だけである。まるで緑のキャンパスに垂らした青い絵の具のよう。
そうだ、桔梗に供えるのはこの花にしよう。
一輪しか生えていない花を手折るのは忍びなかった。なので、心の中で謝りながら、できるだけ優しく摘み取って、リュックに入れた。
キジバトの声が聞こえる。白い木漏れ日は疲れた網膜によく染みた。
疲れているから、難しいことは考えられない。かつて私が桔梗のことを嫌いだったことについても、今は考えられない。それを深く考えるのは危険だ。
私は桔梗が好きだから。
夕刻、一度山から下りた。買いだめていた飲料が底を尽いたからだ。食べ物はなくても気合で動けそうだったが、水分不足で手が軽く痺れだしたとき、脱水症状だけは誤魔化しようがないと悟った。
私の足は、九年前に桔梗に手を引かれた道へ向かった。あの駄菓子屋に行ってコーラドリンクを買い、ついでにしわくちゃのおばあちゃんから神隠しの話を聞こう。あの夏を辿れば、夕染めの館に辿り着けるかもしれない。
けれど、駄菓子屋の前で……いや、駄菓子屋がかつて在った場所で私は立ち尽くすことになった。
九年の歳月を経て、駄菓子屋は潰れていた。
出入り口は無機質なシャッターで閉ざされている。くすんだ青色のトタン屋根。あちこち剥がれてボロボロになった外壁。庇は薄汚れ、外に置きっぱなしの業務用の冷蔵庫には赤さびのようなものがこびりついてた。冷蔵庫をガラス越しに中を覗き込んでもコーラドリンクはなく、よくわからない木箱やら雑多なものが詰め込まれているだけだった。
なんだか、神隠しに遭ったのは私の方に思えた。
私だけが、あの夏から攫われて、消えてしまったような感覚。
「どうして、山に向かうの?」
声がする。幼い女の子の声。
振り向けば、ワンピースを着た女の子が立っている。
擦り傷だらけの肌を、泥に汚れたワンピースから晒し、胡散臭そうに私を見ている。
少女の姿は陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。
見覚えのある顔と体。
それは、遠い日の私だった。
あまりの暑さに、幻覚でも見ているのだろうか。意識が朦朧としてきている自覚もある。そのためか、さほど驚きはしなかった。
「どうして、山に向かうの?」
少女、否、私は繰り返す。
私は私に答える。
「桔梗がね、鬼に捕まっているの。このままだと食べられてしまうから。その前に助け……いいえ、ちゃんと埋葬してあげるの。お花を供える人が誰もいなかったからかわいそうでしょ?」
「どうして、山に向かうの?」
「だから、桔梗が危ないからよ」
「どうして、山に向かうの?」
「桔梗が好きだからよ」
「どうして、山に向かうの?」
「どうしてって、あなたも桔梗が好きでしょ」
「どうして、山に向かうの?」
「好きな人を助けてあげたいでしょ」
「どうして、山に向かうの?」
「鬼が出るのに、どうしてということ?」
「どうして、山に向かうの?」
「鬼が出るとしても行かなくちゃいけないの」
「どうして、山に向かうの?」
「桔梗のことが大事だからよ」
「どうして、山に向かうの?」
「桔梗に好きだって伝えたいからよ」
「どうして、山に向かうの?」
「桔梗の死体を食べずに埋めるためよ」
「どうして、山に向かうの?」
「食べずに埋められれば、証明できるでしょ」
「どうして、山に向かうの?」
「私の気持ちは、本物だって」
「どうして、山に向かうの?」
「鬼も夜闇も怖くない」
「どうして山に向かうの?」
「桔梗の為なら死ねるもの」
「嘘ばっかり」
途端、あの日の私は消えた。
残ったのはうだるような暑さと、混濁する頭。
――嘘ばっかり。
少女の最後の言葉の意味は分からない。けれど、言葉にできないような圧があった。まるで、私の全てを一刀のもとに斬り伏せてしまうような……。
馬鹿なことを考えるな。
アレは幻覚だ。夏の暑さが見せた蜃気楼だ。
急いで水分補給をしないと。
幸いなことに、駄菓子屋からほど近い場所に自動販売機を見つけることができた。
これでまた山に向かえる。
また夜が来た。
むやみやたらな山狩りは、相変わらず成果が上がらない。
もうこの山を何周したかもわからない。やはりあの屋敷はまともな場所ではないのだ。私たちが住んでいる場所からはズレた位相空間。あの木々のアーチはさながら不思議の国へつながる穴だったのだろう。
なんであれ、私が辿り着くことはないと思われる。
同じところをぐるぐると回り、昨日眠った石まで来た。歩きづくめの足が悲鳴を上げている。
……少し、疲れた。
私は石に腰を下ろし、バッテリーにつながった携帯電話を取り出した。もうすぐ日付が変わる。この二日間、桔梗からのメッセージは日付の変わり目に来ていた。三日目、最終日だって同じだろう。私は捨て鉢になって、桔梗からのメッセージを待つことにした。
桔梗からのメッセージ。
今日は文言はなく、画像だけが送られてきていた。
桔梗の死体の画像。
ただ昨日と違うのは……桔梗の上半身の服が剥かれていたこと。大胆なオフショルダーがおろされて、乳房が露わになっている。黒いブラジャーが白のベッドシーツの上に力なく落ちていた。
私は口元を押さえて、嗚咽を漏らした。
桔梗は鬼に抱かれ、食われていた。
鬼は、顔が真っ二つに割れるのではと思わせるくらい大きく口を開けている。小さな黄色の欠片と赤の粒子が。粘液をまとって飛び散っている。
桔梗には、右胸がなかった。
首につけられていた創が拡大したかのように、首から胸ないし二の腕までの肉がなくなっていた。あるのは食い残された肉がこびりついた骨だけである。
鬼は空いている手で桔梗の残っている乳房を握っていた。腰の細さから考えると大きい胸が、邪悪な手の形に歪んでいた。
チリチリと脳裏を刺激するノイズ。喉が干上がるような感覚。
外に出ようと暴れる欲望を、懸命に抑えこんだ。
ただ、抑圧する力は昨日より弱まっていた。
精神的、肉体的疲労も理由ではあるが、何より、先の少年との会話が気がかりなのだった。私の中に息づく者、それに身を預けてしまえば、館に……。
いいや、駄目だ。
こんな下劣な感情に負けていいはずがない。
私の恋心は、浅はかな肉欲より、遥かに尊いはずだ。
思い出せ、桔梗のことを思い続けた歳月を。
そうすれば、こんな気の迷い、たちどころに消し飛んでしまう。
私は桔梗が好きなのだ。
ずっと好きなのだ。
好きだろう?
ずっと昔から……。
九年前、桂木寺駅を訪れたのは、ここが当時お母さんが好きだったドラマのロケ地だったからだ。
花柄のワンピースをひるがえし、帽子を押さえているお母さんの後ろ姿。あちこちを飛ぶように行ったり来たりしながら、高い声を張り上げて写真を撮っていたのを覚えている。大人でもあんなに夢中になることがあるんだなと引いてしまうほどに、お母さんはドラマの熱狂的なファンだった。それは、桔梗のお母さんも同じで、だから私たち母子は一緒になってこんな田舎まで観光に来たのだった。付き合わされる子供の気持ちも考えてほしい。よりにもよって桔梗と夏休みを過ごすなんて、私はひどく憂鬱だった。
――憂鬱だった?
楽しげな大人たちと打って変わって、私は退屈だった。件のテレビドラマは、録画映像を繰り返し居間で再生されていたから、何となく知っていた。けれど、それだけだった。なのに、どういうわけか……お母さんは、娘もそのドラマが大好きだと思い込んでいた。
だから、私の手持無沙汰には気付かない。ロケ地なる道路に差し掛かっても、私には家の近所と変わらない普通の道にしか見えなかった。違いは、せいぜい周囲の建物の多さくらい。
しゃがみ込んで道路わきの草むらを覗き込んでいた。
緑の細長いバッタが、同じように細長い葉っぱにしがみついていた。
葉と一緒に揺れる触角を眺めている。別に虫は好きではなかったが、道路とにらめっこするよりはマシだった。
「ショウリョウバッタね」
いつの間にかとなりに桔梗がいた。
ショウリョウバッタというのは、この細長いバッタの名前か。昔から物知りな子だった。
私はショウリョウバッタなるものを見つめたまま会話する。
「田舎ってすごいね。家の近くでもこのバッタを見たことあるけど、それより何倍も大きい」
「馬鹿ね。それは別の種類のバッタよ。同じ種類なら、田舎だからってそう大きさは変わらないわ。白亜紀じゃないのよ?」
シュルイ? ハクアキ?
うるさい。知ったかぶりやがって。
――うるさい? 知ったかぶりやがって?
「ショウリョウバッタに似てるバッタはたくさんいるのよ。オンブバッタとか、ショウリョウバッタモドキとか……。どっちもショウリョウバッタよりずっと小さいの。それと混同してしまっているんじゃないかしら」
「……桔梗はすごいね。何でも知ってる」
私は、やはりバッタを見つめたまま、鉄のように無機質な声で言った。
アンタが頭がいいのは知ってる。だからって、ひけらかすな。私みたいな劣等生を捕まえて、悦に浸るな。
「すごくなんてないわ。本に書いてあったことを言ってるだけだもの。誰にでもできるわよ」
誰にでもね、とわざとらしく強調して付け加える。ホント、鼻につくヤツ。
桔梗はおもむろにバッタによると、小さな足で蹴り飛ばした。
緑の細長いシルエットは宙を舞って、奥の草葉の陰に落ちて消えてしまった。途中、不格好に長い足の片方が千切れて、身体とは別の方向へ飛んでいくのが見えた。
「いなくなっちゃったね」
桔梗は、悪戯っぽい……いや、意地の悪い笑顔で私を見た。並びの良い歯をむき出しにして。
お母さんたちはまだ道路に夢中だった。
私の目は再び灰色に落ちていく。虫は嫌いだが、あのバッタだけが今は唯一の拠り所だった。私は何の変哲もない道路とにらめっこをするか、この高慢ちきな幼馴染の相手をするかという地獄のような二択を選ばなければならない。
「そんなに虫が好きなら、探しに行っちゃおうか」
返答を待たずに、桔梗は私の手を引いて走り出した。道路に夢中なお母さんたちは私たちがいなくなっても気づかない。
一瞬だけ迷った。
桔梗と一緒に遊ぶくらいなら、道路を見ていた方がマシかもしれないと。でも、まあ、どっちでもいいか。どっちも辛いんだから。五十歩百歩ってやつ。私は引かれるままに走った。
サンダルが路面を蹴る足音が二つ。
十七歳の私たちなら、日焼けと発汗が鬱陶しくて外に出ようなんて発想も浮かばないかんかん照り。けれど、八歳になったばかりの私たちは柔い肌を惜しげもなく日に晒し、焼けるがままにしていた。
青空の下を大きなアゲハ蝶が遊ぶように飛んでいた。
「あの山なら、きっと色んな虫がいるわ」
桔梗が走りながら指差す方向には、他の山より頭一つ大きな山があった。
向かっている途中、駄菓子屋を通りかかった。暑かったから飲み物を持っていった方がいいだろうと桔梗が提案したので、三十円のコーラドリンクを一本ずつ買った。コーラドリンクにはくじがついていて、当たればもう一本貰うことができる。桔梗だけが当たりだった。
駄菓子屋のおばあちゃんは、桔梗にもう一本のコーラドリンクを手渡す。相当なお年寄りで顔はしわくちゃだったが、それがむしろ優しそうな印象を形作っていた。
「どこに遊びに行くんだい」
ニコニコしながら聞いてきたから、桔梗は目的地の山を指したのだが、途端におばあちゃんは少し怖い顔になった。
「深見山に行ってはいけないよ。神隠しが起きるからね。最近はめったに聞かないけど、おばあちゃんが小さかったときは時々子供が消えちまったもんだ。あの山に棲む鬼が、子供を食べてしまうんだよ。嘘じゃない。おばあちゃんの友たちも、攫われたきり帰ってこなかったんだからね」
「わかりました。深見山には行きません」
いかにも素直そうな声音を巧みに操る桔梗。おばあちゃんの顔は優しそうなしわくちゃに戻った。大人は従順な子供が好きだから、桔梗の気持ち悪さを感じ取れない。
駄菓子屋を出ると、桔梗が再び私の手を引いて歩き出す。そら、見たことか。おばあちゃんの忠告にもかかわらず、向かっているのは深見山の方だった。
「やめようよ、神隠しに遭っちゃう。鬼に食べられちゃうよ」
「バカね、そんなことあるわけないじゃない」
「でも、怖いよ」
本当は怖いなんて思っていなかった。もう少し駄菓子屋にいたかったのだ。あのしわくちゃなおばあちゃんの前では、桔梗も私に意地の悪いことはできないと思っていた。
「ダメよ。深見山に行くの」
「けど……」
「ダーメ。もう決めたの。私が決めたことは絶対よ」
それにさ、と桔梗は繋ぐ。
周囲には誰もいない。駄菓子屋のおばあちゃんも、通行人も誰も。
だから、その邪悪な笑顔を見るのは、私だけだ。
「鬼が出たとしてもさ、食われるのはトロいあんずの方じゃない」
彼女の方が遥かに優秀で強かった。だから、私は深見山に引きずられていくしかなかった。
田舎の森は、何の変哲もない道路よりは変化に富んでいた。かすかな風に葉が揺れて、土の上に自由気ままな模様を作っていた。
森には虫よりも魅力的なモノがあった。
花だ。緑の茂みの合間には、ちらほらと水色の花が咲いている。五枚の花びらを控えめに開かせた、涼しげで綺麗な花だった。
「私、この花好きなの」
桔梗はラッパみたいな花に顔を寄せた。人形のような顔立ちをしていた彼女には、涼やかなその花は……悔しいが似合っていた。
「どう? 私にぴったりな花でしょう? だって、この花の名前は――」
耳から意識を遠ざける。コイツのうんちくはもうたくさんだ。歌うように花の紹介をする桔梗は、上品ぶってて、いかにもご満悦と言った様子だった。
花に飽きた桔梗は、山野を舞台に鬼ごっこを始めた。
いいや、始めさせられたというのが正しいか。
私が鬼。桔梗を追う。
桔梗は私よりずっと足が速かった。向こうも当然それをわかっていて、私に鬼を押し付けたのだ。
それでも私は、馬鹿にされたままはごめんだったから、必死になって桔梗を追いかけた。なんとかして、一泡吹かせてやりたかった。
けれど、桔梗を捕まえることはとてつもなく難しかった。アイツは頭もよかったから、巧みに身を隠して、いつのまにか私の後ろに回っていたりした。
「ほんっとトロいわね」
背後から蹴飛ばされ、地面に頭から突っ込む。すぐに起き上がったけれど、そのときにはもう桔梗は高笑いをしながら遠くに駆けて行ってしまった後だ。間に合わない。
追いすがるうち、着ていたワンピースは泥だらけになり、小枝に引っかかって何か所かが破れた。いかにも女の子らしいピンクのワンピースだったのに、男子の服みたいな末路を辿ったなんて、さぞ浮かばれなかったことだろう。
泣き出したかったが、そんなことしてもアイツつけあがらせるだけだ。私は泣きながら走り続けた。
すばしっこい桔梗の後ろ姿を視界の遠くに捉えながら、どうにかこうにかついていく。小さな背中が、木々で組まれたアーチに入っていくのが見えた。
そうして、あの洋館に辿り着いた。
夕焼けで、燃え上がるような赤に染められた館。
私は突然現れた大きな屋敷に驚いたけれど、桔梗は物怖じせず屋敷の中に入ってしまった。アイツは、自分が無敵だと思ってやがる。不意に建物が出現したからって、鬼ごっこは中断されなかった。
私もあとから屋敷に入る。中に誰かいたら怖いとは思ったけど、ビビッたらアイツに負けてしまう気がした。
こんな山奥にある屋敷だから、中はお化け屋敷みたいに蜘蛛の巣が張っているものと思っていたけれど、思いのほか綺麗だった。
膝小僧についた泥を払う。その拍子に指が擦り傷を掠めてしまって痛みを発した。
馬鹿正直に桔梗を追うことはもうしなかった。まともな追いかけっこで勝ち目はないことは思い知っていた。作戦を待ち伏せに切り替える。
館にある部屋の一室に忍び込む。ベッドの下に身を潜めて、桔梗がやってくるのを待った。
やがて、扉が開く音がした。足音が十分に近づいてきたのを確認して、私は勢いよく飛び出した。
勢い余った私は、桔梗の足に思い切りぶつかった。私は桔梗に抱きついて、逃げられないようにした。完全に捕まえた。あの高飛車女に一矢報いたと思うと嬉しかった。もう絶対離さない!
私は抱きついた相手を見上げる。
見上げる……?
なぜ、見上げた?
桔梗は私と同じくらいの背だったのに。
そもそも。
どうやって、足にぶつかった?
瞬間、視界に火花が散った。
脳裏に押し付けられる強烈な刺激。
触れられてはいけないところを舐められ、愛撫され、咀嚼される快感。
穴という穴から体液が漏れ出す、背徳と無様。
脳が発するでたらめな電気信号に、悦び、打ち震える手足。
次の瞬間には、私は桔梗を押し倒していた。
いつの間にか、廊下に出ていた。床を突く私の両手の間に桔梗の顔があった。大きな目が私を見つめていた。なだらかな肩が作る曲線に目がいった。ノースリーブのワンピースから覗く脇や首筋。スカートがお腹までめくれていて、リボンのついたパンツが見えてしまっている。そこから傷一つない綺麗な足が伸びていた。
どうしてか、私は彼女に釘付けになっていた。訝しそうに彼女が私を見ていたのはわかっていたが、夢中になってしまっていた。
ゆっくりと顔を彼女の首元に埋めた。赤く焼けた肌に遠慮がちに口をつけた。じゃりじゃりとした感触。外で遊んでいたときに張り付いた砂が口の中に広がった。汗のしょっぱさがじわじわと舌に染みていく。噛みはしなかった。突如としてわき上がった欲求が何なのか、まだ自分にもわかっていなかったからだ。だから、どうしていいかわからず、口に含んだ肉を懸命に舐めまわしていた。
くすぐったいよと彼女は笑い、私の後頭部を掴むと
自分の肌に押し付けた。
そうだ。
押し付けたのだ。
自分から、肉を私の口に当てがったのだ。
「もっと……していいんだよ」
その煽り言葉で、逆に私は自分を取り戻し、桔梗から飛びのいた。
それは、とてもいけないことで、破滅的なことだとわかっていたから。私が私でなくなってしまうような、不吉なことだと直感していた。
桔梗は物足りないという目で私を見上げていた。そんな弱弱しい桔梗は見たことがなかった。
私はもう帰りたかった。お母さんたちのところに戻りたかった。けれど、桔梗は私が隠れていた部屋に私を連れ込んだ。彼女はまだこの屋敷にいたかったのだ。ここならば、「してはいけないこと」をしても咎められないから。私にそれをさせたかったから。
私たちは長い時間、ベッドの上で隣り合って座っていた。桔梗は何度も私の手を取り、自分の体を触れさせた。腕に、顔に、足に、お腹に……。時には自分の指を、私の口の中に突っ込んできたりもして、触れ合うたび、例の欲求がわき上がりそうになって大変だった。桔梗がクラスの男の子たちに人気がある理由がわかった気がした。敵意のない桔梗は、この上なく綺麗で、かわいくて、魅力的だった。私に意地悪する桔梗は、何故かもういなかった。それがわかると、私の方もそんなに桔梗のことは嫌いじゃなかった気がしてきた。桔梗の笑顔の種類が明らかに変わっていた。少女漫画の主人公のように、うっとりとした目。気恥ずかしくて見れなかったから、代わりに部屋の電燈とか箪笥とかを眺めていた。だから、九年経っても調度品のことはよく覚えていたのだ。
やがて、私たちは、互いに互いを変に意識して、なんだか恥ずかしいような気まずいような空気で屋敷を後にした。
それが私の初体験。
生まれて初めて、東雲あんずが幼馴染の榊葉桔梗を食べたいと思った最初の記憶だ。
そうだった。どうして今まで忘れていたのだろう。この山は、私の奥底の記憶を呼び起こす。
あの時桔梗は、私の食人欲求に嫌悪感は示していなかったし、何より私は……。
アイツが大嫌いだった。
朝露に濡れる一輪の花を見つけた。
桔梗が好きだと言っていた青い花だった。説明を聞き流していたから名前は覚えていない。
九年前は、山のあちこちに自生していた気がしたが、時間が流れてずいぶんと数を減らしてしまったようだ。丸一日山狩りをしていたのに、見かけたのはこの一輪だけである。まるで緑のキャンパスに垂らした青い絵の具のよう。
そうだ、桔梗に供えるのはこの花にしよう。
一輪しか生えていない花を手折るのは忍びなかった。なので、心の中で謝りながら、できるだけ優しく摘み取って、リュックに入れた。
キジバトの声が聞こえる。白い木漏れ日は疲れた網膜によく染みた。
疲れているから、難しいことは考えられない。かつて私が桔梗のことを嫌いだったことについても、今は考えられない。それを深く考えるのは危険だ。
私は桔梗が好きだから。
夕刻、一度山から下りた。買いだめていた飲料が底を尽いたからだ。食べ物はなくても気合で動けそうだったが、水分不足で手が軽く痺れだしたとき、脱水症状だけは誤魔化しようがないと悟った。
私の足は、九年前に桔梗に手を引かれた道へ向かった。あの駄菓子屋に行ってコーラドリンクを買い、ついでにしわくちゃのおばあちゃんから神隠しの話を聞こう。あの夏を辿れば、夕染めの館に辿り着けるかもしれない。
けれど、駄菓子屋の前で……いや、駄菓子屋がかつて在った場所で私は立ち尽くすことになった。
九年の歳月を経て、駄菓子屋は潰れていた。
出入り口は無機質なシャッターで閉ざされている。くすんだ青色のトタン屋根。あちこち剥がれてボロボロになった外壁。庇は薄汚れ、外に置きっぱなしの業務用の冷蔵庫には赤さびのようなものがこびりついてた。冷蔵庫をガラス越しに中を覗き込んでもコーラドリンクはなく、よくわからない木箱やら雑多なものが詰め込まれているだけだった。
なんだか、神隠しに遭ったのは私の方に思えた。
私だけが、あの夏から攫われて、消えてしまったような感覚。
「どうして、山に向かうの?」
声がする。幼い女の子の声。
振り向けば、ワンピースを着た女の子が立っている。
擦り傷だらけの肌を、泥に汚れたワンピースから晒し、胡散臭そうに私を見ている。
少女の姿は陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。
見覚えのある顔と体。
それは、遠い日の私だった。
あまりの暑さに、幻覚でも見ているのだろうか。意識が朦朧としてきている自覚もある。そのためか、さほど驚きはしなかった。
「どうして、山に向かうの?」
少女、否、私は繰り返す。
私は私に答える。
「桔梗がね、鬼に捕まっているの。このままだと食べられてしまうから。その前に助け……いいえ、ちゃんと埋葬してあげるの。お花を供える人が誰もいなかったからかわいそうでしょ?」
「どうして、山に向かうの?」
「だから、桔梗が危ないからよ」
「どうして、山に向かうの?」
「桔梗が好きだからよ」
「どうして、山に向かうの?」
「どうしてって、あなたも桔梗が好きでしょ」
「どうして、山に向かうの?」
「好きな人を助けてあげたいでしょ」
「どうして、山に向かうの?」
「鬼が出るのに、どうしてということ?」
「どうして、山に向かうの?」
「鬼が出るとしても行かなくちゃいけないの」
「どうして、山に向かうの?」
「桔梗のことが大事だからよ」
「どうして、山に向かうの?」
「桔梗に好きだって伝えたいからよ」
「どうして、山に向かうの?」
「桔梗の死体を食べずに埋めるためよ」
「どうして、山に向かうの?」
「食べずに埋められれば、証明できるでしょ」
「どうして、山に向かうの?」
「私の気持ちは、本物だって」
「どうして、山に向かうの?」
「鬼も夜闇も怖くない」
「どうして山に向かうの?」
「桔梗の為なら死ねるもの」
「嘘ばっかり」
途端、あの日の私は消えた。
残ったのはうだるような暑さと、混濁する頭。
――嘘ばっかり。
少女の最後の言葉の意味は分からない。けれど、言葉にできないような圧があった。まるで、私の全てを一刀のもとに斬り伏せてしまうような……。
馬鹿なことを考えるな。
アレは幻覚だ。夏の暑さが見せた蜃気楼だ。
急いで水分補給をしないと。
幸いなことに、駄菓子屋からほど近い場所に自動販売機を見つけることができた。
これでまた山に向かえる。
また夜が来た。
むやみやたらな山狩りは、相変わらず成果が上がらない。
もうこの山を何周したかもわからない。やはりあの屋敷はまともな場所ではないのだ。私たちが住んでいる場所からはズレた位相空間。あの木々のアーチはさながら不思議の国へつながる穴だったのだろう。
なんであれ、私が辿り着くことはないと思われる。
同じところをぐるぐると回り、昨日眠った石まで来た。歩きづくめの足が悲鳴を上げている。
……少し、疲れた。
私は石に腰を下ろし、バッテリーにつながった携帯電話を取り出した。もうすぐ日付が変わる。この二日間、桔梗からのメッセージは日付の変わり目に来ていた。三日目、最終日だって同じだろう。私は捨て鉢になって、桔梗からのメッセージを待つことにした。
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