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第二話 天正三年蹴鞠ノ会の巻 その十
続蹴鞠ノ会 貴公子夜叉松麿
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続蹴鞠ノ会
相国寺の奥の書院に信長はいた。高級な金扇で無造作に肩を叩いている。細めに閉じた目は夥しい公務疲れに眠そうに見えた。何が虎の尾を踏むか気が気ではない。
牛一は気を張り詰めて信長に目通りをした。
「又助か、先だっての能は八番立てであった」
信長は、牛一に会うなり、片頬を綻ばせた。機嫌が良さそうなのは何よりと安堵した。
過日の七月六日は上京、下京の町衆が妙顕寺で信長のための能の会を催した。摂家、精華家の上位の公卿らと吏僚の武井夕庵、松井友閑、楠木長諳だけを伴っていた。
「それは長番組で、充分にご堪能のこと羨ましゅうございます」
「観世国広、観世又三郎が特に所望されて大鼓を打ったぞ」
「それは珍しゅうございますな」
牛一は大仰に目を輝かせて応えた。
信長は自慢げに鼻を鳴らした。牛一が観能会を羨ましがる様子を見たかったのかもしれない。
「だが、長過ぎだ。足腰が痛うなった。……残念だったな。又助を連れていくつもりが、権大納言どのの手助けに動き回っていたそうじゃで遠慮した。なに京におれば又の機会がある、楽しみに待っておれ」
信長自身はさほど楽しんだ訳ではなかった。いずれにせよ、牛一は有り難き言葉に恐縮した。近習を連れなかったのはもしかすれば牛一への気づかいかもしれない。
「で、どうなのじゃ権大納言どののほうは?」
言継からも抜かりなく、又助の手を借りたいとの願いが信長に伝わっていた。
すぐに信長から直々に「権大納言どののために力を尽くせ」と牛一は申し渡されている。
牛一はここ数日の進展を言上し、仕上げの筆を信長に求めた。
「なに~、余の名前を貸せじゃと。弾正忠信長の名は安くはない」
扇で膝を叩き、半眼の黒目がすーと横に動き牛一を捉える。牛一は身を固くした。
信長の鼻の穴がふっと広がった。
「――だが面白い。偽の蹴鞠ノ会を餌に咎人を焙りだすのじゃな。殿上人も人の子か……痴情の縺れとは下世話な話じゃな」
笑いを噛み締める、信長の顔は悪戯小僧のそれと同じに見えた。
「いえ、まだそうと決まった訳ではございませぬが……」
穏便に済ませたい言継の顔が頭に浮かぶと、牛一は言い訳がましく言葉を濁した。
「いや、人の本質は皆同じなのだ。すぐやれ又助」
さすがに信長の決断は迅速だ。透徹した信長の洞察力の前では貴賎などないに等しい。
「は、畏まって候」
○
後日、山科邸で、牛一は言継と最後の打ち合わせをした。
「無事、弾正忠さまと帝の名を持って続蹴鞠ノ会の開催に漕ぎつけましたな」
言継は招請奉書の書付を手に取り確認した。
「ただし、すべての参加者は、初回の東宮蹴鞠ノ会と同じ水干、または同じ装束を着用のこと……云々」
招請奉書の最後は帝と信長の連名である。なにゆえ、日にちを経ずして同じような催しをやるのか、誰もが首を傾げる。が、何人もけちなどつけようもなかった。帝と信長の名の下において、血と力に勝る者など一人もいない。
言継は満足そうに何度も首を振った。
雑掌が茶を立てて持ってきた。いつもは煎じものか酒だ。珍しいことがある。出されたお茶の香りが部屋に充満した。牛一はほっとして茶を手に取った。いい香りがした。上物に違いない。
「おや、長松どのは?」
言経がこの場に顔を見せないはずがない。何らかの想いを晴らすために最近にないほどの汗を掻いている。なにより、含むところがある通勝の問責となる晴れの場だ。
「彼奴、昨夜から様子が変なのじゃ。急に黙りこくって早寝した。ありゃあ怠け癖がまた出たかのう……儂のほうこそ気が重いのに」
「長松どのが? そのような訳はありませぬよ」
牛一は言下に否定した。言継とて此度の仕事ぶりに目を瞠ったくらいだ、本心ではあるまい。
「彼奴、気持ちが高ぶっておったようにも見えたのじゃが……」
言葉の合間に、言継の心配が垣間見える。
「そのうち顔を見せるだろう。ささ、又助どの、宇治の喜撰でございます。昨日、供御人からの献上の品がありましてな。たまには挽きたての抹茶も悪くありませぬな」
「宇治……ですか」
牛一の頭に嵯峨野の尼僧の言葉が過った。
「権大納言さまが宇治の供御人からお受け取りなされましたか」
「いや、儂は御所に参内中でな、長松が受け取った。なんでも四方山話に花が咲いたようで、儂が戻って来たときに供御人はまだ居ってな。顔を合わせると恐縮したように慌てて帰って行きおったわ」
言経の様子が変わったのはその後だと言継は言う。宇治の供御人からなんらかの話があったのやもしれない。考えを巡らし茶をもう一口啜った。
そのとき、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
「父上、参内の用意が整いましたぞ」
言経の落ち着いた声が響いた。言継は「おやっ」と顔を綻ばす。牛一と顔を見合わせ、父親の顔で頷いた。
杞憂であった。無理に身体を動かした疲れが出たのであろう。一時の変調だったに違いない。
貴公子夜叉松麿
七月十五日、清涼殿は殿上間。
訝りながらも、堂上家の鞠足たちは粛々と集まり出した。雅びやかで壮観な眺めを牛一は再び味った。とはいえ、場違いな牛一は慣れぬ身体を心持ち縮こめていた。言経は素知らぬ顔で殿上人の中に身を置いた。しかし東宮はもちろん、実枝の姿もそこにはなかった。おおごっさんに対する言継の配慮だった。
その中に、澄まし顔の貴公子、通勝が凛とした立ち姿で歩を進める。決められた折り筋の他に皺一つない水干さえ、貴公子のために気を張っている風だ。
居並ぶ公家の正面に、正二位山科言継が正親町天皇の名代として座り、その後ろ右に従二位の長老と、その左隣に正三位の長老が座った。
壁際に離れて座る牛一は書付を手に、顔触れを数えて確認し、言継に目で合図を送った。
ものの寸刻経たぬうちに彩り鮮やかな装束が座を満たした。言継はゆっくりと周りを睥睨し、威厳を以て口を開く。
「さて、此度は時を移さず続蹴鞠ノ会へ足労の由、主上もお喜びである」
咳をひとつあげた。辺りは粛然となる。
すーっと言継の視線が宙を漂い、止まった。
「……何ゆえ、御諚に背く出で立ちであるか、その方、中院通勝!」
「これは、異なことを仰いまする。わたくしは、なんら違約はございませぬが」
通勝と名指しされた若公家は、実に堂々とした口上だ。生まれながらに高貴な風を吸って生きて来た若者に、怯む様子は微塵もなかった。
公家衆の脇で、横向きに平伏する牛一は、静かに盗み見た。
「ここに、織田弾正忠の書付がある」
額ずく牛一の背筋がピンと張る。信長の名を呼び捨てに耳にする場面など、今までなかったからだ。
言継は書付を手に読み上げた。
「中院通勝、水干、色は紫、染色、葛袴」
通勝の涼しげな眼が見開き、微かに下を向いた。
「本日は、水干の色は二藍。しかも、いささか藍が勝って縹に近いのは、若年の色にあらず。せっかくの中院参議の貴公子振りが台無しじゃな」
牛一は、織田家衣紋道指南である言継の博識に改めて頷いた。
「な、何かの間違いでは……」
「弾正忠の書付に瑕疵があるとでも?」
言継は威圧した視線を他の公家に向けた。緊張の糸が張り詰める。
「勧修寺晴右、狩衣、色は檜皮、指貫袴」
「相違ございませぬ」
「うむ。万里小路充房は……」言継は書付に眼を落とした。
「水干、黄色地に緑青の模様、葛袴」
充房は驚き、自分の装束を見た。
「仰る通りにございます」
充房は突き袖の形で己が衣装に目をやった。
通勝は不思議そうに言継の持つ書付を見ている。目のつけ所は正しかった。通勝の険しい目つきをただ独り、牛一だけが注視した。通勝の顔の色が消えて、能面のような堅牢さを見せた。
「山科権大納言さま、これには、訳が……」
ようやく口を開くと、通勝は初めとは打って変わって、小さな声だ。
「ほう? 訳とな。訳は聞こう。じゃがな……」
と、一息を吐くと、歳に見合わぬ大音声でのすべての公家の耳目を集めた。
「――頭が高い。勅諚である!」
通勝を始め、すべての公家が平伏した。牛一など真っ先に叩頭した。
「本日の続蹴鞠ノ会はこれにて終了とする」
言継の厳かな声が響く。牛一にも意外なほどあっさりとした、第一幕の終わりである。
散会後の公家衆が何事もなかったように清涼殿を下がっていった。それでも不思議そうに青白い顔で振り返る公家が何人かいた。しかし口を開く者は一人としていない。三々五々帰路へ着く彩られた装束が、陽を照り返し粛々と遠ざかっていく。
比べて公家衆が去った清涼殿の殿上間は閑散とし、外光の陽射しを目にすると、なおいっそう暗く感じられた。
○
第二幕が内々の詮議である。舞台には通勝のみが残された。
事の重大さに気がついた通勝は、白い肌を紅潮させて微かに震えている。
長老三人に対坐する形で通勝が座り。牛一と言経は左側面に離れて座った。広い殿上間に五人だけが残った。
顔をまっすぐに見据える通勝の頬は、桜色の赤みをほんのりと刷いている。いくぶん落ち着きを取り戻したように見えた。
言経も様子の変化に気がつくと、ゲジ眉を顰めた。
「先の蹴鞠会の日、何があったのじゃ、夜叉松麿」
まずはじめに言継が口にした。
詮議と言うには優しげな、親戚の伯父が甥にもの申す様相だ。
牛一は固唾を飲んだ。だんまり、抗い、頬かぶりするであろう通勝の口元を見た。
開け放たれた明かり障子から一陣の風が殿上間の熱を払った。それを合図に通勝は笑みを浮かべてから口を開いた。
「一月は白馬節会にて紫宸殿の庭で白馬を拝見しているときです。女官は一つ年上の二十歳だと申しました」
軽やかな透き通る通勝の声が、心地良く耳に響いた。決して観念した者の声音ではなかった。
内侍所の女官が知らぬ間に、通勝の袂に文を落としたのが始まりだと、何ら悪びれずに話しだした。
馴れ初めが白馬の節会というから雅びである。まだ半年と少ししか経っていない。牛一の感覚から見ると、つい最近の話だ。
脇で睨む言経の顔を目にすると、その日のどこかで遠目で見ているだろう言経の姿が勝手に浮かんだ。
「二月の春季の御読経会は、四日間に亘って行われ、百人を超える僧侶が集められました」
茫然と聞く三人の長老。
「御読経会はそれは賑やかで人出が多いな」
言継は合いの手のように呟いた。
「その合間に、抜け出しました。大人数の出入りに紛れれば、簡単なことでございます」
禁裏では毎月、某かの儀礼、宴が開かれていると聞いていたが、若公家の通勝の口から改めて聞くと、牛一は典雅な様子に引き込まれた。
牛一しばらく口を開くこともないだけに、聞き耳だけを立てた。
「三月の曲水の宴の頃は、もう桜の花も盛りでございました……」
(花びらが舞う曲水の宴か……)
日野輝資の話に聞いた曲水の宴が目に浮かんだ。
御常御殿東側の庭園の、うねり曲がって流れる小川のふちごとに参会者が座り、上流から盃が流れてくる。通勝の隣に座る輝資の顔が恨めしげに才気あふれる貴公子を睨んでいる。
「自分の前を通り過ぎぬうちに詩歌を作る遊びです」
通勝は、宙に盃を掴んで酒を飲む仕草をした。
「私は詩歌を作るのが人並み以上に早い上、帝にお褒めの御言葉を賜りました。皆さまが額に汗する間に、後涼殿控えの間にて、違った汗を……」
「……違った汗じゃとう」従二位の長老が気色ばんだ。
「むふふ」
言継は勝手に何かを想像して笑みを零した。
遣り取りを見た牛一の顔が綻ぶ。武家方の詮議とはまるで違う世界だ。
汗をかくほどの春の陽射し、風に舞う桜の花びらが、流れる杯の酒にはらりと浮かぶ。汗ばむ通勝の顔、女の柔肌を伝う汗が見える。
「これでは通勝参議の自慢話を聞く催しではないか」
と、従二位がいえば、「もうよい」正三位の長老も同調した。
牛一は慌てて目を見開いた。
従二位の長老の呆れ顔が目に入った。
(――もう少し、聞きたいが……)思わず牛一は胸の内に呟いた。
恨めしげに長老を見る。
「少しは控えよ……」正三位はしゃがれ声で絞り出した。
「確かに、お前には詩歌の才能がある。だからこそ、若気の至りとして、穏便に済まそうと思っておるのじゃが……」
言継はしたり顔を作って、正三位の長老に顔を向け同意を求めた。
「本人が自分の状況をわからぬようでは、とうてい穏便にはできませぬぞ」
正三位の長老が小声で応えたが、通勝に聞こえぬ声ではない。
牛一は横にいる言経をちらりと見た。言経の目つきは相変わらず鋭く、通勝を見据えている。
通勝は黙ったまま正面の言継を見ていた。
「わかったな、夜叉松麿。……ならば先を話せ、余計なことは言うまいぞ」
空咳一つ上げ、言継は通勝を促した。
「四月は、藤棚の紫がそれは美しく目に沁みます。春から夏への衣替え、宮中掃部寮による更衣節の夜に、帝より扇を賜りました。気持ちも新たになりますと、そろそろ拙いかなと思い始め、女に歌を贈りました」
通勝は胸元から下賜の扇を颯爽と取り出した。
甘露寺経元が嫉妬した黄金の扇だ。その豪華さに三長老は後じさる。悪びれず、堂々とした通勝はとても十九歳には見えない。
「♪さくら色に 染めし衣を 脱ぎかへて 山ほととぎす 今日よりぞまつ」
歌を詠む通勝の声が、細く高く艶やかに牛一の耳に届いた。牛一も聞き惚れる美声だった。
「……和泉式部の歌か?」
牛一は首を捻って胸の内で呟いた。とっさに違和感が残った。
「だが、逆に、帝に報告すると言うのです。女房にしてくれと要求されて、困りました」
「女子は強いからのう~」
言継が漏らす言葉に、両脇の長老が動揺し、すぐに咳でごまかす。
牛一は苦笑いした。言継は正直なのだ。
「――待て待て、それは和泉式部の歌じゃな」
従二位が、何かに気がつき口にした。
言経の目は瞬きもせず見開いて、拳が膝上に握られている。
「はい。春の装いを夏の衣に脱ぎ換えて、夏の時鳥を今日より待つと……」
通勝は笑顔で従二位の長老に顔を向け、歌の注釈を始めた。
「な、なんと厚顔な……」従二位は唖然とした表情だ。
「女が怒るのも、もっともなこと」
正三位の声が震える。
「季節に合わせて他の女に替えるからと、今の女に伝えたとな……お前と言う奴は」
牛一は苦笑いを堪えた。
「五月は端午の節供、またの名を菖蒲の節供とも申します。蒸し暑く、じめじめし、疫病が流行る頃でございます。そのうえ、妊娠を告げられると、おちおち詩歌など作れる心境ではございませんでした」
「あたりまえだろう」
従二位の長老が呆れた。
「香りが強く薬効のある菖蒲が、邪気を祓ってくれると申しますから、私も身に巻きたいものだと思いました」通勝は堂々と続ける。
「――未熟者め!」
言継が顔を顰めて吐き捨てた声に、牛一の背筋がぴんと張った。
七月三日清涼殿、東庇で蹴鞠を見る牛一の背に飛んだ言継の叱責と同じだった。
確かに脳裏に浮かぶ、鞠を蹴る若者の姿は通勝だ。
「思いやりの心が足りない鞠の扱いじゃな、鞠が可哀相だ……」
苦虫を噛む言継が呟いた言葉が繰り返された。
ただ、頭に浮かぶ場面は涼しげな眼で鞠を蹴る通勝だった。牛一はしばし頭の中に映る通勝を追った。
打ち損じて転がる鞠を、通勝は鼻を鳴らし、乱暴に蹴った。
今、目の前にいる通勝も涼しげに声を弾ませる。
「六月は六月祓がございます。藤原家隆の歌に……」
通勝は下賜の扇子で優雅に風を煽っている。
「♪風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりけり」
自分の語りに酔っておるのか、また歌を詠じた。しかし面白い。
「そこで、みそぎを陰陽師に相談いたしましたところ、子供を堕す秘薬を手に入れました。服用と同時に下腹部を強く揉めと陰陽師に言われました」
「みそぎをするのは、其方じゃろ?」
従二位が、愕然と叱責を口にする。
「そうだ~、お前だ~~」
下を向き肩を震わす言経は呟いた。何年も開けなかった門扉が軋むように小さく空気を揺らした。
牛一と長老の視線が言経に集まった。
「すず……」
言経の声に初めて、通勝はゆっくり首を回し、視線を向けると直ぐに、正面に戻した。言経には何の反応も示さない。血の通わぬ絡繰人形のような動きだった。
「そう言えば、そんな名だったかもしれぬ」
前を向いたままで通勝は呟いた。牛一だけが、その呟きに気づいた。
「怪しすぎる話ぞ。おお、中院家を遡れば、土御門の縁戚に連なるか」
正三位は声を震わせた。
「陰陽師、秘薬、と来れば、怪しい話はいくらもありまする。だが、まだ事の真偽も定かではない」
従二位はそっと窘めた。
「うむ。中院家は確かに土御門家の祖、阿倍晴明まで行き着くやも知れぬか……」
言継は目を空に向けて確認している。
「権大納言さま、滅多なことは口にされないほうが、宜しいですぞ」
従二位は何やら気にしていた。禁裏のきな臭い権力闘争に呪詛が結びつく醜聞を恐れたか、あるいは目に見えぬ力を忌み嫌う信長を恐れたのかも知れない。
正三位の長老も、とっさに扇を口に当てた様が滑稽だった。
白く整った若公家の顔が怪しげに光る。赤い唇から笑みが零れる。
すると、鈍い鈴の音が聞こえた。
どこからだろうと牛一は首を左右にした。
握り締める言経の拳の中からだ……。
黙って言経を見つめると、牛一の視線に気づいて振り向いた。
牛一はそっと掌を言経の前に差し出した。ようやく自分が何かを握っていることに気づいたように、言経は己の拳を見た。
掌を開くと、美しい下げ緒がついた鈴が、言経の想いに耐えきれず音を上げたように拉げていた。
牛一は銀の鈴を助け出さなくてはと、咄嗟に思った。いやむしろ考えるより先に手が出たのかもしれない。言経は何の迷いもなく鈴を、牛一の掌に差し出した。牛一は黙って受け取り胸に仕舞った。
「さて、夜叉松麿、そこにおわす弾正忠さま名代の、太田和泉守どのに詮議を預ける。包み隠さず蹴鞠ノ会当日の様子を述べよ。さすれば悪いようには致さぬ」
名を呼ばれた牛一は立ち上がった。
通勝は牛一をちらりと見た。
「織田弾正忠さまより派遣されました、記録掛、太田和泉守でござる。山科権大納言さまより委嘱を受け、事実の推定を致しまする。異論があればなんなりと仰せくださいませ」
目の前の通勝は、何ら動じる風もなく牛一を見つめている。牛一も初めて真正面から通勝を見た。焦点がどこに合っているのかわからない目をしていた。
相国寺の奥の書院に信長はいた。高級な金扇で無造作に肩を叩いている。細めに閉じた目は夥しい公務疲れに眠そうに見えた。何が虎の尾を踏むか気が気ではない。
牛一は気を張り詰めて信長に目通りをした。
「又助か、先だっての能は八番立てであった」
信長は、牛一に会うなり、片頬を綻ばせた。機嫌が良さそうなのは何よりと安堵した。
過日の七月六日は上京、下京の町衆が妙顕寺で信長のための能の会を催した。摂家、精華家の上位の公卿らと吏僚の武井夕庵、松井友閑、楠木長諳だけを伴っていた。
「それは長番組で、充分にご堪能のこと羨ましゅうございます」
「観世国広、観世又三郎が特に所望されて大鼓を打ったぞ」
「それは珍しゅうございますな」
牛一は大仰に目を輝かせて応えた。
信長は自慢げに鼻を鳴らした。牛一が観能会を羨ましがる様子を見たかったのかもしれない。
「だが、長過ぎだ。足腰が痛うなった。……残念だったな。又助を連れていくつもりが、権大納言どのの手助けに動き回っていたそうじゃで遠慮した。なに京におれば又の機会がある、楽しみに待っておれ」
信長自身はさほど楽しんだ訳ではなかった。いずれにせよ、牛一は有り難き言葉に恐縮した。近習を連れなかったのはもしかすれば牛一への気づかいかもしれない。
「で、どうなのじゃ権大納言どののほうは?」
言継からも抜かりなく、又助の手を借りたいとの願いが信長に伝わっていた。
すぐに信長から直々に「権大納言どののために力を尽くせ」と牛一は申し渡されている。
牛一はここ数日の進展を言上し、仕上げの筆を信長に求めた。
「なに~、余の名前を貸せじゃと。弾正忠信長の名は安くはない」
扇で膝を叩き、半眼の黒目がすーと横に動き牛一を捉える。牛一は身を固くした。
信長の鼻の穴がふっと広がった。
「――だが面白い。偽の蹴鞠ノ会を餌に咎人を焙りだすのじゃな。殿上人も人の子か……痴情の縺れとは下世話な話じゃな」
笑いを噛み締める、信長の顔は悪戯小僧のそれと同じに見えた。
「いえ、まだそうと決まった訳ではございませぬが……」
穏便に済ませたい言継の顔が頭に浮かぶと、牛一は言い訳がましく言葉を濁した。
「いや、人の本質は皆同じなのだ。すぐやれ又助」
さすがに信長の決断は迅速だ。透徹した信長の洞察力の前では貴賎などないに等しい。
「は、畏まって候」
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後日、山科邸で、牛一は言継と最後の打ち合わせをした。
「無事、弾正忠さまと帝の名を持って続蹴鞠ノ会の開催に漕ぎつけましたな」
言継は招請奉書の書付を手に取り確認した。
「ただし、すべての参加者は、初回の東宮蹴鞠ノ会と同じ水干、または同じ装束を着用のこと……云々」
招請奉書の最後は帝と信長の連名である。なにゆえ、日にちを経ずして同じような催しをやるのか、誰もが首を傾げる。が、何人もけちなどつけようもなかった。帝と信長の名の下において、血と力に勝る者など一人もいない。
言継は満足そうに何度も首を振った。
雑掌が茶を立てて持ってきた。いつもは煎じものか酒だ。珍しいことがある。出されたお茶の香りが部屋に充満した。牛一はほっとして茶を手に取った。いい香りがした。上物に違いない。
「おや、長松どのは?」
言経がこの場に顔を見せないはずがない。何らかの想いを晴らすために最近にないほどの汗を掻いている。なにより、含むところがある通勝の問責となる晴れの場だ。
「彼奴、昨夜から様子が変なのじゃ。急に黙りこくって早寝した。ありゃあ怠け癖がまた出たかのう……儂のほうこそ気が重いのに」
「長松どのが? そのような訳はありませぬよ」
牛一は言下に否定した。言継とて此度の仕事ぶりに目を瞠ったくらいだ、本心ではあるまい。
「彼奴、気持ちが高ぶっておったようにも見えたのじゃが……」
言葉の合間に、言継の心配が垣間見える。
「そのうち顔を見せるだろう。ささ、又助どの、宇治の喜撰でございます。昨日、供御人からの献上の品がありましてな。たまには挽きたての抹茶も悪くありませぬな」
「宇治……ですか」
牛一の頭に嵯峨野の尼僧の言葉が過った。
「権大納言さまが宇治の供御人からお受け取りなされましたか」
「いや、儂は御所に参内中でな、長松が受け取った。なんでも四方山話に花が咲いたようで、儂が戻って来たときに供御人はまだ居ってな。顔を合わせると恐縮したように慌てて帰って行きおったわ」
言経の様子が変わったのはその後だと言継は言う。宇治の供御人からなんらかの話があったのやもしれない。考えを巡らし茶をもう一口啜った。
そのとき、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
「父上、参内の用意が整いましたぞ」
言経の落ち着いた声が響いた。言継は「おやっ」と顔を綻ばす。牛一と顔を見合わせ、父親の顔で頷いた。
杞憂であった。無理に身体を動かした疲れが出たのであろう。一時の変調だったに違いない。
貴公子夜叉松麿
七月十五日、清涼殿は殿上間。
訝りながらも、堂上家の鞠足たちは粛々と集まり出した。雅びやかで壮観な眺めを牛一は再び味った。とはいえ、場違いな牛一は慣れぬ身体を心持ち縮こめていた。言経は素知らぬ顔で殿上人の中に身を置いた。しかし東宮はもちろん、実枝の姿もそこにはなかった。おおごっさんに対する言継の配慮だった。
その中に、澄まし顔の貴公子、通勝が凛とした立ち姿で歩を進める。決められた折り筋の他に皺一つない水干さえ、貴公子のために気を張っている風だ。
居並ぶ公家の正面に、正二位山科言継が正親町天皇の名代として座り、その後ろ右に従二位の長老と、その左隣に正三位の長老が座った。
壁際に離れて座る牛一は書付を手に、顔触れを数えて確認し、言継に目で合図を送った。
ものの寸刻経たぬうちに彩り鮮やかな装束が座を満たした。言継はゆっくりと周りを睥睨し、威厳を以て口を開く。
「さて、此度は時を移さず続蹴鞠ノ会へ足労の由、主上もお喜びである」
咳をひとつあげた。辺りは粛然となる。
すーっと言継の視線が宙を漂い、止まった。
「……何ゆえ、御諚に背く出で立ちであるか、その方、中院通勝!」
「これは、異なことを仰いまする。わたくしは、なんら違約はございませぬが」
通勝と名指しされた若公家は、実に堂々とした口上だ。生まれながらに高貴な風を吸って生きて来た若者に、怯む様子は微塵もなかった。
公家衆の脇で、横向きに平伏する牛一は、静かに盗み見た。
「ここに、織田弾正忠の書付がある」
額ずく牛一の背筋がピンと張る。信長の名を呼び捨てに耳にする場面など、今までなかったからだ。
言継は書付を手に読み上げた。
「中院通勝、水干、色は紫、染色、葛袴」
通勝の涼しげな眼が見開き、微かに下を向いた。
「本日は、水干の色は二藍。しかも、いささか藍が勝って縹に近いのは、若年の色にあらず。せっかくの中院参議の貴公子振りが台無しじゃな」
牛一は、織田家衣紋道指南である言継の博識に改めて頷いた。
「な、何かの間違いでは……」
「弾正忠の書付に瑕疵があるとでも?」
言継は威圧した視線を他の公家に向けた。緊張の糸が張り詰める。
「勧修寺晴右、狩衣、色は檜皮、指貫袴」
「相違ございませぬ」
「うむ。万里小路充房は……」言継は書付に眼を落とした。
「水干、黄色地に緑青の模様、葛袴」
充房は驚き、自分の装束を見た。
「仰る通りにございます」
充房は突き袖の形で己が衣装に目をやった。
通勝は不思議そうに言継の持つ書付を見ている。目のつけ所は正しかった。通勝の険しい目つきをただ独り、牛一だけが注視した。通勝の顔の色が消えて、能面のような堅牢さを見せた。
「山科権大納言さま、これには、訳が……」
ようやく口を開くと、通勝は初めとは打って変わって、小さな声だ。
「ほう? 訳とな。訳は聞こう。じゃがな……」
と、一息を吐くと、歳に見合わぬ大音声でのすべての公家の耳目を集めた。
「――頭が高い。勅諚である!」
通勝を始め、すべての公家が平伏した。牛一など真っ先に叩頭した。
「本日の続蹴鞠ノ会はこれにて終了とする」
言継の厳かな声が響く。牛一にも意外なほどあっさりとした、第一幕の終わりである。
散会後の公家衆が何事もなかったように清涼殿を下がっていった。それでも不思議そうに青白い顔で振り返る公家が何人かいた。しかし口を開く者は一人としていない。三々五々帰路へ着く彩られた装束が、陽を照り返し粛々と遠ざかっていく。
比べて公家衆が去った清涼殿の殿上間は閑散とし、外光の陽射しを目にすると、なおいっそう暗く感じられた。
○
第二幕が内々の詮議である。舞台には通勝のみが残された。
事の重大さに気がついた通勝は、白い肌を紅潮させて微かに震えている。
長老三人に対坐する形で通勝が座り。牛一と言経は左側面に離れて座った。広い殿上間に五人だけが残った。
顔をまっすぐに見据える通勝の頬は、桜色の赤みをほんのりと刷いている。いくぶん落ち着きを取り戻したように見えた。
言経も様子の変化に気がつくと、ゲジ眉を顰めた。
「先の蹴鞠会の日、何があったのじゃ、夜叉松麿」
まずはじめに言継が口にした。
詮議と言うには優しげな、親戚の伯父が甥にもの申す様相だ。
牛一は固唾を飲んだ。だんまり、抗い、頬かぶりするであろう通勝の口元を見た。
開け放たれた明かり障子から一陣の風が殿上間の熱を払った。それを合図に通勝は笑みを浮かべてから口を開いた。
「一月は白馬節会にて紫宸殿の庭で白馬を拝見しているときです。女官は一つ年上の二十歳だと申しました」
軽やかな透き通る通勝の声が、心地良く耳に響いた。決して観念した者の声音ではなかった。
内侍所の女官が知らぬ間に、通勝の袂に文を落としたのが始まりだと、何ら悪びれずに話しだした。
馴れ初めが白馬の節会というから雅びである。まだ半年と少ししか経っていない。牛一の感覚から見ると、つい最近の話だ。
脇で睨む言経の顔を目にすると、その日のどこかで遠目で見ているだろう言経の姿が勝手に浮かんだ。
「二月の春季の御読経会は、四日間に亘って行われ、百人を超える僧侶が集められました」
茫然と聞く三人の長老。
「御読経会はそれは賑やかで人出が多いな」
言継は合いの手のように呟いた。
「その合間に、抜け出しました。大人数の出入りに紛れれば、簡単なことでございます」
禁裏では毎月、某かの儀礼、宴が開かれていると聞いていたが、若公家の通勝の口から改めて聞くと、牛一は典雅な様子に引き込まれた。
牛一しばらく口を開くこともないだけに、聞き耳だけを立てた。
「三月の曲水の宴の頃は、もう桜の花も盛りでございました……」
(花びらが舞う曲水の宴か……)
日野輝資の話に聞いた曲水の宴が目に浮かんだ。
御常御殿東側の庭園の、うねり曲がって流れる小川のふちごとに参会者が座り、上流から盃が流れてくる。通勝の隣に座る輝資の顔が恨めしげに才気あふれる貴公子を睨んでいる。
「自分の前を通り過ぎぬうちに詩歌を作る遊びです」
通勝は、宙に盃を掴んで酒を飲む仕草をした。
「私は詩歌を作るのが人並み以上に早い上、帝にお褒めの御言葉を賜りました。皆さまが額に汗する間に、後涼殿控えの間にて、違った汗を……」
「……違った汗じゃとう」従二位の長老が気色ばんだ。
「むふふ」
言継は勝手に何かを想像して笑みを零した。
遣り取りを見た牛一の顔が綻ぶ。武家方の詮議とはまるで違う世界だ。
汗をかくほどの春の陽射し、風に舞う桜の花びらが、流れる杯の酒にはらりと浮かぶ。汗ばむ通勝の顔、女の柔肌を伝う汗が見える。
「これでは通勝参議の自慢話を聞く催しではないか」
と、従二位がいえば、「もうよい」正三位の長老も同調した。
牛一は慌てて目を見開いた。
従二位の長老の呆れ顔が目に入った。
(――もう少し、聞きたいが……)思わず牛一は胸の内に呟いた。
恨めしげに長老を見る。
「少しは控えよ……」正三位はしゃがれ声で絞り出した。
「確かに、お前には詩歌の才能がある。だからこそ、若気の至りとして、穏便に済まそうと思っておるのじゃが……」
言継はしたり顔を作って、正三位の長老に顔を向け同意を求めた。
「本人が自分の状況をわからぬようでは、とうてい穏便にはできませぬぞ」
正三位の長老が小声で応えたが、通勝に聞こえぬ声ではない。
牛一は横にいる言経をちらりと見た。言経の目つきは相変わらず鋭く、通勝を見据えている。
通勝は黙ったまま正面の言継を見ていた。
「わかったな、夜叉松麿。……ならば先を話せ、余計なことは言うまいぞ」
空咳一つ上げ、言継は通勝を促した。
「四月は、藤棚の紫がそれは美しく目に沁みます。春から夏への衣替え、宮中掃部寮による更衣節の夜に、帝より扇を賜りました。気持ちも新たになりますと、そろそろ拙いかなと思い始め、女に歌を贈りました」
通勝は胸元から下賜の扇を颯爽と取り出した。
甘露寺経元が嫉妬した黄金の扇だ。その豪華さに三長老は後じさる。悪びれず、堂々とした通勝はとても十九歳には見えない。
「♪さくら色に 染めし衣を 脱ぎかへて 山ほととぎす 今日よりぞまつ」
歌を詠む通勝の声が、細く高く艶やかに牛一の耳に届いた。牛一も聞き惚れる美声だった。
「……和泉式部の歌か?」
牛一は首を捻って胸の内で呟いた。とっさに違和感が残った。
「だが、逆に、帝に報告すると言うのです。女房にしてくれと要求されて、困りました」
「女子は強いからのう~」
言継が漏らす言葉に、両脇の長老が動揺し、すぐに咳でごまかす。
牛一は苦笑いした。言継は正直なのだ。
「――待て待て、それは和泉式部の歌じゃな」
従二位が、何かに気がつき口にした。
言経の目は瞬きもせず見開いて、拳が膝上に握られている。
「はい。春の装いを夏の衣に脱ぎ換えて、夏の時鳥を今日より待つと……」
通勝は笑顔で従二位の長老に顔を向け、歌の注釈を始めた。
「な、なんと厚顔な……」従二位は唖然とした表情だ。
「女が怒るのも、もっともなこと」
正三位の声が震える。
「季節に合わせて他の女に替えるからと、今の女に伝えたとな……お前と言う奴は」
牛一は苦笑いを堪えた。
「五月は端午の節供、またの名を菖蒲の節供とも申します。蒸し暑く、じめじめし、疫病が流行る頃でございます。そのうえ、妊娠を告げられると、おちおち詩歌など作れる心境ではございませんでした」
「あたりまえだろう」
従二位の長老が呆れた。
「香りが強く薬効のある菖蒲が、邪気を祓ってくれると申しますから、私も身に巻きたいものだと思いました」通勝は堂々と続ける。
「――未熟者め!」
言継が顔を顰めて吐き捨てた声に、牛一の背筋がぴんと張った。
七月三日清涼殿、東庇で蹴鞠を見る牛一の背に飛んだ言継の叱責と同じだった。
確かに脳裏に浮かぶ、鞠を蹴る若者の姿は通勝だ。
「思いやりの心が足りない鞠の扱いじゃな、鞠が可哀相だ……」
苦虫を噛む言継が呟いた言葉が繰り返された。
ただ、頭に浮かぶ場面は涼しげな眼で鞠を蹴る通勝だった。牛一はしばし頭の中に映る通勝を追った。
打ち損じて転がる鞠を、通勝は鼻を鳴らし、乱暴に蹴った。
今、目の前にいる通勝も涼しげに声を弾ませる。
「六月は六月祓がございます。藤原家隆の歌に……」
通勝は下賜の扇子で優雅に風を煽っている。
「♪風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりけり」
自分の語りに酔っておるのか、また歌を詠じた。しかし面白い。
「そこで、みそぎを陰陽師に相談いたしましたところ、子供を堕す秘薬を手に入れました。服用と同時に下腹部を強く揉めと陰陽師に言われました」
「みそぎをするのは、其方じゃろ?」
従二位が、愕然と叱責を口にする。
「そうだ~、お前だ~~」
下を向き肩を震わす言経は呟いた。何年も開けなかった門扉が軋むように小さく空気を揺らした。
牛一と長老の視線が言経に集まった。
「すず……」
言経の声に初めて、通勝はゆっくり首を回し、視線を向けると直ぐに、正面に戻した。言経には何の反応も示さない。血の通わぬ絡繰人形のような動きだった。
「そう言えば、そんな名だったかもしれぬ」
前を向いたままで通勝は呟いた。牛一だけが、その呟きに気づいた。
「怪しすぎる話ぞ。おお、中院家を遡れば、土御門の縁戚に連なるか」
正三位は声を震わせた。
「陰陽師、秘薬、と来れば、怪しい話はいくらもありまする。だが、まだ事の真偽も定かではない」
従二位はそっと窘めた。
「うむ。中院家は確かに土御門家の祖、阿倍晴明まで行き着くやも知れぬか……」
言継は目を空に向けて確認している。
「権大納言さま、滅多なことは口にされないほうが、宜しいですぞ」
従二位は何やら気にしていた。禁裏のきな臭い権力闘争に呪詛が結びつく醜聞を恐れたか、あるいは目に見えぬ力を忌み嫌う信長を恐れたのかも知れない。
正三位の長老も、とっさに扇を口に当てた様が滑稽だった。
白く整った若公家の顔が怪しげに光る。赤い唇から笑みが零れる。
すると、鈍い鈴の音が聞こえた。
どこからだろうと牛一は首を左右にした。
握り締める言経の拳の中からだ……。
黙って言経を見つめると、牛一の視線に気づいて振り向いた。
牛一はそっと掌を言経の前に差し出した。ようやく自分が何かを握っていることに気づいたように、言経は己の拳を見た。
掌を開くと、美しい下げ緒がついた鈴が、言経の想いに耐えきれず音を上げたように拉げていた。
牛一は銀の鈴を助け出さなくてはと、咄嗟に思った。いやむしろ考えるより先に手が出たのかもしれない。言経は何の迷いもなく鈴を、牛一の掌に差し出した。牛一は黙って受け取り胸に仕舞った。
「さて、夜叉松麿、そこにおわす弾正忠さま名代の、太田和泉守どのに詮議を預ける。包み隠さず蹴鞠ノ会当日の様子を述べよ。さすれば悪いようには致さぬ」
名を呼ばれた牛一は立ち上がった。
通勝は牛一をちらりと見た。
「織田弾正忠さまより派遣されました、記録掛、太田和泉守でござる。山科権大納言さまより委嘱を受け、事実の推定を致しまする。異論があればなんなりと仰せくださいませ」
目の前の通勝は、何ら動じる風もなく牛一を見つめている。牛一も初めて真正面から通勝を見た。焦点がどこに合っているのかわからない目をしていた。
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