元神の少女に恋を教えたら、その愛が世界を救う力に。変人だらけの仲間と紡ぐ、終焉に抗う僕らの日常と奇跡の物語

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第一部:心の学び舎 - 人間と仲間

第7話:無目的の価値

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陽の光を吸い込んだ洗濯物のような、あるいは焼きたてのパンのような、そんな温かさを微かに予感させる液体が、白磁の湯呑の中でゆらりと湯気を立てている。

ソラが、データベースに存在する「お茶」という概念を再現しようと試みた結果生まれた、正体不明のそれ。

しかし、その不格好な優しさが、冷え切った部屋の空気をわずかに、本当に髪の毛一本分ほどではあるが、温めたことは確かだった。

雄斗は、差し出された湯呑を、どこか遠い世界の出来事を見つめるような瞳でしばらく眺めていたが、やがてゆっくりと両手でそれを包み込むように持ち上げた。

陶器の滑らかな表面から、じんわりと伝わる熱。
それは、生きているものの温度だった。

こくり、と喉を鳴らして一口分を嚥下する。

味と呼べるほどのものはなく、ただ、白湯に草の葉を浮かべたような、ぼんやりとした風味が舌の上を滑っていった。

お茶とは、断じて呼べない。

けれど、その温かさだけが、凍てついた彼の内臓の壁を、そろりそろりと撫でるように溶かしていく。

その時、彼の口元にかすかな、本当に注意深く観察していなければ見逃してしまうほどの、微かな笑みが浮かんだ。

それは、喜びでも安堵でもない。
もっとずっと儚く、頼りないもの。

まるで、風のない日に静まり返った水面に、ぽつりと落ちた雨粒が描く一瞬の波紋。
あるいは、分厚い雲の切れ間から一瞬だけ差し込み、すぐにまた厚い灰色に閉ざされてしまう陽の光。

その笑顔は、彼の心の奥底、ヘドロのように重く沈殿し、こびりついた灰色の澱みを完全に洗い流すには、あまりにも無力だった。

笑顔という形を成したその表情は、彼の魂の表面を滑っただけで、その奥深くにある核には少しも届いていない。

ほんの些細な風、例えばカーテンが揺れる音や、遠くで鳴るサイレンの音ひとつで、すぐに揺らぎ、さざ波すら残さずに消えてしまう、そんな幻のような微笑みだった。

部屋に漂う、息を吸い込むたびに肺が重くなるような空気は、ソラのささやかな介入によって、ほんの少しだけその密度を下げた。

しかし、依然としてそれはそこにあった。

窓の外の景色を色褪せさせ、壁のシミを不気味に浮かび上がらせ、部屋の隅々に蜘蛛の巣のように張り巡らされている。

まるで、雄斗という存在そのものが、周囲の空間を蝕んでいるかのように。

それから、数日という時間が、まるで水を含んで重くなった雑巾を引きずるように、緩慢に過ぎ去っていった。

その澱んだ空気は、まるで意思を持った生き物のように雄斗の背中に憑依し、彼が愛したはずの場所、「カフェ・アルカナ」にまで、その領域を拡大していた。

午後の遅い時間、西に傾き始めた太陽が、店の大きな窓から蜂蜜色の光線を投げかけている。

その光は、空気中を舞う微細な埃をきらきらと照らし出し、まるで時間が結晶化したかのような静謐な光景を描き出していた。

アンティークの大きな柱時計が、コチ、コチ、と気怠げに、しかし正確に秒を刻む。
その振り子の揺れは、まるで店の心臓の鼓動のようだ。

カウンターの向こう側、磨き上げられたエスプレッソマシンの銀色の輝き。
その隣で、店主の桜花が、静かに文庫本のページをめくっている。

彼女の長い髪が、時折さらりと揺れる音だけが、店内の穏やかなBGMにささやかなアクセントを加えていた。

空気は、深く焙煎されたコーヒー豆の香ばしい匂いで満たされている。
それは、訪れる者の心を落ち着かせ、日常の喧騒から切り離してくれる、魔法のような香りのはずだった。

その全てが、このカフェ・アルカナを構成する全ての穏やかで優しい要素が、雄斗の座るテーブルの周囲だけ、まるで強力な斥力フィールドにでも阻まれたかのように、弾かれ、歪められている。

彼は、他の客たちが談笑し、穏やかな時間を享受しているのとは全く別の、分厚いガラスケースの中に閉じ込められているかのようだった。

彼の前には、氷が半分ほど溶けたアイスコーヒーのグラスが置かれている。
グラスの表面には無数の水滴が浮かび、彼の心の内の冷や汗のように、コースターの上に小さな水たまりを作っていた。

彼は、ただ黙って、プラスチックのストローの先端を、意味もなく、繰り返し、かじり続けている。
カチ、カチ、という乾いた音が、彼の心の内の焦燥を代弁しているかのようだ。

彼の視線は、どこにも焦点を結んでいない。
窓の外を行き交う人々、信号の色、そして空をゆっくりと流れていく、ちぎれ雲。

その全てが、彼の網膜に映ってはいるのだろうが、何一つとして彼の意識には届いていない。
彼の瞳は、ただそこにあるだけの、光を反射するガラス玉に成り果てていた。

その、張り詰めた静寂が、まるで雷鳴のように唐突に切り裂かれた。

「いかんな! 全くいかんな! ユウトの奴、魂の輝きが圧倒的に足りん!」

声の主は、いつものように健太だった。

彼は、手に持っていた厚手のコーヒーカップを、ガシャン!と音が鳴るほど乱暴にテーブルに叩きつけるように置き、その勢いのまま、椅子を蹴立てるようにして仁王立ちになった。

その巨躯が、午後の光を遮り、テーブルの上に大きな影を落とす。

彼の声は、カフェの穏やかな空気をビリビリと震わせ、何人かの客が驚いてこちらを振り返った。

「ソラちゃんが見せたあの渾身のファインプレー! あの正体不明のお茶攻撃で、ユウトのHPは確実に10ポイントは回復したはずだ! 間違いない!」

彼は、まるで戦況を報告する将軍のように、大仰な身振りで断言した。

「だのに、なんだこの様は! MP、マジックポイントが全く回復していないじゃないか! 精神エネルギーが枯渇しきっている! このままでは、次のダンジョン攻略はおろか、レベル1のスライムにすら、つついて負けるぞ!」

健太の熱量と、彼が用いるゲーム用語のミスマッチが、場の空気をさらに奇妙なものにしていく。

しかし、その言葉の奥にある、雄斗を心から心配する気持ちだけは、誰の目にも明らかだった。

「健太さん、彼の現在の精神状態は、あなたが好むようなRPGのパラメータで語れるほど、単純な構造ではありません」

健太の隣の席で、大輝がノートパソコンの画面から一度も顔を上げることなく、氷のように冷ややかな、しかし明瞭な声で言った。

彼の指は、まるでそれ自体が独立した生命体であるかのように、凄まじい速度でキーボードの上を踊り続けている。

カタカタカタ、というリズミカルで無機質なタイプ音だけが、彼がそこに存在していることを証明していた。

「彼のバイタルサインを非接触型でモニタリングした結果、軽度の心拍数低下と皮膚電気活動の変動が見られます。加えて、過去15分間における彼の発言頻度の極端な低下、そして視線が一点に定まらず、焦点を結ばない時間の増大。これら複数の因子を総合的に分析すると、心的外傷後ストレス障害、いわゆるPTSDの初期症状、あるいは過度の精神的負荷によるバーンアウト症候群が遷延化している可能性が極めて高いと推察されます」

大輝は、一息でそこまで言うと、ようやくキーボードから指を離し、画面に表示されたグラフのようなものを軽く睨んだ。

「この状態で、彼に対して目的志向型のタスク、例えば我々が直面している『アルゴ・インダストリーの謎を暴く』といった具体的な目標を提示する行為は、逆に過度なプレッシャーを与え、彼の精神的リソースをさらに枯渇させ、症状を悪化させる危険性を内包していますね」

「……なんだかよく分からんが、つまり、めちゃくちゃ元気がないってことだな!」

健太は、大輝の専門用語の奔流を、自分なりに最も分かりやすい言葉に翻訳して結論付けた。

「端的に言えば、そうなります」

大輝は小さく頷き、再び指をキーボードの上に配置した。
彼の興味は、もう目の前の雄斗から、モニターの中のデジタル世界へと完全に移行してしまったかのようだった。

「うーむ……」

健太は、ぶ厚い胸の前で腕を組み、唸り声を上げた。
その眉間には、深い渓谷のような皺が刻まれている。

重苦しい沈黙を続ける雄斗と、それをどうにかしようと試みるも、一方は感情論で空回りし、もう一方は冷静な分析に終始する仲間たち。

そのちぐはぐな光景を、テーブルの向かい側で、ソラはただ静かに、その青い瞳で観察していた。

彼女には、健太の言う「魂の輝き」という概念も、大輝が口にした「PTSD」という病名も、その意味するところを正確には理解できない。

彼女のデータベースには、それらの言葉は登録されている。
しかし、それはあくまで記号としての情報に過ぎない。

その言葉が内包する、人間の心の痛みや、輝きが失われることの喪失感を、彼女はまだ知らない。

けれど、雄斗の周りを覆っている空気が、数日前に彼女がお茶を淹れた時よりも、さらに重く、冷たく、そして色を失っていることだけは、まるで肌に直接触れるかのように、はっきりと感じ取ることができた。

その時だった。

澱んだ空気をかき混ぜるように、第三の声が、まるでそよ風のように滑り込んできた。

「じゃあさ、こういうのはどうかな?」

これまで、テーブルの隅でカップを片手に、黙って三人のやり取りを聞いていた翼が、飄々とした、どこか掴みどころのない声で口を開いた。

彼は世界中を放浪してきた経験からか、いつだって物事を少しだけ斜め上から、あるいは裏側から眺める癖がある。
その視点は、時として行き詰まった状況に、思いがけない突破口をもたらすことがあった。

「一切の目的を持たない、最高に無駄な一日を過ごすんだ」

その言葉は、あまりにも唐突で、文脈から切り離されていた。

「無駄な一日?」

健太が、訝しげに眉をひそめる。
彼の思考回路において、「無駄」とは排除すべき悪であり、非効率の象徴だった。

「無駄なことに、一体何の意味があるっていうんだ?」

「意味がないことに、意味があるんだよ」

翼は、にっと笑った。
その笑顔は、まるで悪戯を思いついた子供のようだ。

「目的とか、効率とか、成果とか、そういうのをさ、一旦ぜーんぶ、目の前の川にぽーいって投げ捨ててみるの。ただ、そこにいて、時間が過ぎていくのを、へーって言いながら眺めるだけ。難しい顔して、会社の利益とか、世界の未来とか考えてる、あのアルゴ・インダストリーとかいう連中が、一番嫌いそうな過ごし方だろ?」

その言葉が放たれた瞬間、本当に、ほんのわずかな、ミリ単位の動きだったが、俯いていた雄斗の肩が、ぴくりと動いたのをソラは見逃さなかった。

それは、長い間、固く閉ざされていた彼の心の扉が、ほんの少しだけ、軋む音を立てたような、そんな微かな兆候だった。

そして、もう一人。
カタカタと鳴り響いていたタイプ音が、完全に止んだ。

大輝が、プログラムの海から意識を引き上げ、初めて、その視線を翼の方へと向けていた。
彼の眼鏡のレンズが、カフェの照明を反射して光る。

「……非論理的です。しかし……非常に興味深い仮説ですね」

大輝は、顎に手を当て、真剣な表情で呟いた。

「外部からの目的志向型刺激を極限まで減らし、制御不能な環境下で精神を解放することで、自己組織的な回復プロセスを促す……いわば、精神のオートファジー効果を狙う、と。なるほど、ストレス応答に対する逆説的アプローチですか」

「お、おう! そうだ、それだ! オートファジーだ!」

健太は、その言葉の意味を全く理解していなかったが、大輝が賛同したという事実だけで十分だった。

彼は力強く頷くと、再び雄斗の方へ向き直り、その力加減を全く考えずに、バン!と彼の背中を思い切り叩いた。

叩かれた雄斗が、小さく「うぐっ」と呻く。

「決まりだ! 明日は我が『現代文化視覚的検証サークル』の威信にかけて、ユウトを最高にダラダラさせてやる! これは治療だ! 緊急オペレーションだ! そして何より……ロマンだぜ!」

健太の雄叫びが、再びカフェ・アルカナに響き渡った。

翌日、彼らは町の喧騒から遠く離れた、川原にその身を置いていた。

八月の終わり。
暦の上では秋の始まりが近いことを示していても、太陽はまだ真夏の支配者として君臨する意志を失ってはいなかった。

空は、まるでこの世に存在する全ての青色絵の具をキャンバスにぶちまけたかのように、どこまでも高く、深く、そして澄み渡っていた。

白い絵の具を指で引き伸ばしたような薄い雲が、ゆっくりと、しかし確実に西へと流れていく。

眼下には、緩やかに蛇行する川が広がっている。
その水は驚くほど透明で、川底の丸い石の一つ一つをはっきりと数えることができた。

川面は、容赦なく降り注ぐ太陽の光を浴びて、砕け散った無数のダイヤモンドのように、あるいは銀箔を撒き散らしたかのように、きらきらと乱反射を繰り返していた。

その眩しさに、思わず目を細めてしまう。

耳に届くのは、せせらぎの音だけだ。
さらさらという優しい音は、あらゆる思考の棘を丸め、心のささくれを滑らかに洗い流していくかのようだった。

対岸に広がる深い森からは、ツクツクボウシの、どこか物悲しい、しかしリズミカルな鳴き声が、風に乗って運ばれてくる。

その鳴き声は、この暴力的なまでの生命力に満ちた季節が、もうすぐ終わりを告げることを、優しく、そして少しだけ寂しげに知らせていた。

そして彼らは、翼の宣言通り、本当に何もしなかった。
いや、その表現は正確ではない。

彼らは多くのことをしていた。
ただ、そこに「目的」と呼べるものが、何一つ存在しなかっただけだ。

健太は、一体どこから引きずってきたのか、彼の身長ほどもある巨大な流木と、一人で格闘していた。

彼はその、長年水に洗われ、太陽に焼かれて白く乾いた木の塊を、様々な角度から眺め、持ち上げ、地面に突き立て、そして一人で満足げに頷いている。

「見ろ! この躍動感! このねじれ! これは、大地に根差した生命が、重力に逆らって天へと駆け上がろうとする、その根源的なエネルギーの息吹そのものだ!」

彼は、額に汗を浮かべ、目を輝かせながら叫んでいる。

しかし、ソラの目には、その物体は、どう贔屓目に見ても、巨大な昆布が化石化したものか、あるいは怪獣が食べ散らかした骨の一部にしか見えなかった。

やがて彼は、そのオブジェ(仮)を川岸に堂々と突き立てると、誇らしげに胸を張り、高らかに宣言した。

「我が魂の共鳴に応え、今ここに降臨せしこの造形物に、我は『竜王の顎(アゴ)』の名を授ける!」

その少し下流では、大輝が川岸に膝をつき、まるで貴重な宝石でも探すかのように、真剣な眼差しで地面の石を吟味していた。

彼は、その中から扁平で、適度な重さを持つ石を一つ選び出すと、立ち上がり、川に向かって構えた。

「……水面への入射角は約20度。石の回転モーメントを最大化するための手首のスナップ速度、そして流体力学に基づいた最適な初速は……$v_0 = \sqrt{2gh}$……いや、この場合は揚力も考慮に入れるべきか……」

彼は、誰に聞かせるともなく、物理公式や専門用語をぶつぶつと呟いている。

水切りという、人類が古来より行ってきた極めてアナログな遊びを、彼はまるでスーパーコンピュータによる弾道計算シミュレーションのように捉えているのだ。

数分間の緻密な計算の末、彼は「これだ」と確信に満ちた表情で頷き、しなやかなフォームで腕を振った。

しかし、その緻密な計算の末に放たれた渾身の一投は、哀れなほど力なく、放物線すら描かずに、ぽちゃんと彼の足元数メートルの水面に落下しただけだった。

跳ね返った水しぶきが、彼の眼鏡のレンズと、お気に入りのジーパンの膝を、無慈悲に濡らす。

「……ありえない。計算は完璧だったはずだ。これは……観測者効果による物理法則の局所的なバグだ……」

彼は、びしょ濡れになった眼鏡を押し上げ、呆然と呟いた。

しかし、その瞳の奥には、悔しさとともに、解明すべき謎に直面した科学者のような、新たな闘志の炎が燃え上がっていた。

彼は、即座に次の実験、つまり次の石を探し始めた。

そして翼はといえば、川岸の木陰に手際よく吊るしたハンモックの上で、静かに揺られていた。

少し前までは、分厚い海外の文庫本を読んでいたかと思えば、いつの間にかその本は胸の上に置かれ、すうすうと穏やかな寝息を立てている。

時折、風が木々の葉を揺らし、彼の顔の上にまだらな木漏れ日を踊らせる。
その寝顔は、まるで世界の全ての幸福を独り占めしているかのように、安らかだった。

ソラは、その全ての光景を、少し離れた草の上に体育座りをして、ただじっと見ていた。

彼女の論理回路は、目の前で繰り広げられる一連の事象を理解しようと、高速で回転していたが、結論はいつも同じエラーコードを返すだけだった。

理解が、できない。

健太が作り上げた『竜王の顎(アゴ)』は、何の役にも立たない。
食料にも、燃料にも、住居にもならない。
ただの巨大なゴミだ。

大輝が繰り返している水切りは、非効率な失敗の連続に過ぎない。
彼の貴重な知的能力と時間は、ただ水しぶきを上げるためだけに浪費されている。

翼は、ただ生命維持活動に必要な最低限の呼吸をしているだけで、時間を無為に消費している。

生産性がない。
論理的な目標が存在しない。
全てが、無意味な行為の、無意味な連続にしか見えなかった。

しかし。
しかし、誰もが、心の底から笑っていた。

『竜王の顎(アゴ)』を天に掲げ、勝利の雄叫びを上げる健太も。
びしょ濡れになりながら、物理法則のバグに頭を抱えて天を仰ぐ大輝も。
時々、幸せそうな寝言を呟いている翼も。

彼らの周囲の空気は、澄み切った川の水のように透明で、温かい太陽の光に満ちていた。

そして、雄斗も。

いつの間にか彼は、大輝の隣にしゃがみこみ、そのぎこちない挑戦を見よう見まねで始めていた。

彼が最初に投げた石は、大輝のそれよりもさらに手前で、力なく水中に没した。
二投目、三投目も同様だった。

だが、彼の表情に焦りや苛立ちはなかった。
むしろ、その顔には、忘れていた何かを取り戻そうとするかのような、真剣な集中力が浮かんでいた。

何度か繰り返すうちに、彼が投げた小石が、奇跡のような軌道を描いた。

パン、パン、パン、と軽やかで心地よい音を立てて、石は水面を三回、美しく跳ねたのだ。
その軌跡は、川面に小さな円形の波紋を三つ、綺麗に残して、向こう岸近くへと消えていった。

「お、いった!」

雄斗が、声を上げた。

それは、ここ数日、彼の口から発せられたどの言葉とも違う、驚きと喜びに満ちた、弾むような声だった。

その顔は、まるで何日も徹夜して、ようやく高価で複雑なプラモデルを完成させた少年のように、屈託のない、純粋な達成感に輝いていた。

その笑顔は、昨日のカフェでソラが見た、ガラス細工のように儚い笑顔とは全く異質のものだった。

数日前に、彼女がお茶を出した時に見せた、水面の波紋のような微笑みとも違う。

それは、心の奥底、最も深い場所から、何の抵抗もなく湧き上がってきたかのような、何の翳りも持たない、純粋な光そのものだった。

その瞬間、彼の周りにだけ漂っていた重く澱んだ空気は、まるで太陽の光に溶かされる朝霧のように、完全に消え去っていた。

やがて、あれほど高くにあった太陽が、ゆっくりと西の山稜へとその身を隠し始める。

空は、燃えるようなオレンジ色から、深い茜色、そして紫へと、刻一刻と表情を変えていく。

その劇的な色彩の変化は、眼下の川面にも、そして彼らの顔にも、等しく映し出されていた。

世界全体が、巨大なグラデーションの中に飲み込まれていく。

どこからともなく、ヒグラシの「カナカナカナ…」という、高く、澄んだ鳴き声が響き渡り始めた。
その音は、まるでこの美しい世界の終わりと始まりを告げるためのBGMのように、辺り一帯を優しく包み込んでいた。

一日の狂騒が、終わりを告げる。

健太は、自分が創造した最高傑作である『竜王の顎(アゴ)』を、両手で恭しく抱え上げると、ゆっくりと川へと進み出た。

そして、「さらばだ、友よ! お前の魂は、この大河と共に大海へと至り、永遠となるだろう!」と涙ながらに叫び、それを川の流れに乗せた。

遠ざかっていく流木に向かって、彼はビシッと敬礼を送っている。

大輝は、結局一度も水切りを成功させることができないまま、諦めて川岸に座り込み、濡れたジーパンを乾かしていた。
その表情は、どこか吹っ切れたように穏やかだった。

翼は、いつの間にかハンモックから起き上がっており、愛用の古いフィルムカメラを構え、燃えるような夕焼け空にレンズを向けていた。

そんな中、雄斗が、ソラの隣に、どさりと音を立てて腰を下ろした。

草の匂いが、ふわりと立ち上る。
彼の横顔は、朝、ここに来た時とは比べ物にならないほど、穏やかで、柔らかかった。

「どうだ? 退屈だったか?」

雄斗の優しい声が、ヒグラシの鳴き声の合間を縫って、ソラの耳に届いた。

彼女は、なんと答えていいか分からなかった。

「退屈」ではない。
それは断言できる。

でも、何かが情報としてインプットされ、満たされたわけでもない。
以前に食べた、あの衝撃的な卵焼きのように、脳天を貫く明確な「心地よさ」のシグナルが発生しているわけでもない。

かといって、雄斗に笑顔が戻ったのを見た時のような、論理的な目標達成に伴う微かな満足感とも、少し違う。

もっと、穏やかだ。
もっと、持続性がある。

胸のあたり。
ちょうど心臓がある、その周辺が、温かい綿で、ゆっくりと、優しく満たされていくような感覚。

締め付けられていた何かが緩み、重かった身体が、ほんの少しだけ、軽くなったような気がする。

彼女は、その自分の中で起きている不思議な感覚を、自らが知っている限りの言葉で表現しようと、一生懸命に試みた。

思考回路が、今まで経験したことのない速度で、感情と言葉を結びつけようと試行錯誤を繰り返す。

「胸のあたりが、ふわふわして、軽いです」

ソラは、自分の胸にそっと右手を当てながら、言った。
その声は、自分でも驚くほど、静かで、穏やかだった。

「タンポポの綿毛みたいに」

その、あまりにも詩的で、あまりにも純粋な表現に、雄斗は少しだけ驚いたように、大きく目を見開いた。

彼は、ソラの顔をじっと見つめた。
その青い瞳が、夕焼けの光を映して、宝石のようにきらめいている。

そして、次の瞬間。
彼の口元から、ふっと息が漏れるような、心の底から湧き上がってくる、本当に優しい微笑みが生まれた。

その笑顔は、今まさに世界を染め上げている茜色の夕日よりも、ずっと、ずっと温かかった。

「そっか」

彼は、相槌を打つように、短く言った。

「それが、『楽しい』っていうことだよ」

『楽しい』。

ソラは、その新しく与えられた言葉を、心の中でゆっくりと、何度も何度も反芻した。

楽しい。
たのしい。

その言葉の持つ意味の全てを、まだ彼女は理解できていない。
楽しいの定義、楽しいと感じるメカニズム、楽しいがもたらす化学的変化。
彼女の知らないことは、まだたくさんある。

けれど、その言葉の響きが、今、まさに自分の内側で起きている、この説明のつかなかった「ふわふわした感覚」に、まるで失われたパズルのピースがはまるように、ぴったりと当てはまることだけは、なぜか、疑いようもなく、はっきりと分かった。

彼女は、雄斗の隣で、もう何も言わなかった。
ただ静かに、そのどこまでも続きそうな心地よさに、深く、深く、浸っていた。

帰り道、翼が運転する車の後部座席から見上げた、藍色に染まった空には、夜の訪れを告げる一番星が、瞬き始めていた。
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