没落令嬢、バイト始めました 〜毒舌執事と返済ライフ〜

いっぺいちゃん

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第47話 はじめての納品、はじめての不安

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その朝、麦猫堂の厨房は早くから慌ただしかった。
 クレアル邸への納品は今日から三日間。
 初日の今日は、絶対に失敗できない。

「よし、エリ。焼き上がりの確認をしておくれ」
 ハンナが声を張る。

「はい!」

 焼き台には陽だまりパンが並び、
 湯気と共に甘くやわらかな香りが立ちのぼっていた。

 エリは色、膨らみ、手触りをひとつずつ確かめる。
 ハンナの手元を見続けてきた日々のおかげで、
 自分なりに良い焼きがわかるようになってきた。

 それでも今日だけは、胸が落ち着かない。

(納品……お屋敷にパンを届けるなんて……)

 かつてのリースフェルト家。
 広い食堂、磨かれた銀食器、朝の香り。
 その世界を、今日は自分の手で支えるのだと思うと、
 胸の奥がざわりと揺れた。

   ◇ ◇ ◇

「エリ。手が止まっていますよ」

「わっ、ごめん、ごめんなさい!」

 セシルが静かに近くへ寄った。

「緊張しているのですか」

「してるよ! 初めてなんだよ、納品なんて!」

「大丈夫です。昨日と同じように丁寧に作り、丁寧に運べば問題ありません」

「……うん」

 セシルの落ち着いた声に、
 少しだけ呼吸が整う。

(覚悟を決めたんだもの。逃げない)

   ◇ ◇ ◇

「よし、準備できたよ」
 ハンナが籠を差し出す。

 二十個の陽だまりパンが、
 崩れないよう柔らかな布で包まれていた。

「エリ、落とすんじゃないよ。
 何かあっても慌てないこと」

「はいっ!」

 エリはしっかり籠を抱える。

 その横で、セシルが外套の襟を整えていた。

「では行きましょう、エリ」

「うん……お願い、セシル。隣にいて」

「最初からそのつもりです」

 その言葉が、小さな勇気のように心を支えた。

   ◇ ◇ ◇

 街を抜け、大通りを歩き、
 やがて石畳が磨かれた貴族街の入口が見えてきた。

 きれいに並んだ街灯。
 大きな邸宅の庭木が風に揺れる。

(ここを歩くの、いつぶりだろう)

 懐かしさと痛みが混ざったような感覚が胸に広がる。

 その横で、セシルが静かに言った。

「戻る場所ではなく、届けに来ただけですよ」

「……そうだね」

 その一言が、胸の重さをほどいていく。

   ◇ ◇ ◇

 クレアル邸の白い塀と整えられた庭園が見えた。
 門前には、がっしりした体格の警備員が立っている。

「こちらは」
「麦猫堂です。納品に参りました」
 セシルが許可証の紙を差し出す。

 警備員は紙を確認し、頷いた。

「通っていいぞ」

 門が開き、二人は敷地へ足を踏み入れた。

 玄関前では、昨日来店したアンナが待っていた。

「お待ちしておりました。エリさん、セシルさん」

「おはようございます。パンをお持ちしました!」

 エリは籠をそっと差し出す。

 アンナがひとつひとつ丁寧に確認し、微笑んだ。

「とても丁寧に焼いてありますね。
 奥様がお喜びになります」

「本当によかった……」

 胸がふわりと軽くなる。

   ◇ ◇ ◇

「少し、お時間いただけますか」
 アンナが言った。

「実は、奥様がお二人にお会いしたいと」

「えっ……私たちに……?」

「はい。すぐに参りますので、お待ちください」

 アンナは屋敷の中へと姿を消す。

 残されたエリは、胸を押さえて息を整えた。

「セシル……どうしよう」

「どうもしなくて良いですよ。
 礼儀正しくしていれば問題ありません」

「そ、そうだけど……」

 貴族の奥様に会うというだけで、
 昔の記憶が肌の奥までざわつく。

(大丈夫かな……)

 戸惑いを抑え込もうとしたとき、
 奥から静かな足音が近づいてきた。

「お待たせいたしました。
 ……初めまして。クレアル家のルチアと申します」

 その声は気品があり、やわらかく、
 空気を美しく整えるようだった。

 エリとセシルは姿勢を正して、
 ゆっくりとその人を見つめた。

   ◇ ◇ ◇

本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 店頭販売(控えめ) +15
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +35
借金残高 22,888 → 22,853リラ

セシルの一口メモ
新しい経験の前には、不安が顔を出すものです。
しかし一歩を踏み出せた人だけが、景色を変えられます。
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