上 下
7 / 7

06 『はじめまして、アデレード』

しおりを挟む

  ***


 あの日――……

 十二歳のセドリック第一王子は、ひとりぼっちでいた。雪化粧をした王城の庭で、教会にて祈りを捧げた後、ぼんやりしていた。

 先ほどまで誰かと一緒にいたような気もするし、そうでないような気もする。よく覚えていない。ただ、何か、誰か、あるいは現実から逃げてそこにいた。

 ――婚約者あの子が亡くなったのは、ぼくが『王子』だからかもしれない。

 まだそうだと決まったわけでもないのに、己の生まれを呪いたくなってしまう。母上と父上の『愛の結晶』であるこの命は、たったひとつしかない命は、もちろん大切なのに。

 その日、セドリックは初めて、自分に『嫌い』という思いを向けた。

 ため息をつくと、息が濃く白色に濁り、冬の空気に溶けていく。彼の中にある憂いは、こんなふうに分かりやすく見えはしないし、こんなふうに容易く消えもしないのに。

 ――ぼくは、ほんとうに、呪われているの……?

 初めておぼえた『自己嫌悪』という仄暗い気持ちを持て余して、俯いていると、

『きゃ――』

 どこからか、声がして。

『……!?』

 見上げた先、雪舞う空から、小さな淑女が降ってきた。

 真っ赤な瞳に偶像の太陽が重なり、それは雪が反射した光に煌めき、また紅い月をも思わせる。

 弟よりも華奢な女の子の姿に、教会の真上の天からこちらへと降りてきたようにも見えた彼女に、セドリックは一種の神々しさを感じた。

『――!! わぅッ!?』

 咄嗟に抱きとめた衝撃は、想像よりも軽やかで、なんだか貴重なものだった。

 ――あ。この子……

 やわらかなミルク色の髪が頬をくすぐり、前に盗み聞きした、父上と母上の会話を思い出す。

 ――侯爵家のご令嬢か。

 望まれて生まれた『第一王子』らしく、未来のこの国を統べるべき者らしく微笑みを浮かべ、セドリックは彼女に声を掛けた。

『ごきげんよう、おてんばな淑女レディ?』
『……あ……ぇ……?』

 女の子は、大きな瞳をぱちくりとする。あどけないルビーの輝きだった。

 ――優しく、朗らかに、理想の『王子さま』らしく……

『ぼくは、第一王子セドリック。――きみのお名前は? サミュエルの婚約者殿かな?』

 雪を背に、きっと年下であろう彼女を己の上に乗せたまま、セドリックは自然と話しかけていた。相応しい言葉が口をついて出た。

 寒さにか鼻や耳をほんのりと赤くした少女は、小さくふっくらとした唇を、花咲くように開く。

『アデレード、と、申します。殿下。わたくしは、ハルスヴィード侯爵家が次女、アデレードです』

 名前とその幼い肩に乗る『肩書』は、セドリックも、とうに知っていた。

 やっぱり彼女は、我が弟サミュエルの婚約者だ。

『はじめまして、アデレード。怪我はない?』
『おかげさまで、へいきです。ありがとうございます。殿下』
『うん。どういたしまして』

 ――ちいさくて、きらきらしていて、……かわいいな。

 少女に馬乗りにされたまま、無意識に。雪が降り積もるように。得も言われぬ未知の感情に侵食されて、セドリックはちょっと惚けた。

 骨の髄まで染み込んでいるとばかり思っていた、『王子』としての仕草が、知らず知らずのうちに鈍っていく。どうしてか、ただの『少年』の顔が花開く。

 アデレードもしばらく彼を見つめた後、遅ればせながら事態に気づいたというように、顔をほのかに蒼くして声を震わせた。

『あ、あのっ、お、降りますっ、ね?』
『……ああ』
『助かりました。失礼いたしました……』

 恐縮しているような姿さえ可愛く思え、セドリックの心は和らぎ、ほくほくした。
 自己嫌悪の情はいつのまにか消え、国王夫妻に慈しまれて育った『セドリック』に戻れている。

 過去にセドリックの婚約者候補として王城に現れた少女らは皆年上だったので、こうして自分よりも年若い女の子と関わるのは、どこか新鮮でもあった。

 冬の分厚い生地をしたドレスは、たくさんの雪の粉を被り、彼女の髪と同じ白色に染まっている。くしゅん、とくしゃみをした彼女の睫毛から、雪解けの雫がぱらりと散った。

 風邪をひいてはいけないな、とセドリックは辺りを見回し、おや、とまた違和感をおぼえる。『何か』に意識を引き戻される。

 目を凝らしても、アデレード付きと思しき侍女などの姿は見えなかった。

 ここには、セドリックと、アデレード以外、誰もいない。

 ――妙だ。

 正体の分からない『何か』への警戒を強めながら、セドリックは平静を装って彼女に問う。

『そういえば、何をしていたの?』
『サミュエル殿下と、雪遊び――いえ、季節のお勉強をしていて。女官の皆さんも一緒にいたのですが……』

 先ほどのセドリックを真似るように、アデレードもきょろきょろと辺りを見回して。やっぱり何も見つけられなかったらしく、短めの前髪から覗いた眉をへにゃりと下げた。

『殿下が「兄上を探す!」とおっしゃって、雪玉をぽいぽいっといっぱい投げつけてきまして、わたくしたちが顔を覆っている間にひとりでどこかに行ってしまったのです』
『なるほど。あいつは脱走癖があるからね。ぼくが言えたことじゃないけれど』

 かく言うセドリックも、『何者か』から逃げて、雪の庭にひとりでいたのだ。

 ――何から、逃げていたんだっけ。

 アデレードの可愛さのせいか、それとも違う何かのせいか。曖昧に、ここまでの道程が揺らぐ。
 蓋をしたい記憶は、都合よく遠のいていく。それは彼自身の思惑か、『何者か』の思惑か。

『わたくしもサミュエル殿下を探していたら、うっかり、魔法陣に巻き込まれてしまったようです』

 ――魔法陣、ね。事故なのか、それとも…… 

『危ないところだったね。大丈夫?』
『セドリック殿下のおかげで、大丈夫でした!』

 アデレードはにっこり笑い、えへへ、となんとも可愛らしい声を漏らした。

『サミュエル殿下ったら、ほんとうに、どこに行ってしまわれたのでしょう……?』
『そうだな、どこにいるんだろうな……』

 ――なんだろう……雪の日なのに、温かい……?

 とくん、とくん、と強く鳴る心臓を不思議に思いながら、アデレードとの会話を胸の中で反芻して。セドリックはハッとした。

 その気づきと引き換えに落としたのは、さて、何だったか。

『……待って、サミュエルってば、女の子の顔に雪玉を投げてきたの!?』
『はい! 目の前が雪でいっぱいになりました!』

 きらっきらの笑みで肯定され、セドリックは目眩をおぼえる。

 彼の価値観では、淑女相手に何かを投げつけるなど、あり得ない。それが小さな雪玉であろうと、ひとひらの木の葉であろうと。

 ――いや、そもそも、ぼくは……誰かと遊ぶなんて、そんな経験が、

 また違う意味で翳りを見せはじめたセドリックの心に、ふわり、小さなぬくもりが忍び寄る。

 それは、どこか照れくさそうにした彼女で。

『アデレード?』
『セドリック殿下も、一緒に、雪遊び、なさいますか』
『え?』

 さくらんぼ色の瞳が、純粋な光をもって彼を見上げる。

『わたくしの腕力では、雪玉が、遠くにいかなくて……? サミュエル殿下のお顔に届かなくて……すぐに、ぽしゅって落ちてしまって……』

 そわそわと紡がれる言葉が心地よく、胸だけでなく、もう耳まで熱い。

 すっ、と冷たい空気を吸い、セドリックは、勇気を絡めた言葉を織った。

『じゃ、じゃあ……ぼくが、仕返しに、サミュエルに雪玉をぶつけてみようか……?』
『! ぜひ!』
『……それじゃあ、一緒にあいつを探そうか。はぐれないように、手でも繋いで……』
『!! ぜひ!!』

 ――この日のことを。

 初めて触れた時の感覚を。彼女の笑顔を。言葉を。眼差しを。セドリックはよく覚えている。

 弟と結婚するべき子だった。義妹になるはずの子だった。ずっと――可愛かった。そればかりを覚えている。

『――セドリック殿下!』

 彼女の生存こそが、セドリックだけを襲う『呪い』の存在を証明すると言われていても。

 彼女がサミュエルと並んで社交界に顔を出すたび、ふたりの王子の『違い』をまざまざと見せつけられても。


『――エドワード。そなたの護衛対象である、妹君のことなのだが……』

 己の側近から、彼女は『敵』だと見做されていても。

『殿下にとっても、私にとっても、アデルは「妹」でしょう? 私たちの想いは、どうせ同じです』

 健やかに、生きていて、ほしかった。

『うちのアデルを、これ以上、殿下がたの問題に巻き込まないでください』
『わかっている。私とて、善処している』

 ――望んで巻き込んだのではない。

『俺は……、アデルが、幸せなら、何でも……』
『私も、彼女の幸せを、願っている』

 ――だから、この感情は、本来どおり、『妹』に向けるものであって。

『……ほんとうに、願っていたんだ』

 ――だから、だから。

『なあ、エドワード』

 ――彼女相手に、こんな感情を抱くのは、間違っている。


 この『好き』が、ほんとうに、ただの『妹』への想いであれば。こんなに苦しくはならなかった。


 ***

しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

死にたがり聖女の異世界エスケープ

夜摘
恋愛
他人にがっかりされたくないと言う理由から、頼まれごとを断れず、面倒なことを当たり前のように押し付けられるようになってしまった…それ以外の部分はごく普通のOLである宇都木 結良(うづき ゆら)は、ある日、日々蓄積していた肉体とメンタル両方の疲労とストレスから、糸がぷつりと切れてしまったように、ふらふらと展望台に登り、そこから飛び降りてしまう。 ただ楽になりたかっただけの彼女は、再び目を開けた場所が見知らぬ場所であったこと、そこにいる人々が現代日本で見かけるような人たちとは異なること、そして彼らが自分を「聖女」と呼ぶことに困惑する。 ひとまずこれはきっと自分の夢なんだろうと自分に言い聞かせるが、話を聞くうちにそこはかつて自分が遊んだ乙女ゲームの世界であると言うことに気が付いてしまう。 そこで、これが夢でもそうでなくても今度こそ自分の為に生きてみよう…と決意する結良だったが、ゲームの攻略キャラの一人であり、ゲームでは幼馴染設定もあるアロルド王子に、なりゆきで自分の辛かった本音を吐き出したことをきっかけに結良の人生は変わり始める。 傷つき頑なになっていた結良の心は、彼の優しさや愛情に触れ、少しずつ癒されて行って…。 ※少々暗い雰囲気の部分も有りますが、ハッピーエンドです。 ※ムーンライトノベルズ(小説家になろうグループ R18部門)にも掲載している作品です。

死にたがりの双子を引き取りました。

世万江生紬
ライト文芸
身寄りのない青年、神楽木零は両親を亡くした双子の少年たちを引き取った。しかし、引き取った双子は死にたがりだった。零は死にたがりの双子とどう暮らしていくのか――――。

傷だらけの死にたがり、恋をする

神代天音
BL
家族からの虐待を受け、心に傷を負った高校2年の水無瀬葵。家族から逃げるように高校に入ったが、トラウマ、フラッシュバックが消えず、腕は傷だらけ。誰かに助けも求められないままダラダラと生きていた。普段は生徒会の会計として明るく、だが、汚い自分で他の誰かを汚してしまわない様に、人との接触を減らしながら生活している。葵は自分のことを隠す様に細心の注意を払って生活していたが、2年に上がった春ある日、生徒会顧問の教師、氷室海に傷を見られてしまって……。受けを甘やかしたい教師攻め×死にたがりな生徒会会計受け 初投稿です。お手柔らかにお願いします。素人ですのでおかしいところが多々あるとは思いますが、優しく見守っていただけると嬉しいです。

乙女ゲームの悪役令嬢だったので、悪役になる覚悟ですが、王子様の溺愛が世界を破滅させてしまいそうです

葵川真衣
恋愛
公爵令嬢シャロンは王宮で婚約者の王子と過ごしていて、突如前世の記憶を思い出してしまう。 前世プレイしていた乙女ゲームの令嬢に転生している。しかも悪役だ。 初恋相手の婚約者には今後、無惨に婚約破棄される。 ショックで突っ伏したシャロンだが、ハッピーエンドを目指して国外追放され、平穏に暮らそうと決心。 他ルートなら暗殺される。世界滅亡の危機もある。国外追放は生きている……! 武闘派悪役令嬢シャロンは日々励む! しかしゲームに登場しない人物が現れたり、いろいろ様子がおかしい……!? シャロンは世界を救い、ゲームのハッピーエンドを無事迎えることができるのか……!? 将来に備えがんばる悪役令嬢と、そんな令嬢を溺愛する腹黒王子の甘々ラブコメディ。

お助けキャラに転生したのに主人公に嫌われているのはなんで!?

菟圃(うさぎはたけ)
BL
事故で死んで気がつけば俺はよく遊んでいた18禁BLゲームのお助けキャラに転生していた! 主人公の幼馴染で主人公に必要なものがあればお助けアイテムをくれたり、テストの範囲を教えてくれたりする何でも屋みたいなお助けキャラだ。 お助けキャラだから最後までストーリーを楽しめると思っていたのに…。 優しい主人公が悪役みたいになっていたり!? なんでみんなストーリー通りに動いてくれないの!? 残酷な描写や、無理矢理の表現があります。 苦手な方はご注意ください。

死にたがりハズレ神子は何故だか愛されています

ゴルゴンゾーラ安井
BL
婚約者に振られて死を決意したマナトは、投身自殺中穴に吸い込まれて異世界へと召喚された。 神子として召喚されたと知らされるも、ともに召喚されたセイとは神子の力が段違い。 ハズレ神子となったマナトは何の迷いもなく死のうと試みるが、なかなか死なせてくれなくて……? 全てに絶望しきった死にたがり主人公が、皆に愛されて幸せになるお話。n番煎じ。 メインカプは固定の予定……。

虐げられても最強な僕。白い結婚ですが、将軍閣下に溺愛されているようです。

竜鳴躍
BL
白い結婚の訳アリ将軍×訳アリ一見清楚可憐令息(嫁)。 万物には精霊が宿ると信じられ、良き魔女と悪しき魔女が存在する世界。 女神に愛されし"精霊の愛し子”青年ティア=シャワーズは、長く艶やかな夜の帳のような髪と無数の星屑が浮かんだ夜空のような深い青の瞳を持つ、美しく、性格もおとなしく控えめな男の子。 軍閥の家門であるシャワーズ侯爵家の次男に産まれた彼は、「正妻」を罠にかけ自分がその座に収まろうとした「愛妾」が生んだ息子だった。 「愛妾」とはいっても慎ましやかに母子ともに市井で生活していたが、母の死により幼少に侯爵家に引き取られた経緯がある。 そして、家族どころか使用人にさえも疎まれて育ったティアは、成人したその日に、着の身着のまま平民出身で成り上がりの将軍閣下の嫁に出された。 男同士の婚姻では子は為せない。 将軍がこれ以上力を持てないようにの王家の思惑だった。 かくしてエドワルド=ドロップ将軍夫人となったティア=ドロップ。 彼は、実は、決しておとなしくて控えめな淑男ではない。 口を開けば某術や戦略が流れ出し、固有魔法である創成魔法を駆使した流れるような剣技は、麗しき剣の舞姫のよう。 それは、侯爵の「正妻」の家系に代々受け継がれる一子相伝の戦闘術。 「ティア、君は一体…。」 「その言葉、旦那様にもお返ししますよ。エドワード=フィリップ=フォックス殿下。」 それは、魔女に人生を狂わせられた夫夫の話。

記憶を奪って逃げた意味~死にたがり魔女は未来の聖騎士様の溺愛から逃れたい~

知見夜空
恋愛
開始早々、大変な不運に見舞われて、ゴミ溜めに捨てられたアニス(23)は 「●●されたうえに財布まで盗まれるとか最悪かよ、うぇぇ」 と吐いていたところを通りすがりの金髪ショタ・カイル(11)に保護される。 そのままカイルの村に連れていかれて、世話になっていたアニスだったが、やがて彼に好意を寄せられる。 しかしカイルは子どもながら、将来は聖騎士確実の恵まれた才能の持ち主だった。 未来の聖騎士様の初恋と記憶を奪って逃げた魔女が、運命の悪戯によって彼と再会して 「記憶を奪って逃げた意味!」 と天を仰ぎつつ、最後は幸せになる年の差ラブファンタジー(このお話はムーンライトノベルズにも投稿しています)。 以下、注意。 ・R18作品ですが、精神的な交流を重視しているので、性的なシーンは少なめです。 ・挿入は大人になってからですが、子どもの頃にも性的な接触が少しあります。 ・ヒロインは男の精液を魔力に変換する体質で、数え切れないほどの性被害に遭っています。設定のみで具体的な描写はありませんが、辛い過去が苦手な方はご注意ください。

処理中です...