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06 『はじめまして、アデレード』

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  ***


 あの日――……

 十二歳のセドリック第一王子は、ひとりぼっちでいた。雪化粧をした王城の庭で、教会にて祈りを捧げた後、ぼんやりしていた。

 先ほどまで誰かと一緒にいたような気もするし、そうでないような気もする。よく覚えていない。ただ、何か、誰か、あるいは現実から逃げてそこにいた。

 ――婚約者あの子が亡くなったのは、ぼくが『王子』だからかもしれない。

 まだそうだと決まったわけでもないのに、己の生まれを呪いたくなってしまう。母上と父上の『愛の結晶』であるこの命は、たったひとつしかない命は、もちろん大切なのに。

 その日、セドリックは初めて、自分に『嫌い』という思いを向けた。

 ため息をつくと、息が濃く白色に濁り、冬の空気に溶けていく。彼の中にある憂いは、こんなふうに分かりやすく見えはしないし、こんなふうに容易く消えもしないのに。

 ――ぼくは、ほんとうに、呪われているの……?

 初めておぼえた『自己嫌悪』という仄暗い気持ちを持て余して、俯いていると、

『きゃ――』

 どこからか、声がして。

『……!?』

 見上げた先、雪舞う空から、小さな淑女が降ってきた。

 真っ赤な瞳に偶像の太陽が重なり、それは雪が反射した光に煌めき、また紅い月をも思わせる。

 弟よりも華奢な女の子の姿に、教会の真上の天からこちらへと降りてきたようにも見えた彼女に、セドリックは一種の神々しさを感じた。

『――!! わぅッ!?』

 咄嗟に抱きとめた衝撃は、想像よりも軽やかで、なんだか貴重なものだった。

 ――あ。この子……

 やわらかなミルク色の髪が頬をくすぐり、前に盗み聞きした、父上と母上の会話を思い出す。

 ――侯爵家のご令嬢か。

 望まれて生まれた『第一王子』らしく、未来のこの国を統べるべき者らしく微笑みを浮かべ、セドリックは彼女に声を掛けた。

『ごきげんよう、おてんばな淑女レディ?』
『……あ……ぇ……?』

 女の子は、大きな瞳をぱちくりとする。あどけないルビーの輝きだった。

 ――優しく、朗らかに、理想の『王子さま』らしく……

『ぼくは、第一王子セドリック。――きみのお名前は? サミュエルの婚約者殿かな?』

 雪を背に、きっと年下であろう彼女を己の上に乗せたまま、セドリックは自然と話しかけていた。相応しい言葉が口をついて出た。

 寒さにか鼻や耳をほんのりと赤くした少女は、小さくふっくらとした唇を、花咲くように開く。

『アデレード、と、申します。殿下。わたくしは、ハルスヴィード侯爵家が次女、アデレードです』

 名前とその幼い肩に乗る『肩書』は、セドリックも、とうに知っていた。

 やっぱり彼女は、我が弟サミュエルの婚約者だ。

『はじめまして、アデレード。怪我はない?』
『おかげさまで、へいきです。ありがとうございます。殿下』
『うん。どういたしまして』

 ――ちいさくて、きらきらしていて、……かわいいな。

 少女に馬乗りにされたまま、無意識に。雪が降り積もるように。得も言われぬ未知の感情に侵食されて、セドリックはちょっと惚けた。

 骨の髄まで染み込んでいるとばかり思っていた、『王子』としての仕草が、知らず知らずのうちに鈍っていく。どうしてか、ただの『少年』の顔が花開く。

 アデレードもしばらく彼を見つめた後、遅ればせながら事態に気づいたというように、顔をほのかに蒼くして声を震わせた。

『あ、あのっ、お、降りますっ、ね?』
『……ああ』
『助かりました。失礼いたしました……』

 恐縮しているような姿さえ可愛く思え、セドリックの心は和らぎ、ほくほくした。
 自己嫌悪の情はいつのまにか消え、国王夫妻に慈しまれて育った『セドリック』に戻れている。

 過去にセドリックの婚約者候補として王城に現れた少女らは皆年上だったので、こうして自分よりも年若い女の子と関わるのは、どこか新鮮でもあった。

 冬の分厚い生地をしたドレスは、たくさんの雪の粉を被り、彼女の髪と同じ白色に染まっている。くしゅん、とくしゃみをした彼女の睫毛から、雪解けの雫がぱらりと散った。

 風邪をひいてはいけないな、とセドリックは辺りを見回し、おや、とまた違和感をおぼえる。『何か』に意識を引き戻される。

 目を凝らしても、アデレード付きと思しき侍女などの姿は見えなかった。

 ここには、セドリックと、アデレード以外、誰もいない。

 ――妙だ。

 正体の分からない『何か』への警戒を強めながら、セドリックは平静を装って彼女に問う。

『そういえば、何をしていたの?』
『サミュエル殿下と、雪遊び――いえ、季節のお勉強をしていて。女官の皆さんも一緒にいたのですが……』

 先ほどのセドリックを真似るように、アデレードもきょろきょろと辺りを見回して。やっぱり何も見つけられなかったらしく、短めの前髪から覗いた眉をへにゃりと下げた。

『殿下が「兄上を探す!」とおっしゃって、雪玉をぽいぽいっといっぱい投げつけてきまして、わたくしたちが顔を覆っている間にひとりでどこかに行ってしまったのです』
『なるほど。あいつは脱走癖があるからね。ぼくが言えたことじゃないけれど』

 かく言うセドリックも、『何者か』から逃げて、雪の庭にひとりでいたのだ。

 ――何から、逃げていたんだっけ。

 アデレードの可愛さのせいか、それとも違う何かのせいか。曖昧に、ここまでの道程が揺らぐ。
 蓋をしたい記憶は、都合よく遠のいていく。それは彼自身の思惑か、『何者か』の思惑か。

『わたくしもサミュエル殿下を探していたら、うっかり、魔法陣に巻き込まれてしまったようです』

 ――魔法陣、ね。事故なのか、それとも…… 

『危ないところだったね。大丈夫?』
『セドリック殿下のおかげで、大丈夫でした!』

 アデレードはにっこり笑い、えへへ、となんとも可愛らしい声を漏らした。

『サミュエル殿下ったら、ほんとうに、どこに行ってしまわれたのでしょう……?』
『そうだな、どこにいるんだろうな……』

 ――なんだろう……雪の日なのに、温かい……?

 とくん、とくん、と強く鳴る心臓を不思議に思いながら、アデレードとの会話を胸の中で反芻して。セドリックはハッとした。

 その気づきと引き換えに落としたのは、さて、何だったか。

『……待って、サミュエルってば、女の子の顔に雪玉を投げてきたの!?』
『はい! 目の前が雪でいっぱいになりました!』

 きらっきらの笑みで肯定され、セドリックは目眩をおぼえる。

 彼の価値観では、淑女相手に何かを投げつけるなど、あり得ない。それが小さな雪玉であろうと、ひとひらの木の葉であろうと。

 ――いや、そもそも、ぼくは……誰かと遊ぶなんて、そんな経験が、

 また違う意味で翳りを見せはじめたセドリックの心に、ふわり、小さなぬくもりが忍び寄る。

 それは、どこか照れくさそうにした彼女で。

『アデレード?』
『セドリック殿下も、一緒に、雪遊び、なさいますか』
『え?』

 さくらんぼ色の瞳が、純粋な光をもって彼を見上げる。

『わたくしの腕力では、雪玉が、遠くにいかなくて……? サミュエル殿下のお顔に届かなくて……すぐに、ぽしゅって落ちてしまって……』

 そわそわと紡がれる言葉が心地よく、胸だけでなく、もう耳まで熱い。

 すっ、と冷たい空気を吸い、セドリックは、勇気を絡めた言葉を織った。

『じゃ、じゃあ……ぼくが、仕返しに、サミュエルに雪玉をぶつけてみようか……?』
『! ぜひ!』
『……それじゃあ、一緒にあいつを探そうか。はぐれないように、手でも繋いで……』
『!! ぜひ!!』

 ――この日のことを。

 初めて触れた時の感覚を。彼女の笑顔を。言葉を。眼差しを。セドリックはよく覚えている。

 弟と結婚するべき子だった。義妹になるはずの子だった。ずっと――可愛かった。そればかりを覚えている。

『――セドリック殿下!』

 彼女の生存こそが、セドリックだけを襲う『呪い』の存在を証明すると言われていても。

 彼女がサミュエルと並んで社交界に顔を出すたび、ふたりの王子の『違い』をまざまざと見せつけられても。


『――エドワード。そなたの護衛対象である、妹君のことなのだが……』

 己の側近から、彼女は『敵』だと見做されていても。

『殿下にとっても、私にとっても、アデルは「妹」でしょう? 私たちの想いは、どうせ同じです』

 健やかに、生きていて、ほしかった。

『うちのアデルを、これ以上、殿下がたの問題に巻き込まないでください』
『わかっている。私とて、善処している』

 ――望んで巻き込んだのではない。

『俺は……、アデルが、幸せなら、何でも……』
『私も、彼女の幸せを、願っている』

 ――だから、この感情は、本来どおり、『妹』に向けるものであって。

『……ほんとうに、願っていたんだ』

 ――だから、だから。

『なあ、エドワード』

 ――彼女相手に、こんな感情を抱くのは、間違っている。


 この『好き』が、ほんとうに、ただの『妹』への想いであれば。こんなに苦しくはならなかった。


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