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100 浮遊市場の開設
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「浮かせてみたらいいんじゃない?」
それは、ある昼下がりの風がやけに気まぐれだった日、リュナが鼻をくすぐるような調子で口にした、実に不用意な一言であった。
問題は、その発言の軽さではない。その一言を「採用」した人間が、よりによってあの商人の女性だったという点にある。
リュナという生き物は、銀色の髪としっぽを持ち、風の匂いにすぐ影響される体質らしい。彼女が市場を「浮かせたい」と言ったとき、俺はあまりに自然だったので逆に耳を疑った。
「市場って、なんかこう、空いてる場所でぐるぐる回ったら楽しそうじゃん?」
俺は「それは市場ではなく風車の概念ではないのか?」と突っ込むべきだったかもしれない。が、言いかけたところで、商人の女性が横からすっと割り込んできた。
「風を読む台はすでにある。浮力安定の調整は必要ですが、移動型の小規模市場として運用するのは現実的です」
現実的、という言葉をあんなにさらりと非現実に用いる人間を、俺は他に知らない。
商人の女性は、いつの間にか風向きと浮力係数の表を作り、台の設計図にメモを加えていた。その姿を見ながら、俺は自分の中の「これは止めるべきなのでは?」という良心が、風に吹かれて飛んでいく音を確かに聞いた。
とはいえ、できたものは意外と“まとも”だった。
浮遊市場といっても、地面からおよそ膝から腰の高さ程度にふわりと浮かび、浮胞草と羽根苔を編み込んだ台の上に、簡易な屋台が乗っている。風の流れに応じてゆるやかに移動するが、引っ張れば止まるし、足場も悪くない。なんなら、あぐらをかいて座っても、たまに気持ちよく揺れるだけだ。
これならば、ということで、村──いや、最近では“街”と呼ぶ者も出始めた──の住民たちは、わりとすぐにこの浮遊市場を受け入れた。
特に人気を博したのが、浮島から運ばれた特産品の数々である。
「風香果」は、切ると空気に溶けるような香りが広がり、食べると舌の奥にほんのり風の味が残る。思い出せない誰かの笑顔を、なんとなく思い出した気がする、そんな味。
「風鱗茸」は薄く切ると波のようにゆらめき、焼くとしゃらりと鳴いて香ばしい出汁を出す。汁物に入れると、汁がなぜか軽くなる。
「浮石糖」はその名の通り、粒が浮いている。皿の上で踊るように揺れ、ひと粒口に入れると、くすぐられたような甘みが舌に乗る。風に弱いので、うっかり屋外で売ると全部飛んでいく。商人の女性が「防風用テント」も同時に開発し、特許を申請しようとしているらしい。
「この甘さ、売れる」などとリュナは言っていたが、どうも“売る”という行為を単なるお祭りの続きくらいに捉えている節がある。
実際、この市場は“売る”というより“巡る”が中心にあるのかもしれない。
浮遊市場は決まった場所に定着せず、街の広場から、農場の近く、工房裏、果ては温泉の縁まで、毎日少しずつ場所を変えて漂っていく。
「今日はどこに浮かんでるんだろうねぇ」とリュナは耳をぴこぴこ動かしながら朝の空気を吸う。
住民たちはその日の風の方向と匂いを嗅ぎ分け、浮遊市場の居場所を探す。見つければ、浮く台にのぼり、揺れる屋台の間を縫って、チーズや果物、魔素織りの布を手に取り、誰かとおしゃべりをし、ついでにおやつを頬張る。
「これはもう、娯楽と実益の合流点だ」と誰かが言っていた。
街の子どもたちは「空を歩けるお店」と呼び、年寄りたちは「最近の商いは浮ついておる」と渋い顔をしながら、ちゃっかり浮石糖を買って帰る。
浮いているのに、どこかちゃんと地に足がついている。そんな不思議な市場が、今では街の風物詩になりつつあった。
「浮かせてよかったねぇ」とリュナが言う。
俺はそれに曖昧に頷きながら、ふと商人の女性の姿を探す。
遠くで彼女が、風読み板の記録を更新しながら「売上の変動は風速と連動しています」と言っているのが見えた。
きっと彼女はこの市場に税をかけ、管理を進め、次は“空中区画”なる概念まで作り出すだろう。
──街は、今日も浮かんでいる。
風にのって、少しずつ、けれど確実に。
それは、ある昼下がりの風がやけに気まぐれだった日、リュナが鼻をくすぐるような調子で口にした、実に不用意な一言であった。
問題は、その発言の軽さではない。その一言を「採用」した人間が、よりによってあの商人の女性だったという点にある。
リュナという生き物は、銀色の髪としっぽを持ち、風の匂いにすぐ影響される体質らしい。彼女が市場を「浮かせたい」と言ったとき、俺はあまりに自然だったので逆に耳を疑った。
「市場って、なんかこう、空いてる場所でぐるぐる回ったら楽しそうじゃん?」
俺は「それは市場ではなく風車の概念ではないのか?」と突っ込むべきだったかもしれない。が、言いかけたところで、商人の女性が横からすっと割り込んできた。
「風を読む台はすでにある。浮力安定の調整は必要ですが、移動型の小規模市場として運用するのは現実的です」
現実的、という言葉をあんなにさらりと非現実に用いる人間を、俺は他に知らない。
商人の女性は、いつの間にか風向きと浮力係数の表を作り、台の設計図にメモを加えていた。その姿を見ながら、俺は自分の中の「これは止めるべきなのでは?」という良心が、風に吹かれて飛んでいく音を確かに聞いた。
とはいえ、できたものは意外と“まとも”だった。
浮遊市場といっても、地面からおよそ膝から腰の高さ程度にふわりと浮かび、浮胞草と羽根苔を編み込んだ台の上に、簡易な屋台が乗っている。風の流れに応じてゆるやかに移動するが、引っ張れば止まるし、足場も悪くない。なんなら、あぐらをかいて座っても、たまに気持ちよく揺れるだけだ。
これならば、ということで、村──いや、最近では“街”と呼ぶ者も出始めた──の住民たちは、わりとすぐにこの浮遊市場を受け入れた。
特に人気を博したのが、浮島から運ばれた特産品の数々である。
「風香果」は、切ると空気に溶けるような香りが広がり、食べると舌の奥にほんのり風の味が残る。思い出せない誰かの笑顔を、なんとなく思い出した気がする、そんな味。
「風鱗茸」は薄く切ると波のようにゆらめき、焼くとしゃらりと鳴いて香ばしい出汁を出す。汁物に入れると、汁がなぜか軽くなる。
「浮石糖」はその名の通り、粒が浮いている。皿の上で踊るように揺れ、ひと粒口に入れると、くすぐられたような甘みが舌に乗る。風に弱いので、うっかり屋外で売ると全部飛んでいく。商人の女性が「防風用テント」も同時に開発し、特許を申請しようとしているらしい。
「この甘さ、売れる」などとリュナは言っていたが、どうも“売る”という行為を単なるお祭りの続きくらいに捉えている節がある。
実際、この市場は“売る”というより“巡る”が中心にあるのかもしれない。
浮遊市場は決まった場所に定着せず、街の広場から、農場の近く、工房裏、果ては温泉の縁まで、毎日少しずつ場所を変えて漂っていく。
「今日はどこに浮かんでるんだろうねぇ」とリュナは耳をぴこぴこ動かしながら朝の空気を吸う。
住民たちはその日の風の方向と匂いを嗅ぎ分け、浮遊市場の居場所を探す。見つければ、浮く台にのぼり、揺れる屋台の間を縫って、チーズや果物、魔素織りの布を手に取り、誰かとおしゃべりをし、ついでにおやつを頬張る。
「これはもう、娯楽と実益の合流点だ」と誰かが言っていた。
街の子どもたちは「空を歩けるお店」と呼び、年寄りたちは「最近の商いは浮ついておる」と渋い顔をしながら、ちゃっかり浮石糖を買って帰る。
浮いているのに、どこかちゃんと地に足がついている。そんな不思議な市場が、今では街の風物詩になりつつあった。
「浮かせてよかったねぇ」とリュナが言う。
俺はそれに曖昧に頷きながら、ふと商人の女性の姿を探す。
遠くで彼女が、風読み板の記録を更新しながら「売上の変動は風速と連動しています」と言っているのが見えた。
きっと彼女はこの市場に税をかけ、管理を進め、次は“空中区画”なる概念まで作り出すだろう。
──街は、今日も浮かんでいる。
風にのって、少しずつ、けれど確実に。
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