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最終幕
黎明
しおりを挟む「すまぬ、后妃。皇家の血が為に、その身に余る苦悩をさせた」
「いいえ、いいえ……っ」
必死に頭を振り、后妃は頬に添えられた大きな手に縋った。私こそ、と涙を拭う白い指を握り締める。
「私こそ、貴方様の負うものがどれほどのものか理解せず……幼き頃に、貴方様に幾度となくご無礼を……どうか、どうか愚かな私を許さないで、決して許さないで下さいまし陛下……」
「良い……致し方ないことよ。淡海にも、苦労ばかりかけた。折角の美姫を疲れさせては、亭主失格であるな」
「とんでもございません……っ」
「京宵は、まだ戦いのさなかに居るか。戦場で刀を振るわねばならぬ役目を、私の代のみに留められず済まなんだ……が、淡海。其方の子は立派であるぞ」
「当然でございましょう……殿の嫡子です、あの子は。貴方に倣い同じ道を歩めることを、今生で最たる誇りと申しておりました」
清水の色を映す瞳が、優しく細められる。清潔な乳白の敷布が血を吸って赤黒く潤んでいた。時折眠気が襲うが、まだ伝えねばならぬことがある、と宵君は何とかその身に留まっていた。
「陛下、嫌です、私を置いて逝かないで下さいまし。陛下……」
后妃の嘆きに触れるうち、殿内に跪く侍女達からもすすり泣く声が響いた。
「后妃、顔を上げよ。もう私は居らぬ。全て済んだ後……暁光と添うのならば、それも良いだろう」
「何を仰います……私はもう貴方様しか愛さぬと誓いました。これまでより近くでその御背中に、深い御心に触れ、私は私自身に、皇家に、この地にそう誓ったのです」
后妃の震える声に、淡海が目を伏せた。后妃様、とその背に手を添え涙ながらに微笑む。
「……何だ。せっかく其方が娶っても外聞が良いようにと、暁光を将軍にしてやったのに」
冗談だが、と微笑み、宵君は暁光へ視線を向ける。さっと傍に跪き、暁光は懸命に、その消えゆく声に耳を澄ました。骨肉を断たれた激痛に耐え、上擦っていた呼吸が凪いでいる。ふ、と血で汚れた眦が弛緩した。
「もうじき、夜が明けるのう……」
「左様、でございますな」
手を、と宵君に促され、暁光は喉に蟠った悲しみを呑んで、宵君と后妃の手に手を重ねる。小さな手は酷く熱を帯びて、骨張った手は酷く冷たい。分かるか、と宵君は囁いた。
「夜明けを生きる者の手の、なんと熱きことか。宵闇は、全て私が持って逝こう。嗚呼、しかし……無念よの。此処に在る全てを、まだ愛していたかった」
眩い日が差す。それ以上に鋭く輝く宵君の眼を見て暁光は唇を噛む。死に行く者の眼ではない。それを見つめるうち、腹の奥に灯がともった。
「……託したぞ、暁光」
「御意……っ」
暁光の答えを聞き、宵君は静かに眼を伏せた。右腕の力が抜け、一つ深い吐息を零す。
その瞬間と、嘉阮軍の撤退はほぼ同時であった。蘇芳は東から昇る眩い光と、その輝きを一身に浴びる大門に向かって、深く拝礼する。
「あ……――」
后妃の唇が震えた。喉が嗄れるまで泣き叫ぶ声が、殿内の人間の感情の堰を揺さぶり、やがて溢れ出した途方もない喪失と贖罪の慟哭が、御所を、やがては京の全て満たす。
朱く熱い暁が、沖去の地を照らしていた。
――西暦一五九一年、如月の二十一日。幻驢芭宵君、崩御。
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