信長座☆座付作家 太田又助  《火起請の巻》

亜月文具

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第六章

弓懸  冬曇り  狩野元斎

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   弓懸

 相変わらず火鉢を抱える良政が御用部屋に根を下ろしていた。
「山王社には、萬松寺の名で多大の寄進が今もある。が、調べてみればそれは一色ノ方の手配によるものだと、すぐにわかった」
 良政は、皺顔をくちゃと歪めて牛一を見た。
 いつの間にやら新しい見聞を仕入れていた。
 苔生こけむした古木然とただ根を下ろしている訳ではない。
「山王社も、決して中立という訳ではなさそうですな」
 考え込む牛一は、上目遣いに新しい話を期待した。
 良政は楽しそうに熾った赤い炭を火箸で突っついている。
「そういえば、お屋形さまが又助を探しておったな」
「え、昨日、早速に山王社における火起請の仔細を詳しくお知らせしたばかりで......」
「そんな話ではない。お主、なにやら忘れてはおらぬか」
「いえ、滅相ものうござります」
 良政は意味ありげに笑うと、火鉢に顔を落とした。
 不気味な笑みを目の当たりにすると、首筋が寒くなる。牛一は頭を捻って思い返した。
「お、太鼓の音が聞こえる。稽古は、休みかの」
 良政は白々しく天井を見上げた。
 牛一は慌てて弓場殿に向かった。
 信長への弓の稽古は慎重を期し、その一挙一動を注視した。機嫌が悪くはなさそうだ。良政の脅かしだろうと気を抜いた、その時。
 牛一が外した弓懸ゆがけを睨み信長の眉が上がった。
「余の弓懸は、まだか」
「はっ、只今、材料を吟味いたしておりまする」
 牛一は信長の顔を窺いつつ、脇の箱から手持ちの弓懸を幾つか出した。なんだ、この話か。忘れた訳ではないが、急ぐほどのことではあるまいと、算段の途中であった。
 牛一は落ち着いて話し始めた。
「弓懸には三掛みつがけと言って、親指、人差し指、中指を覆うもの、四掛よつがけと言って薬指をも覆うもの、諸掛もろがけで五指全部を覆うものがございます。初心者は三掛で、諸掛は一部の上級者が使うのみでございます」
 牛一は道具好きの信長に、弓懸の種類の説明をした。
「この堅いのは、なんだ?」
 信長は興味を示した。諸掛けの手袋状の指先を弄っている、なるほど複雑で手の込んだ弓懸に目が行った。
堅帽子かたぼうしと言って、それは水牛のつのを使っております。木材や竹のものもございます」
 信長は叩きつけて硬さを確かめている。
「これで矢を引くと痛くないのだな」
 堅帽子の角が床几の角に当たって、カツン、カツンと音を響かせた。目を輝かす信長を見て、お怒りはないと、牛一は内心北叟笑んだ。
「矢数を掛ける場合に適しておりますが、殿には必要ありませぬ」
 牛一は遠慮がちに、それでいて諭すように、
「いえ、初心者と申す訳ではありませぬぞ、むしろ、柔帽子やわらかぼうしといって、革が二枚か三枚重なっただけのほうが、射かけ易いので......」
「いちいちうるさいのう~」
 と、なおも信長は諸掛けの弓懸を放さない。
 信長の無邪気さに、牛一は微笑みを交えて話していると、上目遣いの冷たい薄目が突き刺さった。
「お、お屋形さまには、三掛の柔帽子をあつらえておりま......」
 信長には牛一の声など届いていない。
 何事もなかったように弓懸に目を落とし呟いた。
「左手も作ってみるか」
 牛一は耳を欹て、気を張った。
「普通、弓手ゆんで(左手)には必要ありませぬぞ」
「もちろん諸掛でじゃ。水牛の角なれば、火にも強かろう......」
 信長は信長の思考だけを口にした。
 そこに牛一はいないのだ。
 その有様に、牛一は必死に考えた。刹那、感知するものがあり顔が綻んだ。
「......寸刻なら、火にも持ちこたえましょう」
 と言うなり、牛一は頷いた。そこは悪戯心に溢れた主従だ。
「それは、面白そうでござりますな。委細承知にて、後は万端お任せ下さりませ」
「うむ。任せた。余に火を扱わせてみせよ、又助」
 薄目を牛一に据えて、信長の口角がきゅっと上がった。

 
 牛一は右筆御用部屋を訪ねた。
 まずは広い見聞の収集と『亀の甲より顔の皺』とばかりに知恵袋をくすぐりに来た。
 良政は、文机に向かって書付をしたためていた。抱えてはいないが、火鉢は背中にピタリと寄り添うように座っていた。
 その上の鉄瓶が湯気を吹いている。
「おお、又助か」
 良政は気がつくと、喜色を表し声を上げた。
 牛一は風呂敷に包んだ手土産を差し出した。
「いつもお知恵を拝借してばかり。感謝の気持ちにと、本日はこのようなものを......」  
 牛一は風呂敷から出した硯を良政の目の前に掲げた。
「ほう、見事な硯じゃな」
「これはこれは、お褒めの言葉を戴き、拙者の審美眼もまんざらではござらぬようで。されば五十文の値は、高くはなかったようですな」
「えっ? お主、これを脅し取ったのか?」
良政は目と口を丸くすぼめた。
「滅相ものうござる。ちゃんと買い取り致した物......」
 牛一は反論し、経緯を簡単に伝えた。
「ああ、例の怪しい流れ商人からか」
彼奴きゃつらは相変わらず、減らず口の世迷言よまいごとを並べておりましたぞ。これは唐の玄宗皇帝が使用した端渓硯たんけいけんなどと......そもそも京土産の紛い物を唐物青磁と偽り五十貫で売りさばく輩」
「なに、そのような物を買う戯けが、まだ尾張におったか」
 牛一は少し口籠りながら、「......まあ、言い値で良いと申すので、五十文渡したまで」と続けた。
「ほほほ、そんなに古い物ではない。最近の物じゃろう。だが、あながち嘘でもない」
 良い物か悪い物かわからない口ぶりだ。だが所詮五十文ばかり、良政が喜ぶならそれで良い。
 良政は楽しげに、下男を呼んで指示を出し始めた。
 しばらくすると、下男は水を張った脚付きの角盥つのだらいを用意して部屋に戻ってきた。
「この肌触りは、まるで赤子の肌じゃな。それにほれ、この紋様に蛇眼のような星を持つものは、確かに端渓じゃ」
 端渓とは明国の南方を流れる西江に注ぐ深山幽谷の地を称し、そこで掘り出された原石から造られる硯だという。
 良政は愛おしそうに硯を撫でると、水中にそっと沈め、それから取り出して光に翳した。
「おお~、これは、お宝じゃな。たったの五十文とは只にも等しい」
 鮮やかな小花の紋様と流れる波紋が浮かび上がった。
「話に聞いたが、その通りじゃった。『水厳』と称する極上の硯じゃぞい」
 満足顔の良政は珍しく、手ずから鉄瓶の湯を椀に注ぎ牛一に勧めた。
「さて、此度は何が知りたいのじゃ? 織田軍団の千人も動かそうかの。それとも特別に、お屋形さまの花押を幾枚か書いてやっても良いぞ」
 牛一は慌てて手を振った。
「実は、火起請の舞台を作りたいのでござる......」
 先日の弓懸の件を話した。背景は下手をすると牛一より詳しいかもしれない。聞き返すこともなく。深い皺をより一層に刻んだ。
「なに、それは面白い。面白いぞよ」
 良政は嬉しそうに火鉢を抱え、炭を火箸で掴むと、宙に掲げた。
「勝三郎どのにお灸をすえるのじゃな」
 良政は、皺顔をくしゃくしゃさせて口角に泡を飛ばした。
「お灸などと......わかりませぬ」
 はるか先の結末など牛一にはわからない。良政の楽しみの邪魔はしないが関わりたくはなかった。
「日取りは易学を絡めて、勝三郎どのには、名誉を汚す噂をばら撒くに限る......」
 まあよいわと良政は口にしつつ書付に筆を走らせた。
「......よしよし、お屋形さまが最後に出張るのじゃな。くれぐれも、お屋形さまは行かぬ振りが良いぞ。油断させるに限るでな」
「敵を欺くには、まず味方からと言う訳ですな」
「敵か」牛一を睨み良政は鼻を鳴らした。「そう言うことじゃ」
 牛一は乗せられて口を滑らす己を恥じて、視線を落とした。
「噂を振り撒く勤めは清蔵に頼みましょう。手先にちょうど良いのがおりまする」
「気の毒だが、仕掛けは清蔵にも明かさぬが良かろう」
 水も漏らさぬ徹底ぶりは良政らしい。
「はい。そう致します」
 牛一も素直に同意した。
「しからば間違いない。外堀を埋めれば、彼奴かやつの採る道は、ただ一つよ......」
 良政は顔を天井に向けた。何かを思い出したらしい。
「そう言えば、大屋村の甚兵衛に『年貢米を盗まれて何かとお困りのようじゃが、力を貸そうではないか』と、合力を申し出た者がおったそうじゃ......」
「ひょっとして......池田利八郎(恒長)どのではありませぬか」
 牛一は応えた。
「なんじゃ、もう知っておったのか。呆れた若侍じゃろ。何を企んでおるのやら」
 牛一は腕を組み顔を顰めた。恒長という名の持つ不吉な闇がまた胸の内に広がった。
「本人は知らぬうちに、自滅への道を歩んでおるのやもしれませぬ」
 牛一は堪らず心中の言葉を漏らした。
 だが、良政は当然のことのように相槌を入れた。
「そうか、お屋形様はあらかた御存じであるか。屋台骨を食い散らす害虫は駆除せねばならぬな」
 良政は高笑いを轟かせた後、
「お灸どころではないようじゃな」
 と一言付け足した。
  
  
  冬曇り

 牛一は急ぎ大屋村に向かった。馬乗りで急げば半時と少しで着く。
 清蔵は喜んで残ったが、一本気で口べたな男である。上手くやっているか、牛一は気が気ではなかった。
 だが、要らぬ心配だった。屈託なげな清蔵の顔を見て安心した。
 甚兵衛とは上手くやっているらしい。居心地が良過ぎるのか、いささか覇気が消えかかっている。が、そのくらいがちょうど良いのかと、考え直した。
 すぐに居住まいを正し、牛一は信長が考える火起請の話を伝えた。
「仔細はわかりましたが、......本当に大丈夫でしょうか」
 清蔵は不安げな眼差しで牛一を見た。
「なあに、当日はお屋形さまの名代として全権委任を受けた吉兵衛(村井貞勝)どのが立ち会うから、大丈夫じゃ」
「吉兵衛どのですか~」
 清蔵はいっそう肩を落とし不安げな声を上げた。
 伝えた牛一にもその気持ちはよくわかった。
 貞勝は有能な吏僚ではあるが押し出しは弱い。というか優柔不断を絵に描いた人物だとの世評がある。
 その先の込み入った事情には口を噤み清蔵を宥めにかかった。
「それよりも、お小夜ちゃんの力になってやるが良い」
 弱々しく言い繕う牛一は、お小夜の名前を出汁に使った。
 屋敷の外は、雲が垂れこめて薄暗い。
 冬の寒さはまだ良いが、陽射しを遮られると気持ちまで冷え切ってしまう。
 牛一は心配そうに、小川に迫立つ白壁を振り返り、甚兵衛屋敷を離れた。
 清蔵の手助けのためにまだやらねばならぬことがあった。


 清州城の奥の書院に呼ばれた牛一は信長に経過を伝えた。
 清蔵が甚兵衛屋敷にいることは言っていなかった。ただ、牛一の与力として動き回っているとだけ伝えた。
 信長は気にも留めずに、「であるか」とだけ頷いた。
 特に面倒がある訳ではなかった。信長自身、事実に基づかない細かな話は喜ばない。
 しかし牛一は、良政に聞いた話から恒長の悪意に不安を覚え、お小夜の身を案じた。
 信長もお小夜の篠笛はお気に入りだ。
 牛一は意を決した。
「お屋形さま」
「なんじゃ」
 愛想のない反応だ。
「お小夜が身内の病で実家に戻っておりまする件、詳しく御承知おきでしょうか?」
「いや知らぬ。お濃に任せ切りだ。ただ篠笛が聴けぬのが残念じゃな。それがどうした」
 信長の視線が容赦なく牛一に刺さる。
「奇しくも、理不尽な火起請の罠に掛けられ倒れた者がお小夜の叔母のお梶というものでございます」
「なんだと!」
 信長、扇子をバンと叩いた。
「なにゆえ黙っておった」
「あ、いえ......」
 知っているかと思ったし、あるいは本筋に関わらぬ話などいらぬと言われるかと......牛一の脳裏に言い訳が駆け巡ったが、口に出せるはずはなかった。
「まあよいわ。で何があったのだ」
 信長は穏やかな口ぶりで聞いてきた。
「うん?」と唸ると信長は唐突に続けた。
「利八郎が狙う女子とは、――お小夜のことか」
 信長は先の流れ商人の話を覚えていた。明晰な頭脳が先を読む。
「そのようでございます」
 炯眼な信長に触れると、畏怖と同時に尊崇の念が湧く。人には見えない物を見ているのではないかと、安心さえしてしまう。
「奥向きの女中の要望にも繋がる話じゃな。舐めた真似を......」
 信長の表情が消え、薄目になった。
「利八郎どのはお梶をただの下女だと思っておるようで......」
 牛一は良政から聞いた話を加えた。
「ふーむ。智に溺れる若造は、周りが見えておるようでいて見えぬ。それに気がつかぬのだ」
 と信長は薄笑みを浮かべ、バンと叩いて扇子を壊した。
 ゆっくりとした動きと見合わぬ膂力の強さを見せられて、牛一は恐る恐る言う。   
「つきましてお屋形さま、清蔵を噂ばら撒きの務めにて大屋、一色方面に派遣いたします。が、見舞に行かせとうございますが......」
 牛一は信長の顔を覗き、催促する顔つきになった。
 信長は目を細めて笑った。
「ふふ、身近におってやるがよかろう。余からも見舞いの品を持たせよう」
 牛一は思わず破顔した。信長らしいと腹の内で納得した。
「しばらく、清洲のお城への出仕は......」
 牛一は続けざまに口を開くが、終いまで聞かずに、
「あー、よいよい」
 信長は軽快に応えた。


 大屋村は、造酒丞陣営が一戦も辞さずという、冬の曇り空のような不穏な風に包まれていた。そんな状況が清蔵から逐一報告された。
 甚兵衛方の手伝いは、引き続き上手く行っている。皆から大きな歓迎を持って迎えられたと、冴えない顔で付け加えた。
 清蔵は正直者だ。あながち嘘ではないだろうが、己が思い通りに動けない歯痒さらしきものが顔に表れていた。
「そういえば、大屋村の甚兵衛どのに『何かと難儀なこと......』と合力を申し出た者がいるそうじゃ」
「なに、利八郎がそう申したのですか」
「呆れた若侍じゃろう。何を企んでおるのやら」
 牛一の話に案の定、清蔵は熱り立った。気合を入れるにはお小夜だのみに限る。
「そんな仔細をどこから」
「干柿どのじゃ。なにやら尾張の見聞はよう集まる......」
 訊ねた清蔵は腕を組んで鼻息を吹かしている。
「――武士の風上にも置けぬやつ......天罰を......」
(いかぬ。薬が効きすぎた)
「まあ、熱り立つな清蔵。早々に罰が下るだろう」
 清蔵は不承不承に大屋村へ戻った。
 貞勝では、公平な裁きができるのか、できたとしても、池田家への仕置きなど無理ではないか。と言外に漏らしたのは無理もない。
「お忙しそうですね、清蔵さま。最近は夕餉を召し上がりに参りませぬ」 
 お春が心配そうに顔を覗かせた。その顔を見て牛一に考えが浮かんだ。
「お春、大屋村へお小夜とお梶の様子を見舞ってくれ。清蔵も顔を出しておるが男手では心許ない。それに、あの二人の間のことも心配じゃ」
 清洲の城勤めで見知ったお小夜と、弟のような清蔵のことを任せるには、お春は適任だった。
「まったく然様でございますね」
 すくっと腰を上げると、お春は嬉々として見舞いの準備に取り掛かった。
 牛一は躊躇いがちに、お春の後ろ姿を見ていた。
「まだ何か? 殿」
 牛一の視線に気づいたお春は振り返った。
「......伝えてやってくれぬか。その......、清蔵の気持ちをじゃ」
 お春は楽しそうな笑顔を見せて頷いた。
「端からそのつもりでございますよ。お小夜ちゃんには女の業(わざ)を教えておきます」
 企みを秘めたようにお春の口元が歪んだ。
「うっ......。あまり無茶をするなよ」
 いざとなれば牛一より思い切りが良いお春だ。まして冴えない顔の清蔵が頭に浮かんだから少し心配になった。
 牛一は弱々しい笑みを返すのみだった。


 清蔵は、大屋村の甚兵衛の世話になって数日が過ぎた。
 飯は旨いし、酒は飲み放題だ。清蔵一人が春気分だった。当たり前である。お小夜の手料理に付きっきりの給仕。甚兵衛に至っては晩酌につきあってくれ懇願される。 
 甚兵衛はもとより屋敷の郎党、手代、下婢に至るまで清蔵に気を使い、居心地は頗る良いのだ。
 己は一体何しにここにいるのだろう。
 お小夜は、家事の合間に甲斐甲斐しくお梶の掌に薬を塗り親身な看病を欠かさない。
 痛みは大分癒えたとは言え、お梶の手は焼け爛れていた。
「叔母さん、火傷の傷はだいぶ良くなったわね」
 お小夜の明るい笑顔を見せられれば、誰だって心は癒される。
 清蔵はますます愛おしさが募るばかりの気持ちを持てあました。
 清蔵は寝間の様子を覗いていた。
「お小夜のお陰でお梶もだいぶよくなっただ」
 甚兵衛が清蔵の後ろから声を掛けた。
「あっ、火傷は大丈夫なのですか?」
 気が抜けていたせいか、気配に気づかぬ清蔵は慌てて問いを返した。
「いんやー、鉄の棒はすぐに放しただで傷の程度はえらくはなかった。しかし、おそぎゃー(恐ろしい)事件の渦中に投げ込まれた心の衝撃が、尾を引いていたのやろ」
「お小夜どの、献身的に世話をしているからな」
「いんやー。そのお小夜の身を案じて陰に日向に見守って下さる清蔵さまのおかげでもありやす」
 清蔵は顔から焔が燃え立ちそうになった。
 すると、表から女の声が聞こえた。
 凛とした張りのある声は、お小夜の他に今の甚兵衛屋敷にはいなかった。
「おんや、だれだべ、そろそろ入相いりあいの鐘が鳴る頃だで」
「ご免下さいな」
 再び聞こえた声につられて、甚兵衛が廊下を進んだ。清蔵も興味から後を追った。店仕舞いに追われた手代は不在のようだ。
 佇む女に清蔵は首を伸ばした。
「お、お春さん! なんで?」
 お春は、力強い笑みを清蔵に返した。


   狩野元斎

 乱雑な小部屋で狩野元斎は筆を動かしている。
 清洲城下のはずれにある小さな禅寺の庫裡の離れだ。元斎が厄介になるまでは納戸として使われていたらしい。
 土間に立つ牛一はしばらく元斎の仕事振りに見入っていた。
「襖絵を只で描く代わりに、飯を喰わせてもらっております」
 元斎は絵筆を留めることなく牛一に応えた。いつから気がついたのかは分からなかった。
 やはり面白い奴だと、牛一は思った。
「おい、元斎。仕事が欲しいか?」
 ようやく振り向くと、「おお又助どの」と呟いた。
 誰に話しかけたかは知ったことではないらしい。
「拙者の腕をようやく認めてくださるか」
 蓬髪ほうはつに煤けた顔の元斎は、顔を上げると親しげに目尻を下げる。一つも慌てた様子はない。
「清洲のお城の壁、襖を、狩野派の絵で埋め尽くしましょう」
 悠長な口振りだ。己の腕にはよほど自信があるのだろう。
 牛一は、腹の内で喜んだ。
「ふん、図に乗るでない。お主、お屋形さまのお声掛かりなれば、命を賭する覚悟ありや?」
 元斎は筆を置き、居住まいを正して背筋を伸ばした。
「もとより、命は懸けておりますよ。狩野法眼の一番弟子を名乗った時点で」
「ふふ、そりゃそうじゃな」
 笑いと共に作っていた威厳が吹き飛んだ。牛一は上がり框に腰かけると足を組んで話を続けた。
「些細な嘘は咎められるが、明らかな嘘は許してくれそうな気がしたのじゃ」
 元斎は、はにかむように舌先を見せた。
「危険な賭けじゃが、間違ってはおらぬ。お屋形さまは命を懸けて良き絵を描くのなら面白いと仰っていた」
「ふふ、見込んだ通りの大物じゃ。ひゅー」
 元斎、掌で首を二度とんとん叩いた。図太いのか精一杯の強がりなのかわからない。
「久々に腕が鳴るな~。お城の襖に大天井か~」
 目の前の男が閉じた目で夢を膨らませ、両の手を広げた。
 そこで牛一は、懐から弓懸を取り出した。
「じゃあ、これを」
 牛一は元斎の掌の上に、薄い鹿革で作った弓懸を置いた。
「なんじゃ? これは」
 元斎は慌てて目を見開き、手の上の弓懸を見た。
「某は気に入ったのだ。色一つに生命の息吹を、皺一つに春秋の移ろいを表現する、と申した口上を。だから、本物の手のように色を、皺をつけよ」
 元斎は、諸掛けの弓懸を手に一生懸命に凝視した。
「期日は三日。それとこれを」
 牛一は五百文の銭と銀の小粒を置いた。
「これは剛毅な。だからといって、命を投げ出すほどの値ではないがな」
「それはお主の腕次第のこと」
 言い捨て、牛一は立ち上がった。その背を追うように、元斎は物言いたそうな顔を上げる。
「面白い。いきなりの注文で、紙にも描かせてくれぬとは」
 がはは、と笑う元斎の野太い声が牛一の背を追いかけた。


 奥の書院には人払いをして、信長と牛一主従の二人だけがいた。
 信長の前に、手と見紛う左右の弓懸がある。
「鹿革を薄くなめして、藁を使っていぶし染めを致しました。ほど良い肌色になっていると思います」
 牛一は信長に、弓懸を掲げ持ち差し出した。
「この肌色と皺を元斎に描かせたのか? 法眼の一番弟子を吹聴しておっただけある。まあ、巧いものだ」
 信長、満足そうに目を光らす。
「ときに清蔵はどうしておる」
「お小夜のためにと、いつも以上の気合の入れようにございます」
「さようか」
 信長は意味ありげに鼻を鳴らした。
「ささ、射籠手いごてをお付け下さい」
 弓を射る時に袖が弦に当たるのを防ぐための筒状の籠手を牛一が掲げている。唐製の金襴緞子きんらんどんすの生地を使った目を引く色合いだ。
「派手じゃな」
 信長の鼻に皺が寄り、薄目がピクついた。
「そこがつけ目でございます」
 牛一が応えた。信長は聞いていない。
「その上、袖が長すぎるぞ。愚か者め、衣紋えもん奉行を呼べ!」
 眉を吊り上げて舌打ちをする。審美眼の持ち主の信長には我慢ならぬ色形だった。
 気がついた牛一は慌てて説明を補足する。
「だから、わざとでございます。その長さを気づかせぬための華美でございます。敵の目を欺くため、ここは暫しご辛抱を」
「そうであった」
 信長は思い出すように素直に応えた。
「くくく、わかっておるな。此度は清蔵も驚かすぞ。この細工の件は秘密じゃぞ」
 悪戯小僧の目をした信長は笑いを堪え切れぬ様子だ。
「畏まってござる」
 と、応えながら牛一は、信長の両手に諸掛の弓懸を着け、最後に右手に三掛の弓懸を着ける。右手にもう一度弓懸をつけるのが味噌だ。
 最後の弓懸は、柔帽子の薄革が一枚。黒地に染め抜いて、金箔の織田木瓜もっこうが入れてある。諸掛の弓懸の上にめる弓懸だから馬鹿みたいにでかい。
 それを見ると、信長は目を細めて、
「なるほどのう。首尾は上々じゃな」
 牛一は大仰に叩頭した。それから、僅かに小首を上げた。
「せっせと噂を流しております。勝三郎さまの横槍だ。勝三郎さまの横暴に違いない。貪欲な勝三郎さま、湯起請も火起請も如何様いかさまに違いない。神慮をかたった詐術だ......そんなところでございます」
「勝三郎は、馬鹿がつくほど一本気な男ゆえ、その噂は辛かろう。黙ってはおるまいな」



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