21 / 132
第20話 小さな噂と、ひとりの優しい客
しおりを挟む
朝の麦猫堂は、祭りの日ほどではないが、いつもより少しだけ忙しかった。
焼き上げたパンの香りが通りに広がると、それだけで客の足が自然と止まってしまう。
「エリ、これ持って出しておくれ」
「はい!」
焼きたての陽だまりパンを籠に並べながら、私はふと気づいた。
「……あれ? 今日、なんだか知らない顔のお客さんが多くない?」
「そうだねえ」
ハンナは生地を叩きながら肩をすくめた。
「あんたの雨の日の話が、近所じゃちょっとした噂になってるみたいさ」
「噂……?」
「弱ったお年寄りに、濡らさんように缶に入れてパン渡したってね。
あの子は仕事が丁寧で気が利くって、昨日から聞くよ」
「そ、そんな話になってたの……」
胸がそわそわと落ち着かなくなる。
あの時はただ、そうした方がいいと思っただけなのに。
◇ ◇ ◇
昼を少し過ぎたころ、店の扉が控えめに開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、どこか上品な雰囲気の女性だった。
白いエプロンをしているけれど、立ち方や仕草から長く使用人として働いてきたことが分かる。
「麦猫堂さんでよろしいでしょうか」
「はい、いらっしゃいませ。ご注文は?」
女性は私をじっと見つめ、ふっと表情を和らげた。
「あなたが……エリシア様ですね?」
「えっ、な、なんで……」
声が裏返る。
背後でセシルがわずかに身構えた気配がする。
「噂を聞きまして。
親切で腕のいい娘さんが働いていると。
ぜひ一度お会いしたいと思っておりました」
「そ、そんな……腕なんてまだまだで……!」
「ふふ、謙遜がお上手ですね」
女性はメモ帳を取り出し、軽く目を走らせた。
「実は本日、お屋敷で小さなお茶会がありまして、
こちらの陽だまりパンをお出しできないかと思いまして」
「お茶会で……?」
「代金は正規でお支払いします。
お店の焼きたてを取りに伺う形でも構いません」
胸がとくんと跳ねた。
私個人に仕事として声がかかったのは、初めてだった。
「エリ。やってみるかい?」
ハンナがにやりと笑う。
「わ、私でよければ……ぜひ!」
「ありがとうございます。
お名前はヒルダと申します。
うちのお嬢様が柔らかいパンを好まれていて……」
(柔らかいパン……)
私は昨日教わった生地の感触を思い返す。
「少しお時間をいただければ、ふんわり仕上げます。
お嬢様の好みに合えばいいのですが」
ヒルダは嬉しそうに目を細めた。
「楽しみにしております。三十分後にまた伺います」
丁寧に礼をして、彼女は店を出ていった。
◇ ◇ ◇
「エリ、やるじゃないか!」
ハンナが笑いながら背中を軽く叩く。
「お客さんの注文だけじゃなくて、個別の依頼まで来るなんて。
立派なもんさ」
「……嬉しいです。本当に」
胸の奥が温かくなる。
(私は、前に進んでるんだ……)
◇ ◇ ◇
三十分後。
ヒルダは約束通り戻ってきた。
ふわりと焼き上がった陽だまりパンを大切そうに受け取る。
「素晴らしい香りです。
これはきっと、お嬢様も喜ばれます」
「お気に召していただければ嬉しいです」
「またお願いするかもしれません。その時はぜひよろしく」
丁寧に礼をして去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息をついた。
「……なんだか、夢みたい」
「夢ではありませんよ」
隣に立っていたセシルの静かな声が落ちる。
「お嬢様は働いています。評価されるのは当然です」
「そうかな……」
「ええ。胸を張ってよい出来です」
その言葉が、また胸を温かくした。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 通常営業の日給 +25
収入 お茶会用パンの個別依頼料(半割がエリ分) +15
合計 +40
借金残高 23,881 → 23,841リラ
セシルの一口メモ
良い働きは必ず誰かが見ています。
それが噂となり、依頼となり、未来へつながるのです。
焼き上げたパンの香りが通りに広がると、それだけで客の足が自然と止まってしまう。
「エリ、これ持って出しておくれ」
「はい!」
焼きたての陽だまりパンを籠に並べながら、私はふと気づいた。
「……あれ? 今日、なんだか知らない顔のお客さんが多くない?」
「そうだねえ」
ハンナは生地を叩きながら肩をすくめた。
「あんたの雨の日の話が、近所じゃちょっとした噂になってるみたいさ」
「噂……?」
「弱ったお年寄りに、濡らさんように缶に入れてパン渡したってね。
あの子は仕事が丁寧で気が利くって、昨日から聞くよ」
「そ、そんな話になってたの……」
胸がそわそわと落ち着かなくなる。
あの時はただ、そうした方がいいと思っただけなのに。
◇ ◇ ◇
昼を少し過ぎたころ、店の扉が控えめに開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、どこか上品な雰囲気の女性だった。
白いエプロンをしているけれど、立ち方や仕草から長く使用人として働いてきたことが分かる。
「麦猫堂さんでよろしいでしょうか」
「はい、いらっしゃいませ。ご注文は?」
女性は私をじっと見つめ、ふっと表情を和らげた。
「あなたが……エリシア様ですね?」
「えっ、な、なんで……」
声が裏返る。
背後でセシルがわずかに身構えた気配がする。
「噂を聞きまして。
親切で腕のいい娘さんが働いていると。
ぜひ一度お会いしたいと思っておりました」
「そ、そんな……腕なんてまだまだで……!」
「ふふ、謙遜がお上手ですね」
女性はメモ帳を取り出し、軽く目を走らせた。
「実は本日、お屋敷で小さなお茶会がありまして、
こちらの陽だまりパンをお出しできないかと思いまして」
「お茶会で……?」
「代金は正規でお支払いします。
お店の焼きたてを取りに伺う形でも構いません」
胸がとくんと跳ねた。
私個人に仕事として声がかかったのは、初めてだった。
「エリ。やってみるかい?」
ハンナがにやりと笑う。
「わ、私でよければ……ぜひ!」
「ありがとうございます。
お名前はヒルダと申します。
うちのお嬢様が柔らかいパンを好まれていて……」
(柔らかいパン……)
私は昨日教わった生地の感触を思い返す。
「少しお時間をいただければ、ふんわり仕上げます。
お嬢様の好みに合えばいいのですが」
ヒルダは嬉しそうに目を細めた。
「楽しみにしております。三十分後にまた伺います」
丁寧に礼をして、彼女は店を出ていった。
◇ ◇ ◇
「エリ、やるじゃないか!」
ハンナが笑いながら背中を軽く叩く。
「お客さんの注文だけじゃなくて、個別の依頼まで来るなんて。
立派なもんさ」
「……嬉しいです。本当に」
胸の奥が温かくなる。
(私は、前に進んでるんだ……)
◇ ◇ ◇
三十分後。
ヒルダは約束通り戻ってきた。
ふわりと焼き上がった陽だまりパンを大切そうに受け取る。
「素晴らしい香りです。
これはきっと、お嬢様も喜ばれます」
「お気に召していただければ嬉しいです」
「またお願いするかもしれません。その時はぜひよろしく」
丁寧に礼をして去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息をついた。
「……なんだか、夢みたい」
「夢ではありませんよ」
隣に立っていたセシルの静かな声が落ちる。
「お嬢様は働いています。評価されるのは当然です」
「そうかな……」
「ええ。胸を張ってよい出来です」
その言葉が、また胸を温かくした。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 通常営業の日給 +25
収入 お茶会用パンの個別依頼料(半割がエリ分) +15
合計 +40
借金残高 23,881 → 23,841リラ
セシルの一口メモ
良い働きは必ず誰かが見ています。
それが噂となり、依頼となり、未来へつながるのです。
0
あなたにおすすめの小説
【完結保証】科学で興す異世界国家 ~理不尽に死んだ技術者が、「石炭」と「ジャガイモ」で最強を証明する。優秀な兄たちが膝を折るまでの建国譚~
Lihito
ファンタジー
正しいデータを揃えた。論理も完璧だった。
それでも、組織の理不尽には勝てなかった。
——そして、使い潰されて死んだ。
目を覚ますとそこは、十年後に魔王軍による滅亡が確定している異世界。
強国の第三王子として転生した彼に与えられたのは、
因果をねじ曲げる有限の力——「運命点」だけ。
武力と経済を握る兄たちの陰で、継承権最下位。後ろ盾も発言力もない。
だが、邪魔する上司も腐った組織もない。
今度こそ証明する。科学と運命点を武器に、俺のやり方が正しいことを。
石炭と化学による国力強化。
情報と大義名分を積み重ねた対外戦略。
準備を重ね、機が熟した瞬間に運命点で押し切る。
これは、理不尽に敗れた科学者が、選択と代償を重ねる中で、
「正しさ」だけでは国は守れないと知りながら、
滅びの未来を書き換えようとする建国譚。
田舎娘、追放後に開いた小さな薬草店が国家レベルで大騒ぎになるほど大繁盛
タマ マコト
ファンタジー
【大好評につき21〜40話執筆決定!!】
田舎娘ミントは、王都の名門ローズ家で地味な使用人薬師として働いていたが、令嬢ローズマリーの嫉妬により濡れ衣を着せられ、理不尽に追放されてしまう。雨の中ひとり王都を去ったミントは、亡き祖母が残した田舎の小屋に戻り、そこで薬草店を開くことを決意。森で倒れていた謎の青年サフランを救ったことで、彼女の薬の“異常な効き目”が静かに広まりはじめ、村の小さな店《グリーンノート》へ、変化の風が吹き込み始める――。
過労死した俺、異世界で最強農業チートに目覚める。神農具で荒野を楽園に変えたら、エルフや獣人が集まって最高の国ができました
黒崎隼人
ファンタジー
「君、死んじゃったから、異世界で国、作らない?」
ブラック企業で過労死した俺、相川大地。
女神様から授かったのは、一振りで大地を耕し、一瞬で作物を育てる**最強の『神農具』**だった!?
右も左もわからない荒野でのサバイバル。
だけど、腹ペコのエルフ美少女を助け、頼れるドワーフ、元気な猫耳娘、モフモフ神狼が仲間になって、開拓生活は一気に賑やかに!
美味しいご飯とチート農具で、荒野はあっという間に**「奇跡の村」**へ。
これは、ただの農民志望だった俺が、最高の仲間たちと世界を救い、種族の壁を越えた理想の国『アグリトピア』を築き上げる物語。
農業は、世界を救う! さあ、今日も元気に、畑、耕しますか!
婚約破棄された幼い公爵令嬢、目覚めたら絶世の美女でした
鍛高譚
恋愛
『幼すぎる』と婚約破棄された公爵令嬢ですが、意識不明から目覚めたら絶世の美女になっていました
幼すぎる、頼りない――そんな理由で婚約者に見限られた公爵令嬢シルフィーネ。
心ない言葉に傷ついた彼女は、事故に遭い意識不明となってしまう。
しかし一年後、彼女は奇跡的に目を覚ます。
そして目覚めた彼女は――かつての面影を残しつつも、見る者すべてを惹きつける絶世の美女へと変貌を遂げていた!
周囲の反応は一変。婚約破棄を後悔する元婚約者、熱視線を送る他家の令息たち、さらには王太子からの突然の縁談まで舞い込み――?
「もう、誰にも傷つけられたくない。私は私の幸せを手に入れるの」
これは、冷たく突き放された少女が美しく咲き誇り、誇りと自由を手に入れる、ざまぁ&逆転恋愛劇。
側妃に追放された王太子
基本二度寝
ファンタジー
「王が倒れた今、私が王の代理を務めます」
正妃は数年前になくなり、側妃の女が現在正妃の代わりを務めていた。
そして、国王が体調不良で倒れた今、側妃は貴族を集めて宣言した。
王の代理が側妃など異例の出来事だ。
「手始めに、正妃の息子、現王太子の婚約破棄と身分の剥奪を命じます」
王太子は息を吐いた。
「それが国のためなら」
貴族も大臣も側妃の手が及んでいる。
無駄に抵抗するよりも、王太子はそれに従うことにした。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
仕事繁忙期の為、2月中旬まで更新を週一に致します。
カクヨム(吉野 ひな)様にも投稿しています。
「無能」と捨てられた少女は、神の愛し子だった――。 凍てつく北の地で始まる、聖獣たちと冷徹公爵による「世界一過保護な」逆転生活。
秦江湖
恋愛
魔法適性「鑑定」がすべてを決める、黄金の国ルミナリス。 名門ベルグラード公爵家の末娘アデリーンは、十五歳の鑑定式で、前代未聞の『鑑定不能(黒の沈黙)』を叩き出してしまう。
「我が家の恥さらしめ。二度とその顔を見せるな」
第一王子からは婚約破棄を突きつけられ、最愛の三人の兄たちからも冷酷な言葉とともに、極寒の地「ノースガル公国」へ追放を言い渡されたアデリーン。
着の身着のままで雪原に放り出された彼女が出会ったのは、一匹の衰弱した仔狼――それは、人間には決して懐かないはずの『伝説の聖獣』だった。
「鑑定不能」の正体は、魔力ゼロなどではなく、聖獣と心を通わせる唯一の力『調律師』の証。
行き倒れたアデリーンを救ったのは、誰もが恐れる氷の公爵ゼノスで……。
「こんなに尊い存在を捨てるとは、黄金の国の連中は正気か?」
「聖獣も、私も……お前を離すつもりはない」
氷の公爵に拾われ、聖獣たちに囲まれ、これまでの不遇が嘘のような「極上溺愛」を享受するアデリーン。
一方で、彼女を捨てた黄金の国は、聖獣の加護を失い崩壊の危機に直面していた。
慌ててアデリーンを連れ戻そうとする身勝手な王族たち。
しかし、彼らの前には「復讐」の準備を終えたアデリーンの兄たちが立ちはだかる。
「遅いよ。僕らのかわいい妹を泣かせた罪、一生かけて償ってもらうからね」
これは、すべてを失った少女が、真の居場所と愛を見つけるまでの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる