“いらない婚約者”なので、消えました。もう遅いです。

あめとおと

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あなたを忘れたまま、また恋に落ちる

第5話:再会(でも気づかない)



 昼の店は、いつも通り賑わっていた。

 焼きたてのパンの香りと、人の声。

 それが混ざり合って、やわらかな空気をつくっている。

「リナ、これお願い」

「はい」

 名前を呼ばれる。

 自然に返事をする。

 そのやり取りにも、もう慣れた。

 違和感は、まだ消えないけれど。

 それでも、日常はちゃんと回っている。

 ――そのはずだった。

 扉のベルが、鳴る。

 カラン、と。

 ほんの少しだけ、空気が変わった気がした。

「いらっしゃいませ」

 顔を上げる。

 視線の先にいたのは――

「……っ」

 息が、止まる。

 理由は分からない。

 けれど。

 目が、離せなかった。

 背の高い青年。

 整った顔立ち。

 どこか、張り詰めたような空気をまとっている。

 その人は、店内をゆっくりと見回していた。

 何かを探すように。

 ――失くしたものを、必死に思い出そうとするように。

「……ここ、か」

 小さく、呟く。

 その声が、なぜか胸に響いた。

 知らないはずなのに。

 初めて会うはずなのに。

 どうしてか。

 “知っている気がする”。

「……ご注文は?」

 なんとか声を出す。

 震えそうになるのを、押さえ込む。

 青年は、ゆっくりとこちらを見る。

 視線が、合う。

 その瞬間。

「……あ」

 彼の目が、わずかに見開かれた。

 何かに気づきかけて。

 でも、掴めない。

 そんな表情。

「……いや」

 すぐに、視線を外す。

「……なんでもない」

 その一言で、全部が終わる。

 繋がりかけた何かが、あっさりと切れる。

「……そう、ですか」

 それだけ答える。

 それ以上、何も言えない。

 言ってはいけない気がした。

 言葉にしてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。

「……適当に、見繕ってくれ」

 青年が言う。

 どこか投げやりで。

 それでいて、迷っているような声。

「……はい」

 パンを選ぶ。

 手が、少しだけ震えている。

 どうしてか分からない。

 ただ。

 この人に、間違えたものを渡してはいけない。

 そんな感覚だけが、強くあった。

「……これを」

 袋に入れて、差し出す。

 ほんの一瞬。

 指先が、触れそうになる。

「――っ」

 触れてはいない。

 触れていないのに。

 電気が走ったみたいに、感覚が弾ける。

 胸が、痛い。

 苦しい。

「……ありがとう」

 青年が言う。

 その声は、低くて、落ち着いていて。

 でも。

 どこか、少しだけ震えていた。

「……はい」

 短く返す。

 それ以上、言葉が出てこない。

 彼は代金を置いて、ゆっくりと店を出ていく。

 振り返らない。

 ただ、まっすぐに。

 それなのに。

 扉の前で、ほんの一瞬だけ足を止めた。

 まるで。

 何かを、置いていくように。

 そして、そのまま出ていく。

 カラン、とベルが鳴る。

 静寂が戻る。

「……」

 動けなかった。

 しばらくの間。

 何もできずに、その場に立ち尽くす。

「……リナ?」

 店主の声で、ようやく我に返る。

「あ……すみません」

「大丈夫?」

「はい……」

 頷く。

 でも。

 全然、大丈夫じゃない。

 胸の奥が、ぐちゃぐちゃで。

 何がどうなっているのか、自分でも分からない。

「……なんだったの、今の」

 ぽつりと、呟く。

 知らない人。

 初めて会った人。

 それなのに。

 どうして、あんなにも――

 “失いたくない”と感じたのか。

 どうして、あんなにも――

 “もう遅い”と感じたのか。

 夜。

 一人で部屋にいる。

 昼の出来事を、何度も思い返す。

 あの視線。

 あの声。

 あの一瞬の、引っかかり。

「……誰」

 問いかける。

 答えは出ない。

 それでも。

 ひとつだけ、確かなことがある。

 ――あの人は。

 自分にとって、他人じゃない。

 根拠なんてない。

 記憶もない。

 それなのに。

 どうしても、そう思ってしまう。

「……変なの」

 小さく笑う。

 でも、その笑いは長く続かない。

 すぐに消えて、静寂が残る。

 そして。

 ゆっくりと、胸を押さえる。

「……苦しい」

 理由のない痛み。

 名前のない感情。

 それが、じわじわと広がっていく。

 思い出せない。

 思い出せるはずがない。

 それでも。

 どうしても、消えないものがある。

 ――あの人は。

 “失ったもの”だ。

 その確信だけが、残る。

 一方で。

 店を出た青年は。

 通りを歩きながら、足を止めていた。

「……なんだ、今のは」

 胸に手を当てる。

 鼓動が、少し速い。

 落ち着かない。

 理由が分からない。

 ただ。

 あの店で。

 あの少女を見た瞬間。

「……誰だ」

 分からない。

 思い出せない。

 それなのに。

 どうしても。

 どうしても。

 ――離れてはいけない気がした。

「……おかしいな」

 自嘲するように笑う。

 そんなはずはない。

 あんな子、知らない。

 関係もない。

 それなのに。

 足が、動かない。

 戻りたくなる。

 もう一度、顔を見たくなる。

 理由なんて、どこにもないのに。

「……やめろ」

 小さく呟く。

 無理やり、思考を切る。

 そのまま歩き出す。

 振り返らない。

 振り返ってはいけない気がした。

 ――もし振り返ってしまえば。

 もう二度と、前に進めなくなる気がしたから。

 すれ違った二人は。

 同じ痛みを抱えたまま。

 それでも、互いの名前を思い出すことはなく。

 ただ。

 どうしようもなく――

 “遅すぎた再会”だけが、そこに残った。



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