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〈悪役王子〉と〈ヒロイン〉陰謀編
【2】それは筋書き通りの陰謀
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アリシア・テリフィルアの人生は、暗殺の危機に見舞われたことこそ何度もあれど、一国の侯爵令嬢として順風満帆なものだった。
婚儀まであと三ヶ月という、十九歳の春、三月。魔法魔術学院の卒業パーティーで、あの事件が起きるまでは。
(ああ、嵌められてしまったわ)
ワイングラスの破片。こぼれた葡萄酒と血液の赤。ガラスの欠片に浮かび上がる魔法陣。
その模様を見て、彼女は察した。たった今、自分は、暗殺未遂事件の容疑者になったのだと。ついに致命的な罠に墜ちたのだと。
王城の大広間の床に座り込むアリシアのそばには、ひとりの公爵令嬢の姿があった。令嬢の唇から腹にかけて、その肌とドレスは鮮血に濡れている。
駆けてくる兵士の足音が、終わりの音が、アリシアの耳に虚しく響く。
「アリシア!」
その音の恐ろしさをかき消せるのは、たったひとりのただ一言。彼がアリシアの名を呼ぶ声だけだった。
「大丈夫か、アリシア、どうして――」
「殿、下。嵌められて、しまい、ました」
「ッ!」
震えるアリシアを抱きしめる、逞しい腕。いつもの強さ。ほっとするぬくもり。婚約者フィリップの胸の中で、アリシアは泣きそうになった。唇をきゅっと噛み締めた。
一方、吐血して倒れた公爵令嬢のそばには、令嬢の兄がすばやく寄り添う。「テリフィルア嬢の魔法陣か……」という彼の呟きは、はたして真実を見抜いてのものか、陣の見かけに騙されてのものか、あるいは謀略の成功を確信してのものか。
今この場には、二種類の魔法陣がある。
実際にアリシアが描いた善意の陣と、アリシアが描いたように見せかけられた悪意の陣。
アリシアが自らのペチコートに自らの血液で描いた〝魔術・停止〟の陣は、公爵令嬢シシリーの体を蝕む呪術を止めた。しかしシシリーへの〝魔毒血症・再現〟の陣が描かれていたワイングラスの破片にもまたアリシアの筆跡と彼女考案の術式が残っていた。
(筆跡と術式を、魔術停止の陣から盗まれた。瞬く間にすり替えられたわ。禁術ね。シシリー様が死なないようにと描いた陣を、利用されて……!)
もちろんアリシアは誰の暗殺も企んでおらず、人を脅かす陣など描いていない。けれども現場の状況はアリシアが犯人だと言っていた。
シシリーを魔法陣で殺めようとしたものの、いざ彼女が隣で血を吐くのを見たら怖気づき、途中で呪術を止めたのだろうと。そうとしか見えないと。
(誰が、共犯で、誰が、どこまで、誰が――)
ぐるぐると戸惑う心に、ふと優しい声が入り込む。フィリップはアリシアの耳元に口づけ、この場にそぐわぬ甘い言葉を吐いた。彼の不安も愛情もまるごとすべて伝えてくるような「大丈夫」、「死なせない」と「愛してる」。
(王太子殿下……)
ありふれたこれらの言葉に意味があったのは、いくつもの暗殺未遂事件という過去がふたりの間に横たわっていたからだ。
アリシア・テリフィルアの人生は、暗殺の危機に見舞われたことこそ何度もあれど、一国の侯爵令嬢として順風満帆なものだった。
(――そうね、今の取るべき行動は違うわ、アリシア)
混乱に淀む思考を切り裂き、アリシアは深呼吸する。このままではいけない。弱気に傾いた心を奮わせる。
(敵の策略は、私たちの予想以上に大がかりなものだった。きっと城の人間の幾人かも、向こうの手中にある。じきに私は捕まってしまう)
ならば今のうちにと、愛するひとの耳元へ唇を寄せ、彼女は告げた。
「今宵の彼らの企ては、私の暗殺計画ではなく――偽造した魔法陣を証拠と主張する冤罪計画です」
これが最後かもしれない、と覚悟を決めて。
「殿下。壊れた陣の欠片を、ガラス片を回収して。すべてが向こうの手に渡ってはいけない。私の無罪を証明するには、あの陣の解析しか」
視界の端に兵士が見える。薬瓶が見える。時間がない。
他に、伝えたかった言葉たちは。ほろり、ほろり。唇の上を涙のように滑り落ちる。想いがあふれる。
――好きです。愛しております。大好き――
涙に代えて喩えるならば、それは花だった。萼を失った花びらのように声は散りゆく。彼と過ごした十年以上の月日をアリシアは思う。
「すまない、アリシア、また僕は、きみを……」
ずっと彼に守られてきた。守られてばかりだった。
「――おい、やめろ、彼女に触れるな!」
フィリップの悲痛な声と同時に、違う温度がアリシアに触れた。
罪を犯した貴人は、薬で眠らされてから囚われる。フィリップに抱かれていた身体は、誰かに無理やり引き剥がされた。また別の誰かはアリシアの顔を乱暴に覆い、薬を口に含ませた。
「きゃ、」
「アリシア……ッ!」
口内と喉元が苦さに呑まれ、目の前が白黒と明滅する。意識が遠のいていく。大好きなひとに触れたくて伸ばした手は空を切った。
あの日と――アリシアが殺されかけた最初の日と、よく似た光景だった。泣きそうな顔でアリシアを見つめ、名前を叫ぶ彼。
(フィリップ様。どうか――)
心の中で描いた言葉の先は、アリシア自身にも分からなかった。頬の上に落ちた雫の熱さを感じたのを最後に、目の前が真っ暗になる。
気づいた時にはアリシアは、冷たい牢屋の中にいた。
婚儀まであと三ヶ月という、十九歳の春、三月。魔法魔術学院の卒業パーティーで、あの事件が起きるまでは。
(ああ、嵌められてしまったわ)
ワイングラスの破片。こぼれた葡萄酒と血液の赤。ガラスの欠片に浮かび上がる魔法陣。
その模様を見て、彼女は察した。たった今、自分は、暗殺未遂事件の容疑者になったのだと。ついに致命的な罠に墜ちたのだと。
王城の大広間の床に座り込むアリシアのそばには、ひとりの公爵令嬢の姿があった。令嬢の唇から腹にかけて、その肌とドレスは鮮血に濡れている。
駆けてくる兵士の足音が、終わりの音が、アリシアの耳に虚しく響く。
「アリシア!」
その音の恐ろしさをかき消せるのは、たったひとりのただ一言。彼がアリシアの名を呼ぶ声だけだった。
「大丈夫か、アリシア、どうして――」
「殿、下。嵌められて、しまい、ました」
「ッ!」
震えるアリシアを抱きしめる、逞しい腕。いつもの強さ。ほっとするぬくもり。婚約者フィリップの胸の中で、アリシアは泣きそうになった。唇をきゅっと噛み締めた。
一方、吐血して倒れた公爵令嬢のそばには、令嬢の兄がすばやく寄り添う。「テリフィルア嬢の魔法陣か……」という彼の呟きは、はたして真実を見抜いてのものか、陣の見かけに騙されてのものか、あるいは謀略の成功を確信してのものか。
今この場には、二種類の魔法陣がある。
実際にアリシアが描いた善意の陣と、アリシアが描いたように見せかけられた悪意の陣。
アリシアが自らのペチコートに自らの血液で描いた〝魔術・停止〟の陣は、公爵令嬢シシリーの体を蝕む呪術を止めた。しかしシシリーへの〝魔毒血症・再現〟の陣が描かれていたワイングラスの破片にもまたアリシアの筆跡と彼女考案の術式が残っていた。
(筆跡と術式を、魔術停止の陣から盗まれた。瞬く間にすり替えられたわ。禁術ね。シシリー様が死なないようにと描いた陣を、利用されて……!)
もちろんアリシアは誰の暗殺も企んでおらず、人を脅かす陣など描いていない。けれども現場の状況はアリシアが犯人だと言っていた。
シシリーを魔法陣で殺めようとしたものの、いざ彼女が隣で血を吐くのを見たら怖気づき、途中で呪術を止めたのだろうと。そうとしか見えないと。
(誰が、共犯で、誰が、どこまで、誰が――)
ぐるぐると戸惑う心に、ふと優しい声が入り込む。フィリップはアリシアの耳元に口づけ、この場にそぐわぬ甘い言葉を吐いた。彼の不安も愛情もまるごとすべて伝えてくるような「大丈夫」、「死なせない」と「愛してる」。
(王太子殿下……)
ありふれたこれらの言葉に意味があったのは、いくつもの暗殺未遂事件という過去がふたりの間に横たわっていたからだ。
アリシア・テリフィルアの人生は、暗殺の危機に見舞われたことこそ何度もあれど、一国の侯爵令嬢として順風満帆なものだった。
(――そうね、今の取るべき行動は違うわ、アリシア)
混乱に淀む思考を切り裂き、アリシアは深呼吸する。このままではいけない。弱気に傾いた心を奮わせる。
(敵の策略は、私たちの予想以上に大がかりなものだった。きっと城の人間の幾人かも、向こうの手中にある。じきに私は捕まってしまう)
ならば今のうちにと、愛するひとの耳元へ唇を寄せ、彼女は告げた。
「今宵の彼らの企ては、私の暗殺計画ではなく――偽造した魔法陣を証拠と主張する冤罪計画です」
これが最後かもしれない、と覚悟を決めて。
「殿下。壊れた陣の欠片を、ガラス片を回収して。すべてが向こうの手に渡ってはいけない。私の無罪を証明するには、あの陣の解析しか」
視界の端に兵士が見える。薬瓶が見える。時間がない。
他に、伝えたかった言葉たちは。ほろり、ほろり。唇の上を涙のように滑り落ちる。想いがあふれる。
――好きです。愛しております。大好き――
涙に代えて喩えるならば、それは花だった。萼を失った花びらのように声は散りゆく。彼と過ごした十年以上の月日をアリシアは思う。
「すまない、アリシア、また僕は、きみを……」
ずっと彼に守られてきた。守られてばかりだった。
「――おい、やめろ、彼女に触れるな!」
フィリップの悲痛な声と同時に、違う温度がアリシアに触れた。
罪を犯した貴人は、薬で眠らされてから囚われる。フィリップに抱かれていた身体は、誰かに無理やり引き剥がされた。また別の誰かはアリシアの顔を乱暴に覆い、薬を口に含ませた。
「きゃ、」
「アリシア……ッ!」
口内と喉元が苦さに呑まれ、目の前が白黒と明滅する。意識が遠のいていく。大好きなひとに触れたくて伸ばした手は空を切った。
あの日と――アリシアが殺されかけた最初の日と、よく似た光景だった。泣きそうな顔でアリシアを見つめ、名前を叫ぶ彼。
(フィリップ様。どうか――)
心の中で描いた言葉の先は、アリシア自身にも分からなかった。頬の上に落ちた雫の熱さを感じたのを最後に、目の前が真っ暗になる。
気づいた時にはアリシアは、冷たい牢屋の中にいた。
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