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88 パン職人の来訪
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パンというものに、俺は複雑な感情を抱いている。
それは尊敬と侮蔑、郷愁と猜疑心のないまぜになったものであり、炊きたての白米を正義と信じて育った身からすれば、パンはどうにも西洋のスノッブさを身にまといすぎている。
小麦と発酵とバターの香りが交錯し、食卓に文明の香りを持ち込む。そう、まるで自分が“文化人”ででもあるかのように錯覚させる。あれは恐ろしい主食だ。すました顔してうまいのが、実に許しがたい。
だからこそ、異世界においてパンが存在しないことに、俺は密かに安堵していたのである。
だが、そういう安心は、えてしてあっさり裏切られる。
彼はある日、波と共に現れた。街の浜辺に漂着した小舟の上、焼き石と木の桶と、なぜか完璧にこねられた生地を携えて。
男は名乗った。「パン職人です」と。
その姿は日焼けした修道士のようであり、沈黙とともにパンを焼くその様は、もはや“主食の錬金術師”であった。
「君は、なぜパンを焼くんだ」と俺が尋ねると、彼は黙って発酵中の生地を指差した。
見ると、生地がぷるぷると震え、まるで微生物の祭りでも催されているかのようだった。異世界の魔素が介入しているのか、酵母が元気すぎて音を立てている。
「……それ、今にも歩き出しそうだが?」
「パンとは、命の縁だ」
何を言ってるのかまったくわからなかったが、俺は思った――危険だ、と。
だが、街は騒いだ。漂流者にして職人、しかも発酵と焼成に魔素を組み込む技巧派。しかも見た目が妙にカッコいい。どう考えても、俺の“米”と張り合う気まんまんである。
「パン屋ができるって、ほんと?」
「朝ごはんが……選べる……?」
「うちの子、炊いたごはん噛まずに飲んでるのよ。パンなら……」
雑音が俺の脳内を埋め尽くす。誰だ、異世界に“朝食の格差”を持ち込んだのは。
しかし、文明は止まらない。
翌日には、小屋の一角に「ぱん(ひらがな)」と書かれた布看板が掲げられ、魔素発酵炉が設置され、謎の“浮遊するパンくず”が街を舞っていた。
初回の焼成。俺はこっそり、木の陰から覗いていた。
ぷしゅう、という音とともに扉が開き、湯気が立ち上る。中から姿を現したのは――黄金色の、しっとりとした、外側はこんがり、内側はふかふか、焦げ目が理想的に走った、恐ろしくうまそうな――
「……パンじゃないか」
思わず言葉が漏れた。
それは、完璧なパンだった。異世界で育った謎麦と、魔素水と、謎菌によって作られた発酵生命体。それらが出会い、火と空気と哲学によって焼かれた結果が、目の前にあった。
「これは……朝だな」と俺は言った。
「昼にもなります」とセリアが通りすがりにパンを奪っていった。
「夜食にもなる」とリュナがジャムをつけて走っていった。
「そして我々は……太る」と医者が神妙な顔で警告したが、口には二枚挟まっていた。
気がつけば、街中がパンの香りに包まれていた。あちこちでトーストされ、挟まれ、ちぎられ、投げられ、食われていた。
そして俺は気づいたのだ。
パンとは、文化のカタチである。
やわらかく、香ばしく、人々を導く匂いを持ち、かつてこの世界になかった時間――“ブランチ”や“おやつ”を発生させる、魔の主食。
レイヴィアがパン片を手に言った。
「これが……文明の香り。まるで陸が奏でる音楽のよう」
俺はもはや何も言えなかった。
米は重厚で慎ましく、土の中で力強く育つ。パンは気まぐれで華やかで、空気と恋をする。
どちらが上かなど、もうどうでもよくなっていた。
この街には、今、両方ある。
それでいい。いや、それがいいのだ。
それは尊敬と侮蔑、郷愁と猜疑心のないまぜになったものであり、炊きたての白米を正義と信じて育った身からすれば、パンはどうにも西洋のスノッブさを身にまといすぎている。
小麦と発酵とバターの香りが交錯し、食卓に文明の香りを持ち込む。そう、まるで自分が“文化人”ででもあるかのように錯覚させる。あれは恐ろしい主食だ。すました顔してうまいのが、実に許しがたい。
だからこそ、異世界においてパンが存在しないことに、俺は密かに安堵していたのである。
だが、そういう安心は、えてしてあっさり裏切られる。
彼はある日、波と共に現れた。街の浜辺に漂着した小舟の上、焼き石と木の桶と、なぜか完璧にこねられた生地を携えて。
男は名乗った。「パン職人です」と。
その姿は日焼けした修道士のようであり、沈黙とともにパンを焼くその様は、もはや“主食の錬金術師”であった。
「君は、なぜパンを焼くんだ」と俺が尋ねると、彼は黙って発酵中の生地を指差した。
見ると、生地がぷるぷると震え、まるで微生物の祭りでも催されているかのようだった。異世界の魔素が介入しているのか、酵母が元気すぎて音を立てている。
「……それ、今にも歩き出しそうだが?」
「パンとは、命の縁だ」
何を言ってるのかまったくわからなかったが、俺は思った――危険だ、と。
だが、街は騒いだ。漂流者にして職人、しかも発酵と焼成に魔素を組み込む技巧派。しかも見た目が妙にカッコいい。どう考えても、俺の“米”と張り合う気まんまんである。
「パン屋ができるって、ほんと?」
「朝ごはんが……選べる……?」
「うちの子、炊いたごはん噛まずに飲んでるのよ。パンなら……」
雑音が俺の脳内を埋め尽くす。誰だ、異世界に“朝食の格差”を持ち込んだのは。
しかし、文明は止まらない。
翌日には、小屋の一角に「ぱん(ひらがな)」と書かれた布看板が掲げられ、魔素発酵炉が設置され、謎の“浮遊するパンくず”が街を舞っていた。
初回の焼成。俺はこっそり、木の陰から覗いていた。
ぷしゅう、という音とともに扉が開き、湯気が立ち上る。中から姿を現したのは――黄金色の、しっとりとした、外側はこんがり、内側はふかふか、焦げ目が理想的に走った、恐ろしくうまそうな――
「……パンじゃないか」
思わず言葉が漏れた。
それは、完璧なパンだった。異世界で育った謎麦と、魔素水と、謎菌によって作られた発酵生命体。それらが出会い、火と空気と哲学によって焼かれた結果が、目の前にあった。
「これは……朝だな」と俺は言った。
「昼にもなります」とセリアが通りすがりにパンを奪っていった。
「夜食にもなる」とリュナがジャムをつけて走っていった。
「そして我々は……太る」と医者が神妙な顔で警告したが、口には二枚挟まっていた。
気がつけば、街中がパンの香りに包まれていた。あちこちでトーストされ、挟まれ、ちぎられ、投げられ、食われていた。
そして俺は気づいたのだ。
パンとは、文化のカタチである。
やわらかく、香ばしく、人々を導く匂いを持ち、かつてこの世界になかった時間――“ブランチ”や“おやつ”を発生させる、魔の主食。
レイヴィアがパン片を手に言った。
「これが……文明の香り。まるで陸が奏でる音楽のよう」
俺はもはや何も言えなかった。
米は重厚で慎ましく、土の中で力強く育つ。パンは気まぐれで華やかで、空気と恋をする。
どちらが上かなど、もうどうでもよくなっていた。
この街には、今、両方ある。
それでいい。いや、それがいいのだ。
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