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最強天使、東京に舞い降りるはずが落下
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「サミュエル様、どうぞお召し上がりください」
「ありがとう」
再び窓のそばへ近寄った俺に、トレーに乗せたコーヒーを差し出すバレット。俺はソーサーからコーヒーカップを持ち上げ、その芳醇な香りを楽しんだ。酸味のあるコーヒーが苦手な俺に、バレットはこれでもかと苦みを加える。度合いが強すぎて笑ってしまうこともあるが、まあいいだろう。
口に含み味わいながら、渋谷の街並みを見下ろす。青信号がピカピカと点滅すると、どこか慌てた様子で歩道へ向かう日本人たち。ニューヨークでは、信号はその意味を成していないかのような様子を目にしたが、これもまた文化の違いというものだろうか。
「東京は猛暑日が続いているようだな」
「ええ。着替えを多めにご用意しております」
艶のある黒髪に、灰色がかった黒い瞳。俺のルーツは、おそらく日本だろう。——なぜ断定できぬのか。それは、天使は過去の記憶が何ひとつ残されていないからだ。ゆえに確かめようもない事実なのである。
さて、訪れるたびその魅力に取り憑かれてしまう長細い島国、ニッポン。伝統をド無視し、自国流にアレンジした料理を次々と生み出し、それがやたらと旨いのだ。
イタリアでのミッション後、日本へ。
——ナポリタン?イタリア料理への冒涜だろ → うまっ!
スペインでのミッション後、日本へ。
——オムライス?スパニッシュオムレツの派生か? → うまあっ!
ビーフストロガノフに似たハヤシライス → ハヤシさん、天才。
ホワイトソースと米を合わせたドリア → 好き(シンプル)。
例を挙げればきりがない。街を歩けば両脇に飲食店。居酒屋の斜め前に居酒屋。焼き鳥屋の斜め前に焼肉屋。互いに道場破りのようなバトルが繰り広げられているかというと、案外そうでもない。食に対する貪欲さが、いい意味で異常に尖っている国。それが、日本である。
「サミュエル様のルーツが、高確率で日本でいらっしゃいますので。私も妙に詳しくなってしまい、困惑しておりますよ……おや、行列必須。三十分……ふむ」
ファイルをめくり、生ドーナツの情報を再確認するバレット。抑えきれない笑みが溢れているぞ、素直じゃない男め。その美しい顔立ちに似合わず、ヨダレを垂らす寸前ではないか!
しかし、生ドーナツとは何だ?揚げぬドーナツなど、ドロドロの生地ではないか。固形でも液状でも「旨い」に昇華させる日本の匠の技。麗しきその国の名は、日本。俺のルーツらしきその地!……アピールがくどい。
「ときにサミュエル様。日本でまた迷子にならぬよう、お気をつけくださいませ」
俺はコーヒーカップをソーサーへ戻し、テーブルに置いた。また、という言葉がチクチクと心に刺さってくるではないか。
「サミュエル様は前回、目的地から少々ズレたところに舞い降りられて」
「……うむ」
「京都で思いがけず時間を浪費なさったことを、覚えていらっしゃいますでしょうか?」
「ああ」
痛恨のミスだ。忘れるわけあるまい。あの日、俺は確かに京都タワー付近を目指していたはずだった。だが気づけば、降り立ったのは見知らぬ古民家風喫茶の裏庭。ほう、小さな網の上で、櫛に刺さったこれまた小さな餅をこんがりと焼き、味噌をくっつけて食べているぞ。ははは。旨そうだな!
……などと腹を鳴らしている場合ではなく。迷子の外国人観光客と、同じ扱いを受ける始末だったのだ。
「サミュエル様を見失い、戸惑った私の気持ちもお察しくださいませ」
「そうだな。すまなかった……」
「私は一人で八つ橋の食べ比べをしたり、納得がいくまでおみくじを引いたりと。いやはや、時間を潰すのに苦労致しましたよ?」
めちゃくちゃ観光を楽しんでいる件。どういうことだ?
「下界へのドアの調子が悪かったからだろう? 迷子になったのは、俺だけが原因ではないぞ」
俺はクローゼットの扉を開けた。ハンガーにかけられたスーツの数々。ネイビー、グレー、ワインレッド……今日はストライプが入った、このブラックスーツにしようか。俺はガウンを脱ぎ、真っ白なワイシャツに腕を通した。
「例えそうだと致しましても、そこからきちんと軌道修正をし、目的地へ舞い降りる天使が九十九パーセントでございます。残りの一パーセントは、サミュエル様でございます」
ぐうの音も出ない。俺は体を小さくしてストライプスーツのズボンを穿き、ベルトを締めた。……いや、待てよ?
「バレットこそ、すぐに俺のもとへワープをしなかったではないか! 天使一人では、下界でワープ機能が使えないことを知っているだろう!?」
「そ、それは! 大吉がなかなか出ないおみくじのからくりに、つい研究熱心になっておりまして!」
研究じゃなくただの執念である。ものは言いようだ。俺は襟を立て、ボルドーのネクタイを引っかけた。結び目を整えつつ、鏡越しにバレットを見やった。
「今回のミッションは行き慣れた東京だ。問題ないだろう」
「油断は禁物でございます。サミュエル様は私の話を聞いていらっしゃるようで、実際は半分くらい聞き流していらっしゃいます」
自覚アリ。
「そして、方向感覚が絶望的でございます。ミッションを最速でコンプリートなさる最強天使とはいえ、その点に関しましては致命的でございます」
丁寧な口調でボロカスに言われている。俺が目を細めると、バレットは白々しく視線をそらして窓の外を見つめた。
そうか、思い出したぞ。あの日、俺が京都で迷子になったせいでバレットは記念日のデートに遅刻し、ローザにこっぴどく叱られたのだ。どうやら根に持っているらしい。すまぬ。……と謝りたいところだが、八つ橋の食べ比べに、狂気に満ちたおみくじの連発。そもそも大吉にこだわらなければ、遅刻も防げたのでは?
とはいえ、たまにはゆっくりして欲しい。俺とバディを組むバレットも、多忙を極めている。
「バレット、休暇をやろう。俺と一緒に東京に舞い降りたあとは、自由に行動してくれ。ローザと共に観光を楽しむといい」
驚いたようにバレットが目を見開き、キラリと光る眼鏡の奥から俺を凝視した。
「最近バレットも働き詰めだったろう?」
「サミュエル様、ありがとうございます。お仕えする方が方向音痴でいらっしゃるのは、なんともまあ、毎日が冒険のようでございまして。日々、刺激が絶えず——」
「……休暇、いらないのか?」
「ありがたく頂戴致します」
バレットは懐から羽根ペンを取り出し、申請書に文字をしたため始めた。ペン先が紙を走るたび、淡い光の粒がふわりと舞い上がり宙に散っていく。
「なぜ、数日後からなんだ? 今日からでいいぞ」
俺はジャケットを羽織った。毎度のことではあるが、スーツに身を包むと背筋が自然と伸びる。天使は下界に舞い降りる際、必ず正装をする。それは人間に敬意を示すためである。我々は「救ってやっている」といった上から目線ではないのだ。
「本日からでよろしいのでしょうか?」
「構わん」
「サミュエル様。何度も申し上げていることではございますが……。くれぐれも人間と親しくならぬよう、お気をつけくださいませ」
天使は人間と深く関わってはならない。それが長きに渡り、上界で受け継がれてきた【掟】である。
「わかっている」
「情が湧いてしまえば、互いに不幸を招きます。サミュエル様は冷静沈着に見えて、実は誰よりも情に厚い。そこを私は心配しているのです」
その声音はいつになく真剣だった。皮肉を交えて語ることの多いバレットが、ここまで言うのは珍しい。第六感の鋭い彼の言葉が、ずしりとこの胸に響いていく。だが——。
「例え関わりを持ったとて、だ。我々がミッションを終え、上界に戻れば……」
「ええ。人間の記憶から、サミュエル様も私も、すべて消去されます」
どんなに感謝をされても、どれほど深い絆を交わしても。それが天使と執事の所業であることを、人間は覚えていない。
ただ夢のように、一瞬の温もりだけを残して我々は消え去る。——それが、掟。
「ですが、サミュエル様は覚えていらっしゃいますゆえ……」
「バレットは心配性だな。俺は最速でミッションコンプリートをこなす最強天使だ。人間と馴れ合うなどありえぬ」
バレットはわずかに視線をそらし、休暇申請書を俺に差し出した。
「サミュエル様。私の休暇中はサポート体制が半分程度に減りますが、本当に本日からで問題ございませんか?」
「構わん」
「よろしいんですね? 三分の一程度のサポート体制でございますよ?」
なぜ、減らしたんだ。
「……問題ない」
「では、こちらにサインをお願い致します」
俺は羽根を揺らしてペン先を走らせた。署名と同時に、申請書の文字がオーロラ色に輝き出す。最強天使の魔法の光は、上界のどの者よりも強い。まばゆい光を放ちながら、文字が張り付くように紙面を満たしていく。申請書は明滅しながら天井へと舞い上がり、ひときわ強く瞬いたのち、パアンッと弾け消えた。
「サミュエル様。執事の休暇中は、ワープ機能が使えませんので……。お迎えにも伺えず、サミュエル様がミッションコンプリートをなさらない限り、上界へお戻りにはなれませんよ?」
俺は頷き、左腕に腕時計を装着した。チクタクと秒針の音が耳に響く。針を合わせた先は日本時間である。
「すぐに終えて帰ってくる」
「私への通信機能も、通話は一日五分まで。メッセージも、一件が限界でございますからね?」
「問題ない」
そう口にしながらも、どうも腕時計の調子が悪いぞ。秒針がわずかにズレており、今にも止まりそうだ。先日修理に出したばかりだが、やはりラファエロに見てもらわぬと無意味だったか。装飾品に、絵画に、建造物にと、彼は創作のスペシャリストである。
「サミュエル様。くれぐれも迷子になりませんよう、お気をつけくださいませ」
「うむ……」
最後の忠告がやけに引っかかる。方向感覚が壊滅的だと、ここまで信用されないのだろうか。俺は咳払いひとつで気持ちを立て直し、胸元のネクタイを正した。
「さて、行くか」
チクタクチクタ……クッ——。
秒針が震え時々止まってしまう。参ったな。今日のミッションが終わるまで、なんとかもって欲しいものだが。
「ドアは日本にて、設定を完了しております。ダイヤルは『右・右・左・右・左』でございます。サミュエル様、行ってらっしゃいませ。いつも通り、サミュエル様が舞い降りられてから五秒後、私も参りますので」
「ははは。お前はミッションではない、休暇だ。同時で構わん」
「私は仕える身でございます。そういうわけには参りません」
俺は腕時計に視線を落とし、左腕を何度か振った。やはり右方向にイマイチである。
「サミュエル様?」
ひだりのみぎの……針の……ええと、なんだ?ドアのダイヤルは『左・左・右・左・右』だったか、よし。
ガチャリ————
「ちょっ!? サミュエル様!!」
この腕時計も、そろそろ人間で例えるところの寿命とやらかもしれんな。
「サミュエル様お待ちください! 私はすでにワープができませ……!」
「ははは。バレット、最後の最後まで俺を心配して——」
「ちがっっ! それは、東京への扉ではございませんよ!?」
——え。
「サミュッ……!」
——ええっ。
——ええええっ!?えええええぇぇぇぇぇあああああああーーーっっっ!!
バレットが左腕を伸ばしたが、俺はすでにドアの外へ一歩を踏み出していた。そして気づけば雲の上に飛び込み、ぐんぐん下界に落ちていた……ぁぁああああーーーーっっ!!
「サミュエルさまあああーーーっっ!!」
「バレットよ! この扉はどこに続いている!?」
「休暇をありがとうございまあああーーーーすっっ!!」
——いやいやいや!
それ言うタイミング、今じゃねえだろおおおおぉぉあああーーーーっっ!!!
——続く——
読んでくださりありがとうございます^^!ますます盛り上がっていきますので、続きをぜひご覧ください!
「ありがとう」
再び窓のそばへ近寄った俺に、トレーに乗せたコーヒーを差し出すバレット。俺はソーサーからコーヒーカップを持ち上げ、その芳醇な香りを楽しんだ。酸味のあるコーヒーが苦手な俺に、バレットはこれでもかと苦みを加える。度合いが強すぎて笑ってしまうこともあるが、まあいいだろう。
口に含み味わいながら、渋谷の街並みを見下ろす。青信号がピカピカと点滅すると、どこか慌てた様子で歩道へ向かう日本人たち。ニューヨークでは、信号はその意味を成していないかのような様子を目にしたが、これもまた文化の違いというものだろうか。
「東京は猛暑日が続いているようだな」
「ええ。着替えを多めにご用意しております」
艶のある黒髪に、灰色がかった黒い瞳。俺のルーツは、おそらく日本だろう。——なぜ断定できぬのか。それは、天使は過去の記憶が何ひとつ残されていないからだ。ゆえに確かめようもない事実なのである。
さて、訪れるたびその魅力に取り憑かれてしまう長細い島国、ニッポン。伝統をド無視し、自国流にアレンジした料理を次々と生み出し、それがやたらと旨いのだ。
イタリアでのミッション後、日本へ。
——ナポリタン?イタリア料理への冒涜だろ → うまっ!
スペインでのミッション後、日本へ。
——オムライス?スパニッシュオムレツの派生か? → うまあっ!
ビーフストロガノフに似たハヤシライス → ハヤシさん、天才。
ホワイトソースと米を合わせたドリア → 好き(シンプル)。
例を挙げればきりがない。街を歩けば両脇に飲食店。居酒屋の斜め前に居酒屋。焼き鳥屋の斜め前に焼肉屋。互いに道場破りのようなバトルが繰り広げられているかというと、案外そうでもない。食に対する貪欲さが、いい意味で異常に尖っている国。それが、日本である。
「サミュエル様のルーツが、高確率で日本でいらっしゃいますので。私も妙に詳しくなってしまい、困惑しておりますよ……おや、行列必須。三十分……ふむ」
ファイルをめくり、生ドーナツの情報を再確認するバレット。抑えきれない笑みが溢れているぞ、素直じゃない男め。その美しい顔立ちに似合わず、ヨダレを垂らす寸前ではないか!
しかし、生ドーナツとは何だ?揚げぬドーナツなど、ドロドロの生地ではないか。固形でも液状でも「旨い」に昇華させる日本の匠の技。麗しきその国の名は、日本。俺のルーツらしきその地!……アピールがくどい。
「ときにサミュエル様。日本でまた迷子にならぬよう、お気をつけくださいませ」
俺はコーヒーカップをソーサーへ戻し、テーブルに置いた。また、という言葉がチクチクと心に刺さってくるではないか。
「サミュエル様は前回、目的地から少々ズレたところに舞い降りられて」
「……うむ」
「京都で思いがけず時間を浪費なさったことを、覚えていらっしゃいますでしょうか?」
「ああ」
痛恨のミスだ。忘れるわけあるまい。あの日、俺は確かに京都タワー付近を目指していたはずだった。だが気づけば、降り立ったのは見知らぬ古民家風喫茶の裏庭。ほう、小さな網の上で、櫛に刺さったこれまた小さな餅をこんがりと焼き、味噌をくっつけて食べているぞ。ははは。旨そうだな!
……などと腹を鳴らしている場合ではなく。迷子の外国人観光客と、同じ扱いを受ける始末だったのだ。
「サミュエル様を見失い、戸惑った私の気持ちもお察しくださいませ」
「そうだな。すまなかった……」
「私は一人で八つ橋の食べ比べをしたり、納得がいくまでおみくじを引いたりと。いやはや、時間を潰すのに苦労致しましたよ?」
めちゃくちゃ観光を楽しんでいる件。どういうことだ?
「下界へのドアの調子が悪かったからだろう? 迷子になったのは、俺だけが原因ではないぞ」
俺はクローゼットの扉を開けた。ハンガーにかけられたスーツの数々。ネイビー、グレー、ワインレッド……今日はストライプが入った、このブラックスーツにしようか。俺はガウンを脱ぎ、真っ白なワイシャツに腕を通した。
「例えそうだと致しましても、そこからきちんと軌道修正をし、目的地へ舞い降りる天使が九十九パーセントでございます。残りの一パーセントは、サミュエル様でございます」
ぐうの音も出ない。俺は体を小さくしてストライプスーツのズボンを穿き、ベルトを締めた。……いや、待てよ?
「バレットこそ、すぐに俺のもとへワープをしなかったではないか! 天使一人では、下界でワープ機能が使えないことを知っているだろう!?」
「そ、それは! 大吉がなかなか出ないおみくじのからくりに、つい研究熱心になっておりまして!」
研究じゃなくただの執念である。ものは言いようだ。俺は襟を立て、ボルドーのネクタイを引っかけた。結び目を整えつつ、鏡越しにバレットを見やった。
「今回のミッションは行き慣れた東京だ。問題ないだろう」
「油断は禁物でございます。サミュエル様は私の話を聞いていらっしゃるようで、実際は半分くらい聞き流していらっしゃいます」
自覚アリ。
「そして、方向感覚が絶望的でございます。ミッションを最速でコンプリートなさる最強天使とはいえ、その点に関しましては致命的でございます」
丁寧な口調でボロカスに言われている。俺が目を細めると、バレットは白々しく視線をそらして窓の外を見つめた。
そうか、思い出したぞ。あの日、俺が京都で迷子になったせいでバレットは記念日のデートに遅刻し、ローザにこっぴどく叱られたのだ。どうやら根に持っているらしい。すまぬ。……と謝りたいところだが、八つ橋の食べ比べに、狂気に満ちたおみくじの連発。そもそも大吉にこだわらなければ、遅刻も防げたのでは?
とはいえ、たまにはゆっくりして欲しい。俺とバディを組むバレットも、多忙を極めている。
「バレット、休暇をやろう。俺と一緒に東京に舞い降りたあとは、自由に行動してくれ。ローザと共に観光を楽しむといい」
驚いたようにバレットが目を見開き、キラリと光る眼鏡の奥から俺を凝視した。
「最近バレットも働き詰めだったろう?」
「サミュエル様、ありがとうございます。お仕えする方が方向音痴でいらっしゃるのは、なんともまあ、毎日が冒険のようでございまして。日々、刺激が絶えず——」
「……休暇、いらないのか?」
「ありがたく頂戴致します」
バレットは懐から羽根ペンを取り出し、申請書に文字をしたため始めた。ペン先が紙を走るたび、淡い光の粒がふわりと舞い上がり宙に散っていく。
「なぜ、数日後からなんだ? 今日からでいいぞ」
俺はジャケットを羽織った。毎度のことではあるが、スーツに身を包むと背筋が自然と伸びる。天使は下界に舞い降りる際、必ず正装をする。それは人間に敬意を示すためである。我々は「救ってやっている」といった上から目線ではないのだ。
「本日からでよろしいのでしょうか?」
「構わん」
「サミュエル様。何度も申し上げていることではございますが……。くれぐれも人間と親しくならぬよう、お気をつけくださいませ」
天使は人間と深く関わってはならない。それが長きに渡り、上界で受け継がれてきた【掟】である。
「わかっている」
「情が湧いてしまえば、互いに不幸を招きます。サミュエル様は冷静沈着に見えて、実は誰よりも情に厚い。そこを私は心配しているのです」
その声音はいつになく真剣だった。皮肉を交えて語ることの多いバレットが、ここまで言うのは珍しい。第六感の鋭い彼の言葉が、ずしりとこの胸に響いていく。だが——。
「例え関わりを持ったとて、だ。我々がミッションを終え、上界に戻れば……」
「ええ。人間の記憶から、サミュエル様も私も、すべて消去されます」
どんなに感謝をされても、どれほど深い絆を交わしても。それが天使と執事の所業であることを、人間は覚えていない。
ただ夢のように、一瞬の温もりだけを残して我々は消え去る。——それが、掟。
「ですが、サミュエル様は覚えていらっしゃいますゆえ……」
「バレットは心配性だな。俺は最速でミッションコンプリートをこなす最強天使だ。人間と馴れ合うなどありえぬ」
バレットはわずかに視線をそらし、休暇申請書を俺に差し出した。
「サミュエル様。私の休暇中はサポート体制が半分程度に減りますが、本当に本日からで問題ございませんか?」
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「よろしいんですね? 三分の一程度のサポート体制でございますよ?」
なぜ、減らしたんだ。
「……問題ない」
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「すぐに終えて帰ってくる」
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そう口にしながらも、どうも腕時計の調子が悪いぞ。秒針がわずかにズレており、今にも止まりそうだ。先日修理に出したばかりだが、やはりラファエロに見てもらわぬと無意味だったか。装飾品に、絵画に、建造物にと、彼は創作のスペシャリストである。
「サミュエル様。くれぐれも迷子になりませんよう、お気をつけくださいませ」
「うむ……」
最後の忠告がやけに引っかかる。方向感覚が壊滅的だと、ここまで信用されないのだろうか。俺は咳払いひとつで気持ちを立て直し、胸元のネクタイを正した。
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チクタクチクタ……クッ——。
秒針が震え時々止まってしまう。参ったな。今日のミッションが終わるまで、なんとかもって欲しいものだが。
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「ははは。お前はミッションではない、休暇だ。同時で構わん」
「私は仕える身でございます。そういうわけには参りません」
俺は腕時計に視線を落とし、左腕を何度か振った。やはり右方向にイマイチである。
「サミュエル様?」
ひだりのみぎの……針の……ええと、なんだ?ドアのダイヤルは『左・左・右・左・右』だったか、よし。
ガチャリ————
「ちょっ!? サミュエル様!!」
この腕時計も、そろそろ人間で例えるところの寿命とやらかもしれんな。
「サミュエル様お待ちください! 私はすでにワープができませ……!」
「ははは。バレット、最後の最後まで俺を心配して——」
「ちがっっ! それは、東京への扉ではございませんよ!?」
——え。
「サミュッ……!」
——ええっ。
——ええええっ!?えええええぇぇぇぇぇあああああああーーーっっっ!!
バレットが左腕を伸ばしたが、俺はすでにドアの外へ一歩を踏み出していた。そして気づけば雲の上に飛び込み、ぐんぐん下界に落ちていた……ぁぁああああーーーーっっ!!
「サミュエルさまあああーーーっっ!!」
「バレットよ! この扉はどこに続いている!?」
「休暇をありがとうございまあああーーーーすっっ!!」
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