15 / 19
あなたを忘れたまま、また恋に落ちる
第5話:再会(でも気づかない)
昼の店は、いつも通り賑わっていた。
焼きたてのパンの香りと、人の声。
それが混ざり合って、やわらかな空気をつくっている。
「リナ、これお願い」
「はい」
名前を呼ばれる。
自然に返事をする。
そのやり取りにも、もう慣れた。
違和感は、まだ消えないけれど。
それでも、日常はちゃんと回っている。
――そのはずだった。
扉のベルが、鳴る。
カラン、と。
ほんの少しだけ、空気が変わった気がした。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。
視線の先にいたのは――
「……っ」
息が、止まる。
理由は分からない。
けれど。
目が、離せなかった。
背の高い青年。
整った顔立ち。
どこか、張り詰めたような空気をまとっている。
その人は、店内をゆっくりと見回していた。
何かを探すように。
――失くしたものを、必死に思い出そうとするように。
「……ここ、か」
小さく、呟く。
その声が、なぜか胸に響いた。
知らないはずなのに。
初めて会うはずなのに。
どうしてか。
“知っている気がする”。
「……ご注文は?」
なんとか声を出す。
震えそうになるのを、押さえ込む。
青年は、ゆっくりとこちらを見る。
視線が、合う。
その瞬間。
「……あ」
彼の目が、わずかに見開かれた。
何かに気づきかけて。
でも、掴めない。
そんな表情。
「……いや」
すぐに、視線を外す。
「……なんでもない」
その一言で、全部が終わる。
繋がりかけた何かが、あっさりと切れる。
「……そう、ですか」
それだけ答える。
それ以上、何も言えない。
言ってはいけない気がした。
言葉にしてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。
「……適当に、見繕ってくれ」
青年が言う。
どこか投げやりで。
それでいて、迷っているような声。
「……はい」
パンを選ぶ。
手が、少しだけ震えている。
どうしてか分からない。
ただ。
この人に、間違えたものを渡してはいけない。
そんな感覚だけが、強くあった。
「……これを」
袋に入れて、差し出す。
ほんの一瞬。
指先が、触れそうになる。
「――っ」
触れてはいない。
触れていないのに。
電気が走ったみたいに、感覚が弾ける。
胸が、痛い。
苦しい。
「……ありがとう」
青年が言う。
その声は、低くて、落ち着いていて。
でも。
どこか、少しだけ震えていた。
「……はい」
短く返す。
それ以上、言葉が出てこない。
彼は代金を置いて、ゆっくりと店を出ていく。
振り返らない。
ただ、まっすぐに。
それなのに。
扉の前で、ほんの一瞬だけ足を止めた。
まるで。
何かを、置いていくように。
そして、そのまま出ていく。
カラン、とベルが鳴る。
静寂が戻る。
「……」
動けなかった。
しばらくの間。
何もできずに、その場に立ち尽くす。
「……リナ?」
店主の声で、ようやく我に返る。
「あ……すみません」
「大丈夫?」
「はい……」
頷く。
でも。
全然、大丈夫じゃない。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃで。
何がどうなっているのか、自分でも分からない。
「……なんだったの、今の」
ぽつりと、呟く。
知らない人。
初めて会った人。
それなのに。
どうして、あんなにも――
“失いたくない”と感じたのか。
どうして、あんなにも――
“もう遅い”と感じたのか。
夜。
一人で部屋にいる。
昼の出来事を、何度も思い返す。
あの視線。
あの声。
あの一瞬の、引っかかり。
「……誰」
問いかける。
答えは出ない。
それでも。
ひとつだけ、確かなことがある。
――あの人は。
自分にとって、他人じゃない。
根拠なんてない。
記憶もない。
それなのに。
どうしても、そう思ってしまう。
「……変なの」
小さく笑う。
でも、その笑いは長く続かない。
すぐに消えて、静寂が残る。
そして。
ゆっくりと、胸を押さえる。
「……苦しい」
理由のない痛み。
名前のない感情。
それが、じわじわと広がっていく。
思い出せない。
思い出せるはずがない。
それでも。
どうしても、消えないものがある。
――あの人は。
“失ったもの”だ。
その確信だけが、残る。
一方で。
店を出た青年は。
通りを歩きながら、足を止めていた。
「……なんだ、今のは」
胸に手を当てる。
鼓動が、少し速い。
落ち着かない。
理由が分からない。
ただ。
あの店で。
あの少女を見た瞬間。
「……誰だ」
分からない。
思い出せない。
それなのに。
どうしても。
どうしても。
――離れてはいけない気がした。
「……おかしいな」
自嘲するように笑う。
そんなはずはない。
あんな子、知らない。
関係もない。
それなのに。
足が、動かない。
戻りたくなる。
もう一度、顔を見たくなる。
理由なんて、どこにもないのに。
「……やめろ」
小さく呟く。
無理やり、思考を切る。
そのまま歩き出す。
振り返らない。
振り返ってはいけない気がした。
――もし振り返ってしまえば。
もう二度と、前に進めなくなる気がしたから。
すれ違った二人は。
同じ痛みを抱えたまま。
それでも、互いの名前を思い出すことはなく。
ただ。
どうしようもなく――
“遅すぎた再会”だけが、そこに残った。
あなたにおすすめの小説
旦那様に“君は妻ではなく家の飾りだ”と言われたので、離縁後は裁判官の家で暮らします
なつめ
恋愛
夫から「君は妻ではなく家の飾りだ」と言い放たれ、五年の結婚生活を否定された伯爵夫人リゼット。
離縁調停の場で彼女の言葉を最後まで遮らずに聞いてくれたのは、冷静沈着と名高い年上の判事セヴランだった。
離縁後、実家もなく帰る場所を失ったリゼットに、セヴランは保護と生活の場を申し出る。
それを“書類の上の距離”程度にしか思っていなかった元夫は、やがて気づく。彼女が失ったのは妻の座ではなく、自分に従う理由そのものだったのだと。
聞かれなかった女が、自分の言葉で生き直していく離縁後再生ロマンス。
義母様から「あなたは婚約相手として相応しくない」と言われたので家出してあげたら、大変なことになったようです
睡蓮
恋愛
婚約関係にあったフューエル伯爵とリリアは、相思相愛の理想的な関係にあった。しかし、それを快く思わない伯爵の母が、リリアの事を執拗に口で攻撃する…。その行いがしばらく繰り返されたのち、リリアは自らその姿を消してしまうこととなる。それを知った伯爵は自らの母に対して怒りをあらわにし…。
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
尽くしてきた婚約者に裏切られたので、婚約を解消しました〜彼が愛に気づいたのは、すべてを失ったあとでした〜
ともどーも
恋愛
「今回で最後だ。誓うよ」
これは二度目の『結婚式キャンセル』の時に言われた言葉。
四年間、愛する婚約者ディートリッヒのため尽くし続けてきたイリス。
だがディートリッヒは、イリスの献身を当然のものとし、やがて初恋の令嬢エレノアを優先するようになる。
裏切り、誤解、そして理不尽な糾弾。
心も身体も限界を迎えた夜、イリスは静かに決意した。
──もう、終わらせよう。
ディートリッヒが「脅しのつもり」で差し出した婚約解消の書類を、イリスは本当に提出してしまう。
すべてを失ってから、ようやく自分の愛に気づいたディートリッヒ。
しかしもう、イリスは振り返らない。
まだ完結まで執筆が終わっていません。
20話以降は不定期更新になります。
設定はゆるいです。
妃が微笑んだまま去った日、夫はまだ気づいていなかった
柴田はつみ
恋愛
「セラフィーヌ、君は少し、細かすぎる」
三秒、黙る
それから妃は微笑んで、こう言った。
「そうですね。私の目が曇っていたようです」
翌朝から、読書室に妃の姿はなかった。
夫への礼は完璧。公務も完璧。微笑みも完璧。
ただ妻の顔だけが、どこにもなかった。
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
言いたいことはそれだけですか。では始めましょう
井藤 美樹
恋愛
常々、社交を苦手としていましたが、今回ばかりは仕方なく出席しておりましたの。婚約者と一緒にね。
その席で、突然始まった婚約破棄という名の茶番劇。
頭がお花畑の方々の発言が続きます。
すると、なぜが、私の名前が……
もちろん、火の粉はその場で消しましたよ。
ついでに、独立宣言もしちゃいました。
主人公、めちゃくちゃ口悪いです。
成り立てホヤホヤのミネリア王女殿下の溺愛&奮闘記。ちょっとだけ、冒険譚もあります。
夫に捨てられたので、借金ごと全財産を不倫相手にあげました。――実家に帰ったら、過保護な兄たちの溺愛と侯爵様の求愛が待っていました
まさき
恋愛
あらすじ
夫が不倫相手を連れて帰り、私を家から追い出した。
相手は、よりによって私の遠縁の娘。
私は素直に従うフリをして、五年間の生活の「すべて」を二人に譲り渡す書類にサインさせる。
「これで私たちは大金持ちよ!」と歓喜する不倫相手。
「邪魔な女がいなくなって清々した」と笑う夫。
でも、お気をつけて。
私が譲ったのは「資産」だけじゃなく、それを維持するための「莫大な借金」もセットですから。
明日の朝、扉を叩くのは私ではなく、恐ろしい取り立て屋のはずですよ?
捨てられたはずの妻は、最強の過保護な三人の兄たちの元へ帰ってきた。
長兄アルドは無言で、次兄ケインは泣きながら、三兄セオは笑いながら、私を迎えてくれた。
久しぶりの「家」で、私はようやく気づく。
五年間、ずっと我慢ばかりしていたのだと。
そんな私の前に現れたのは、今回の騒動を遠くから眺めていた侯爵・ルーク・ヴァーノン。
「借金ごと渡した女」に興味を持ったと言う彼を、私は信用するつもりはなかった——はずなのに。
変更点は2つです。
冒頭に「よりによって私の遠縁の娘」を追加
「久しぶりの家で」の段落に「五年間」を追加して本文と一致させました
これで1話目・あらすじともに整合性が取れた状態です。2話目に進みますか?