48 / 75
第47話 はじめての納品、はじめての不安
しおりを挟む
その朝、麦猫堂の厨房は早くから慌ただしかった。
クレアル邸への納品は今日から三日間。
初日の今日は、絶対に失敗できない。
「よし、エリ。焼き上がりの確認をしておくれ」
ハンナが声を張る。
「はい!」
焼き台には陽だまりパンが並び、
湯気と共に甘くやわらかな香りが立ちのぼっていた。
エリは色、膨らみ、手触りをひとつずつ確かめる。
ハンナの手元を見続けてきた日々のおかげで、
自分なりに良い焼きがわかるようになってきた。
それでも今日だけは、胸が落ち着かない。
(納品……お屋敷にパンを届けるなんて……)
かつてのリースフェルト家。
広い食堂、磨かれた銀食器、朝の香り。
その世界を、今日は自分の手で支えるのだと思うと、
胸の奥がざわりと揺れた。
◇ ◇ ◇
「エリ。手が止まっていますよ」
「わっ、ごめん、ごめんなさい!」
セシルが静かに近くへ寄った。
「緊張しているのですか」
「してるよ! 初めてなんだよ、納品なんて!」
「大丈夫です。昨日と同じように丁寧に作り、丁寧に運べば問題ありません」
「……うん」
セシルの落ち着いた声に、
少しだけ呼吸が整う。
(覚悟を決めたんだもの。逃げない)
◇ ◇ ◇
「よし、準備できたよ」
ハンナが籠を差し出す。
二十個の陽だまりパンが、
崩れないよう柔らかな布で包まれていた。
「エリ、落とすんじゃないよ。
何かあっても慌てないこと」
「はいっ!」
エリはしっかり籠を抱える。
その横で、セシルが外套の襟を整えていた。
「では行きましょう、エリ」
「うん……お願い、セシル。隣にいて」
「最初からそのつもりです」
その言葉が、小さな勇気のように心を支えた。
◇ ◇ ◇
街を抜け、大通りを歩き、
やがて石畳が磨かれた貴族街の入口が見えてきた。
きれいに並んだ街灯。
大きな邸宅の庭木が風に揺れる。
(ここを歩くの、いつぶりだろう)
懐かしさと痛みが混ざったような感覚が胸に広がる。
その横で、セシルが静かに言った。
「戻る場所ではなく、届けに来ただけですよ」
「……そうだね」
その一言が、胸の重さをほどいていく。
◇ ◇ ◇
クレアル邸の白い塀と整えられた庭園が見えた。
門前には、がっしりした体格の警備員が立っている。
「こちらは」
「麦猫堂です。納品に参りました」
セシルが許可証の紙を差し出す。
警備員は紙を確認し、頷いた。
「通っていいぞ」
門が開き、二人は敷地へ足を踏み入れた。
玄関前では、昨日来店したアンナが待っていた。
「お待ちしておりました。エリさん、セシルさん」
「おはようございます。パンをお持ちしました!」
エリは籠をそっと差し出す。
アンナがひとつひとつ丁寧に確認し、微笑んだ。
「とても丁寧に焼いてありますね。
奥様がお喜びになります」
「本当によかった……」
胸がふわりと軽くなる。
◇ ◇ ◇
「少し、お時間いただけますか」
アンナが言った。
「実は、奥様がお二人にお会いしたいと」
「えっ……私たちに……?」
「はい。すぐに参りますので、お待ちください」
アンナは屋敷の中へと姿を消す。
残されたエリは、胸を押さえて息を整えた。
「セシル……どうしよう」
「どうもしなくて良いですよ。
礼儀正しくしていれば問題ありません」
「そ、そうだけど……」
貴族の奥様に会うというだけで、
昔の記憶が肌の奥までざわつく。
(大丈夫かな……)
戸惑いを抑え込もうとしたとき、
奥から静かな足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました。
……初めまして。クレアル家のルチアと申します」
その声は気品があり、やわらかく、
空気を美しく整えるようだった。
エリとセシルは姿勢を正して、
ゆっくりとその人を見つめた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 店頭販売(控えめ) +15
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +35
借金残高 22,888 → 22,853リラ
セシルの一口メモ
新しい経験の前には、不安が顔を出すものです。
しかし一歩を踏み出せた人だけが、景色を変えられます。
クレアル邸への納品は今日から三日間。
初日の今日は、絶対に失敗できない。
「よし、エリ。焼き上がりの確認をしておくれ」
ハンナが声を張る。
「はい!」
焼き台には陽だまりパンが並び、
湯気と共に甘くやわらかな香りが立ちのぼっていた。
エリは色、膨らみ、手触りをひとつずつ確かめる。
ハンナの手元を見続けてきた日々のおかげで、
自分なりに良い焼きがわかるようになってきた。
それでも今日だけは、胸が落ち着かない。
(納品……お屋敷にパンを届けるなんて……)
かつてのリースフェルト家。
広い食堂、磨かれた銀食器、朝の香り。
その世界を、今日は自分の手で支えるのだと思うと、
胸の奥がざわりと揺れた。
◇ ◇ ◇
「エリ。手が止まっていますよ」
「わっ、ごめん、ごめんなさい!」
セシルが静かに近くへ寄った。
「緊張しているのですか」
「してるよ! 初めてなんだよ、納品なんて!」
「大丈夫です。昨日と同じように丁寧に作り、丁寧に運べば問題ありません」
「……うん」
セシルの落ち着いた声に、
少しだけ呼吸が整う。
(覚悟を決めたんだもの。逃げない)
◇ ◇ ◇
「よし、準備できたよ」
ハンナが籠を差し出す。
二十個の陽だまりパンが、
崩れないよう柔らかな布で包まれていた。
「エリ、落とすんじゃないよ。
何かあっても慌てないこと」
「はいっ!」
エリはしっかり籠を抱える。
その横で、セシルが外套の襟を整えていた。
「では行きましょう、エリ」
「うん……お願い、セシル。隣にいて」
「最初からそのつもりです」
その言葉が、小さな勇気のように心を支えた。
◇ ◇ ◇
街を抜け、大通りを歩き、
やがて石畳が磨かれた貴族街の入口が見えてきた。
きれいに並んだ街灯。
大きな邸宅の庭木が風に揺れる。
(ここを歩くの、いつぶりだろう)
懐かしさと痛みが混ざったような感覚が胸に広がる。
その横で、セシルが静かに言った。
「戻る場所ではなく、届けに来ただけですよ」
「……そうだね」
その一言が、胸の重さをほどいていく。
◇ ◇ ◇
クレアル邸の白い塀と整えられた庭園が見えた。
門前には、がっしりした体格の警備員が立っている。
「こちらは」
「麦猫堂です。納品に参りました」
セシルが許可証の紙を差し出す。
警備員は紙を確認し、頷いた。
「通っていいぞ」
門が開き、二人は敷地へ足を踏み入れた。
玄関前では、昨日来店したアンナが待っていた。
「お待ちしておりました。エリさん、セシルさん」
「おはようございます。パンをお持ちしました!」
エリは籠をそっと差し出す。
アンナがひとつひとつ丁寧に確認し、微笑んだ。
「とても丁寧に焼いてありますね。
奥様がお喜びになります」
「本当によかった……」
胸がふわりと軽くなる。
◇ ◇ ◇
「少し、お時間いただけますか」
アンナが言った。
「実は、奥様がお二人にお会いしたいと」
「えっ……私たちに……?」
「はい。すぐに参りますので、お待ちください」
アンナは屋敷の中へと姿を消す。
残されたエリは、胸を押さえて息を整えた。
「セシル……どうしよう」
「どうもしなくて良いですよ。
礼儀正しくしていれば問題ありません」
「そ、そうだけど……」
貴族の奥様に会うというだけで、
昔の記憶が肌の奥までざわつく。
(大丈夫かな……)
戸惑いを抑え込もうとしたとき、
奥から静かな足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました。
……初めまして。クレアル家のルチアと申します」
その声は気品があり、やわらかく、
空気を美しく整えるようだった。
エリとセシルは姿勢を正して、
ゆっくりとその人を見つめた。
◇ ◇ ◇
本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 店頭販売(控えめ) +15
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +35
借金残高 22,888 → 22,853リラ
セシルの一口メモ
新しい経験の前には、不安が顔を出すものです。
しかし一歩を踏み出せた人だけが、景色を変えられます。
0
あなたにおすすめの小説
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
地味令嬢を見下した元婚約者へ──あなたの国、今日滅びますわよ
タマ マコト
ファンタジー
王都の片隅にある古びた礼拝堂で、静かに祈りと針仕事を続ける地味な令嬢イザベラ・レーン。
灰色の瞳、色褪せたドレス、目立たない声――誰もが彼女を“無害な聖女気取り”と笑った。
だが彼女の指先は、ただ布を縫っていたのではない。祈りの糸に、前世の記憶と古代詠唱を縫い込んでいた。
ある夜、王都の大広間で開かれた舞踏会。
婚約者アルトゥールは、人々の前で冷たく告げる――「君には何の価値もない」。
嘲笑の中で、イザベラはただ微笑んでいた。
その瞳の奥で、何かが静かに目覚めたことを、誰も気づかないまま。
翌朝、追放の命が下る。
砂埃舞う道を進みながら、彼女は古びた巻物の一節を指でなぞる。
――“真実を映す者、偽りを滅ぼす”
彼女は祈る。けれど、その祈りはもう神へのものではなかった。
地味令嬢と呼ばれた女が、国そのものに裁きを下す最初の一歩を踏み出す。
婚約破棄? 私、この国の守護神ですが。
國樹田 樹
恋愛
王宮の舞踏会場にて婚約破棄を宣言された公爵令嬢・メリザンド=デラクロワ。
声高に断罪を叫ぶ王太子を前に、彼女は余裕の笑みを湛えていた。
愚かな男―――否、愚かな人間に、女神は鉄槌を下す。
古の盟約に縛られた一人の『女性』を巡る、悲恋と未来のお話。
よくある感じのざまぁ物語です。
ふんわり設定。ゆるーくお読みください。
【完結】悪役令嬢は婚約破棄されたら自由になりました
きゅちゃん
ファンタジー
王子に婚約破棄されたセラフィーナは、前世の記憶を取り戻し、自分がゲーム世界の悪役令嬢になっていると気づく。破滅を避けるため辺境領地へ帰還すると、そこで待ち受けるのは財政難と魔物の脅威...。高純度の魔石を発見したセラフィーナは、商売で領地を立て直し始める。しかし王都から冤罪で訴えられる危機に陥るが...悪役令嬢が自由を手に入れ、新しい人生を切り開く物語。
そんな未来はお断り! ~未来が見える少女サブリナはこつこつ暗躍で成り上がる~
みねバイヤーン
ファンタジー
孤児の少女サブリナは、夢の中で色んな未来を見た。王子に溺愛される「ヒロイン」、逆ハーレムで嫉妬を買う「ヒドイン」、追放され惨めに生きる「悪役令嬢」。──だけど、どれもサブリナの望む未来ではなかった。「あんな未来は、イヤ、お断りよ!」望む未来を手に入れるため、サブリナは未来視を武器に孤児院の仲間を救い、没落貴族を復興し、王宮の陰謀までひっくり返す。すると、王子や貴族令嬢、国中の要人たちが次々と彼女に惹かれる事態に。「さすがにこの未来は予想外だったわ……」運命を塗り替えて、新しい未来を楽しむ異世界改革奮闘記。
メインをはれない私は、普通に令嬢やってます
かぜかおる
ファンタジー
ヒロインが引き取られてきたことで、自分がラノベの悪役令嬢だったことに気が付いたシルヴェール
けど、メインをはれるだけの実力はないや・・・
だから、この世界での普通の令嬢になります!
↑本文と大分テンションの違う説明になってます・・・
【完結】追放された子爵令嬢は実力で這い上がる〜家に帰ってこい?いえ、そんなのお断りです〜
Nekoyama
ファンタジー
魔法が優れた強い者が家督を継ぐ。そんな実力主義の子爵家の養女に入って4年、マリーナは魔法もマナーも勉学も頑張り、貴族令嬢にふさわしい教養を身に付けた。来年に魔法学園への入学をひかえ、期待に胸を膨らませていた矢先、家を追放されてしまう。放り出されたマリーナは怒りを胸に立ち上がり、幸せを掴んでいく。
夫から「用済み」と言われ追い出されましたけれども
神々廻
恋愛
2人でいつも通り朝食をとっていたら、「お前はもう用済みだ。門の前に最低限の荷物をまとめさせた。朝食をとったら出ていけ」
と言われてしまいました。夫とは恋愛結婚だと思っていたのですが違ったようです。
大人しく出ていきますが、後悔しないで下さいね。
文字数が少ないのでサクッと読めます。お気に入り登録、コメントください!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる