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第3章
別離(12P)
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芳子は、中国の父母の葬儀などで、松本女子高を退学になってしまった。芳子から退学のいきさつを聞いた浪速は、どなり出した。
「前の校長が入学を許可しておきながら、いまさら、戸籍謄本を出せとは、何事だ!
そんな、学校は、こっちからお断りだ」
浪速は、芳子をさっさと退学させてしまい、家庭教師をつけた。芳子は、正式な北京語、フランス語、英語、歴史などそれぞれの教師に習った。規則正しく一日のほとんどを家で過ごす。
浪速は、家を空けることも多く、たまに帰ってくると、妻である福子と喧嘩をする。その原因は、芳子である。福子は、芳子が幼い頃からの習慣で、いまだに浪速と同じ部屋で寝るのをとても嫌がっていた。芳子も、自分を女と見る養母を好きになれない。女として、負けるはずないと、ふと思ったりする。
芳子は、自分の事を”ボク”と呼び、男と同様の使命感に溢れていた。だが、花も恥じらう年頃である。日に日に女らしさを増していく。彼女は、浪速を崇敬し松本までやって来る青年将校達の憧れの的であった。
高女に在学中の事であるが、文子と二人で写真を撮った事がある。写真屋の主人がそれを、ブロマイドとして売り出したところ、大人気であったという。芳子は数多の男達から、ラブレターをもらっていた。けれど、芳子が心を動かされたのは、山家ひとりであった。
芳子は日曜日の昼下り、栗毛に乗って山家の下宿を訪れた。もちろん、浪速には内緒である。
管理人のおばさんに、山家の部屋へ来たと、伝える。
「ちょっと待って。山家さんいるかなぁー」
いらいらして待っているとおばさんが戻って来て
「会わないって。わるいけど、帰ってくれない?」と言う。
「え?いるなら会いたいわ」
「だよね。あたしも、そう言ったけど。あの人は、きっぱり会わないって言ったのよ」
なによ! せっかく、来たのに。
芳子は通りに飛び出して、山家の部屋に向かって大声で叫んだ。
「意気地なし!」
がらりと、窓が開いた。山家がこちらを見ている。
芳子は、アカンベーをして背を向けた。
おじさまなんて、だいきらい!私に会いたがっている男達は、山ほどいるわ。
栗毛に飛び乗り、駆けだした。
山道を降りていくと涙が溢れた。
……ううう
だれもいない道端で、大声をあげてひとりで泣いた。
「……ヨコちゃん!」
名前を呼ばれ、振り向くと山家が立っている。
「……おじさま!」
山家は芳子に駈けよってギュッと抱きしめた。
「ごめん……」
芳子は、ポトリとたづなを落として、囁いた。
「接吻してくれなきゃ許さない……」
「あっ!ヤバぇ!」
山家が、いきなり走りだす。栗毛が逃げ出したのだ。猛烈な勢いで林にもぐり込んでしまった。二人は、さんざん走りまわったあげく、やっと栗毛を捕まえた。
「コイツ。君に似て、じゃじゃ馬だな」
「栗毛は、手綱を離すと逃げ出すの。私も同じ。会ってくれないと暴走するわ。
あなたの意地悪に対抗して、好きでもない他の男と付き合うわよ。それでも、よくて?」
「芳子ちゃん。…俺、会わずにがまんできるか試してみた。
だめだ。俺は君がいないとだめだよ。いつか、結婚したい」
「はい」
芳子は、神妙に、大きく頷いた。一緒に暮らしたい。
「俺は、まだ、少尉だ。君の父上は、とてもお許しにならないだろう。
でも、陸大(※↓)に入れば、大将の道さえ開ける。
俺は、決めた。陸大試験に合格出来るように勉強する。
そして、合格したら、婚約すればいい」
「試験?ああ、じれったいな」
「君が…普通の人なら、とっくに、奪っているさ。
が…清朝のお姫さまじゃそう簡単にはいかない」
「わかったわ。でも、時々でもいいから、会いたい」
「うん。でも、二人きりになったら…俺はバカになる。
子供ができたら、どうする?女にとって、まさに地獄だろう。
大人として君に責任があるのだ。下宿で会うのは辛抱しよう」
二人は、浪速の目を盗んで相乗りに出かけた。日本アルプスを眺めながら、馬で揺られていく。山家と身を寄せあい平和な道を行く。芳子にとっては、馬上だけが幸せな空間であった。そんな二人が、恋人同士と囁かれはじめたのは、一年が過ぎた頃である。
浪速の監視はきびしくなっていたが、芳子は、構わずに彼の下宿に出かけていく。
「おじさま!」
いつものように、通りから、山家の部屋の窓へ呼びかけた。
何度も呼んでみたが、返事はなかった。近頃は、いつも留守で会えない。
あきらめて帰ろうとした時、カタリと内で音がした。
あっ!おじさま、いるのね。どうして、返事してくれないの?
「おじさま!芳子です」
「ヨコちゃん……」
窓ごしに声が聞こえる。
「お寝坊さんね。コスモスを見に行きたいの。遠乗りに連れて行って下さらない?」
「俺、引っ越す事にした。ごめん……」
「え?」
「ヨコちゃん……もう会わないようにしょう」
芳子は、いきなり冷水を頭から浴びせられたように固まった。嘘だ。別れるなんて、できない。
「そんなの、嫌っ!」
がらりと窓が開いた。
「ヨコちゃん、幸せになれ!握手して別れよう…」
山家は涙をぬぐい、その手を、無理な笑顔で差し出した。
「元気だせ!泣くな、ヨコちゃん」
来るべき時が来た。別れの予感はいつもあったのだ。つらい別れには、慣れている。負けるもんか。
「いままで、ありがとう」
芳子は、背筋をのばし、山家の手を握りしめた。
※陸大とは、陸軍大学校の略称。大日本帝国陸軍における、参謀将校の養成機関。現在の陸上自衛隊では、陸上自衛隊教育訓練研究本部指揮幕僚過程に相当します。
「前の校長が入学を許可しておきながら、いまさら、戸籍謄本を出せとは、何事だ!
そんな、学校は、こっちからお断りだ」
浪速は、芳子をさっさと退学させてしまい、家庭教師をつけた。芳子は、正式な北京語、フランス語、英語、歴史などそれぞれの教師に習った。規則正しく一日のほとんどを家で過ごす。
浪速は、家を空けることも多く、たまに帰ってくると、妻である福子と喧嘩をする。その原因は、芳子である。福子は、芳子が幼い頃からの習慣で、いまだに浪速と同じ部屋で寝るのをとても嫌がっていた。芳子も、自分を女と見る養母を好きになれない。女として、負けるはずないと、ふと思ったりする。
芳子は、自分の事を”ボク”と呼び、男と同様の使命感に溢れていた。だが、花も恥じらう年頃である。日に日に女らしさを増していく。彼女は、浪速を崇敬し松本までやって来る青年将校達の憧れの的であった。
高女に在学中の事であるが、文子と二人で写真を撮った事がある。写真屋の主人がそれを、ブロマイドとして売り出したところ、大人気であったという。芳子は数多の男達から、ラブレターをもらっていた。けれど、芳子が心を動かされたのは、山家ひとりであった。
芳子は日曜日の昼下り、栗毛に乗って山家の下宿を訪れた。もちろん、浪速には内緒である。
管理人のおばさんに、山家の部屋へ来たと、伝える。
「ちょっと待って。山家さんいるかなぁー」
いらいらして待っているとおばさんが戻って来て
「会わないって。わるいけど、帰ってくれない?」と言う。
「え?いるなら会いたいわ」
「だよね。あたしも、そう言ったけど。あの人は、きっぱり会わないって言ったのよ」
なによ! せっかく、来たのに。
芳子は通りに飛び出して、山家の部屋に向かって大声で叫んだ。
「意気地なし!」
がらりと、窓が開いた。山家がこちらを見ている。
芳子は、アカンベーをして背を向けた。
おじさまなんて、だいきらい!私に会いたがっている男達は、山ほどいるわ。
栗毛に飛び乗り、駆けだした。
山道を降りていくと涙が溢れた。
……ううう
だれもいない道端で、大声をあげてひとりで泣いた。
「……ヨコちゃん!」
名前を呼ばれ、振り向くと山家が立っている。
「……おじさま!」
山家は芳子に駈けよってギュッと抱きしめた。
「ごめん……」
芳子は、ポトリとたづなを落として、囁いた。
「接吻してくれなきゃ許さない……」
「あっ!ヤバぇ!」
山家が、いきなり走りだす。栗毛が逃げ出したのだ。猛烈な勢いで林にもぐり込んでしまった。二人は、さんざん走りまわったあげく、やっと栗毛を捕まえた。
「コイツ。君に似て、じゃじゃ馬だな」
「栗毛は、手綱を離すと逃げ出すの。私も同じ。会ってくれないと暴走するわ。
あなたの意地悪に対抗して、好きでもない他の男と付き合うわよ。それでも、よくて?」
「芳子ちゃん。…俺、会わずにがまんできるか試してみた。
だめだ。俺は君がいないとだめだよ。いつか、結婚したい」
「はい」
芳子は、神妙に、大きく頷いた。一緒に暮らしたい。
「俺は、まだ、少尉だ。君の父上は、とてもお許しにならないだろう。
でも、陸大(※↓)に入れば、大将の道さえ開ける。
俺は、決めた。陸大試験に合格出来るように勉強する。
そして、合格したら、婚約すればいい」
「試験?ああ、じれったいな」
「君が…普通の人なら、とっくに、奪っているさ。
が…清朝のお姫さまじゃそう簡単にはいかない」
「わかったわ。でも、時々でもいいから、会いたい」
「うん。でも、二人きりになったら…俺はバカになる。
子供ができたら、どうする?女にとって、まさに地獄だろう。
大人として君に責任があるのだ。下宿で会うのは辛抱しよう」
二人は、浪速の目を盗んで相乗りに出かけた。日本アルプスを眺めながら、馬で揺られていく。山家と身を寄せあい平和な道を行く。芳子にとっては、馬上だけが幸せな空間であった。そんな二人が、恋人同士と囁かれはじめたのは、一年が過ぎた頃である。
浪速の監視はきびしくなっていたが、芳子は、構わずに彼の下宿に出かけていく。
「おじさま!」
いつものように、通りから、山家の部屋の窓へ呼びかけた。
何度も呼んでみたが、返事はなかった。近頃は、いつも留守で会えない。
あきらめて帰ろうとした時、カタリと内で音がした。
あっ!おじさま、いるのね。どうして、返事してくれないの?
「おじさま!芳子です」
「ヨコちゃん……」
窓ごしに声が聞こえる。
「お寝坊さんね。コスモスを見に行きたいの。遠乗りに連れて行って下さらない?」
「俺、引っ越す事にした。ごめん……」
「え?」
「ヨコちゃん……もう会わないようにしょう」
芳子は、いきなり冷水を頭から浴びせられたように固まった。嘘だ。別れるなんて、できない。
「そんなの、嫌っ!」
がらりと窓が開いた。
「ヨコちゃん、幸せになれ!握手して別れよう…」
山家は涙をぬぐい、その手を、無理な笑顔で差し出した。
「元気だせ!泣くな、ヨコちゃん」
来るべき時が来た。別れの予感はいつもあったのだ。つらい別れには、慣れている。負けるもんか。
「いままで、ありがとう」
芳子は、背筋をのばし、山家の手を握りしめた。
※陸大とは、陸軍大学校の略称。大日本帝国陸軍における、参謀将校の養成機関。現在の陸上自衛隊では、陸上自衛隊教育訓練研究本部指揮幕僚過程に相当します。
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