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第二話 天正三年蹴鞠ノ会の巻 その八

三条西のおおごっさん

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   三条西のおおごっさん

 牛一は、しこりを抱えたまま二、三の聞き取りをした。
 明院みょういん良政りょうせい亡き後の右筆頭の武井夕庵によれば、藤孝の実の娘ではなく猶子ゆうしの話は確かにあるらしい。そのうえ三条西家の古今伝授は一子相伝だが、実枝の嫡男が脆弱のため、一時の継承者に藤孝の名が上がっているという。
 牛一は虎ノ間を訪ねた。むろん言継に探りを入れるためだ。かと言って言経に顔を合わせたくはない。後ろめたさと逸る気持ちを菅笠で隠して御所へ向かった。
 数日ぶりに会った言継の顔に、隈が浮かんでいた。
「これは又助どの元気にしておりましたかな」
 声は大きいが、たった数日の隔たりに、妙な懐旧の情を感じさせる。
「あの後、細川兵部大輔どのが見えました……」
 牛一の話に驚くこともなく聞き入った。
「事実の裏付けはまだありませぬが、どうも疑わしき影が二つに絞られました」
「ほう、誰と誰じゃ?」気のない返事に聞こえた。
「中院参議どのと、長松どのです」
「な、なんと……」
 絶句したまま、言継は言葉が続かない。牛一は珍しい光景を目の当たりにした。透かさず反論しないのはどうしたことか。
「心当たりがありましょうか」
「ないない。いや、あの時の言葉は違うぞ。ただのお追従だ。なにゆえ長松が疑われるような仕儀になったのじゃ」言継は白髪の鬢を両手で押さえた。
「儂のせいか? この優柔不断のせいか」
 牛一もわからなくなった。
「ただ、穏便に済ませたかったのじゃ。禁裏には帝の意向のみならず、いろいろなしがらみがあるのだ。又助どの、武家と違ってここ禁裏では苛烈な仕置きなどできぬのだ」
 そんな算段を長老と話し、帝の勘気が落ち着く頃合いを言継は待っていた。
「これだけは信じてほしい。長松は鈍いところもあるが心根の優しい子じゃ、こんな大それたことができるはずもない」
 父親の必死な顔を垣間見ると、牛一はなんとなく心のざわつきが落ち着いた。
「然様にございますな」
「それに彼奴が、左府さまも仰る若公家らに人気のあるという、可愛い女孺にょじゅと懇ろになろうはずもない」
「如何様然様に……」牛一は言葉を呑みこむと咳き込んだ。
「いや、某は為すべきことをただするのみ、近々三条西家のご当主にお会いしてみようと思っております」
 しばし言継は、牛一を見据えていた。
「おおごっさんまで広げましたか。……先任権大納言(三条西実枝)さまは、悪いお人ではない。ただ、芸道のみが全てのお方、純粋なのじゃ」
 苦渋の顔を見せたのは、うたかたの間だった。
「ささ、又助どのの信ずるところを行きなされ」
  
  ○
 
 言経は思いの外、早い実枝訪問の段取りをつけた。
 無邪気な小動物を思わせる言経が、人を惑わす策を弄ずるはずもない。そもそも女子に惨い仕打ちをする人物ではない。が、あの銀の鈴の謂れが今一つわからない。牛一はときおり、目の端に言経を捉えると小首を傾げる。
 それしても千載一遇の機会を逃すわけにいかない。織田家の威信を懸けて実枝に迫らねばならぬ。気を引き締めると、言経に策を与えた。
「……要は、織田家の仕置きは峻烈を極め、お屋形さまは妄言不実を許さぬとても恐ろしいお方だ。いいですね、その手先の太田和泉守に嘘は通じませぬぞ。という堅固なお気持ちで臨むのです。良いですね」
「はあ~」
 言経は丸い目をさらに見開いて、嬉しそうに牛一を見ている。覇気のない膨らんだ頬に信長特製の扇子を、ばちっと打ち込みたくなった。
「宜しいですなっ!」
 ――ばちん。と柏手を一つ言経の鼻先に剣気と共に打ち込むと、こてっと気絶して後ろ向きに倒れた。
(おやおや、大袈裟な御仁じゃ)
 その日の八つ(午後二時頃)に牛一は出かけた。
 三条西実枝の屋敷はさすがに大臣家なりの絢爛さを誇っていた。外観はもとより、内装の廊下や壁も素材の色を保っている。高麗こうらいべりに縁取られた畳も青く、藺草いぐさの香りが鼻腔をくすぐった。
 言経の前に座る実枝は六十五歳にしては矍鑠かくしゃくとしている。牛一は言経の後ろに額ずき、上目遣いに改めて顔を窺うと蹴鞠会に出ていた顔に重なった。一座に立っていた鞠足の一人だ。北庇の一回目に東宮と並んだが、一度も蹴らずに、座を代わった男がいた。なるほど歳を思えば合点がいった。
「これはこれは、山科の参議どの。当家へお越しとは、子供のころ以来じゃな」
「お、お懐かしい。庭木の松もずいぶん大きくなりましたね」
 緊張する言経は庭木の松へ目をやった。牛一もそっと視線を送る。
 なるほど山科家の実用一辺倒とは異なる、厳かな観賞用の園庭を久しぶりに目にした。
 すると同様に、実枝も視線を庭へ送った。
「松とな」実枝の目の焦点が彼方に飛んだ。
「……あの頃は仲間内で松が流行ってな。お主の名にも松を入れたものだの」
「ああ、そうでございました。……たしか夜叉松麿もおおごっさんの命名とか」
 実枝は目を細めて言経を見据えた。黙ったままの言経は、実枝へじっと顔を向けている。
 丸めた背を後ろから見る牛一は、俄かに心配になったのも束の間。奇妙な息づかいの言経は、切れ切れに話しだした。「おおごっさん、実はそ、の、あの……」本人は至って真剣なのだが牛一の笑み誘う物言いだ。
「……このままでは、夜叉松麿どのが拙い立場に」
 実枝は眉間に皺をよせ、考える風だ。
「な、なんのこと、やら……」
「おおごっさん、ご紹介が遅れました」
言経は牛一を振り返り目礼をした。
「織田家近習、太田和泉守さまでございます」
 牛一は叩頭し、挨拶をした。
「織田? 弾正忠さまのだと! ……何ゆえじゃ」
「事は、公式儀礼の蹴鞠ノ会で起こったのです。すでに弾正忠さまのお耳に入った模様……つまらぬ尾ひれなどつけば……」 
 言経の言上を聞きながら、牛一は眉根に力を込めて、黙ったまま大きく頷いた。
「弾正忠さまは苛烈なお方。公家の手で結末を着けねば、武家の手が入るやもしれませぬ」
 言経は怖々と後ろを振り向いた。なかなか様になっていると牛一は感心した。
 牛一は実枝の強い視線を感じると、再び黙って頷いた。
「う~む。……阿呆垂れが……」
 実枝は宙に向かって呟き、目を瞑った。顳かみに浮かぶ滴がすうっと流れた。深い溜息を吐くと今までの顔が急に老け込んだ。張っていた気が萎んだのかも知れない。
「彼奴は、心を言葉に変えて詠ずる才があるのだ。人の様子もその思うところも、実に巧みに、真っ直ぐに正鵠を射る。いや正直すぎるやもしれぬ。……が、芸道つつがなく邁進するには心を繕うは邪魔でさえあると、この歳で気づくとそっとしておくが宜しかろうと思うたものじゃ。……見誤みあやもうたかの。爺にそうさせるほどの麒麟児を見た心地じゃったが……」
 芸道を突きつめると千々に乱れて闇に惑う。世阿弥も後継の育成に心血を注げと風姿花伝に残したほど。晩年の、干柿に見紛う明院良政の顔さえ、牛一の頭に過った。
 牛一は、実枝の心奥の一端を覗き見た気がした。
「……まあ、言うて聞かせる。若いのだから過ちはあろうもの」
 ――コキン! と音がした。
 まるで座敷の緩んだ空気を拒絶するかの音、たぶん骨の音だ。
「事は、そんな悠長な話ではありませぬぞ」
 言経は、牛一も驚くほどの喰いつきを見せた。首を上げ、一直線に背を伸ばす言経の筋が鳴ったのだろうか。
「何を、鼻の穴を広げて熱り立っておるのじゃ、長松は」
 実枝は不思議そうに、濁りのない目で言経を見据えた。
「禁裏が血で、不浄な血で汚されたのですよ。おおごっさん」
「血で……?」実枝は眉間を寄せた。
「女子との粗相があったと聞いておる。――若い奴は、場もわきまえぬ話じゃのう」
「何を暢気な。女官とはいえ、人ひとりの命が懸っておるのですよ」
「な、何があったのじゃ!」
 何も知らぬのかもしれない。誰もが実枝に事実を話す気まずさを諒としなかったのだ。一瞬、そんな実枝の言葉に背を仰け反らした言経だが、血塗れで発見された女官の顛末を恐る恐る伝えた。
 実枝は、ひび割れた老木のうろの如き目と口を開けたまま、呆然と宙を見上げた。
「だから忠告したのだ……。怪しげな陰陽師などを使うなと。若いのだから女子遊びは已むを得まいが、……公家の出自を口にする陰陽師など……」
 弱々しい呟きの狭間に曲者が顔を覗かせた。
「陰陽師……?」奇しくも牛一と言経の声が重なった。
 
  ○

 三条西邸を辞去して玄関から門扉までの長い路地を、牛一は黙って言経の後に続いた。言経もいつもより足早だ。実枝の視線が後ろから追い駆けてくるような気がしたのだ。『陰陽師』と、不吉な言葉を耳にすればなおさら心が逸った。
 前を歩く言経は、黙って足元の小石を踏みしめている。ぐざっ、ぐざっ、ぐざっ。ざらつく音が耳に刺さった。
 門を出て右に折れ、しばらくはそのまま歩き続け、言経は不意にきびすを止めた。そこはまだ実枝邸の敷地の一角だったが、庭木は雑木林の趣を見せ屋敷の影を窺うことはできなかった。
 言経は生垣から覗く桜の大木を見ている。耳を澄ますとひぐらしの鳴き声が聞こえるが、姿は見えない。
 牛一は黙って言経の横に並び、視線を揃えて樹林を見回した。
「声は聞こえど、姿はなかなか見えませんよね」
 言経は、木々に顔を向けたままの姿勢で呟いた。
 蜩のことなのか、通勝のことか、……あるいはまだ見ぬ何者かのことか、牛一は咄嗟に考えを巡らす。
 すると、空気が抜けるような言経の小さな笑い声が聞こえた。木々の陰に籠るような不気味さを漂わしている。
 何が可笑しいのだろう。目に見えぬ蜩の声と、生暖かい風が肌を舐めると、無数の蛆虫が背を這う感触に襲われた。速やかにその場を切上げたかった。牛一は、綿毛のように浮かぶ小さな思念を放棄した。
 空咳を一つ上げ、牛一は頭の中を切り替えた。
 悲しそうに睨む実枝の顔を思い返すと上々の首尾を実感する。
「お見事でございましたぞ」牛一はひとまず言経を褒めた。
「言われたままに動いたまででございます。それにしても、陰陽師などが出て来ようなどとは……」
「まったく」
 と、同意したが、牛一の考えなど気にする素ぶりもなく言経はさっさと歩きだした。
「どちらへ?」
「決まっているではありませぬか。今聞いたばかりの衣笠の善正寺まで」
 ときどき言経の反応や行動が読めなくなる。面白がってばかりはいられなかった。すでに七つ(四時頃)過ぎだ。衣笠山に分け入るとすれば夕闇に足元も覚束ない。何より素性が何者とも知れぬのだ。
「お待ちくだされ。日も傾き、時もありませぬ。明朝の明るいうちに改めましょう」
「しかし、一刻も早く証を押さえませぬと」言経は抗った。
「今日の明日であれば何ほどの違いがございましょう。それに……」
 何ゆえ危険を顧みないのか訝った。とにかく日を改めるが最善と思った。
「それに?」牛一の言葉尻に、言経は動きを止め、聞き返した。
「明日になれば、ちょうど力を持て余した人手がおりまする。清蔵が権大納言さまのために力になりたいと申しておりました」
「清蔵どのが……」
「腕が鳴ると申しておれば、何ゆえ拙者の手を待たぬかと噛みつかれるに違いなく、某もいささか困り申す」
 いかつい清蔵の顔を思い出したのか、言経は急に矛を収めた。
 それでは明日に是非ともと、言葉を残し山科邸へ戻った。
 その背を見届けると牛一は急ぎ足で相国寺へ駈け出した。
 清蔵を出汁だしに言経を押し留めたが、肝心の清蔵がいないのでは話にならぬ。
 近習ノ間に、ふてぶてしく横たわる影を認めた。
「おったおった。天の助け。清蔵、手を貸せ! お主の暇潰しに最適な話を持って来たぞ」
「どうした? 何を慌てておる」
「あと一歩で証が掴めそうなのじゃ」
「長松どのは、白か黒か?」
 清蔵は小躍りして上体を起こすと、目を輝かしながら結論へ一直線に飛び込んでくる。
「わからんのだ。だが……」
 と、今日の三条西実枝邸訪問の顛末を語った。
「怪しい陰陽師の名を聞くと、すぐにでも行って話を聞くと言う。しかし、話だけで済む相手とは思えない」
「そりゃそうだ。怪しき陰陽師が町はずれのれ寺に籠るとなれば、我らも刀槍の用意がいるわい」
 さすがに清蔵の理解は早い。こうでなければ気忙しい信長の近習など勤めていられない。そのうえ、清蔵の鼻には旨そうな獲物の匂いが引っ掛かったに違いない。
「だろう。なのに何を逸ったか、長松どのが無手で向かおうとするのを押し留めた」
 清蔵は刀を手にすると、「承知。今すぐに馬で参ろう」
「さすがに話が早い。力づくなら夜討ちが早かろうな」
 そればかりではない不吉を、牛一は気にしていた。図らずも、清蔵は言経の名を口にした。
「もしかしたら、長松どのは一人で向かったやもしれぬぞ」
「まさか……」牛一は口にしたが、言下に否定する言葉が出て来ない。
(清蔵はなぜそう思ったのだ?)
 牛一は目を向けると、清蔵は目尻を下げ頬を綻ばす。
「もともと陰陽師は仲間なのだ。一刻も早く知らせに走りたかったのさ。もちろん仲間だから身の危険などはない。そもそも歩き慣れぬ長松が、嵯峨野くんだりまで必死にすずの後を追ったのは、消息を早く掴みたかったか、あるいは口封じじゃねえのか?」
 恐ろしい話を鼻歌交じりに清蔵は話した。本当にそこまで思っておるのやら……
「……だとしたら、面白い話じゃにゃあか」
 清蔵は口を開け豪快に笑った。 
「戯言を、そんなはずはない。……ないが、でも拙いな」
「――いんや~、敵として立ちはだかるやもしれぬぞ」
 清蔵は刀の柄を、ぽーんと楽しそうに叩いて牛一を睨んだ。
「とにかく急ごう!」
 牛一は叫ぶしかなかった。

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