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六年前に郷里で見合いをして嫁いだ先は、この竹野町の隣にある古くからの漁港だ。昔から廻船問屋をやっていた旧家で、今でも海運業を続けている。竹野町の郊外にある彼女の実家も、昔は近在一の大地主で、祖父も父親も市会議員を長い間務めていた。竹野では名家同士の美男美女のカップルとして、評判の婚礼を挙げたのだという。
最初は夫婦の仲も良かったそうだが、子供が出来てから夫婦の気持ちのすれ違いが始まった。臨月を待たずに自宅で破水して生まれてきたのは男の子だった。米田の家では後を継ぐ長男が産まれたと喜ばれ、大切にされた。
産後、真維子は寝付く日が多かった。産婦人科から米田の家に戻っても体調が優れなかったため、しばらくは思うように動けなかったのだ。義母はよく気の付く人で、その間、赤子の世話や嫁の身の回りの世話まで良く面倒をみてくれた。世間的にも出来た姑と評判だったし、真維子自身も大変感謝していた。ところが、三ヶ月が経つころから姑の言葉や態度が妙に余所余所しくなってきた。
利也は乳の吸い付きが弱く、見た目にも他の乳児よりか細い子だった。四ヶ月に入るころ、利也が急に高熱を出して隣町の総合病院に入院した。熱はすぐに治まったのだが、観察のため暫く真維子と一緒に入院することになった。
ある日、子供に乳を含ませながらふとドア越しに夫と姑の会話を聞いてしまった。
「やっぱり利也は何かあるんだよ。四ヶ月になるというのに首にも力が入らない。乳の吸い方も弱いし、泣き方だって全然元気がないしね。手指の動きを見てごらん。あんな生まれ方で何も障がいがないなんてことがあるかね」
ため息をついて義母が言う。
「どちらが悪いという訳ではないんでしょうけどね、あんたたちは血液型が合わないからこんな子が生まれたんだよ。やっぱり相性ってあるんだよ。この先、利也のことが心配だね。利也が不憫で見ていられないよ」
「やっぱりか。障がい児か…。いっそのこと、流産だったら良かったのに」
夫がため息混じりにそう言った。
『こんな子が…』
『流産だったら…』
夫と姑の、その言葉がひとつひとつトゲのように胸に突き刺さった。いつまでも耳から離れなかった。
利也に何か障がいがある…、母親にとっては認め難い言葉だった。
真維子も薄々感じてはいた。しかし、自分の腕に抱いた我が子の和やかな寝姿を見ると、どうしても障がいがあるなどとは認めたくなかった。それを夫と姑が声を潜めて話している。嫁を気遣ってのこととは思うが、先ずは夫婦の間で話し合うべき深刻な問題の筈なのに…。
翌日、普段と変わらぬ表情で見舞いに訪れた夫の顔を見る気にもなれず、口も聞かなかった。東京の商社で男以上に実績を上げた真維子である。外向きには気丈な性格だ。とても我慢ができなかったのだ。
退院後、迎えに来る夫を待たず、真維子は子供を連れて実家に帰ってしまった。嫁ぎ先にはもう暫くは帰る気にならなかった。
夫からは直ぐに電話があった。その時、初めて自分の気持ちを言った。夫と姑の話を聞いてしまったこと、その時自分がどんな気持ちになったか。それを語気激しく伝えた。
『流産だったら良かったのに』
夫からそう言われたことを特に激しくなじった。
「それがどうしても頭から離れない。どうしようもないくらい精神的に参っている」
そのことを伝えた後、夫への感情がどっとこみ上げてきて、口から次々と日頃の鬱憤が吹き出した。
「利也は障がい児なんかじゃない!」
そう言って夫を何度も何度も罵った。
その後暫く、夫からは連絡がなかった。電話もなく迎えに来ることもなかった。夫の方は、そもそも真維子の機嫌を損ねた理由が飲み込めないでいた。一時的な動揺なのだろう。落ち着いた頃合を見て元の鞘に戻ればよい。それくらいに考えていたようである。
真維子の方も、一度飛び出した嫁ぎ先へ戻る気になれなかったものの、此れからをどうするか、はっきりした考えがあった訳ではない。ただ、実家へ帰ったまま別居が長くなってしまうに連れ、義母と夫に顔を合わせ辛くなった。そのうち、子供の障がいが真維子の目にもはっきりと分るようになってきた。そして、米田とはこのまま離婚した方が子供のためにも米田の家のためにも良いのでは、という思いが強くなってきた。
米田の家では、世間体を気にして離婚することには強く反対であった。別居状態が続く中、
「早く嫁と孫を帰して欲しい」
そう、実家とご近所に吹聴していた。
あらぬ噂があちこちで立ち始めたのもその頃だ。東京に居た時分から男が居たとか、その男が時折会いに来ていたとか、赤子はその男に似ていたとか、些細な噂が尾ひれを付けて、世間では面白可笑しく脚色されていった。やがて、夫が他所に女を作った、という風な噂さえ聞こえてきた。そうした噂が、米田の家にも彼女の家にも漏れ聞こえてくるに連れ、次第に両家の関係は冷たくなっていった。
もう随分と実家に戻ったきりの嫁に痺れを切らしたか、米田の方から離婚について話を進めたいと言ってきたのが昨年だ。その後、双方で、子供の親権やら養育費やら、慰謝料を出せとか出さないとかで一悶着があり、離婚の調停も長引いてしまった。
そうした中でこの春先、真維子の父が脳梗塞で倒れ、その介護にも手を取られるようになった。
女将の話で、離婚に到った凡そのことが分った。
「それが三月のこと。まだまだ噂は続いているわ。つまり東京に居た時の噂の男、小林和雄は竹野の町ではちょっとした有名人なのよ」
「えっ!そんなとんでもない話がありますか。私は竹野に来るのは今日が初めてだし、真維ちゃんとはそんな仲になったこともない。そこまで親しい間じゃ…」
そこまで親しくは、と言いかけて途中で止めた。ムキになって言い返すのも妙に思えたのだ。
「アハハ、冗談よ。いくら田舎の人間の噂話がひどいといっても、ただ、東京で付き合っていた人がいるといった程度の話よ。あなたの顔も名前も知っている人なんて一人もいないわよ」
確かに彼女とは何もなかったのだ。何もなかったに違いはないが、彼女に淡い思いを抱いていたことは確かだ。彼女の方も自分に対して同じような気持ちであったということは間違いない。
彼女とは同期入社になる。大学も同じであるが、学部が違ったため面識はなかった。しかし、同じ大学の出身ということで、新人研修の時から親しくなった。最初から馬があったというか、何でも相談できたし、新米の社会人として互いの失敗を励まし合う良き同輩であった。当時はまだ東京の郊外をエリアに店舗を展開する中規模の会社だったが、彼女の緻密なサポートは、我が社の企画室にはなくてはならない存在となった。
企画室で徹夜して一緒に企画書を練ったこともある。時には言い合いになり、このじゃじゃ馬が、とむかついたことも度々だった。企画室全員の前で彼女に罵倒されたことだってある。しばしば、夜遅く帰宅する彼女のアパート近くまで送っていったこともあった。しかし、断じて部屋に上がったことなどないし、上がれと言われたこともない。
自分の作った企画書が受け入れて貰えず、もう辞めて田舎に帰ろうかというくらいしょげかえっている時、優しくなだめ励ましてくれるのも彼女の役目だった。つまり、彼女と私は互いが企業人として一人前になるための、よきパートナーだったのだ。
女性として意識はしていなかったか、と言われれば確かに意識はしていた…、のだと思う。彼女は長身のすらりとした美人だし、普段の細やかな気配りには社内の誰もが癒された。度々食事に行ったり酒を飲みにも行った。互いの古里自慢だったり、異性の趣味だったりの他愛のない話もよくした。互いに快く思わなかった訳はない。好きだとはどちらからも言わなかったが、好意は感じていた。
しかし、あのままずっと一緒にいたからといって、彼女と結婚していたかといえば、たぶん違っていただろう。落ち着いた家庭生活を望むには少し気が強すぎた。彼女は会社の同志だ。よきパートナーであると同時に、よきライバルであり、それ以外の存在とはなり得なかったのだ。
ただ、彼女が故郷に帰って結婚するといった時は、途端にお先真っ暗のような気持ちになった。暫くは気持ちが萎えて、ああ、俺は失恋したのかと沈み込んだ時期もあった。
人生とはよくしたもので、彼女が退社して程なく、私も今の連れ合いと知り合い、結婚した。やがて子供も授かり、人並みに幸せな生活を送っている。
彼女の方も、この度の葉書を読むまでは、てっきり幸せな結婚生活を送っているものと思っていたのだ。
暫くして真維子が戻ってきた。
「おばさん、今朝また利也が喘息を起こしたらしいわ。病院から電話があってね、それは治まったらしいのだけど、相変わらずご機嫌斜めらしいのよ。私、ちょっと病院を覗いてくるわね。和雄さん、あなた一緒に行かない?」
私が病院に付いていくのも可笑しいだろうと思ったが、断ったとして一人残されてやることもないし、結局同行した。
真維子の車で竹野の町を離れ、十分くらい走っただろうか。周りを海に囲まれた半島の小高い丘に、療養型の総合病院があった。その奥まった一角に小児病棟がある。丁度昼時で、看護師が子供たちに食事を食べさせている最中であった。
真維子は、ベッドから利也くんを抱えて、プレイルームに連れてきた。そして、壁に背をもたれ掛かるように腰を落とし、仰向けに寝かせた利也くんの頭を自分の膝の上に乗せた。それから、看護師から受け取った食事のトレイを横において、優しく声をかけながら一匙ずつお粥をすくって食べさせた。利也くんは麻痺のある両手を小さく振って、母親が口に運ぶ食事をいかにも嬉しそうに食べた。
「脳性麻痺の子は飲み込みが難しくてね。誤嚥することもあるから、食事の世話が一番大変なの。でも、利也は上手に食べるのよね」
私は返答に困った。脳性麻痺の子供を見るのは初めてだった。私には余りにも痛々しく感じられた。
利也くんは私の方を見て恥かしそうに笑った。度々喘息を起し、その度に入退院を繰り返しているという。今日で一週間になるということで、母親に甘えたいのだろう。食べる途中おしゃべりが始まったり、周りに気を取られたりして口が開かなくなったりする。
「あらあら、よそ見してるとご飯がこぼれちゃうでしょ」
私の存在に気が散ってしまっているのだ。怪訝そうな顔をして度々此方に目を向ける利也くんに、ぎこちない笑い顔を返すだけで一言も声をかけることが出来なかった。
「そりゃあ、今日はパパとママが一緒だもの、嬉しいのよね」
隣で別の子供に食事を与えている看護師が言った。真維子は敢えて否定しなかった。
「だといいんですけどねえ。あなた、少しやってみない?」
否も応もなく私は傍に座らされ、利也くんの頭を膝の上に載せられた。仰向けの利也君と顔を見合わせる格好だ。
突然のご対面に、私もだがそれ以上に利也君は面食らったのだろう。母親から離され、見も知らぬ人の膝に頭を乗せられたのだ。手足を酷く強張らせ、不安な顔をして私とママを見比べた。ぎこちない右手を一生懸命伸ばして、しきりに母親の服を掴もうとするのだが、全身が反り返ってしまい、思うように母親の方に動くことができない。
「ママ、この人だれ?」
頭を母親の方にのけぞらせ、しかし、はっきりとした口調で言った。
「このおじちゃんはね、ママの大切な大切なお友達」
「大切なおともだち?そうかあ」
利也くんは少し安心した表情になり、身体の緊張も徐々に緩んできた。
「よしっ、利也くん。お友達のおじちゃんと一緒にご飯を食べようか」
私はミンチ食のおかずを一匙すくって口元に持っていった。指先に力が入りすぎてスプーンがぶるぶる震えた。しかし、利也くんは上手く匙元に口を持ってきて器用に吸い込んだ。
「あら、上手じゃない」
私が上手なのではない。利也くんが上手いのだ。
「いいコンビかもね」
とは言うもののあまりのぎこちなさに、母親もいささか心配だったのか、すぐに交替させられた。
「利也くん良かったね。今日はパパと一緒だね」
小さな子たちの介助をやり終えた若い看護師が言う。
「うん。おいしいよ」
「だから、パパじゃないのって。利也に余計なことを刷り込まないでくださいよ」
真維子は苦笑を浮かべ看護師を嗜める。
「そうだよ。この人は大切な大切なおともだちのおじちゃん」
「そうかそうか。悪かったね、あんまり利也くんが嬉しそうだったものだから、私間違えちゃった。ママは利也君だけのママだものね」
利也くんはママに甘えながらも、すこぶる機嫌よく昼食を完食した。
「今日は食欲もばっちりだわ。いつもこの調子なら、ママも嬉しいのにな。さてと、ママはこれからおじさんとちょっとお出かけしてくるわ。来週には退院しておうちにもどるんだから、早く元気になって頂戴ね」
「いやだいやだ。ママ、もう少しだけ」
利也くんは両足をばたつかせながら激しく泣きじゃくる。
「俺ならいいから、暫く此処にいてあげようよ」
「仕方ないなあ。この甘えんぼめ!」
利也君は、ママの膝に両手でしがみ付き、顔を擦りつけながらエヘヘと笑った。
「じゃあ、三人で病院の周りをお散歩しようか」
「うん。おさんぽ、おさんぽ」
真維子は看護師に頼んで子供用のバギーを借りてきた。
「よし、じゃあおじちゃんが乗せてあげようね」
「あら、大丈夫かしら。結構難しいのよ」
両手で恐る恐る利也君を抱き起こす。ぎこちない抱き方に、利也君もひどく緊張して全身が反り返ってしまい、かかえるのにも苦労した。ところが、
「あら良かったわね、おじちゃんに抱っこしてもらって」
とママの一声。それだけで利也君の体から強ばりがすっと取れ、バギーになんとか座らせることができた。利也君も緊張しただろうが、此方も恐る恐るの介助だ。全身が緊張して、それから数日は体中が痛かった。
「この子達のお世話って結構大変でしょ。看護師さんは一人で何人もの子供たちをお世話しているのよ」
「いやあ、食事といい、こんな風に抱えたり降ろしたりを毎日繰り返してたら、本当に腰を痛めてしまいそうだ」
「おじちゃんいたかったの?ごめんね」
「いやいや、利也君を抱っこできたことがおじさんうれしかったんだよ。ここの所運動不足だったからな。よしっ、バギーでママを追っかけてしっかりお散歩するぞ、出発だ!」
「うん。しゅっぱつ、しゅっぱつう!」
病院の裏手に手入れの行き届いた芝山がある。高台までは数十メートル程度の緩やかなのぼり道だが、バギーを押すのもコツがあるらしく、坂道に敷かれた砂利の上はなかなか思うように進まない。しばらく悪戦苦闘した。そのうち、前輪を少し浮かし加減にして後輪を動かせば何とか前に進むということが分り、かなり苦戦しながらも登りきった。その間、利也くんは両手を広げて大はしゃぎだった。
高台には屋根つきのベンチがあり、周りの視界が開けて最高の見晴らしだ。街なかとは違い、爽やかな微風が汗ばんだ身体に心地良かった。何処までも続く瀬戸内海だ。無数の島々がその青い海の中をまるで泳いでいるように見えた。
「いいところだなあ。丁度良い風も吹いて、この暑さを忘れちまいそうだ」
「本当!陰に入るとひんやりして気持ちいいわね。利也、さっきはおじちゃんに押してもらって嬉しそうだったね」
「うん。おじちゃん車椅子の押し方が上手だよ。だから好き!」
「そうか、そうか。おじちゃんも利也君が大好きだ。見てごらん。あそこに太平洋が見えてるぞ!」
「えっ!どこどこ?やだなあ、ここから見える海は全部瀬戸内海でしょ!」
「利也は物知りなんだから騙されないわよね」
「そうか、あれは瀬戸内海か。利也くんはよく知ってるんだなあ。利也くんが元気になったら、三人で一緒に本当の太平洋を見に行こうか?」
「うん。いくいく!」
「いいのかなあ、そんな約束して?利也は結構覚えているわよ!」
高台でしばらく過ごして、
「あまり風に当たってると、身体が冷えちゃうから、そろそろ帰りましょう」
母親がそう言うと、利也くんは少しぐずった。
「いやだいやだ、病院の中はいやだ。ここがいい。ここにずっといる」
「でもね、そろそろ入浴時間になっちゃうよ。早く良くなって、退院したらまたおじいちゃんの家に帰ろうね」
そう母親に諭されると渋々従った。
帰りも私がバギーを押して、ゆっくり坂を下りた。バギーの介助は下り坂の方が難しいということだったが、利也くんが前のめりにならないように気をつけながら、登りより楽に介助することが出来た。
坂道を降りながら利也くんと色々なことを話した。四歳にしては言葉をよく知っている。知識も豊富だった。
「利也くんは大きくなったら何になるのかな?」
「ぼく、お医者さんになるよ。ママが病気になったら助けてあげるの」
「そうか。ママきっと喜ぶよ。君が白馬の王子様なのかもしれないね」
「はくばのおうじさま?」
「そうだよ。ママの大切な王子様。ママをいつも見守って助けてあげるんだ。そのためには君が元気で強い人にならなくてはね」
病棟に隣接して入院児童のための学校がある。病室の前に立てかけられた大きな竹ざおに沢山の短冊が吊るされ、微風に揺れていた。金銀の色紙が光を反射させて賑やかに踊っている。
「後ろから見てると本当のパパみたいよ。私ちょっとジェラシーを感じたわ」
「おじちゃんとママ、オリヒメさまとヒコボシさま」
「そうか、じゃあ、おじさんまた来年ママに会いにこなくちゃね」
「うん。やくそく!太平洋も見に行こうね」
「ようし、約束だ。その代わり、利也くんも早く元気にならなくちゃね」
利也くんはママにバギーを押されて入浴にいった。迎えに出た年配の看護師が、
「あんなに嬉しそうな利也君は初めてだわね」
と言った。そしてこちらを向いて
「やはり、パパのおかげかな」
「いえ、私はパパではなくて…」
「分っていますよ、それくらい」
彼女は明るく笑ってから、
「利也くんのママってよく頑張る人なんですよ。利也くんのことになると一生懸命な気持ちがよく分るの。でもね、ママがいくら頑張ってみても、二役は出来ないのよね。いつか息切れしないかと、それが心配なんです。いろいろご事情はあるようだけれど、利也君のためには二親がそろっているのが一番。なんとかならないのかしらね」
と私のことを身内と思ったのか、そう言った。
「あら師長さん。今朝は利也が大変お世話をおかけいたしました」
利也くんの入浴準備を済ませて真維子が戻ってきた。
「今日は利也くん、喜んでお風呂に入ったでしょ!今朝方は随分とぐずっていたけれど。やっぱり利也くんにはママの明るい笑顔が一番の薬なのよね」
師長さんの言葉に、私だけでなく真維子もハッとしたのではなかろうか。
小児病棟の向かいに老人病棟がある。この春先に脳梗塞で倒れた父親がお世話になっているという。病状は安定しているが、リハビリ中なのだそうだ。
「少しだけ顔を見せてくるから、あなた入口の面会室で据わってて」
そう言って真維子は病室に入っていった。
面会室はリビングルームになっているようで、日曜日ともあって患者さんを見舞う縁戚の来訪者が数組いた。
「大尉どの、大尉どの」
突然大きな声がした。それが自分に向けられた呼びかけだと気がついて後ろを振り向いた。
直ぐ後ろに真維子が車椅子を押して、父親と思われる老人が座っていた。
「父さん、この人は私の昔の同僚よ。東京からわざわざいらしたの」
「これはこれは、ご無礼いたしました。娘が大層お世話になっております。大尉どのにはわざわざ私共の見舞いにお越し頂き恐悦至極にございます」
「また話があっちの世界に行ったり、こっちの世界に戻ったり、ほんとうに忙しいこと」
真維子が目配せをする。
「父さん、じゃあ私、帰るからね」
「ああご苦労さん。利也はだいじょうぶだったか」
「だいじょうぶ、だから安心して」
「大尉どの、この度のことは真に残念至極。惜別は断腸の思いであります」
「またそっちにもどったか」
真維子はトイレの介助に入ってから、再び父親を病室に戻した。
帰りの車の中で真維子はしんみり話した。
「元気なときは、戦争の話なんか一つもしなかったのよ。入院してからここの所、いつもあんな様子なの。今、戦争に行っていた時代と現在の世界とを行ったり来たりしているんだわ」
「うちの両親もそうだけど、あの世代の人たちは、悲惨な想いをいつもどこかで引きずってるんだろうな」
「大尉どのって、父と一緒にシベリアに抑留された方らしいの。同県人だから可愛がって頂いたらしいんだけど、抑留中に餓死されて、一緒に日本に帰って来れなかった。それを父は気にしているみたい。父がご遺骨を大尉さんのご実家に届けたらしいんだけど」
「うちの社長もシベリア帰りらしいぜ。やっぱり、自分からは戦争に行った話は全然しないけれど」
「そうだったの、それは知らなかった。年配的にそうよね。本当の心の痛みって、外に出せるようなものじゃないのよね」
真維子は暫く黙ったままでいた。
最初は夫婦の仲も良かったそうだが、子供が出来てから夫婦の気持ちのすれ違いが始まった。臨月を待たずに自宅で破水して生まれてきたのは男の子だった。米田の家では後を継ぐ長男が産まれたと喜ばれ、大切にされた。
産後、真維子は寝付く日が多かった。産婦人科から米田の家に戻っても体調が優れなかったため、しばらくは思うように動けなかったのだ。義母はよく気の付く人で、その間、赤子の世話や嫁の身の回りの世話まで良く面倒をみてくれた。世間的にも出来た姑と評判だったし、真維子自身も大変感謝していた。ところが、三ヶ月が経つころから姑の言葉や態度が妙に余所余所しくなってきた。
利也は乳の吸い付きが弱く、見た目にも他の乳児よりか細い子だった。四ヶ月に入るころ、利也が急に高熱を出して隣町の総合病院に入院した。熱はすぐに治まったのだが、観察のため暫く真維子と一緒に入院することになった。
ある日、子供に乳を含ませながらふとドア越しに夫と姑の会話を聞いてしまった。
「やっぱり利也は何かあるんだよ。四ヶ月になるというのに首にも力が入らない。乳の吸い方も弱いし、泣き方だって全然元気がないしね。手指の動きを見てごらん。あんな生まれ方で何も障がいがないなんてことがあるかね」
ため息をついて義母が言う。
「どちらが悪いという訳ではないんでしょうけどね、あんたたちは血液型が合わないからこんな子が生まれたんだよ。やっぱり相性ってあるんだよ。この先、利也のことが心配だね。利也が不憫で見ていられないよ」
「やっぱりか。障がい児か…。いっそのこと、流産だったら良かったのに」
夫がため息混じりにそう言った。
『こんな子が…』
『流産だったら…』
夫と姑の、その言葉がひとつひとつトゲのように胸に突き刺さった。いつまでも耳から離れなかった。
利也に何か障がいがある…、母親にとっては認め難い言葉だった。
真維子も薄々感じてはいた。しかし、自分の腕に抱いた我が子の和やかな寝姿を見ると、どうしても障がいがあるなどとは認めたくなかった。それを夫と姑が声を潜めて話している。嫁を気遣ってのこととは思うが、先ずは夫婦の間で話し合うべき深刻な問題の筈なのに…。
翌日、普段と変わらぬ表情で見舞いに訪れた夫の顔を見る気にもなれず、口も聞かなかった。東京の商社で男以上に実績を上げた真維子である。外向きには気丈な性格だ。とても我慢ができなかったのだ。
退院後、迎えに来る夫を待たず、真維子は子供を連れて実家に帰ってしまった。嫁ぎ先にはもう暫くは帰る気にならなかった。
夫からは直ぐに電話があった。その時、初めて自分の気持ちを言った。夫と姑の話を聞いてしまったこと、その時自分がどんな気持ちになったか。それを語気激しく伝えた。
『流産だったら良かったのに』
夫からそう言われたことを特に激しくなじった。
「それがどうしても頭から離れない。どうしようもないくらい精神的に参っている」
そのことを伝えた後、夫への感情がどっとこみ上げてきて、口から次々と日頃の鬱憤が吹き出した。
「利也は障がい児なんかじゃない!」
そう言って夫を何度も何度も罵った。
その後暫く、夫からは連絡がなかった。電話もなく迎えに来ることもなかった。夫の方は、そもそも真維子の機嫌を損ねた理由が飲み込めないでいた。一時的な動揺なのだろう。落ち着いた頃合を見て元の鞘に戻ればよい。それくらいに考えていたようである。
真維子の方も、一度飛び出した嫁ぎ先へ戻る気になれなかったものの、此れからをどうするか、はっきりした考えがあった訳ではない。ただ、実家へ帰ったまま別居が長くなってしまうに連れ、義母と夫に顔を合わせ辛くなった。そのうち、子供の障がいが真維子の目にもはっきりと分るようになってきた。そして、米田とはこのまま離婚した方が子供のためにも米田の家のためにも良いのでは、という思いが強くなってきた。
米田の家では、世間体を気にして離婚することには強く反対であった。別居状態が続く中、
「早く嫁と孫を帰して欲しい」
そう、実家とご近所に吹聴していた。
あらぬ噂があちこちで立ち始めたのもその頃だ。東京に居た時分から男が居たとか、その男が時折会いに来ていたとか、赤子はその男に似ていたとか、些細な噂が尾ひれを付けて、世間では面白可笑しく脚色されていった。やがて、夫が他所に女を作った、という風な噂さえ聞こえてきた。そうした噂が、米田の家にも彼女の家にも漏れ聞こえてくるに連れ、次第に両家の関係は冷たくなっていった。
もう随分と実家に戻ったきりの嫁に痺れを切らしたか、米田の方から離婚について話を進めたいと言ってきたのが昨年だ。その後、双方で、子供の親権やら養育費やら、慰謝料を出せとか出さないとかで一悶着があり、離婚の調停も長引いてしまった。
そうした中でこの春先、真維子の父が脳梗塞で倒れ、その介護にも手を取られるようになった。
女将の話で、離婚に到った凡そのことが分った。
「それが三月のこと。まだまだ噂は続いているわ。つまり東京に居た時の噂の男、小林和雄は竹野の町ではちょっとした有名人なのよ」
「えっ!そんなとんでもない話がありますか。私は竹野に来るのは今日が初めてだし、真維ちゃんとはそんな仲になったこともない。そこまで親しい間じゃ…」
そこまで親しくは、と言いかけて途中で止めた。ムキになって言い返すのも妙に思えたのだ。
「アハハ、冗談よ。いくら田舎の人間の噂話がひどいといっても、ただ、東京で付き合っていた人がいるといった程度の話よ。あなたの顔も名前も知っている人なんて一人もいないわよ」
確かに彼女とは何もなかったのだ。何もなかったに違いはないが、彼女に淡い思いを抱いていたことは確かだ。彼女の方も自分に対して同じような気持ちであったということは間違いない。
彼女とは同期入社になる。大学も同じであるが、学部が違ったため面識はなかった。しかし、同じ大学の出身ということで、新人研修の時から親しくなった。最初から馬があったというか、何でも相談できたし、新米の社会人として互いの失敗を励まし合う良き同輩であった。当時はまだ東京の郊外をエリアに店舗を展開する中規模の会社だったが、彼女の緻密なサポートは、我が社の企画室にはなくてはならない存在となった。
企画室で徹夜して一緒に企画書を練ったこともある。時には言い合いになり、このじゃじゃ馬が、とむかついたことも度々だった。企画室全員の前で彼女に罵倒されたことだってある。しばしば、夜遅く帰宅する彼女のアパート近くまで送っていったこともあった。しかし、断じて部屋に上がったことなどないし、上がれと言われたこともない。
自分の作った企画書が受け入れて貰えず、もう辞めて田舎に帰ろうかというくらいしょげかえっている時、優しくなだめ励ましてくれるのも彼女の役目だった。つまり、彼女と私は互いが企業人として一人前になるための、よきパートナーだったのだ。
女性として意識はしていなかったか、と言われれば確かに意識はしていた…、のだと思う。彼女は長身のすらりとした美人だし、普段の細やかな気配りには社内の誰もが癒された。度々食事に行ったり酒を飲みにも行った。互いの古里自慢だったり、異性の趣味だったりの他愛のない話もよくした。互いに快く思わなかった訳はない。好きだとはどちらからも言わなかったが、好意は感じていた。
しかし、あのままずっと一緒にいたからといって、彼女と結婚していたかといえば、たぶん違っていただろう。落ち着いた家庭生活を望むには少し気が強すぎた。彼女は会社の同志だ。よきパートナーであると同時に、よきライバルであり、それ以外の存在とはなり得なかったのだ。
ただ、彼女が故郷に帰って結婚するといった時は、途端にお先真っ暗のような気持ちになった。暫くは気持ちが萎えて、ああ、俺は失恋したのかと沈み込んだ時期もあった。
人生とはよくしたもので、彼女が退社して程なく、私も今の連れ合いと知り合い、結婚した。やがて子供も授かり、人並みに幸せな生活を送っている。
彼女の方も、この度の葉書を読むまでは、てっきり幸せな結婚生活を送っているものと思っていたのだ。
暫くして真維子が戻ってきた。
「おばさん、今朝また利也が喘息を起こしたらしいわ。病院から電話があってね、それは治まったらしいのだけど、相変わらずご機嫌斜めらしいのよ。私、ちょっと病院を覗いてくるわね。和雄さん、あなた一緒に行かない?」
私が病院に付いていくのも可笑しいだろうと思ったが、断ったとして一人残されてやることもないし、結局同行した。
真維子の車で竹野の町を離れ、十分くらい走っただろうか。周りを海に囲まれた半島の小高い丘に、療養型の総合病院があった。その奥まった一角に小児病棟がある。丁度昼時で、看護師が子供たちに食事を食べさせている最中であった。
真維子は、ベッドから利也くんを抱えて、プレイルームに連れてきた。そして、壁に背をもたれ掛かるように腰を落とし、仰向けに寝かせた利也くんの頭を自分の膝の上に乗せた。それから、看護師から受け取った食事のトレイを横において、優しく声をかけながら一匙ずつお粥をすくって食べさせた。利也くんは麻痺のある両手を小さく振って、母親が口に運ぶ食事をいかにも嬉しそうに食べた。
「脳性麻痺の子は飲み込みが難しくてね。誤嚥することもあるから、食事の世話が一番大変なの。でも、利也は上手に食べるのよね」
私は返答に困った。脳性麻痺の子供を見るのは初めてだった。私には余りにも痛々しく感じられた。
利也くんは私の方を見て恥かしそうに笑った。度々喘息を起し、その度に入退院を繰り返しているという。今日で一週間になるということで、母親に甘えたいのだろう。食べる途中おしゃべりが始まったり、周りに気を取られたりして口が開かなくなったりする。
「あらあら、よそ見してるとご飯がこぼれちゃうでしょ」
私の存在に気が散ってしまっているのだ。怪訝そうな顔をして度々此方に目を向ける利也くんに、ぎこちない笑い顔を返すだけで一言も声をかけることが出来なかった。
「そりゃあ、今日はパパとママが一緒だもの、嬉しいのよね」
隣で別の子供に食事を与えている看護師が言った。真維子は敢えて否定しなかった。
「だといいんですけどねえ。あなた、少しやってみない?」
否も応もなく私は傍に座らされ、利也くんの頭を膝の上に載せられた。仰向けの利也君と顔を見合わせる格好だ。
突然のご対面に、私もだがそれ以上に利也君は面食らったのだろう。母親から離され、見も知らぬ人の膝に頭を乗せられたのだ。手足を酷く強張らせ、不安な顔をして私とママを見比べた。ぎこちない右手を一生懸命伸ばして、しきりに母親の服を掴もうとするのだが、全身が反り返ってしまい、思うように母親の方に動くことができない。
「ママ、この人だれ?」
頭を母親の方にのけぞらせ、しかし、はっきりとした口調で言った。
「このおじちゃんはね、ママの大切な大切なお友達」
「大切なおともだち?そうかあ」
利也くんは少し安心した表情になり、身体の緊張も徐々に緩んできた。
「よしっ、利也くん。お友達のおじちゃんと一緒にご飯を食べようか」
私はミンチ食のおかずを一匙すくって口元に持っていった。指先に力が入りすぎてスプーンがぶるぶる震えた。しかし、利也くんは上手く匙元に口を持ってきて器用に吸い込んだ。
「あら、上手じゃない」
私が上手なのではない。利也くんが上手いのだ。
「いいコンビかもね」
とは言うもののあまりのぎこちなさに、母親もいささか心配だったのか、すぐに交替させられた。
「利也くん良かったね。今日はパパと一緒だね」
小さな子たちの介助をやり終えた若い看護師が言う。
「うん。おいしいよ」
「だから、パパじゃないのって。利也に余計なことを刷り込まないでくださいよ」
真維子は苦笑を浮かべ看護師を嗜める。
「そうだよ。この人は大切な大切なおともだちのおじちゃん」
「そうかそうか。悪かったね、あんまり利也くんが嬉しそうだったものだから、私間違えちゃった。ママは利也君だけのママだものね」
利也くんはママに甘えながらも、すこぶる機嫌よく昼食を完食した。
「今日は食欲もばっちりだわ。いつもこの調子なら、ママも嬉しいのにな。さてと、ママはこれからおじさんとちょっとお出かけしてくるわ。来週には退院しておうちにもどるんだから、早く元気になって頂戴ね」
「いやだいやだ。ママ、もう少しだけ」
利也くんは両足をばたつかせながら激しく泣きじゃくる。
「俺ならいいから、暫く此処にいてあげようよ」
「仕方ないなあ。この甘えんぼめ!」
利也君は、ママの膝に両手でしがみ付き、顔を擦りつけながらエヘヘと笑った。
「じゃあ、三人で病院の周りをお散歩しようか」
「うん。おさんぽ、おさんぽ」
真維子は看護師に頼んで子供用のバギーを借りてきた。
「よし、じゃあおじちゃんが乗せてあげようね」
「あら、大丈夫かしら。結構難しいのよ」
両手で恐る恐る利也君を抱き起こす。ぎこちない抱き方に、利也君もひどく緊張して全身が反り返ってしまい、かかえるのにも苦労した。ところが、
「あら良かったわね、おじちゃんに抱っこしてもらって」
とママの一声。それだけで利也君の体から強ばりがすっと取れ、バギーになんとか座らせることができた。利也君も緊張しただろうが、此方も恐る恐るの介助だ。全身が緊張して、それから数日は体中が痛かった。
「この子達のお世話って結構大変でしょ。看護師さんは一人で何人もの子供たちをお世話しているのよ」
「いやあ、食事といい、こんな風に抱えたり降ろしたりを毎日繰り返してたら、本当に腰を痛めてしまいそうだ」
「おじちゃんいたかったの?ごめんね」
「いやいや、利也君を抱っこできたことがおじさんうれしかったんだよ。ここの所運動不足だったからな。よしっ、バギーでママを追っかけてしっかりお散歩するぞ、出発だ!」
「うん。しゅっぱつ、しゅっぱつう!」
病院の裏手に手入れの行き届いた芝山がある。高台までは数十メートル程度の緩やかなのぼり道だが、バギーを押すのもコツがあるらしく、坂道に敷かれた砂利の上はなかなか思うように進まない。しばらく悪戦苦闘した。そのうち、前輪を少し浮かし加減にして後輪を動かせば何とか前に進むということが分り、かなり苦戦しながらも登りきった。その間、利也くんは両手を広げて大はしゃぎだった。
高台には屋根つきのベンチがあり、周りの視界が開けて最高の見晴らしだ。街なかとは違い、爽やかな微風が汗ばんだ身体に心地良かった。何処までも続く瀬戸内海だ。無数の島々がその青い海の中をまるで泳いでいるように見えた。
「いいところだなあ。丁度良い風も吹いて、この暑さを忘れちまいそうだ」
「本当!陰に入るとひんやりして気持ちいいわね。利也、さっきはおじちゃんに押してもらって嬉しそうだったね」
「うん。おじちゃん車椅子の押し方が上手だよ。だから好き!」
「そうか、そうか。おじちゃんも利也君が大好きだ。見てごらん。あそこに太平洋が見えてるぞ!」
「えっ!どこどこ?やだなあ、ここから見える海は全部瀬戸内海でしょ!」
「利也は物知りなんだから騙されないわよね」
「そうか、あれは瀬戸内海か。利也くんはよく知ってるんだなあ。利也くんが元気になったら、三人で一緒に本当の太平洋を見に行こうか?」
「うん。いくいく!」
「いいのかなあ、そんな約束して?利也は結構覚えているわよ!」
高台でしばらく過ごして、
「あまり風に当たってると、身体が冷えちゃうから、そろそろ帰りましょう」
母親がそう言うと、利也くんは少しぐずった。
「いやだいやだ、病院の中はいやだ。ここがいい。ここにずっといる」
「でもね、そろそろ入浴時間になっちゃうよ。早く良くなって、退院したらまたおじいちゃんの家に帰ろうね」
そう母親に諭されると渋々従った。
帰りも私がバギーを押して、ゆっくり坂を下りた。バギーの介助は下り坂の方が難しいということだったが、利也くんが前のめりにならないように気をつけながら、登りより楽に介助することが出来た。
坂道を降りながら利也くんと色々なことを話した。四歳にしては言葉をよく知っている。知識も豊富だった。
「利也くんは大きくなったら何になるのかな?」
「ぼく、お医者さんになるよ。ママが病気になったら助けてあげるの」
「そうか。ママきっと喜ぶよ。君が白馬の王子様なのかもしれないね」
「はくばのおうじさま?」
「そうだよ。ママの大切な王子様。ママをいつも見守って助けてあげるんだ。そのためには君が元気で強い人にならなくてはね」
病棟に隣接して入院児童のための学校がある。病室の前に立てかけられた大きな竹ざおに沢山の短冊が吊るされ、微風に揺れていた。金銀の色紙が光を反射させて賑やかに踊っている。
「後ろから見てると本当のパパみたいよ。私ちょっとジェラシーを感じたわ」
「おじちゃんとママ、オリヒメさまとヒコボシさま」
「そうか、じゃあ、おじさんまた来年ママに会いにこなくちゃね」
「うん。やくそく!太平洋も見に行こうね」
「ようし、約束だ。その代わり、利也くんも早く元気にならなくちゃね」
利也くんはママにバギーを押されて入浴にいった。迎えに出た年配の看護師が、
「あんなに嬉しそうな利也君は初めてだわね」
と言った。そしてこちらを向いて
「やはり、パパのおかげかな」
「いえ、私はパパではなくて…」
「分っていますよ、それくらい」
彼女は明るく笑ってから、
「利也くんのママってよく頑張る人なんですよ。利也くんのことになると一生懸命な気持ちがよく分るの。でもね、ママがいくら頑張ってみても、二役は出来ないのよね。いつか息切れしないかと、それが心配なんです。いろいろご事情はあるようだけれど、利也君のためには二親がそろっているのが一番。なんとかならないのかしらね」
と私のことを身内と思ったのか、そう言った。
「あら師長さん。今朝は利也が大変お世話をおかけいたしました」
利也くんの入浴準備を済ませて真維子が戻ってきた。
「今日は利也くん、喜んでお風呂に入ったでしょ!今朝方は随分とぐずっていたけれど。やっぱり利也くんにはママの明るい笑顔が一番の薬なのよね」
師長さんの言葉に、私だけでなく真維子もハッとしたのではなかろうか。
小児病棟の向かいに老人病棟がある。この春先に脳梗塞で倒れた父親がお世話になっているという。病状は安定しているが、リハビリ中なのだそうだ。
「少しだけ顔を見せてくるから、あなた入口の面会室で据わってて」
そう言って真維子は病室に入っていった。
面会室はリビングルームになっているようで、日曜日ともあって患者さんを見舞う縁戚の来訪者が数組いた。
「大尉どの、大尉どの」
突然大きな声がした。それが自分に向けられた呼びかけだと気がついて後ろを振り向いた。
直ぐ後ろに真維子が車椅子を押して、父親と思われる老人が座っていた。
「父さん、この人は私の昔の同僚よ。東京からわざわざいらしたの」
「これはこれは、ご無礼いたしました。娘が大層お世話になっております。大尉どのにはわざわざ私共の見舞いにお越し頂き恐悦至極にございます」
「また話があっちの世界に行ったり、こっちの世界に戻ったり、ほんとうに忙しいこと」
真維子が目配せをする。
「父さん、じゃあ私、帰るからね」
「ああご苦労さん。利也はだいじょうぶだったか」
「だいじょうぶ、だから安心して」
「大尉どの、この度のことは真に残念至極。惜別は断腸の思いであります」
「またそっちにもどったか」
真維子はトイレの介助に入ってから、再び父親を病室に戻した。
帰りの車の中で真維子はしんみり話した。
「元気なときは、戦争の話なんか一つもしなかったのよ。入院してからここの所、いつもあんな様子なの。今、戦争に行っていた時代と現在の世界とを行ったり来たりしているんだわ」
「うちの両親もそうだけど、あの世代の人たちは、悲惨な想いをいつもどこかで引きずってるんだろうな」
「大尉どのって、父と一緒にシベリアに抑留された方らしいの。同県人だから可愛がって頂いたらしいんだけど、抑留中に餓死されて、一緒に日本に帰って来れなかった。それを父は気にしているみたい。父がご遺骨を大尉さんのご実家に届けたらしいんだけど」
「うちの社長もシベリア帰りらしいぜ。やっぱり、自分からは戦争に行った話は全然しないけれど」
「そうだったの、それは知らなかった。年配的にそうよね。本当の心の痛みって、外に出せるようなものじゃないのよね」
真維子は暫く黙ったままでいた。
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