【完結】願い星の昴~“消える運命”の彼と過ごした、たった七日の夏~

いっぺいちゃん

文字の大きさ
1 / 10

第1話 転校生と空を見上げる少年

しおりを挟む
林田凛が目を覚ましたのは、いつもより少し早い朝だった。
 カーテンの隙間から射し込む光は、まだ熱を持ちきらず、天井の白さを優しく撫でている。段ボールがいくつも積まれた新しい部屋には、昨日までの生活の匂いがわずかに残っていた。半分ほど開いた衣装箱、寝かせたままの制服、机の隅に並んだ文房具。そのどれもが、まだここが「仮の居場所」であることを告げている。

 台所から、鍋のふちが小さく鳴る音が聞こえた。味噌汁の湯気と一緒に昆布の香りが流れてくる。
 「緊張しないでね」
 背中越しに母の声が届く。凛は、返事の代わりに「うん」とうなずいた。
 この言葉を、何度聞いただろう。転校を繰り返すたびに、朝の食卓は少しずつ軽くなっていく。もう期待も慰めもない、ただの合図。だからこそ、凛はいつもよりゆっくり味噌汁を口にした。昆布のだしが、舌の上で少し甘い。

 制服の襟を整え、外へ出る。
 坂道の下から見上げた空は、薄い青と白のあいだをゆらいでいた。朝の風が頬をなで、髪をわずかに持ち上げる。鞄の中で筆箱が鳴り、歩くたびにかすかに音が響いた。
 ――今日から、また新しい空。
 その言葉を、心の中でひとりごとのように繰り返す。

 学校は坂の上にある。
 登りきる頃には、額にうっすらと汗が滲んだ。校門の上には、朝日を映す校章。白い壁と透明な窓が、まだ始まったばかりの一日を反射している。
 昇降口のガラス戸を開けた瞬間、凛の肩にかかる空気の重さが変わった。新しい土地、新しい教室、新しい人たち。何度経験しても、最初の一歩だけは慣れない。
 ――今日は、どんな顔をすればいいんだろう。

 ホームルームは静かに始まった。
 担任の水庭先生が、淡いチョークの粉を指先ではらいながら言った。
 「今日から新しい仲間が増えます」
 黒板に書かれた名前を見て、凛は一度だけ呼吸を整える。
 「林田凛です。よろしくお願いします」
 声は震えなかった。拍手がいくつか散り、周囲の空気が一瞬だけ柔らかくなる。
 けれど、それは波紋のようにすぐ静まっていった。

 そのとき、窓際の最後列で、ひとりの少年が空を見ていた。
 授業でもないのに、黒板ではなく外を見上げている。怠けているようにも、退屈しているようにも見えなかった。ただそこに空があるから、自然に見上げている――そんなふうだった。
 髪が少し光を透かして揺れる。頬には穏やかな影。
 彼がふと視線をこちらに向ける。目が合った。
 その瞳は、夏の空の一段奥の色をしていた。
 凛は一瞬、息を忘れてしまう。彼は軽く会釈をした。凛も、反射のように頭を下げた。
 それだけの仕草で、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 昼休み。購買部は、まるで戦場のようだった。
 パンが次々に売れていき、凛が手を伸ばしたときには、人気の焼きそばパンはもう空だった。仕方なく教室へ戻ると、机の上に三角に折られた紙が置かれていた。
 《焼きそばパン、半分どうぞ》
 細く丁寧な文字。だが名前はない。
 不思議に思いながら周囲を見回すと、窓際の最後列――あの少年がパンの袋を軽く傾けていた。半分だけ減った中身が見える。

 凛は紙を手にして近づいた。
 「これ、君?」
 少年は顔を上げ、穏やかに笑った。
 「うん。お裾分け」
 「どうして?」
 「半分で足りる日があるから」
 「……そういう日、今日?」
 「うん。今日はそんな日」

 短いやり取りのあと、二人の間に静かな空気が流れた。
 凛は沈黙が苦手だった。知らない人との間にできる沈黙は、いつも冷たく、居心地が悪い。だがこの沈黙だけは違った。
 どこか、風の抜け道みたいに軽くて、涼しかった。

 昴――と、彼は名乗った。
 名前を聞いた瞬間、凛は思った。
 ――空みたいな名前。
 その印象が、そのまま彼の雰囲気と重なった。

 放課後。
 坂を下る道、凛の足音にもう一つの足音が重なる。振り返ると、昴がいた。
 「同じ方向?」
 「うん。たぶん」
 彼の歩幅は穏やかで、無理に合わせるでもなく、自然と隣を歩く。
 「この町、風がよく通るね」
 「坂だから。風は、登るより下るほうが好きなんだ」
 「人も?」
 「人は、楽な方を選んだあとに、理由を探す」
 「……難しいね」
 「難しくないよ。願いも同じだから」

 その言葉に、凛は少し首をかしげた。
 「願い?」
 「まだ誰のものでもない時の匂いが、風にはある。願いが生まれるときの匂いだよ」
 「変わったこと言うね」
 「よく言われる」

 横断歩道の信号が点滅する。二人の影が重なって、また離れた。
 ふと、凛は尋ねた。
 「どうして、そんなに空を見てるの?」
 昴は一瞬だけ目を細め、空を仰ぐ。
 「確認。僕がまだ、ここにいるかどうか」
 「え?」
 「僕、もうすぐ消えるんだ」

 冗談みたいに、当たり前のように言った。
 凛は思わず笑う。
 「転校生を驚かせる定番のやつ?」
 昴は軽く笑い返した。
 「冗談にしておこう。今日は」
 「今日は、ね」
 言葉が風に混ざって流れていく。
 坂道の先、夕焼けがオレンジ色の影を地面に落としていた。

 分かれ道で、昴が手を振る。
 「また明日」
 「うん。また明日」
 凛はその背中を見送りながら、小さく息をついた。
 ――不思議な人。
 でも、嫌な感じはしない。

 家に戻ると、段ボールの数が朝より減っていた。母が少し片づけてくれたらしい。
 机の引き出しを開けると、中に三角に折られた紙がもう一枚。
 《焼きそばパン、おいしかった?》
 思わず笑みがこぼれる。
 ペンの線はやっぱり細く、丁寧で癖がない。
 凛は椅子に座り、窓の外を見た。夕空には、まだ星は少ない。
 でも――今日は、少しだけ近くに感じた。

 夜、ベッドに横たわる。
 天井の暗がりを見つめながら、凛は今日一日の出来事を思い出した。
 自己紹介。焼きそばパン。空を見上げる横顔。透けて見えた気がした手。
 ――透けた? 本当に?
 まぶたの裏で、光の残像がゆらめく。
 「光の加減、だよね」
 自分に言い聞かせて、笑ってみる。
 窓の外から、風鈴が一度だけ鳴った。
 夏の音が、部屋の中に溶けていく。

◇◇◇

 翌朝。
 学校へ向かう坂道の風は昨日より強く、笹の葉をざわめかせていた。校門脇には七夕飾りの準備が進められている。
 教室に入ると、窓際の最後列に昴がいた。やはり、空を見ている。
 凛――いや、友人たちが呼ぶように「リンリン」は、少しだけ勇気を出して手を振った。
 昴が、かすかに笑って頷く。
 その笑みを見て、凛は胸の奥で何かが静かに溶けるのを感じた。

 一時間目の終わり。
 休み時間のざわめきが少し落ち着いたころ、昴が席を立ち、凛のほうへ歩いてきた。
 「林田さん」
 「ん?」
 「放課後、階段で少し話せる?」
 「……うん」

 その約束が、凛の心の中で、星のように瞬いた。
 何を話すんだろう。
 昨日の冗談のこと? 空のこと? それとも――。

 窓の外、薄雲の向こうで光がにじむ。
 まだ七月の始まり。けれどこの空の下で、たしかに季節が動き出していた。
 凛は知らない。
 この七日間が、彼の最後の時間になることを。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

幸せになれると思っていた

里見知美
恋愛
18歳になったら結婚しよう、と約束をしていたのに。 ある事故から目を覚ますと、誰もが私をいないものとして扱った。

嫌われたと思って離れたのに

ラム猫
恋愛
 私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。  距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

幼馴染

ざっく
恋愛
私にはすごくよくできた幼馴染がいる。格好良くて優しくて。だけど、彼らはもう一人の幼馴染の女の子に夢中なのだ。私だって、もう彼らの世話をさせられるのはうんざりした。

不倫の味

麻実
恋愛
夫に裏切られた妻。彼女は家族を大事にしていて見失っていたものに気付く・・・。

処理中です...