神界の器

高菜あやめ

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第三部

三、負の感情

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  匡院宮家きょういんのみやの当主への挨拶を終えた飛鳥は、到着の夜にもかかわらず、湊に急かされて慌ただしく外出することになった。
「行き先はどちらですか」
「それは着いてからのお楽しみ。まあ多少は楽しめると思うよ」
 湊には駕籠かごに乗るよう勧められたが、飛鳥はとんでもないと固辞した。数名の駕籠を運ぶ使用人は、綺麗な身なりをして横を歩く飛鳥に対し、落ち着かない様子で時折チラチラと視線を向けていた。飛鳥としても居心地は良くないが、借り物の直衣姿で彼らに交じって駕籠を担ぐわけにもいかない。
 だが自分で操る馬ならいざ知らず、駕籠という乗り物とは昔から相性が悪い。あの揺れを堪えるくらいなら、好奇の目に晒されされながら歩く方がよっぽどいい。
 飛鳥は駕籠の小窓を見下ろすと、そこから顔を覗かせる湊と目が合った。小さく微笑まれて心臓が跳ねる。出る前に再び着替えた湊は、艶やかな白銀の直衣姿をしていた。綺麗に結い上げた襟足から伸びる、白い項が目を引く。
「行き先は何となく想像がつきます。西久世にしくぜのお屋敷ではないですか」
「よく分かったね。実は少し大きな宴が開かれていてね。ちょうど招かれていたから、顔を出すのもいいかと思って」
「もしや俺に会わせたい人とは、西久世のことですか」
 僅かな苛立ちを覚えつつ、それでも努めて冷静な声音でたずねると、湊はあっさりと否定した。
「それはまた別。でも西久世に会わせたいのも、まああるな」
「俺はお世話になるつもりはありません。もし面と向かってお話を持ちだされたら、その場できっぱりとお断りするつもりです」
「頑なだなあ。まあ、そういうお前も嫌いじゃないけどね」
 笑いを堪えている湊を横目で眺めつつ、飛鳥は沈んだ気持ちになった。
「湊は、いつも意地悪ですね」
「違うよ、可愛いからつい、からかっただけ」
「それが意地悪と言うのです」
 飛鳥は不貞腐れた顔を隠す為、駕籠の横を離れ、湊から見えない位置へ移動した。
 きっと余裕のある男ならば、こんな戯言くらい冗談でかわすだろう。だが生憎根が真面目で単純な飛鳥には到底無理だ。都に暮らす貴族をよく知る湊から見れば、さぞや口下手で面白みの無い男に違いない。
(湊は俺に、貴族のような振る舞いを学ばせたいのか)
 そうであれば、ますます都暮らしは辞退しなくてはならない。なぜなら少し前から、とある疑念が頭をもたげ、それが日に日に心を巣食い、広がりつつあるからだ。
(俺は……本当に、匡院宮家の血を引いているのだろうか)

 到着した西久世の屋敷は、匡院宮家に負けず劣らず大きく、また立派な門構えだった。
 飛鳥は、今まで見た事の無い数の人間を目の当たりにして、やや圧倒されていた。落ち着かない気持ちで周囲を眺めていると、駕籠から降りた湊に袖を引かれた。
「大丈夫か? 人酔いしないよう気をつけろよ」
「ええ……そうですね」
 飛鳥は、自分が大きな図体をしたいい大人と分かっているが、慣れない場に心細い気持ちに陥ってしまう。それを認めることは恥ずかしく、またかなり勇気もいった。
(本当に、俺は場違いな田舎者だな)
 来なければよかったと、今更後悔しても遅い。何もかもが不慣れな飛鳥は、湊の後ろをただ黙ってついていくしかない。
 一方、湊は慣れた様子で歩き出した。まさに勝手知ったるという調子で、その迷いない足取りから、過去に何度も訪れた事がうかがえた。
「この先の庭に出れば、縁側の適当なところから上がれるはずだよ」
「……よくご存知で」
 つい責めるような口振りになってしまうのは、知らない湊を目の当たりにして、心が騒ぐのを止められないからだ。湊はそんな飛鳥の気持ちを察したのか、歩調を緩めると、そっと飛鳥の袖に手を添えた。
「でも随分と久しぶりだから、私も多少は心細いんだよ?」
 そっと見上げてくる目元が妙に色っぽく、飛鳥は日の落ちた辺りの薄暗さに感謝した。そうでなければ、熱くなった頬が赤く見えて、さぞや滑稽に映ったことだろう。
「今夜は、飛鳥が一緒で心強いよ。ありがとう」
「……どういたしまして」
 そのまま二人は並んで庭先に出ると、縁側から室内へと上がり込んだ。
 庭に面した室内では、大勢の客が砕けた様子で酒と料理に興じていた。だが湊が登場すると、その場が一瞬静まり返った。
「これはこれは……湊殿ではありませんか」
「いつ都へお戻りで?」
 湊は騒めきだした周囲を物とせず、艶やかな微笑みを浮かべながら初老の男に近寄ると、流れるような所作で腰を下ろした。
「お久しぶりです、大納言殿」
「いやはや、お久しぶりですな。あなたがいない都はまるで火が消えたようだと、皆寂しく思っておりましたよ」
「滅相もございません、今は志摩の田舎に暮らす、つまらない男です。久しぶりに都の空気を吸うと、実に華やいだ気持ちになりますね」
「いや何をおっしゃることやら。湊殿こそお変わりなく……」
 飛鳥は目の前で繰り広げられる、まどろっこしい挨拶に辟易し、途中から聞くことを放棄した。顔はやや斜め下に向けたまま、そっと視線を庭先へと移動させる。
 庭には、たくさんの明かりがそこかしこに灯され、辺りは幻想的な空気に包まれていた。そして四方を篝火かかりびで取り囲まれた舞台が一際目を引く。舞台の中央では、美しい着物を纏った三人の女人が、笛の音に合わせて舞を舞っていた。
(あのような舞を、どこかで見たような気がする……随分と昔のことだと思うが)
 飛鳥は幼い頃、ほんの少しの間だが都に滞在したことがある。その間に一度だけ、とある貴族の屋敷に招かれ、あのような舞台の上で琵琶を弾かされた経験があった。
 当時、舞台へ上がる直前まで、奥の座敷に押し込められていた為、宴の席がどのような様子だったか朧げにしか憶えてない。
 それは飛鳥にとっては、ただ辛かった記憶でしかなかった。習いたての琵琶を抱えて、傷だらけの指で弾くのはとても痛かった。ただそれだけだ。
 来る日も来る日も、奥津の奥方と琵琶の師匠には厳しい指導を受け、長時間に及ぶ練習を強いられた。そして、うまく弾けないと折檻された。夜になると疲れ果て、時には熱を出し、泥のように眠った。
 そのような日々でも、明け方になると庭先に出て、朝霧に包まれた緑永山をよく眺めた。
(兄上は……今もご健勝だろうか)
 兄の雨音とは奉公先で生き別れになり、その後行方知れずとなったままだ。幾度となく消息を掴もうと試みるも、何の足取りも痕跡も掴めないまま今日に至る。
 飛鳥は湊の屋敷に来たばかりの頃、一度だけ兄に会った夢を見た。その時、兄が何を話していたか、残念ながらよく覚えていない。ただ夢見は悪くなく、幸せな気持ちになった記憶はある。
 飛鳥が兄について振り返る時、大抵は後ろめたく、苦々しい気持ちに陥ってしまう。それは飛鳥が幼い頃病弱だった為、奉公先で兄に散々苦労を掛けた事が大きい。
(病弱で役立たずの自分をかばって、身を粉にして働く兄上の姿は、見るに堪えなかった。兄上が自分をかばえばかばうほど、罪悪感が増して、心が重くなっていった。自分はこうして、一生兄上に迷惑を掛けながら生きていかなければならないのかと思うと、絶望感すら覚えたものだ……)
 だが今の飛鳥なら、当時の兄の気持ちが分かる気がする。自分の大切な存在に、ただひたすら尽くし、守り抜きたいという気持ち……それにすがって生きることが、唯一の希望だったのだと。
「……飛鳥、どうした? 何か面白いものでも見つけたか」
「え、ああ……舞を観てました」
 急に湊に声を掛けられ、我に返った飛鳥は、視線の先にあった舞台を差し示した。
「雅だね。実にあの方らしい趣向だ」
「あの方とは、西久世の……?」
「そう。とても趣味の良い方でね。私の美的感覚は、彼から受けた影響が大きいかな。さあ、そろそろ件の方に会いに行こう。きっと痺れを切らしている」
 湊は周囲の人間に対してにこやかに挨拶をすると、いかにも名残惜し気にその場を後にした。その作り物めいた笑顔に、飛鳥は不思議な既視感を覚える。
(ああ懐かしい表情だ……昔よくお見掛けしたものだな)
 湊はいつも、綺麗な笑顔で本心を隠す。その巧みさは、恐らく間近で育った飛鳥以外には、よほど親しい者でなければ見分けられないだろう。
 ふと飛鳥の脳裏に、つい先ほど匡院宮家の屋敷で面会した現当主の、あの蔑むような目つきがよぎった。
(あれは、どういう感情だろう……まるで湊のことを疎ましく思っておられるようだ)
 湊に向けられた負の感情が、飛鳥の心に影を落とす。自分があずかり知らない事情があるのだろう。しかし身内に向ける敵意とも取れる感情は、側から見ていた飛鳥を酷く落ち着かなくさせた。
 飛鳥はこれまで生きてきて、特に幼い時分は負の感情を向けられる事が多々あったが、少なくとも家族と呼べる者からではない。飛鳥の記憶の中の家族は、いつも温かくて優しくて、無条件に好意を向けてくれる存在だった。
 今や飛鳥の父も母も……そして兄も行方が分からず、身内と呼べるのは湊しかいない。その湊ですら、本当に血の繋がりがあるか疑わしい。
(だが俺と血縁である振りをして、湊に何の得がある?)
 逆なら然り。そう思われても仕方ない。湊は飛鳥の庇護者で、飛鳥は湊がいなければ、明日にも息が吸えるか分からないほど依存しているのだ。そう周囲に思われても当然だ……情けない事に、その事実を痛感しているのは、他でもない飛鳥自身なのだから。
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