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十四日目
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「……眠れないの?」
窓の外がぼんやりと白んできた頃、隣で寄り添うように眠っていたはずの殿下が、俺に腕を回してささやいた。
背中からすっぽりと包まれて、人肌の温かさに体が縮こまる思いがした。俺はこういう扱いに慣れてなくて、どうも落ちつかない。一呼吸置いてから、動揺を悟られないよう、ゆっくりと慎重に口を開いた。
「いえ、今しがた目が覚めたところです」
「……」
殿下こそ、眠ってなかったのか。俺は首だけ回して温もりの元を確認する。
長い髪が、暁の薄明かりを集めて清涼な滝のように淡く光り、しどけなく投げ出された肢体に沿ってシーツに流れ落ちている。そして澄みきった海の底を思わせる、静かな瞳を見た途端、目をそらせなくなった。
その深く透明な緑色は、海岸線をなぞる波間を思い起こさせた。あの色は、昨日のことのように思い出せるほど、鮮やかに脳裏に刻まれている。
あれはとても苦しく、険しい道のりだった。負傷した右足をかばいながらの強行軍は、体力ばかりか精神までも蝕んでいった。
事の発端は、Y国とその隣国の国境争いだった。
当時Y国は、国境警備一個隊を人質に取られ、戦況は膠着状態に陥っていた。政府の中枢機関は打開策として、密かにX国の傭兵部隊を調達し、最前線へと送りこんだ……俺は、その傭兵部隊の一員だった。
俺たち傭兵部隊の派遣は、当時最前線を任されていたY国の戦闘部隊のプライドをいたく傷つけたと聞く。しかし戦況が悪化するにつれ、プライドだとか面子だとか、そんな悠長なことを言ってられなくなった。
俺たちX国の部隊と、Y国の部隊の間には、次第に仲間意識のようなものも生まれていった。お互い協力し合って、どうにか敵陣の裏をかき、最後の接戦にもちこんだ頃には、全員満身創痍だった。
それでも最後の力をふりしぼって敵を蹴散らし、捕虜になってた国境警備隊員を全員解放させ、まさに勝利の一歩手前まできた頃……俺たちは姿を消した。
俺たちは裏で雇われた傭兵だ。だから、あくまで裏方に徹しなくてはならず、勝利の瞬間や功績は、表舞台に立てる者たちにゆずらなくてはならない。
俺たちは、夜目のきく仲間の案内によって、夜通しかけて戦場を離れた。ケガの処置もおざなりに出発した為、かなりの強行軍となった。
――耐えろ。せめて、あの岬の崖まで進むんだ。
俺は、負傷した右足を引きずりながら、何度も自分にそう言い聞かせた。
沿岸部にそびえる断崖絶壁には、想定していた脱出ルートの中では最も見つかりにくいとはいえ、同時に最も危険を伴うルートでもあった。
眼下には、海岸線をなぞる穏やかな海が広がっていた。夜明けが近づくにつれ、海は澄んだ緑色を帯び、吸い込まれそうに美しかった。
俺は崖をつたいながら、何度もあの波間へ身をゆだねてしまいたい誘惑に駆られた。この辺りの海水温は高いと聞くから、きっとあたたかな波飛沫が全身を包みこみ、海の底でおだやかな眠りを誘うことだろう。
「ロキ、ロキ……!」
「……ん」
俺はどうやら眠っていたらしい。揺り起こされて瞼を持ち上げると、あの日の夢を凝縮したような、緑に輝く海の色をたたえた瞳が、俺の顔をのぞきこんでいた。
(……落ちたのかと思った)
白い波しぶきに包まれた錯覚は、顔の周りを囲むように流れ落ちた、銀色の髪のせいだろう。
「ロキ、大丈夫?」
「え、俺うなされてました?」
「ううん。でも、泣いてた……」
長い指が眦をなぞった時、自分が寝ながら泣いていたことを知った。恥ずかしさのあまり、その手を押し返すと、顔を枕にうずめた。
「怖い夢でもみたの?」
「いえ……どちらかと言えば、心地良い夢でした」
そうだ、とても心地良かった。あたたかな波間に揺られて、深く透明な海の底へと沈んでいく……と、そこでハッとした。
(それってダメじゃん……俺、死んじゃうじゃん)
顔を上げると、殿下が心配そうにこちらを見つめていた。
「いえ、やっぱり怖い夢でした」
俺はそう言って両腕を伸ばすと、殿下の首にしがみつく。すると殿下は、夢の水面からすくい上げるように、俺の体を深く抱きしめてくれた。
背中をやさしく撫でられて、次第に気持ちが凪いでくる。ザワザワと胸の内側でうごめく恐怖と焦燥感が、片っ端から溶けて消えていった。
(ん……?)
そう言えば、足の傷が少し変な気がする。いつもなら座ると、引き攣れるような痛みがあるのに、今はなんだか麻痺したように何も感じない。
するとまるで、俺の心を読んだかのように、殿下がゆっくりと俺の右太腿を撫でた。
「傷、まだ痛む?」
「あ、いえ……その、不思議と大丈夫、です」
「そう、よかった。根気よく続けていけば、そのうち傷も消えていくからね……いや、婚礼の儀を迎えれば、きっと」
「え、え?」
殿下は微笑むと、小さな音をたてて俺の唇を何度もついばみ、頭をやさしくなで回した。こんなの、物心ついた時から知らない、たぶんはじめての経験だ。とても貴重な、大切な思い出となるだろう。
(きっと、何度も思い出すんだろうな……)
これから先、どこへ向かおうと、どんなつらい目に合おうと、この思い出が俺をギリギリの淵から救ってくれる。きっと、生への執着を思い出させてくれる。
「俺、殿下にお会いできて、本当によかった」
「うん……僕も」
殿下は、抱きしめる腕をいっそう強くした。
「君をつかまえられて、本当によかった……もう、はなさないよ」
窓の外がぼんやりと白んできた頃、隣で寄り添うように眠っていたはずの殿下が、俺に腕を回してささやいた。
背中からすっぽりと包まれて、人肌の温かさに体が縮こまる思いがした。俺はこういう扱いに慣れてなくて、どうも落ちつかない。一呼吸置いてから、動揺を悟られないよう、ゆっくりと慎重に口を開いた。
「いえ、今しがた目が覚めたところです」
「……」
殿下こそ、眠ってなかったのか。俺は首だけ回して温もりの元を確認する。
長い髪が、暁の薄明かりを集めて清涼な滝のように淡く光り、しどけなく投げ出された肢体に沿ってシーツに流れ落ちている。そして澄みきった海の底を思わせる、静かな瞳を見た途端、目をそらせなくなった。
その深く透明な緑色は、海岸線をなぞる波間を思い起こさせた。あの色は、昨日のことのように思い出せるほど、鮮やかに脳裏に刻まれている。
あれはとても苦しく、険しい道のりだった。負傷した右足をかばいながらの強行軍は、体力ばかりか精神までも蝕んでいった。
事の発端は、Y国とその隣国の国境争いだった。
当時Y国は、国境警備一個隊を人質に取られ、戦況は膠着状態に陥っていた。政府の中枢機関は打開策として、密かにX国の傭兵部隊を調達し、最前線へと送りこんだ……俺は、その傭兵部隊の一員だった。
俺たち傭兵部隊の派遣は、当時最前線を任されていたY国の戦闘部隊のプライドをいたく傷つけたと聞く。しかし戦況が悪化するにつれ、プライドだとか面子だとか、そんな悠長なことを言ってられなくなった。
俺たちX国の部隊と、Y国の部隊の間には、次第に仲間意識のようなものも生まれていった。お互い協力し合って、どうにか敵陣の裏をかき、最後の接戦にもちこんだ頃には、全員満身創痍だった。
それでも最後の力をふりしぼって敵を蹴散らし、捕虜になってた国境警備隊員を全員解放させ、まさに勝利の一歩手前まできた頃……俺たちは姿を消した。
俺たちは裏で雇われた傭兵だ。だから、あくまで裏方に徹しなくてはならず、勝利の瞬間や功績は、表舞台に立てる者たちにゆずらなくてはならない。
俺たちは、夜目のきく仲間の案内によって、夜通しかけて戦場を離れた。ケガの処置もおざなりに出発した為、かなりの強行軍となった。
――耐えろ。せめて、あの岬の崖まで進むんだ。
俺は、負傷した右足を引きずりながら、何度も自分にそう言い聞かせた。
沿岸部にそびえる断崖絶壁には、想定していた脱出ルートの中では最も見つかりにくいとはいえ、同時に最も危険を伴うルートでもあった。
眼下には、海岸線をなぞる穏やかな海が広がっていた。夜明けが近づくにつれ、海は澄んだ緑色を帯び、吸い込まれそうに美しかった。
俺は崖をつたいながら、何度もあの波間へ身をゆだねてしまいたい誘惑に駆られた。この辺りの海水温は高いと聞くから、きっとあたたかな波飛沫が全身を包みこみ、海の底でおだやかな眠りを誘うことだろう。
「ロキ、ロキ……!」
「……ん」
俺はどうやら眠っていたらしい。揺り起こされて瞼を持ち上げると、あの日の夢を凝縮したような、緑に輝く海の色をたたえた瞳が、俺の顔をのぞきこんでいた。
(……落ちたのかと思った)
白い波しぶきに包まれた錯覚は、顔の周りを囲むように流れ落ちた、銀色の髪のせいだろう。
「ロキ、大丈夫?」
「え、俺うなされてました?」
「ううん。でも、泣いてた……」
長い指が眦をなぞった時、自分が寝ながら泣いていたことを知った。恥ずかしさのあまり、その手を押し返すと、顔を枕にうずめた。
「怖い夢でもみたの?」
「いえ……どちらかと言えば、心地良い夢でした」
そうだ、とても心地良かった。あたたかな波間に揺られて、深く透明な海の底へと沈んでいく……と、そこでハッとした。
(それってダメじゃん……俺、死んじゃうじゃん)
顔を上げると、殿下が心配そうにこちらを見つめていた。
「いえ、やっぱり怖い夢でした」
俺はそう言って両腕を伸ばすと、殿下の首にしがみつく。すると殿下は、夢の水面からすくい上げるように、俺の体を深く抱きしめてくれた。
背中をやさしく撫でられて、次第に気持ちが凪いでくる。ザワザワと胸の内側でうごめく恐怖と焦燥感が、片っ端から溶けて消えていった。
(ん……?)
そう言えば、足の傷が少し変な気がする。いつもなら座ると、引き攣れるような痛みがあるのに、今はなんだか麻痺したように何も感じない。
するとまるで、俺の心を読んだかのように、殿下がゆっくりと俺の右太腿を撫でた。
「傷、まだ痛む?」
「あ、いえ……その、不思議と大丈夫、です」
「そう、よかった。根気よく続けていけば、そのうち傷も消えていくからね……いや、婚礼の儀を迎えれば、きっと」
「え、え?」
殿下は微笑むと、小さな音をたてて俺の唇を何度もついばみ、頭をやさしくなで回した。こんなの、物心ついた時から知らない、たぶんはじめての経験だ。とても貴重な、大切な思い出となるだろう。
(きっと、何度も思い出すんだろうな……)
これから先、どこへ向かおうと、どんなつらい目に合おうと、この思い出が俺をギリギリの淵から救ってくれる。きっと、生への執着を思い出させてくれる。
「俺、殿下にお会いできて、本当によかった」
「うん……僕も」
殿下は、抱きしめる腕をいっそう強くした。
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