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第二話 天正三年蹴鞠ノ会の巻 その十一
血塗れのすず 信長と金扇
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血塗れのすず
「最初は気づきませんでした。が、権大納言様の叱責に重なった光景を思い出しました」
牛一は、蹴鞠ノ会当日の様子を話し始めた。
七月三日の蹴鞠会の一座(八人)の中に通勝はいた。
通勝が蹴る鞠は上手く揚らない。
未熟者め! と舌打ちする言継が牛一の横にいた。
通勝の視線の先には女官の顔も見えた。あれがすずに違いない。
濡れ縁の席から、東宮をはじめ、信長や公卿、控えの鞠足が見ていた。そのとき、
「鞠足お代りあれ、烏丸光宣、広橋兼勝……」審判役公卿の声が聞こえた。すると、
「失礼仕ります」
通勝は堂々と一礼して下がった。
「たしか一人だけ、名前を呼ばれる前に勝手に座を下がった鞠足がおりました」
牛一は、話を止めると、一息吸い込んで通勝を見た。
「良く調べたではないか。その先はこうだ……」
通勝は悪びれる様子もなく、口角の一方を上げて話を継いだ。
「わたしは珍しく気が立っていた……」
通勝はすずを探すように清涼殿の裏手へ回り込んだ。
薄暗い廊下へ通勝が足を忍ばせた。
「すーず。駄目ではないか、ちらちら覗いたりしては」
通勝は真綿で包むような優しい笑顔を見せる。
「だって~、光る君(通勝)には御所でしかお会いできないのですもの」
すずはいじらしい目つきで通勝を見つめる。
「そなたの可愛い眼差しで見つめられれば、鞠が上手く蹴れぬのじゃ……」
通勝は細く長い指で優しく鈴の額を突っついて呟く。
「気が気ではないのだ」
「まあ、嬉しい」すずははにかんだ。
「で、どうなのだ、お腹の具合は?」
「稚児ですか?」
恥じらいで頬を朱に染めて、すずはお腹を見た。
上から見下ろす通勝の目は半眼に細まり、獲物の動きに顳かみを引き攣らす鬼の形相を見せた。
「うふ、戴いた丸薬は毎日飲んでおりますが、ちっとも良くなりませぬ。むしろ……」
困ったように小首を傾げる。
「そ、そうか。そんなことはなかろう。飲んだ後で、腹を出し、良く揉むのじゃ。やっておるか?」
「逆にお腹が冷えてしまいまする」すずは応えた。
「どれわたしが揉んでやろう。腹を出せ、いやせっかくじゃ薬も飲め、一粒、いや、二つ、三つ、そーれ」
通勝は竹筒の水を一気に飲ませた。
清涼殿の殿上間で、通勝は目の前にすずがいるかのように話をした。
「納得致したか?」
それがどうしたのだ。という顔で牛一に一瞥を寄こした。
牛一は通勝の口振りに内心怯んだ。何かがずれている。織田家で使う物差しと、公家の物差しは目盛りが違うらしい。血の気が下がる思いがした。だが、丸薬の話を耳にしてとっさに、口を挟んだ。
「丸薬は間違いなく三粒与えましたな。一粒が定量、二粒で危険、三粒が致死。と安倍清白が申しました」
ここが、突破口と牛一は拳を握りしめた、
「ほう? それは初耳でござる」
牛一の気合は透かされた。路傍の石地蔵を相手にしている心地がした。言経は黙って睨んでいる。三人の長老はたじろぐばかりだ。
通勝は妖気を含んだ笑みを浮かべた。
白い肌に浮かんだ赤く薄い唇が動くと、ペロッと舌先が覗く。
すずが、顔を歪めたと通勝が言った。
牛一の耳に微かに聞こえてくる。時を越えたすずの呻き声が……。
「う~うう~。苦しい」
「なあに、気のせいじゃ、苦しゅうない。苦しゅうない」
通勝の揉み手の力が一層入る。
目つきが変わる通勝。すずは気を失った。
次に呟きが聞こえた。幻聴か……、いや、そうではなかった。
「……私はまだ十九歳じゃ、前途は明るく開けておる。末は太政大臣も望める血筋じゃ、何を好んで下級女官を嫁にするものか」
確かに目の前の通勝の呟きだ。牛一を射竦める双眸は熱を持たぬ神の使いの白蛇を想像させた。艶やかな白い肌が薄い光を集めて照り返す。白蛇が微笑みを浮かべて舌を出した。赤い舌先が二つに割れていた。
牛一は慌てて手の甲で、霞む目を擦った。
牛一の耳に、再び女の悲鳴が聞こえた。ただの風鳴りだったのかもしれない。
日が陰り、辺りは急に薄暗くなった。
そこは清涼殿裏側に続く控えの間の暗がりだった。牛一には蠢く通勝が見えた。その所作挙動を静かに口にした。まるでその場にいるように――
「な、なま温かい……、尿か?」
目の前の通勝は両手を翳した。
「うわ~、血、血だ」
――屋外の蹴鞠の喧騒が聞こえる。
「中院参議どの、夜叉松麿どの~、東宮さまからお呼び出しじゃ、おいでになるかの」
血塗れの水干に指貫袴で通勝は立ち尽くしている。
「拙い拙い、わしゃ太政大臣ぞ、大臣家の誉れぞ」
「おられませぬかな」どこぞの公家の気を揉む声が聞こえる。
暫し声のする方を見たまま通勝は固まった。
困った顔に見えたのは一刹那だったのか、顔つきが変わった――
目の前の通勝が口を開いた。
「中院これに。趣向がありますれば暫しお待ちのほど」
何者かが乗り移ったように見えた。毅然と返す姿は貴公子に違いなかった。
「相わかった。東宮さまには間もなく参るとお伝えしておきましょう」
安堵の息をすると公家は踵を返した。
その背を見届けて、通勝は廊下を走り控えの間に向かった。
「これが事実である。なんぞ問題があるかな」
通勝は澄ました顔で応えた。
牛一が想像した通りの話だったのだ。
「宮中にて、問題があるかどうかは某には窺い知れませぬ」
牛一は応えてから、長老に一瞥を投げた。三長老は、ばつ悪そうに視線を避けた。これは詮議などというものではない。と長老が教えてくれる。
予定の話に落ち着けば結論は決まっているのかもしれない。むしろ、予定を狂わすような言動の通勝の正直さに、周りの者が畏怖を感じ始めていた。
独り壁際に座る言経は、息をしに初めて水面に顔を出す勢いで顔を上げた。
「問題があるに決まっておるではないか……」
言経は我慢できず声を上げた。
予定調和を壊す者がここにもいた。三人の長老は慌てた。言経に端から発言の資格は与えられていない。
「――夜叉松の目には人が、人がどのように映っておるのじゃ!」
正論を吐く言経に牛一は目を瞠った。
「これは長松どの。……大臣家の女房に女孺は釣り合いが取れぬとは、思われませぬか」
通勝は今、初めて言経に気がついたような口振りだ。
一点を見据える言経の目、それに比べて見返す通勝の黒目は微かに揺れ動いている。何人も己の眼中に入れぬ目だ。
○
牛一の記憶が七月三日に遡った。
殿上間の濡れ縁に、衣冠束帯に下襲の裾を引きずりながら中院通勝は東宮の前に進み出た。
「思えばあの喧騒の中、某は戦場の匂いを嗅いだのだ。雅の中で、場違いな血の匂いだった。緊張のせいかと鼻を押さえた」
思い出すと牛一は鼻先を指で弾いた。
その仕草を見ると、「あの時じゃな」と、気がついたように言継は頷いた。
「まさかここ清涼殿で、と不浄を胸の奥底に閉じ込めたが、事実でござった。織田家中にあっては血の匂いほど身近なものはない」
「なるほど、私には慣れぬ不浄な匂い。さすが血で血を洗う織田は違う」
通勝は赤い唇から白い歯を零した。
「血塗れの装束の夜叉松麿どのは、やむなく控えの間に用意しておいた、礼装の束帯を身に付けた。場違いではあるが、束帯には冠がなければ様にならずと、正装の出で立ちになったのでござろう」
「女子の穢れた血をつけた装束を、貴人の前では着替えるのが嗜みでござる」
当然のことと通勝は応え、「東宮さまはお喜びになられた」と笑顔でつけ加えた。
殿上間の濡れ縁で、東宮は通勝を見て喜んだ。
「おお、さすがに貴公子は、何を装うても美丈夫である。重畳、重畳」
東宮はしきりに頷き、手を叩いている。その横でお追従の声を上げる西園寺公朝がいた。
「さっそく一座に加わり、蹴鞠に花を咲かせましょうや」
寸刻前に起こった事態をおくびにも出さず、通勝は愛敬を振りまいた。
「その意気やよし。だが無理はするでないぞ、余も初めは束帯姿だったが、きつくて上手く動けぬ」
東宮は年若い通勝に慈愛を示して気づかった。それから庭に向かう通勝を微笑みを持って見守った。
牛一は七月十五日の殿上間に咳を上げ、耳目を集めた。
「東宮さまは有職故実を重んじる趣向を勝手に喜んだ。お陰で、だれも疑問を持たなかった訳です」
「然様。わたしは、誰にも辛い思いなどさせてはおらぬ。むしろ詩歌と見目よき振る舞いで、人々に夢を与えておるではないか……女孺にさえ、うたかたの夢を与えた」
誇り高き通勝の伝だ。
もはや、牛一は通勝を見ない。見る必要もないと淡々と話を続けた。
「――以上でございます。事実は白日の下に開示いたしました。仕置きは禁裏の胸一つでございましょう。多くの方々が納得した形になれば幸いと存じます」
牛一は深々と叩頭し清涼殿を後にした。
信長と金扇
翌々日、相国寺は奥の書院に牛一はいた。
信長の前で平伏し続蹴鞠ノ会の顛末を報告した。
「その後通勝は、蹴鞠には加わらないように、遠巻きに万座の中を彷徨い忍んだそうです。偶さかその様子を権大納言さまが見つけて、某に姓名と装束を口述したのでござります」
信長は楽しそうに喉を鳴らし、口髭をしごいた。
「装束の違いを指摘されるとはさぞ驚いたじゃろう。又助がおればこその企てか、ということは余のお陰じゃな。其奴、通勝と申したの、言い逃れはしなかったのだな?」
「はい。開き直った気持ちというよりは、そもそも何か問題でもあるのか、と淡々と語り続けましてござる」
ほう、と唸って信長はしばし考えた。
「そもそも、女の命は助かったのか?」
普通はそこが気になる。信長とて自分と同じなのだと牛一は妙な安心をした。
「織田家名代なれば詮議の手伝いまでは致しましたが、罪科の沙汰には関わりありませぬ。しかし、……一向に女官の話は出て参りませなんだ」
「結論は決まっておったのじゃな」
信長が本質をぴたりと突いた。
「勝手ながら、殿上間を下がるとすぐに裏付けを取りに走りました」
「さすがは余の記憶掛じゃ、褒めて遣わす」
牛一は透かさず叩頭し、話を続けた。
「すでに内侍所の女官は暇を出されておりましたので、宇治の実家に帰っておるのかと調べましたところ、東山の御寺泉涌寺に亡骸が埋葬されておったのでございます。しかも暇を出される前の日付でした。まさに結論は決まっていたのでございます」
牛一が調べるまでもなくその事実に気づいた者がもうひとりいた。そこまでは信長に伝えず牛一の胸に留めた。
「鬼畜な所業をしよるな、その若公家は」
信長は扇を開き、パチンと閉じた。
「あ、その扇……」
通勝が詮議の場で使った扇と同じ金箔に松竹梅の柄だ。
「これか、帝からの賜りものじゃ、官位は辞退したが、こればかりは受け取ったわ」
再び音を立て、閉じた扇を信長は己が首にぴたりと当てた。
「我が家中の者なれば、即これじゃ……」
信長は打ち首の形を作って見せた。冗談ではない。何度となく見た光景だ。
「御意にございまする」牛一は叩頭して小さく呟いた。
「所変われば扇の醸す味わいも変わりまする」
「最初は気づきませんでした。が、権大納言様の叱責に重なった光景を思い出しました」
牛一は、蹴鞠ノ会当日の様子を話し始めた。
七月三日の蹴鞠会の一座(八人)の中に通勝はいた。
通勝が蹴る鞠は上手く揚らない。
未熟者め! と舌打ちする言継が牛一の横にいた。
通勝の視線の先には女官の顔も見えた。あれがすずに違いない。
濡れ縁の席から、東宮をはじめ、信長や公卿、控えの鞠足が見ていた。そのとき、
「鞠足お代りあれ、烏丸光宣、広橋兼勝……」審判役公卿の声が聞こえた。すると、
「失礼仕ります」
通勝は堂々と一礼して下がった。
「たしか一人だけ、名前を呼ばれる前に勝手に座を下がった鞠足がおりました」
牛一は、話を止めると、一息吸い込んで通勝を見た。
「良く調べたではないか。その先はこうだ……」
通勝は悪びれる様子もなく、口角の一方を上げて話を継いだ。
「わたしは珍しく気が立っていた……」
通勝はすずを探すように清涼殿の裏手へ回り込んだ。
薄暗い廊下へ通勝が足を忍ばせた。
「すーず。駄目ではないか、ちらちら覗いたりしては」
通勝は真綿で包むような優しい笑顔を見せる。
「だって~、光る君(通勝)には御所でしかお会いできないのですもの」
すずはいじらしい目つきで通勝を見つめる。
「そなたの可愛い眼差しで見つめられれば、鞠が上手く蹴れぬのじゃ……」
通勝は細く長い指で優しく鈴の額を突っついて呟く。
「気が気ではないのだ」
「まあ、嬉しい」すずははにかんだ。
「で、どうなのだ、お腹の具合は?」
「稚児ですか?」
恥じらいで頬を朱に染めて、すずはお腹を見た。
上から見下ろす通勝の目は半眼に細まり、獲物の動きに顳かみを引き攣らす鬼の形相を見せた。
「うふ、戴いた丸薬は毎日飲んでおりますが、ちっとも良くなりませぬ。むしろ……」
困ったように小首を傾げる。
「そ、そうか。そんなことはなかろう。飲んだ後で、腹を出し、良く揉むのじゃ。やっておるか?」
「逆にお腹が冷えてしまいまする」すずは応えた。
「どれわたしが揉んでやろう。腹を出せ、いやせっかくじゃ薬も飲め、一粒、いや、二つ、三つ、そーれ」
通勝は竹筒の水を一気に飲ませた。
清涼殿の殿上間で、通勝は目の前にすずがいるかのように話をした。
「納得致したか?」
それがどうしたのだ。という顔で牛一に一瞥を寄こした。
牛一は通勝の口振りに内心怯んだ。何かがずれている。織田家で使う物差しと、公家の物差しは目盛りが違うらしい。血の気が下がる思いがした。だが、丸薬の話を耳にしてとっさに、口を挟んだ。
「丸薬は間違いなく三粒与えましたな。一粒が定量、二粒で危険、三粒が致死。と安倍清白が申しました」
ここが、突破口と牛一は拳を握りしめた、
「ほう? それは初耳でござる」
牛一の気合は透かされた。路傍の石地蔵を相手にしている心地がした。言経は黙って睨んでいる。三人の長老はたじろぐばかりだ。
通勝は妖気を含んだ笑みを浮かべた。
白い肌に浮かんだ赤く薄い唇が動くと、ペロッと舌先が覗く。
すずが、顔を歪めたと通勝が言った。
牛一の耳に微かに聞こえてくる。時を越えたすずの呻き声が……。
「う~うう~。苦しい」
「なあに、気のせいじゃ、苦しゅうない。苦しゅうない」
通勝の揉み手の力が一層入る。
目つきが変わる通勝。すずは気を失った。
次に呟きが聞こえた。幻聴か……、いや、そうではなかった。
「……私はまだ十九歳じゃ、前途は明るく開けておる。末は太政大臣も望める血筋じゃ、何を好んで下級女官を嫁にするものか」
確かに目の前の通勝の呟きだ。牛一を射竦める双眸は熱を持たぬ神の使いの白蛇を想像させた。艶やかな白い肌が薄い光を集めて照り返す。白蛇が微笑みを浮かべて舌を出した。赤い舌先が二つに割れていた。
牛一は慌てて手の甲で、霞む目を擦った。
牛一の耳に、再び女の悲鳴が聞こえた。ただの風鳴りだったのかもしれない。
日が陰り、辺りは急に薄暗くなった。
そこは清涼殿裏側に続く控えの間の暗がりだった。牛一には蠢く通勝が見えた。その所作挙動を静かに口にした。まるでその場にいるように――
「な、なま温かい……、尿か?」
目の前の通勝は両手を翳した。
「うわ~、血、血だ」
――屋外の蹴鞠の喧騒が聞こえる。
「中院参議どの、夜叉松麿どの~、東宮さまからお呼び出しじゃ、おいでになるかの」
血塗れの水干に指貫袴で通勝は立ち尽くしている。
「拙い拙い、わしゃ太政大臣ぞ、大臣家の誉れぞ」
「おられませぬかな」どこぞの公家の気を揉む声が聞こえる。
暫し声のする方を見たまま通勝は固まった。
困った顔に見えたのは一刹那だったのか、顔つきが変わった――
目の前の通勝が口を開いた。
「中院これに。趣向がありますれば暫しお待ちのほど」
何者かが乗り移ったように見えた。毅然と返す姿は貴公子に違いなかった。
「相わかった。東宮さまには間もなく参るとお伝えしておきましょう」
安堵の息をすると公家は踵を返した。
その背を見届けて、通勝は廊下を走り控えの間に向かった。
「これが事実である。なんぞ問題があるかな」
通勝は澄ました顔で応えた。
牛一が想像した通りの話だったのだ。
「宮中にて、問題があるかどうかは某には窺い知れませぬ」
牛一は応えてから、長老に一瞥を投げた。三長老は、ばつ悪そうに視線を避けた。これは詮議などというものではない。と長老が教えてくれる。
予定の話に落ち着けば結論は決まっているのかもしれない。むしろ、予定を狂わすような言動の通勝の正直さに、周りの者が畏怖を感じ始めていた。
独り壁際に座る言経は、息をしに初めて水面に顔を出す勢いで顔を上げた。
「問題があるに決まっておるではないか……」
言経は我慢できず声を上げた。
予定調和を壊す者がここにもいた。三人の長老は慌てた。言経に端から発言の資格は与えられていない。
「――夜叉松の目には人が、人がどのように映っておるのじゃ!」
正論を吐く言経に牛一は目を瞠った。
「これは長松どの。……大臣家の女房に女孺は釣り合いが取れぬとは、思われませぬか」
通勝は今、初めて言経に気がついたような口振りだ。
一点を見据える言経の目、それに比べて見返す通勝の黒目は微かに揺れ動いている。何人も己の眼中に入れぬ目だ。
○
牛一の記憶が七月三日に遡った。
殿上間の濡れ縁に、衣冠束帯に下襲の裾を引きずりながら中院通勝は東宮の前に進み出た。
「思えばあの喧騒の中、某は戦場の匂いを嗅いだのだ。雅の中で、場違いな血の匂いだった。緊張のせいかと鼻を押さえた」
思い出すと牛一は鼻先を指で弾いた。
その仕草を見ると、「あの時じゃな」と、気がついたように言継は頷いた。
「まさかここ清涼殿で、と不浄を胸の奥底に閉じ込めたが、事実でござった。織田家中にあっては血の匂いほど身近なものはない」
「なるほど、私には慣れぬ不浄な匂い。さすが血で血を洗う織田は違う」
通勝は赤い唇から白い歯を零した。
「血塗れの装束の夜叉松麿どのは、やむなく控えの間に用意しておいた、礼装の束帯を身に付けた。場違いではあるが、束帯には冠がなければ様にならずと、正装の出で立ちになったのでござろう」
「女子の穢れた血をつけた装束を、貴人の前では着替えるのが嗜みでござる」
当然のことと通勝は応え、「東宮さまはお喜びになられた」と笑顔でつけ加えた。
殿上間の濡れ縁で、東宮は通勝を見て喜んだ。
「おお、さすがに貴公子は、何を装うても美丈夫である。重畳、重畳」
東宮はしきりに頷き、手を叩いている。その横でお追従の声を上げる西園寺公朝がいた。
「さっそく一座に加わり、蹴鞠に花を咲かせましょうや」
寸刻前に起こった事態をおくびにも出さず、通勝は愛敬を振りまいた。
「その意気やよし。だが無理はするでないぞ、余も初めは束帯姿だったが、きつくて上手く動けぬ」
東宮は年若い通勝に慈愛を示して気づかった。それから庭に向かう通勝を微笑みを持って見守った。
牛一は七月十五日の殿上間に咳を上げ、耳目を集めた。
「東宮さまは有職故実を重んじる趣向を勝手に喜んだ。お陰で、だれも疑問を持たなかった訳です」
「然様。わたしは、誰にも辛い思いなどさせてはおらぬ。むしろ詩歌と見目よき振る舞いで、人々に夢を与えておるではないか……女孺にさえ、うたかたの夢を与えた」
誇り高き通勝の伝だ。
もはや、牛一は通勝を見ない。見る必要もないと淡々と話を続けた。
「――以上でございます。事実は白日の下に開示いたしました。仕置きは禁裏の胸一つでございましょう。多くの方々が納得した形になれば幸いと存じます」
牛一は深々と叩頭し清涼殿を後にした。
信長と金扇
翌々日、相国寺は奥の書院に牛一はいた。
信長の前で平伏し続蹴鞠ノ会の顛末を報告した。
「その後通勝は、蹴鞠には加わらないように、遠巻きに万座の中を彷徨い忍んだそうです。偶さかその様子を権大納言さまが見つけて、某に姓名と装束を口述したのでござります」
信長は楽しそうに喉を鳴らし、口髭をしごいた。
「装束の違いを指摘されるとはさぞ驚いたじゃろう。又助がおればこその企てか、ということは余のお陰じゃな。其奴、通勝と申したの、言い逃れはしなかったのだな?」
「はい。開き直った気持ちというよりは、そもそも何か問題でもあるのか、と淡々と語り続けましてござる」
ほう、と唸って信長はしばし考えた。
「そもそも、女の命は助かったのか?」
普通はそこが気になる。信長とて自分と同じなのだと牛一は妙な安心をした。
「織田家名代なれば詮議の手伝いまでは致しましたが、罪科の沙汰には関わりありませぬ。しかし、……一向に女官の話は出て参りませなんだ」
「結論は決まっておったのじゃな」
信長が本質をぴたりと突いた。
「勝手ながら、殿上間を下がるとすぐに裏付けを取りに走りました」
「さすがは余の記憶掛じゃ、褒めて遣わす」
牛一は透かさず叩頭し、話を続けた。
「すでに内侍所の女官は暇を出されておりましたので、宇治の実家に帰っておるのかと調べましたところ、東山の御寺泉涌寺に亡骸が埋葬されておったのでございます。しかも暇を出される前の日付でした。まさに結論は決まっていたのでございます」
牛一が調べるまでもなくその事実に気づいた者がもうひとりいた。そこまでは信長に伝えず牛一の胸に留めた。
「鬼畜な所業をしよるな、その若公家は」
信長は扇を開き、パチンと閉じた。
「あ、その扇……」
通勝が詮議の場で使った扇と同じ金箔に松竹梅の柄だ。
「これか、帝からの賜りものじゃ、官位は辞退したが、こればかりは受け取ったわ」
再び音を立て、閉じた扇を信長は己が首にぴたりと当てた。
「我が家中の者なれば、即これじゃ……」
信長は打ち首の形を作って見せた。冗談ではない。何度となく見た光景だ。
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