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第二話 天正三年蹴鞠ノ会の巻 その十二

御寺泉涌寺   安土城天主閣

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   御寺泉涌寺   

東山にある御寺泉涌寺の墓所を訪ねたのは昨日の朝のこと。
 前日の話がなければ清々しい都の朝だった。青い空に爽やかな風が肌を撫で、鳶の鳴き声が辺りの静謐せいひつを教えてくれた。
 石塔から立ち上がる白い煙が見える。たぶん練香の煙だ。朝早くから奇特な人がいるものだと、揺れる煙を見上げながら牛一は感心した。
 詮議の場で、すずの話が全く出なかった。牛一には引っ掛かるものがあった。すでに、死んでいるのではないかとつわものの勘が教える。いや、勘などといえば笑われよう。早くから空蝉狂言の筋書きを感じ取っていた言経に。
 宇治の供御人に会ってから言経が消沈したらしい。とすれば、宇治の名主の娘が宮中で事故に会って亡くなった、などの噂がもたらされたのではないかと睨んだ。
 信長への報告を控えている牛一には時がなかった。そこで、清蔵の強面を借り、二条室町の蛸薬師堂そばにある『徳翠庵』に脅しをかけた。織田の武闘派が兵を率いて押しかけたのだ。優しげな公家などではない。慌てた坊主は禿頭とくとうに汗をかきながら白状した。
 案の定、あの掌侍の指し金だった。やはりとんだ喰わせ者だ。
 昨日の憤りを思い返しながら牛一は歩を進めた。
 地中から這い出て、鳴き始めたばかりのひぐらしを思う。これから存分に鳴こうとした矢先に取り殺された蜩。
 石塔前に額ずく男の後ろ姿はずんぐりとして小さい。見覚えのある背中だった。
(長松どの……やはり、あの女官は……)
 牛一は胸の中で呟きながら、同時に懐に手を当てた。
 忘れ物を思い出し、そっと鈴を取りだした。詮議の途中に預かったまま返しそびれていたものだ。
 青空に掲げた鈴が陽を受けてきらきら光る。その先に言経の後ろ姿を重ね見た。
 風に押されて、チリリーン。優しげに鈴が鳴る。
 言経が振り返った。
「どうしてここが、……なぜお出でになられたのです?」
 隠れん坊で、自信ありげに隠れていた童が鬼に見つかり、慌てた様が口と目の開き加減に現れている。
「お屋形さまに、結末までしっかりお伝えするのが、某の勤めですから」
 牛一は穏やかに口にした。清涼殿の詮議に違和を覚えたのは同じなのだと思った。すずの命に別条はない。とは当初から禁裏の予定した筋書きに入っている小さな項目に過ぎなかった。
 言経は宇治の供御人からもたされた事実を知りながら口にできなかった。胸に仕舞ったまま清涼殿に上がった心情を思えば、あえてその後の動きを話す必要もなかった。
 しばらく鈴を見て、言経は微笑んでいる。
「よかった。返しそびれる所でしたよ」
 牛一は鈴を言経に差し出した。
「……わざわざ、どうもすみません」
 言経は掌の載せた鈴を見つめてから、はっと顔を上げた。
 急に顔を綻ばし白い歯を見せる。
「すず、と呼ばれた女官が私の想い人で、いつかこの鈴を渡す相手。その女子を夜叉松に横取りされた……とでも思われましたね」
「違うのですか?」
 漠然と考えなくもなかったが、恥ずべきことでもない。牛一は考えながら問いを返す。
「ぜんぜん。そこまでも行っておりませぬ。まして鈴を渡そうなどと思ったこともありませぬよ。そもそも、ここで手を合わせる男の名も、或いは顔さえもすずにはわかりますまい。『あんた誰?』ってなものでございます」
「夜叉松麿どのに憤りを感じていたではありませぬか」
「それはそうですが。……わたくしは、ただ見ていただけですよ。遠目でね。可愛い女子がいるものじゃと。名を漏れ聞くとすず。で、可愛い鈴を仕立てて持っていたまででございます。あれ、変てこですか? わたくしの所業は。心持ち悪しゅうございますか?」
 慌てて、言経は手を口に当てた。隠しきれぬ大きな丸顔から、団栗眼が覗いている。
 牛一はふっと息が零れそうになった。それは奥ゆかし過ぎる。公家は知らぬが、武家の中では褒められるものではない。それでも、牛一にはわかるような気がした。
 言経は遥か昔を思い出すように目をすがめつ話し始めた。
「丸顔に尖った顎、白いおもての女性が並ぶ中で、すずと呼ばれる女官は桜色を刷いた頬がひときわ目立ち、田舎娘の趣さえ宮中では生き生きと映り、それは明るく優しげに輝いておりました」
 言経は物陰からそっと、雲居に覗く月ながらに、野に咲く花を盗み見たという。
「いつしかすずは、私の目を見て微笑んでくれた。あの日は……てへっ」言経は、恥ずかしそうに笑みを零した。「……微笑みに添えて手を上げて、小さな紅葉のしょうを左右にひらひらと振るではありませんか」
 嬉しくなり、我を忘れて言経も手を翳し、遠慮がちの半身からもう四半歩踏み出した。
「お恥ずかしい……かぎり」言経は思い出したように、上げた片手で横鬢から総髪を掻き上げた。
「勘違いでございました」
 言経は、顔じゅうの皺を真ん中に集めて己を笑うような表情を作った。
「わたしはまるで、熱にうなされて夢うつつを彷徨さまよう童でした」
 畢竟、「光るの君」と口ずさむすずの視線は、言経の後のそのまた後、いや端から言経などいなかった態で、珠玉しゅぎょくの笑みを碧落へききらくの彼方へ投げたそうだ。
 上げたまま行き場のない言経の片手は、ようとして揺蕩たゆたう夢の胡蝶を掴みとる素振りで、追い駆け、また追い駆けつつ、己が身を松の木陰に隠したと言う。
「陽のあたる舞台には、主人公の二人がしっかり残った由にございます。それが至極当然の成り行きのような気がして。いや本当でございます。素直に祝福する気持ちがあったのです。……それなのに」
 言経は大きな息を吐くと、青空を見やった。
「長松どのはお優しい……」
 ふと眼がかち合うと、言経ははにかむような表情をした。
「さようなわけで、多少の縁を感じて、こうして手を合わせに参っただけのことなのです」
 まるで大きな童子と話しているような気がした。
 牛一は言経と並んで膝を折り、静かに手を合わせた。
「それはよい供養になりまする」
 牛一は目を瞑ったまま呟いた。
「いい年をして、まだまだ父に叱られてばかり。女子にかかずらう暇も自信も有りません。いえ、この雅びな権門の中に私の座る場所などないのではないのかと、呻吟しんぎんする日々です」
 それでも自嘲気味な言葉に笑顔を添える言経は、苦悩を乗り越えてきた男の顔を示した。
 童と見えても言継の嫡男だ、繊細な中に逞しさもある。
「お父上を追い駆けても追いつけませぬよ。何故なら、我がお屋形さまと同じくらい尋常ではないのですから。だから気にすることはございませぬ。思いのままにされよ、長松どの。……此度の勤めも長松どのの多大なお力添えがあればこそです。自信を持たれよ」
「はい。お優しきお言葉、まことに痛み入りまする」
 震える声に顔を向けると、言経は目を潤ませていた。
「それにしても、しばらく謹慎の後、原状に復する御沙汰とは……」
 憤りを胸の奥に仕舞い込んだつもりの牛一も、言経の涙に釣られてつい愚痴を零した。
「手緩うございます。この程度では、あの者(通勝)にはなんら戒めにはなりませぬ!」
 語気を強める言経を、牛一は笑顔で見た。悲しそうな顔が憤然とした顔に変わっている。やはり素直で正直な童子だ。そして顔変わりの速さは父譲りかもしれない。
 牛一の視線に気づくと言経は目を瞬く。
「いやいや、皆が言っておりまする。気分で申しておるのではございませぬから……」
 慌てて取り繕うような言い訳をした。
「某も同じ思いです。むろん、お屋形さまも……」
 明日拝謁する信長の名を口にした。人の本質を看破する信長なら、と期待する気持ちがあった。が、信長の権威を振るうほど大きな話でもなかった。

  

   安土城天主閣

 天正八年(五年後)
 安土城天主閣に信長がいた。目の前に広がる海(琵琶湖)を眺めている。足元に牛一が傅いていた。
「やれやれじゃ。長かったが、ようやく石山本願寺を追い払ったわ」
 景色を楽しむ信長は、安堵の溜息を吐きだすように牛一に言葉を零した。
 最近は本音を吐きだされることが多くなったと牛一は思った。ともすると弱音を含むこともある。が決して牛一は顔に色を出すことも、心の襞に触れる言葉を口にすることもなかった。信頼と特別な立ち場を与えられつつあることを自覚していた。
「もはや、天下平定が目の前に見えて参りました」
 すなわち、戦乱の世がようやく終わると牛一は考えていた。
 信長は声を出さずに笑った。満足そうに己が手にした扇をちらっと見たように思えた。
「そういえば又助、禁裏に女好きの中院通勝という参議の若公家がおったな」
「おお、おりました。その扇と同じものをお持ちであられました」
「奴め、また女でしくじりおった。帝(正親町)のお気に入りの女官に手を出したのがばれたのだ。勅勘を蒙り丹後国舞鶴に配流と決まった。性癖は直らぬものだの」
 信長は自分の手にする扇をしかめ面で見ている。
「同じか……又助」不満そうに顔を歪めた。
「丹後は、あちらか?」と扇で彼方を指した。
 牛一は背筋を伸ばし西の彼方を覗きこんだ。
「然様にございまする」
「うむ。参議の下まで飛んで行くがよい」
 信長は口にすると、金張りの扇を迷いもなく宙空へ投げ打った。
 扇は風に載り宙を舞う。羽が生えた鳥に見紛うた。
「ところで又助」
「はっ」
「約束を覚えておるか?」
「もちろんでございます」
「そうか」
「これまでの、そしてこれからの信長公のすべてを、この牛一が記憶し、後世に伝える役目を相務めさせて戴きまする」
「是非もなし」
 信長は目を細め嬉しそうに一声上げた。

  ○
 
 琵琶湖に、安土の天主閣が映るほどの壮大な城が、二年後に消えてなくなるとは思わなかった。
 中院参議通勝が赦されて京に戻るのが慶長四年、十九年後のことである。
 某が残した信長しんちょう公記こうきは、信長に関する一級資料として後世に伝わり、天正三年東宮蹴鞠会の記録は何ら修正を加えずに残した。
 ご確認あれ。中院通勝の名は二度登場している。順番だけは、長松どのに言われて逆にしたままだ。ただし理由には触れていない。(後世に残る書の順番は本書とは逆である)
 中院通勝は、師の三条西実枝亡きあと、細川幽斎(藤孝)の手ほどきを受け、和歌、和学を極め、古典文学の才を生かし配流地丹後で五十五巻に及ぶ『源氏物語』の注釈書を残した。
 その幽斎は一子相伝の古今伝授の道統を律儀にも、実枝の子の公明、孫の実条さねえだに返したという。  
                             
 
                                            了

 

 参考資料
『信長公記』   太田牛一著・中川太古訳  新人物文庫
『信長と消えた家臣団』     谷口克広  中公新書
『信長の親衛隊』        谷口克広  中公新書
『町衆』           林屋辰三郎  中公新書
『京都』第一巻    林屋辰三郎責任編集  平凡社
『日本の中世都市の世界』    網野善彦  講談社学術文庫
『戦国時代の貴族(言継卿記)』  今谷明  講談社学術文庫
『室町時代風俗』第七巻    今和次郎他  雄山閣
『戦国武家辞典』       稲垣史生編  青蛙房刊
『逃げる公家、媚びる公家』   渡邊大門  柏書房
『復元戦国の風景』      西ヶ谷恭弘  PHP研究所  
『戦国の活力』         山田邦明  小学館
『京の都』           川端洋之  西東社
『京都古地図散歩』 別冊太陽        平凡社 







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みんなの感想(2件)

堅他不願(かたほかふがん)

 とても面白かったです! 特に第五章の『絡操釜』が非常に秀逸でした。

亜月文具
2019.05.23 亜月文具

感想ありがとうございます。今は紙媒体の投稿に励んでいます。

解除
JY
2018.05.10 JY

戦国時代の公家の話などあまり聞いたことないので、興味深かったです。

亜月文具
2018.05.11 亜月文具

そうなんです。江戸時代に比べて中世、戦国の風俗や市井の様子、あるいは公家の状況などの資料は少なく(探し難く)大変でした。隙間は想像で埋めた部分もありますが、お許しください。

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