それでも、関わる

あめとおと

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逃げる理由

第三話 残り香の居場所

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 自分の影が、他人の場所に残る理由を、僕はまだ知らない。
 知ろうともしていない。
 知らないほうが、生活は続けやすいから。

 だから僕は、見なかったことにした。
 あの日、校舎裏で、影が僕を見上げて笑ったことも。

 ***

 次に会った怪異は、匂いだった。

 場所は図書室。
 人の少ない、午後四時。
 本の紙と埃と、静けさの匂いが混ざる中で、ひとつだけ異物があった。

 ――置いていかれた、香り。

 甘くて、少し苦い。
 誰かの体温が抜け殻になったみたいな匂い。

「それ、嗅げる?」

 声をかけてきたのは、司書の人だった。
 いつもいる人。
 なのに、顔が思い出せない。

「嗅げますけど」
「そっか。じゃあ、あなた向きだね」

 その言い方が、嫌だった。

「この匂い、消えないの」
「芳香剤とかでは?」
「そういう“残り方”じゃない」

 司書の人は、書架の隙間を指さす。
 そこに、誰もいない。

「ここにね、よく来てた人がいたのよ」
「過去形、ですね」
「ええ。来なくなった」

 理由は、聞かなかった。
 聞かなくても、匂いが語っている。

「残り香ってね、未練なの」
 司書の人は静かに言う。
「去った側じゃなくて、置いていかれた側の」

 胸の奥が、少しだけ軋んだ。

「じゃあ、この匂いは……」
「あなたのよ」

 即答だった。

「僕、毎日来てますけど」
「そういう意味じゃない」

 司書の人は、僕を見た。
 その目が、前に会った誰かと同じ形をしていた。

「あなた、ここに“残る”人でしょ」
「……何がですか」
「心が」

 図書室の空気が、重くなる。

「人がいなくなっても、気配だけ置いていく。
 期待されなくなっても、役割が終わっても」
「それの、何が悪いんですか」

 声が少し、低くなった。

「悪くない」
 司書の人は微笑む。
「ただ、怪異に一番なりやすい」

 匂いが、強くなった。
 甘さが、喉に絡みつく。

「消したほうがいいですか」
「消せると思う?」

 問い返されて、言葉に詰まる。

 消す。
 置いていかれた痕跡を。
 存在していた証を。

「……無理ですね」
「でしょうね」

 司書の人は、満足そうだった。

「じゃあ、居場所を与えましょう」
「居場所?」
「残り香が、迷わないように」

 彼女は、一冊の本を差し出した。
 タイトルのない、古い本。

「ここに置いていくといい」
「それで?」
「あなたの中に、戻らなくて済む」

 その言葉が、やけに重かった。

 僕は本を受け取った。
 その瞬間、匂いがすっと薄れる。

「助かりました」
「いいえ」

 司書の人は、首を振る。

「あなたが匂いを引き取っただけ」
「……それ、同じじゃないですよね」
「ええ。だから、問題」

 彼女は、もう僕を見ていなかった。
 本棚の向こう、誰もいない場所を見ている。

「そのうち、気づくわ」
「何に?」
「あなた自身が、
 残り香の集合体だってこと」

 図書室を出たとき、
 夕方の風が、やけに冷たかった。

 振り返ると、ガラスに映った僕の姿が、
 ほんの一瞬だけ、遅れて動いた。

 匂いは、もうしなかった。
 代わりに、胸の奥に、誰かの居場所が増えただけだ。

 ――減るより、ずっと質が悪い。

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