つらじろ仔ぎつね

めめくらげ

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ー「いらっしゃいませ……あ」

「あ、とは何じゃ」

「ああ、はは、すみません。お久しぶりですゲーテさん」

「おや、俺の名を覚えていたか」

「ゲーテなんて、なかなか忘れられないですよ」

「俺も覚えとるぞ。西だ」

「名札見ましたね」

「……西 幸四郎」

「おお、すごい、フルネーム」

「何かうまいのつけてくれ。今夜はポン酒よりウイスキーの気分だ」

「はい。飲み方は?」

「水割り」

「少々お待ちを」

先に乾きものを置いて、ボトルの棚から酒を選ぶ。

「……今日はどこへお出かけに?」

「上野にパンダを見に」

「パンダ?」

「急きょそういう気分になってな。はじめて見たぞ」

「動物園、行ったことなかったんですか」

「ああ。しかしあいつのみどり色への執念には鬼気迫るものがあった」

「彼らは食ってばっかですからね。食うか寝るか……うちの猫みたいに」

「だがネコのような賢さや愛嬌はなかったな」

「そうですか。うちの子も似たようなものですが、多少は愛嬌がありますかねえ」

ゲーテが下唇を軽く噛んで、何かを探るように西の横顔を見る。

「どうぞ」

コースターの上に水割りを置く。一口飲んで、タバコに火をつけた。そのとき西がおもむろに紙袋を差し出してきた。

「これ」

「何じゃ?」

「あなたの服ですよ」

「へ?服?」

「ゲーテさん、うちに泊まった日どうやって帰ったんです?これ一式置いてったでしょう。しかも靴まで。服はクリーニングに出しときましたよ、なんかやけに高そうだったんで」

「………え、あ、ああ………すまんな」

動揺を隠しもせず受け取る。中には確かに『あの日』に着ていた服と、その奥には革靴が新聞紙にくるまって入っていた。この紙袋に服と靴を入れているのは見ていたが、どこかに捨てられたか売られたかしたと思っていたので、まさかクリーニングに出されていたとは思わなかった。

「あの日は……酔ってたからよく覚えとらん」

「かと言ってさすがに素っ裸で帰ることはないでしょう」

「たぶん寝ぼけて、適当にお前の服を着て帰ったと思う。ああ、たぶんそうだ。それしかない」

慌てるゲーテに思わずくすりと笑い、「まあ、捕まらなくてよかったです」と言った。

「今夜はなぜだか、久々にゲーテさんに会いたかったんです。どんな顔をしてたのか、もう一度よく見たくなって」

「よせ、気色悪い。俺はお前の顔をよく覚えてたぞ。俺と正反対の、むさ苦しくて垢抜けない男じゃ」

「ははは、覚えてくれてたとは嬉しいです。少なからず俺に興味があったということですね」

「そういうことではない」

「でも俺は興味がありましたよ、あなたのこの顔に、ずっと」

「………」

この顔、という言葉に、何か含みのようなものを感じた。

「ゲーテさんはやっぱりイケメンですね」

「………そうかい。そらよかったな」

「今夜は、どうしてここに来てくれたんですか?」

「飲み屋に来るのに酒を飲みたい以外の理由は無かろう」

「うちでなくとも、いろいろ行きつけはありそうですけど」

「何か妙な勘ぐりをしとるのか?俺がお前に惚れてるとでも思ってるんじゃなかろうな」

「思ってませんて。あなたは基本的にはそっけない男ですし」

何だろう、この男は、さっきから何を言いたいのだ。ゲーテは戸惑った。

「それより西よ、この水割り、ずいぶん薄い」

「また飲みすぎると困りますからね。俺はいいですけど、あんまり酔うとあなたが困るでしょう」

「もうあんなにはならん」

嫌な汗をかきながら、平静をよそおった。そろそろ話題を変えたい。

「………ときに、お前はなぜあのボロアパートに暮らしとるのだ?」

「大学から近くて、家賃の上限を三万五千円にして探したら、あそこしかなかったからです」

「なんと……三万五千円。まあ、あの部屋じゃあそのくらいが妥当か。むしろ高いくらいだ。お前は貧困家庭の生まれか。」

「ええ、はっきり言って余裕はないですね。実は兄弟も多くて、俺の上に兄貴が三人いるんですよ」

「いまどき珍しいな。四人兄弟か。親御さんはひとりっくらい女がほしかったんだろうな」

「ははは、まさしくそうだと思います。口にはしませんけどね。まあそういうわけで、ギリギリ学費だけは出してもらえましたが、それ以外のすべての生活費や税金その他諸々は、なんとかバイトでやりくりしてるんです。最初はそんなの余裕だと思ってましたが、学校に行きながらバイトをして生活するということはなかなか厳しかったです。勉強の時間も満足に取れないですし」

「そうだろうな。大学は昔から、金に余裕のある家の奴らしか行けないところだ」

だが……と、言おうかどうか迷いつつ、続ける。

「それでも……お前はとてもよく頑張ってるようじゃないか。一所懸命やることは……俺は嫌いだが、人間としてとても大事なことだろう。だから人間のお前はその点に関してはエライと言える」

目を逸らしながら、小さな声でいう。西はそんなゲーテを見て、少し恥ずかしそうに穏やかな笑みを浮かべた。

「ゲーテさんにそう言ってもらえると、どんな苦労も吹き飛びます」

「お前、俺のことが相当スキだな」

「好きですよ」

「俺はお前など何とも思っとらん」

「そういうのが、なんかちょうどいいんです。俺たち」

「…………」

「何か食べます?」

「突き出しのおかわりくれ」

「はい」

小鉢にニボシを山盛りに入れてやり、「いくらでもありますので」と笑った。
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