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庭園の一角。金糸をまぶしたような木漏れ日が降りそそぐ白い石畳の上、ミレナシア姫はうつむいた。
簡易結界の内側は鳥のさえずりさえ遠く、世界から隔絶されているよう。
口元のティーカップから薄く立ち上る湯気が頬を撫で、花の香りと甘い乳の匂いが混ざり合う。
「……おいしい」
ぽつりと漏れたその声に、ユリウスは静かに微笑む。
ほんの少し視線を伏せた姫の唇が、なにかをほどいていくように動いた。
「──カイン様のこと」
声は震えていなかった。
「……たとえ、白い結婚だとしても、わたくしは構わなかったのです」
ミレナシアはソーサーへとカップを戻し、ぽつぽつと語り出した。
「政治のための婚姻なんて、珍しくもありませんもの。あの方が隣にいてくださるなら――それだけで、きっと十分だと」
ユリウスは黙って相槌を打つように、軽く頷いた。
姫は視線を手元にだけ注いで、まるで自分に言い聞かせるように続ける。
「……あの方に、初めてお会いしたのは隣国への外交の折でした。あの時、賊に襲撃を受け……あの方が庇ってくださったのです」
それはミレナシアが王の外交へ着いていった時の話で、ユリウスも当然耳にしている話である。
ふ、と顔を上げた姫の顔には、あこがれで紅潮させた頬があった。
「弓矢が――こう、びゅん!と飛んできて!」
「びゅんと」
「そう、それを! カイン様がすっ、と剣で払いまして! それはもう見事でしたの!」
次いで現れた賊は刃物を持ち、我らが団長は姫を庇いながら見事にこれも退けてみせた……と、団の記録にもある。
「……もちろんそれが……護衛が彼に課せられたことだと、分かっていないわけではなかったのに」
目を細め、ふっと微笑む。
その横顔に、憧れと恋慕が柔らかく重なる。
「それからです。お会いするたびに、どうしても目で追ってしまって。あの方を眺めているだけで胸が高鳴ってしまうんです」
姫が静かに語ることを、ユリウスも共に思い返す。訓練場への視察が日に日に増えていって、誰から見ても姫の慕情は明らかだった。
「城下町でお祭りがあるって聞いて城を抜け出した時も」
「姫様そんなことしてたんですかヤバいな」
「ちゃんと護衛はつけましてよ!」
そういう問題でもないんだけど、と半ば呆れつつユリウスは頷く。
「城下の小さな広場で、彼が子供たちに剣の構えを教えていたんです。とても穏やかな笑顔で、子供たちの頭を撫でて……あの笑顔を見た瞬間、胸が――あたたかくなって、どうしようもなくなって」
ユリウスはそれ以上何も言わず、ただ静かに聞いていた。
姫の頬がゆるやかに紅潮していく。
「その笑顔が、忘れられなかったのです。それで……どうしてもあの方のそばにいたくて。父王にお願いしました。婚姻を、と」
「……なるほど。それで王は叶えられたと」
「ええ、本当にうれしかった」
ユリウスが笑って、姫も小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐに震えに変わる。
「でも……」
ぽつりと、ミレナシアは続けた。
「結婚してから、一度も……笑顔を見せてもらえなくて。それどころか、こちらを見てももらえないのです」
姫の指がカップの縁をなぞる。唇は笑みの形を作ってはいたけれど、その瞳には今にもあふれそうな涙があった。
「望まれた結婚ではなかったのです。あの方は、きっと――義務として、受け入れてくださっただけ」
言葉が静かに落ちる。頬へも、こらえきれない雫が伝った。
結婚をしてからというもの、何をしてもから回っている気配だけがあった。
義務だというならそれでもいい。覚悟はしたつもりだった。けれど。
日に日に育った恐ろしい疑念が、ミレナシアの心を塞がせてきていた。
(義務で付き合ってくれるというなら、それだけでも。そう思っていたのに)
こんなに避けられる日々が続くだなんて。
「もう……わたくしのことなど嫌いではないのかと……」
ぽろり、と涙がこぼれた。
つづいてもうひとつ、そしてもうひとつ。
雫が頬を伝い、手の甲に落ちる。
姫はもう、笑顔を保ってはいられなかった。
とうとう両手で顔を覆い、肩を悲しみに震わせる。
「わたくしは…わたくしはずっと……」
簡易結界の内側は鳥のさえずりさえ遠く、世界から隔絶されているよう。
口元のティーカップから薄く立ち上る湯気が頬を撫で、花の香りと甘い乳の匂いが混ざり合う。
「……おいしい」
ぽつりと漏れたその声に、ユリウスは静かに微笑む。
ほんの少し視線を伏せた姫の唇が、なにかをほどいていくように動いた。
「──カイン様のこと」
声は震えていなかった。
「……たとえ、白い結婚だとしても、わたくしは構わなかったのです」
ミレナシアはソーサーへとカップを戻し、ぽつぽつと語り出した。
「政治のための婚姻なんて、珍しくもありませんもの。あの方が隣にいてくださるなら――それだけで、きっと十分だと」
ユリウスは黙って相槌を打つように、軽く頷いた。
姫は視線を手元にだけ注いで、まるで自分に言い聞かせるように続ける。
「……あの方に、初めてお会いしたのは隣国への外交の折でした。あの時、賊に襲撃を受け……あの方が庇ってくださったのです」
それはミレナシアが王の外交へ着いていった時の話で、ユリウスも当然耳にしている話である。
ふ、と顔を上げた姫の顔には、あこがれで紅潮させた頬があった。
「弓矢が――こう、びゅん!と飛んできて!」
「びゅんと」
「そう、それを! カイン様がすっ、と剣で払いまして! それはもう見事でしたの!」
次いで現れた賊は刃物を持ち、我らが団長は姫を庇いながら見事にこれも退けてみせた……と、団の記録にもある。
「……もちろんそれが……護衛が彼に課せられたことだと、分かっていないわけではなかったのに」
目を細め、ふっと微笑む。
その横顔に、憧れと恋慕が柔らかく重なる。
「それからです。お会いするたびに、どうしても目で追ってしまって。あの方を眺めているだけで胸が高鳴ってしまうんです」
姫が静かに語ることを、ユリウスも共に思い返す。訓練場への視察が日に日に増えていって、誰から見ても姫の慕情は明らかだった。
「城下町でお祭りがあるって聞いて城を抜け出した時も」
「姫様そんなことしてたんですかヤバいな」
「ちゃんと護衛はつけましてよ!」
そういう問題でもないんだけど、と半ば呆れつつユリウスは頷く。
「城下の小さな広場で、彼が子供たちに剣の構えを教えていたんです。とても穏やかな笑顔で、子供たちの頭を撫でて……あの笑顔を見た瞬間、胸が――あたたかくなって、どうしようもなくなって」
ユリウスはそれ以上何も言わず、ただ静かに聞いていた。
姫の頬がゆるやかに紅潮していく。
「その笑顔が、忘れられなかったのです。それで……どうしてもあの方のそばにいたくて。父王にお願いしました。婚姻を、と」
「……なるほど。それで王は叶えられたと」
「ええ、本当にうれしかった」
ユリウスが笑って、姫も小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐに震えに変わる。
「でも……」
ぽつりと、ミレナシアは続けた。
「結婚してから、一度も……笑顔を見せてもらえなくて。それどころか、こちらを見てももらえないのです」
姫の指がカップの縁をなぞる。唇は笑みの形を作ってはいたけれど、その瞳には今にもあふれそうな涙があった。
「望まれた結婚ではなかったのです。あの方は、きっと――義務として、受け入れてくださっただけ」
言葉が静かに落ちる。頬へも、こらえきれない雫が伝った。
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義務だというならそれでもいい。覚悟はしたつもりだった。けれど。
日に日に育った恐ろしい疑念が、ミレナシアの心を塞がせてきていた。
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こんなに避けられる日々が続くだなんて。
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つづいてもうひとつ、そしてもうひとつ。
雫が頬を伝い、手の甲に落ちる。
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「わたくしは…わたくしはずっと……」
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