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逃げる理由
第五話 居場所のない速度
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逃げると決めたとき、人は理由を必要としない。
理由があるうちは、まだ立ち向かう余地が残っているから。
だから僕は、何も考えずに走った。
学校を休んだ。
携帯の電源を切った。
決まった時間、決まった場所、決まった人間関係――
そういう“呼ばれる可能性”のあるものを、全部避けた。
怪異に遭わなくなったのは、三日目だった。
「……平和だ」
自室の天井を見ながら呟く。
影は普通に足元にあるし、匂いもしない。
名前を呼ばれることも、呼ばれないこともない。
完璧な逃走だった。
なのに。
――何かが、遅れてくる。
自分の動作が、少しだけ遅れる。
考えが、言葉より遅れる。
心が、体についてこない。
まるで、僕だけが“残り香”になったみたいだった。
四日目、外に出た。
ずっと部屋にいるのは、逃げじゃなくて停滞だと思ったから。
駅前のベンチに座る。
人の流れは速く、誰も僕を見ない。
見られないのは、楽だった。
「隣、いい?」
声をかけられるまで。
振り向くと、知らない女の人が立っていた。
年齢不詳。服装も普通。
普通すぎて、逆に目に残らない。
「どうぞ」
女の人は座って、缶コーヒーを一本、僕に差し出した。
「逃げてる顔してるね」
「……人違いです」
「そういう顔、何人も見てきたから」
この言い回し。
どこかで聞いた。
「怪異に?」
「ううん。自分から」
即答だった。
「逃げるの、悪くないよ」
女の人は言う。
「立ち向かえって言う人のほうが、無責任」
胸の奥が、少し緩んだ。
「じゃあ、このままでいいですか」
「いいよ」
肯定が、軽すぎた。
「でもね」
女の人は、僕を見ずに続ける。
「君は“逃げる側”の怪異だから」
世界が、一瞬だけ静止する。
「……何の話ですか」
「逃げることで、居場所を作るタイプ」
女の人は、缶を傾ける。
「追われる怪異は、追われることで存在できる。
でも君は逆。
逃げることで、痕跡を残す」
風が吹いた。
ベンチの下で、影が揺れる。
「君がいなくなった場所、
全部、君の居場所になる」
思い当たる場所が、多すぎた。
教室。
図書室。
校舎裏。
誰かの隣。
「じゃあ、どうすれば」
「簡単」
女の人は立ち上がった。
「逃げ切るか」
一拍置いて、
「戻るか」
「……戻ったら?」
「怪異として、自覚する」
それは、立ち向かうこととは違う。
受け入れる、に近い。
「君ね」
女の人は、最後にこう言った。
「もう、人間に戻るタイミングは過ぎてる」
人混みに紛れて、女の人は消えた。
ベンチには、缶だけが残っている。
触ると、まだ温かい。
そのとき、携帯が震えた。
電源は、入れていないはずなのに。
画面には、知らない番号。
――呼び出し中
名前は表示されない。
でも、わかる。
これは、僕を呼んでいる。
逃げる脚は、まだ残っている。
でも、向きを変えるだけの力も、
同時に残っていることに気づいてしまった。
だから僕は、
まだ出ない。
ただ、立ち上がって、
戻れる距離を確かめただけだ。
理由があるうちは、まだ立ち向かう余地が残っているから。
だから僕は、何も考えずに走った。
学校を休んだ。
携帯の電源を切った。
決まった時間、決まった場所、決まった人間関係――
そういう“呼ばれる可能性”のあるものを、全部避けた。
怪異に遭わなくなったのは、三日目だった。
「……平和だ」
自室の天井を見ながら呟く。
影は普通に足元にあるし、匂いもしない。
名前を呼ばれることも、呼ばれないこともない。
完璧な逃走だった。
なのに。
――何かが、遅れてくる。
自分の動作が、少しだけ遅れる。
考えが、言葉より遅れる。
心が、体についてこない。
まるで、僕だけが“残り香”になったみたいだった。
四日目、外に出た。
ずっと部屋にいるのは、逃げじゃなくて停滞だと思ったから。
駅前のベンチに座る。
人の流れは速く、誰も僕を見ない。
見られないのは、楽だった。
「隣、いい?」
声をかけられるまで。
振り向くと、知らない女の人が立っていた。
年齢不詳。服装も普通。
普通すぎて、逆に目に残らない。
「どうぞ」
女の人は座って、缶コーヒーを一本、僕に差し出した。
「逃げてる顔してるね」
「……人違いです」
「そういう顔、何人も見てきたから」
この言い回し。
どこかで聞いた。
「怪異に?」
「ううん。自分から」
即答だった。
「逃げるの、悪くないよ」
女の人は言う。
「立ち向かえって言う人のほうが、無責任」
胸の奥が、少し緩んだ。
「じゃあ、このままでいいですか」
「いいよ」
肯定が、軽すぎた。
「でもね」
女の人は、僕を見ずに続ける。
「君は“逃げる側”の怪異だから」
世界が、一瞬だけ静止する。
「……何の話ですか」
「逃げることで、居場所を作るタイプ」
女の人は、缶を傾ける。
「追われる怪異は、追われることで存在できる。
でも君は逆。
逃げることで、痕跡を残す」
風が吹いた。
ベンチの下で、影が揺れる。
「君がいなくなった場所、
全部、君の居場所になる」
思い当たる場所が、多すぎた。
教室。
図書室。
校舎裏。
誰かの隣。
「じゃあ、どうすれば」
「簡単」
女の人は立ち上がった。
「逃げ切るか」
一拍置いて、
「戻るか」
「……戻ったら?」
「怪異として、自覚する」
それは、立ち向かうこととは違う。
受け入れる、に近い。
「君ね」
女の人は、最後にこう言った。
「もう、人間に戻るタイミングは過ぎてる」
人混みに紛れて、女の人は消えた。
ベンチには、缶だけが残っている。
触ると、まだ温かい。
そのとき、携帯が震えた。
電源は、入れていないはずなのに。
画面には、知らない番号。
――呼び出し中
名前は表示されない。
でも、わかる。
これは、僕を呼んでいる。
逃げる脚は、まだ残っている。
でも、向きを変えるだけの力も、
同時に残っていることに気づいてしまった。
だから僕は、
まだ出ない。
ただ、立ち上がって、
戻れる距離を確かめただけだ。
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