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番外編 一・聖女たちの日常

046. 二日目・六月の二十五日と妻〈後日譚〉

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「おかえりなさいっ、フィフィ」
「……ただいま、イラリア」

 仕事から帰宅すると、イラリアが満面の笑みで私を出迎えた。にこにこ笑顔はいつもどおりだが、お決まりのハグは無い。

 彼女の腕の中には、私の代わりに白百合の花束が抱えられていた。

「どうしたの? そのお花。誰かからいただいた?」
「いいえ、私が買いました」
「へえ、そう」
「ねぇ、フィフィ」

 花を棚の上に置いたイラリアは背伸びして、ふいに私にキスをする。彼女の舌からは、ほんのりと果実酒の味がした。

「今日は様子がおかしいわね。何かあったのかしら」
「何かあったというか、何というか。えへへ。実は~、今日って百合の日らしいんです」
「ゆりのひ?」
「ええ。百合の日です。私たちのための日って感じですよね」
「? 私たちって、そんなに百合のお花が好きだったかしら」
「もうっ、違いますよ。百合っていうのは――」

 彼女は私に耳打ちして、百合とは何たるかを教えてくれた。なるほど。それは、私たちのような女の子同士の関係を指す言葉らしい。

「フィフィ。ドラコはジェームズ先生が預かってくれていますので、今日は久しぶりにいちゃいちゃしましょう?」
「そんなに言うほど久しぶりではないと思うけど」
「私にとっては久しぶりなんです! はい、さっさとお夕飯を済ませましょう。そしたら一緒にお風呂です」
「お風呂ね。はいはい、わかったわ――」


 相変わらずグイグイと積極的な彼女に引っ張られ、私は浴室に連れてこられた。
 浴槽に張られたお湯の上には、百合の花がいくつも浮かんでいる。先程の花は、このために用意したものだったらしい。

「薔薇風呂ならぬ百合風呂です。お疲れでしょう? ゆっくりとおくつろぎください」
「そう言いつつ、私を休ませてくれないのが貴女という人よね」
「うふふ。フィフィが私のことをよく理解してくれていて、とても嬉しいです」

 お互いの髪や身体を洗い、湯船に浸かる。案の定、イラリアはすかさずハグをしてきた。
 彼女の胸が思いきり押し付けられ、少し恥ずかしい。もう何度も触れ合ってきたのに。

「一緒に入るの、久しぶりですねぇ」
「ええ、そうね」
「肩でもお揉みしましょうか?」
「……ええ」

 イラリアはにこにこと笑って、今度は私の背後に回った。「お仕事おつかれさまです~」などと言いながら、肩を揉んでくれる。

「えへへ、どうです? 気持ちいいですか?」
「そうね。まあまあ、いいと思うわ」
「えへへ~ん」
「ねえ、ちょっと」

 するすると彼女の手は前方に移動してきた。やはり、だ。
「ここも揉みますか?」と、何やら破廉恥なことを言っている。私は首を強く横に振った。

「お風呂で変なことをしてきたら、今夜は一緒のベッドでは寝てあげないわ」
「えっ。なんてことをおっしゃるんですか!? まさか、ここでは変なことをするなと??」
「そうよ。変なことをしないでと言っているの。……ハグとキスまで、ね」
「はうっ」

 私は振り返って、イラリアの身体を抱きしめる。彼女の肩口に顔を寄せ、綺麗な白い肌にキスをした。

「貴女って、やっぱり私より体温高いわね……」
「フィフィって、たまに不意打ちで甘えてきますよね。大好きです」
「あら、私もイラリアのことは大好きよ」
「うっ。一回目の世界線の〝オフィーリア様〟に見せつけてやりたい…!」
「意地悪ね。あの頃の私がどれほど辛かったか、知っているくせに」
「――……フィフィ」
「うん?」

 突如として、どこか不安そうになった彼女の声色に、私はゆっくりと顔を上げた。彼女の表情を見て息を呑む。

 イラリアの空色の瞳は潤み、悲しげだった。今にも泣きそうだ。私は慌てて、彼女の頬を包み込む。

「イラリア。どうしたの? 何か悩み事? うん?」
「私……フィフィのことは、確かに愛してるんです」
「? ええ、わかってるわ。私も愛してる」
「…………本当に、わかってます? 私のこと」
「妻だもの。他の人よりは、わかっているつもりよ。誰よりも、信じてる。ね? イラリア……」

 なおも不安げな彼女を慰めるよう、ローズゴールドの髪を撫でた。
 さらに唇にキスをして、愛おしい気持ちを伝えようとする。

 イラリアは仄暗い瞳で微笑んで、私に告げた。

「私――フィフィのことを、うまく愛せている自信がないのです」
「うまく、って? 閨でのことなら、何ら問題はないと……思う、けれど?」
「行為の問題ではなく、心の問題です。貴女を、純粋な気持ちで愛せている気がしないのです」
「……実は浮気を、とか?」
「浮気なんてしません。私、これでも一途ですから。ねえ、フィフィ」
「ん……」

 イラリアは私の手首を掴み、肌に強く爪を立てた。食い込んだ部分が、ぴりっと痛む。ひどく悲痛な声が、耳元で聞こえた。

「貴女の痛がる顔も好きで。悲しむ顔も好きで。世界一幸せになってほしいはずなのに、たまに酷いことをしたくなるのです」
「……イラリア」
「私の想いは、はたして純愛と呼べるのでしょうか。私は本当に、フィフィを愛せているのでしょうか」
「ねえ、イラリア。――聞いて」

 乱暴に掴んできた彼女の手に、そっと、私の手を重ねた。「はい。フィフィ姉さま」とイラリアは返事する。

 痛いほどの力の強さは、だんだんと弱くなっていった。

「私はね。ほら、イラリア以外とは、愛し合えたことはないでしょう? どこかの元婚約者さんとは仲良くなかったし」
「はい。フィフィの初めては、みんな私が頂きました、つもりです」
「そう。私は、恋愛経験が豊富ではないの。だから、そう……やっぱり、貴女の想いを、うまく受け取れていない面もあるかもしれない」
「……はい」
「でも、私も貴女の泣き顔を可愛いと思うわ。今は貴女を愛しているけれど、もしも浮気なんてされたら、殺したくなっちゃうと思うし……考えていることは、貴女と似ているところがあると思うの。
 だからっ、そう気にしないでちょうだい。痛いこと、も。何か、したいなら、善処するわ。貴女のためなら」
「……フィフィ」

 勇気を出して言った私の想いに、彼女はぱちぱちと瞬きをした。今日も可愛らしい。恥ずかしさを誤魔化すため、私は彼女にキスをする。

「変なことしないって、フィフィが言ったのに。深くなってますよ」
「キスとハグは、大丈夫な範囲なの」
「私、お風呂では、かなり我慢したので……ベッドでは、良いですか?」
「ええ。許してあげる」


 一見いつもの調子に戻ったイラリアと、程々にお風呂でいちゃついて。着替えた私たちは寝室に向かった。私にお姫様だっこをされていた彼女はベッドに着くと、慣れた手付きで私を押し倒す。

「可愛い貴女が大好きです。フィフィ」

 きっと――きっと、私は彼女のすべてを知っているわけではない。なぜあんなことを? と思うような過去の出来事は、たくさんある。

 私たちの愛の重さや愛し方は、違う。でも、べつにそれでいい。私が彼女を愛していて、彼女も私を愛しているならば。愛の形なんて、なんだっていい。

「私も大好きよ、イラリア」

 彼女に身を委ね、私は今宵も――彼女との愛に溺れていく。
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