いつか遠くへ

こいちろう

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 街灯の明りが灯り始めると、駅前の人出は次第に増えてきて、いつの間にか人の流れの中に二人の姿も埋没するようになった。やがて夜の帳に包まれると、灯火に浮かび上がる笹飾りが幻想的な世界を醸し出す。
 七夕祭りの駅筋を過ぎて少し先に街並み保存地区がある。数年前に保存地区に指定されたということで、まだ観光向けの手が入っていないが、江戸情緒を感じさせる静かな通りだった。目立った案内板もなければ人通りも全くない。ぼんやりと赤い街灯に照らされた中二階の虫籠窓が並んでいる。此方は人通りが殆どない。
 肩をくっつけるように通りを歩きながら、とめどもない話をした。利也くんのこと、会社のこと、分かれた旦那のこと、私の家族のこと、病気の父親のこと、そしてまた利也くんのこと。彼女は、自分の思いを素直に話してくれた。随分と長く話をした。
 そして、彼女の言葉が急に止まった。

 暫く言葉がなくなった。何かを考えているようだった。
「そうだわね」
やがてポツンとそう言った。
「やっぱり利也を置いて東京にはいけないよね。これからの暮らしのことはなんとかしなくちゃいけないけど…。私、やっぱりここで頑張る。利也のそばでいつも笑っていたいもの」
「そうか、利也くんにとってはそれがいい。かけがえのないママだものな。やっぱりそばにいてあげるのが一番だ。なに、世間の噂なんて一時のものさ。君と利也くんのことを心配してくれている人も結構居るみたいだしさ。『女性は弱し、されど母は強し』と言うじゃないか。君の場合は、『女性は強し、そして母になってさらに強し』だけどな。でもね、人間って時には弱さを見せることが必要だぜ。一人でしょい込んじゃ駄目だよ。君は決して一人じゃない。困ったときはいつでもSOSを出していいんだ。俺に連絡をしてくればいいんだ。溜まった不満の捌け口はいくらでも引受けようじゃないか。いつでも飛んでくるから」
「まあ、無理なことを言ってくれるわね。あなたのように忙しい人が、そんなこと出来っこないわよ。でも、そういう風に言ってくれるのって嬉しいわ」
何時にないしんみりした口調で彼女は話した。
「ありがとう。でも私、もう弱音を言わないわ。愚痴を言ったら余計に落ち込むだけよ。だいじょうぶ、私には利也がいるんだから」
「そうさ。利也くんのためにも頑張んなきゃ。君の場合、その頑張り過ぎる性格が大問題なんだけどな。昔からそうだったけれど、何でも自分で解決しようとするその性格、それが問題なんだ。苦しいときには、誰だって弱音も言いたくなるものさ。繰り返して言うけれど、弱さを見せることも必要。SOSを出して周りに助けてもらうことも必要。我慢することはない。我慢せず、周りの人に思いっきり愚痴を吐き出していいんだよ。一人っきり、部屋の隅でボソッと小さく愚痴ってなんになるんだ。大声で愚痴ってみろよ。俺は構わない。会社だって家だっていい。電話してくれ。いくらだって聞く。何なりと連絡してくれていいんだからね」
「そうね、あなたの言う通りよね。今日は来てくれて本当に嬉しかったわ。本当にありがとう。おかげでこれまでの溜まってた不満をすっかり吐き出せた。色んな悩みを聞いてもらってとてもすっきりしたわ」
数百メートルの古い街筋を何度繰り返して往復しただろう。
 何度目かにさしかかったとき、真維子は急に歩を止めた。
「実はね、さっき貴方が利也のバギーを押す姿を後ろからみていたでしょ。貴方の話しかける声と利也の声と。それはそれは嬉しそうな声だったの。その時、私考えたのよ。やっぱり父親って必要よね。米田と私とはこれから先もまず溝が埋まらないと思うわ。でも、利也にとってみれば父親なのよね。米田は掛け替えのない身内なのよね」
 そうだ!君だけで背負い込んで良い問題じゃないんだ。利也君のお父さんと、利也君のお母さんと、両方が一緒になって利也君のことを考えなくては。そう言いたかったのだが、私が言わずともそのことを彼女自身が見出したようだった。
「父親と子供の時間も大切にしてあげなくちゃね。親権がどっちだってことなんて、親の勝手な理屈なのよね。利也も成長すればするだけ、ますます父親の存在が必要になってくるわ。米田と会って、もういっぺん子供のことについて話し合ってみようと思うの。あれだけ調停のときに反対しておいて今さら、と思われるでしょうけど、一年に一度だって二年に一度だっていい、利也に会ってやって欲しいって」
「それがいいだろうな。いや、それがいいんだよ。米田さんもきっと分かってくれる。話してみたことはないが、米田さんもお姑さんも、きっと利也くんのことを大切に考えてくれると思う」
「そうかもね…、きっとそうよね」
「そうさ、子供のことを思わない親なんていない。色んな家族があるさ。でも、親子ってどうなっても親子なんだ。親権がどちらかなんて、養育費がどうだなんて、利也くんにはどうだっていい話だ。二人とも親に変わりは無いんだから」
「分ったわ。もう私一人の思いで息子を不幸にはさせない。頑張ってみる。利也のためにも、もっともっと強くならなくちゃ」
「君の、その強くならなくっちゃは気になるけれど、でも、利也君のために前向きにならなきゃ」

 夜行に乗る尾道まで行くのにはそろそろ限界の時間になった。既に七夕祭り会場の人出も少なくなり駅前は薄暗かった。それでも彼女の表情の中に此れまでとは違った強い気持ちを感じ取れた。
「ねえ。もう、これっきりにしましょう。私、頑張れる間は貴方に連絡を取らない。連絡のない間は私も頑張ってるんだと思って安心して」
少しの間真維子は黙って、駅前通りのぼんやりした明かりを見つめていた。
「じゃあ、ここでお別れ!」
突然言った。喫茶店の前だった。
「列車の時間までまだ少しあるけど、私もう帰るわ。此処でさようならよ。だから貴方も頑張って」


 あの時の彼女の強い表情に母親としての覚悟を感じた。
 それからもう随分と時が経った。利也くんのバギーを押して上がったあの丘と、鮮やかな青い色が広がった瀬戸内の海とその甘い潮の香。
 佐々木と話していて、ふとそんなことを思い出した。
「ところで、佐々木君はなぜうちの会社に入ったのかね」
「はい、丁度会社が販路拡張のため、西日本にも店舗を増やし始めた時期でしたし、伯母が昔勤めていた会社だったと聞いていましたので」
「伯母さんがかい?」
思わず身を乗り出した。
 彼に会った時から、ずっと予感めいたものがあったのだ。
「その伯母さんはいつ頃うちに勤めていたんだい。うちの会社のこと、なんて言ってたんだ?」
 思わず力の入った私の言葉に、佐々木は少し困惑した表情になった。
「伯母が勤めていたころは、まだうちの会社が小さくて販路拡大に苦心していたころだったそうです。でも、小さいながら元気な若手社員が沢山いて、とても活気があったみたいです。伯母もその中で働けたことがとても楽しかったように言っておりました。その若い社員たちからの意見を積極的に汲み上げて、業績を伸ばしてきた会社だから遣り甲斐があるって、そう勧められまして…、本部長さんもそのころのお一人だったのでは?」
「そうか、そうだったね。そうそう、あのころは元気の良い若い社員が多かったからな。先代の社長も若い社員の気持ちをしっかり聞いてくれていた。で、その伯母さんは今は何をしているの?」
佐々木から答えが返ってくるとすぐに、次から次へと聞きたいことがいくらでも浮かんできた。
 しかし、肝心なことを聞こうとすると言葉に詰まってしまった。
「伯母はその当時のことが自慢のようで、私が入社することになってからは、自分の挙げた業績を一つひとつ話してくれました。実は、障がいを持つ子供が生まれまして、僕の従兄弟なんですが、そのために会社勤めを断念して故郷に引き上げたのだと聞いています」
 それだ!
 利也くんだ!それを聞きたかったのだ。そうか、利也くんが生まれてから退職したことになっているのか。
 やはり予感は当たっていたのだ。そうなのだ。この三十年ほど、そのことがどれだけ気になっていたことか。
「そうだったんだ。それでその伯母さん、今どうしているんだい?」
「伯母はとても元気ですよ。従兄弟は手先が少し不自由ですけど、頭も良いし、私とは六歳年が離れているのですが、よく遊んでくれたり色々なことを教えてくれたり、とても優しい本当の兄のような人なんです。でも、幼いころは結構大変だったみたいで、トシにいちゃん…、ああ、従兄弟のことを今でもそう呼んでいるんですけれど、伯母は、トシにいちゃんのために故郷で仕事に就くことにしたようです。今でも、この会社に残っていれば色々なことをやってみたかったと言っていますよ。具体的に、あれはこうやってこう変えた方が絶対にいいのに、なんて。本部長さんに聞かれたら、とんでもないなんて叱られるようなことまで言っています。でも本部長さんもそうでしょうが、会社の立ち上げ時期に頑張っていた方には、何時まで経ってもそんな風に会社をこうしたいって思いがあるんでしょうね」
 そうかそうか、トシにいちゃんだ。
 聞きたいことはいくらでもあるぞ。返盃をしながらあふれそうな涙をぐっと堪え、でも次の言葉に詰まってしまった。
 佐々木は、話しているうちに明らかに何かを察した様だった。そのうち、訊ねなくとも彼女の近況について細かく話し始めた。
「今、伯母はトシ兄ちゃんと二人で障がい者用のグループホームや、高齢者向けの在宅ケア事業を立ち上げて、頑張っていますよ。県内の色々な福祉施設と手広く連携しながら、利用者のための事業をエネルギッシュに展開しています。トシにいちゃんは、福祉系の大学で色々な資格を取ったんですが、伯母も息子には負けては居れないと、一緒に福祉の勉強をしたみたいです」
「そうか…、そうだったか」
我慢していた涙が、もう堪えきれない。
「地元の会社が中心になって資金の援助をしてくれたり、土地の提供もしてくれたりして、地域からもたくさんの支援があるようです。とても強い信念を持った立派な伯母で、私は尊敬しています」
「ああ、ああ、そうかそうか、良かった良かった…」
とうとう涙を零しながらため息交じりに呟いた私に、怪訝な顔になった佐々木が問いかけた。
「本部長さんは、伯母とは…」

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