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"いらない”と言われたので、消えました。
第6話:違和感
朝は、いつも通りに始まった。
書類が運ばれ、報告が並び、時間は正確に進む。
何ひとつ、問題はない。
――はずなのに。
「……違うな」
手にした書類を、もう一度見直す。
文字は整っている。
数値にも誤りはない。
だが。
どこかが、足りない。
何が、とは言えない。
ただ、確実に。
「殿下?」
「……いや」
侍従の声に、軽く首を振る。
気のせいだ。
そう結論づけて、書類を置く。
次の報告へ移る。
――はずだった。
視線が、無意識に机の端へと滑った。
そこには、何もない。
いつも通り、整えられた机。
余計なものは置かれていない。
それなのに。
「……ここに、何かあったか?」
ぽつりと、零れる。
侍従が一瞬、言葉に詰まった。
「いえ、特には……」
「そうか」
即答される。
当然だ。
何もないのだから。
だが、引っかかる。
ほんのわずかな違和感。
手を伸ばせば届きそうで、届かない何か。
指先が、空をなぞる。
そこには、やはり何もない。
「……くだらないな」
自嘲気味に、息を吐く。
仕事に戻るべきだ。
余計なことを考える時間はない。
そう、わかっているのに。
――集中できない。
昼になっても、その感覚は消えなかった。
報告の途中で、言葉が途切れる。
読み上げられる内容が、頭に入ってこない。
理解はできる。
処理もできる。
だが。
どこかで、噛み合っていない。
「本日は、体調が優れませんか?」
侍従が、慎重に尋ねる。
「問題ない」
即座に否定する。
体は正常だ。
熱もない。痛みもない。
異常があるとすれば――
それは、もっと別のところ。
「……続けろ」
「はい」
報告は再開される。
声は一定で、淀みもない。
完璧な進行。
なのに。
その“完璧さ”が、逆に気持ち悪かった。
何かが、欠けている。
その欠けた部分を、誰も気にしていない。
気づいていない。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
午後、書庫に向かう。
理由は、はっきりしない。
ただ、足が向いた。
扉を開けると、紙の匂いが広がる。
整然と並んだ書架。
変わらない光景。
そのはずだった。
「……おかしい」
口をついて出た。
何が、と問われれば答えられない。
だが、確かに。
何かが、違う。
棚の一角に手を伸ばす。
本を一冊、引き抜く。
見覚えのある装丁。
――の、はずなのに。
「……読んだことが、あるか?」
自分に問いかける。
答えは、出ない。
読んだ記憶も、読んでいない確信もない。
ただ、“知っている気がする”だけが残る。
曖昧な感覚。
掴めない輪郭。
苛立ちが、じわりと滲む。
ぱたりと本を閉じる。
音が、やけに大きく響いた。
「誰か、いるか」
呼びかける。
すぐに、係の者が現れた。
「はい、殿下」
「この書架、最近整理したか?」
「いえ、通常通りの管理をしております」
「配置は?」
「記録通りかと」
迷いのない返答。
疑う余地はない。
なのに。
「……そうか」
それ以上、言えなかった。
理由がない。
証拠もない。
ただの“違和感”だけで、何かを指摘することはできない。
できない、はずなのに。
胸の奥が、ざわつく。
落ち着かない。
何かを見落としているような。
致命的な何かを。
けれど――
それが何かは、やはりわからない。
夕方、執務室に戻る。
窓の外は、少し赤く染まっていた。
机に向かい、椅子に腰を下ろす。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
強い違和感が走った。
「――っ」
息が詰まる。
胸の奥が、きしむように痛む。
理由は、ない。
思い当たることも、ない。
なのに。
確かに、“何か”を失った感覚だけがあった。
「……何だ、これは」
低く、呟く。
答える者はいない。
あるはずもない。
だって、それは。
最初から“なかった”ものなのだから。
しばらくして、痛みは引いた。
何事もなかったかのように。
ただ、わずかな疲労だけを残して。
「……気のせいか」
そう結論づける。
そうするしかない。
説明がつかないものに、意味はない。
意味がないものは、切り捨てる。
それが正しい。
それで、問題はない。
――はずなのに。
視線が、また机の端へと向かう。
何もない場所。
空白のままの場所。
そこに、なぜか。
触れてはいけないものがあるような気がした。
理由は、わからない。
わかることは、ひとつだけ。
この違和感は。
消えない。
消せない。
そして――
思い出すことも、できない。
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