元神の少女に恋を教えたら、その愛が世界を救う力に。変人だらけの仲間と紡ぐ、終焉に抗う僕らの日常と奇跡の物語

papa

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第一部:心の学び舎 - 人間と仲間

第6話:灰色の空気

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八月が、その巨大な肺に溜め込んだ熱気を、容赦なく地上へと吐き出していた。
アスファルトは陽炎を立ち昇らせ、遠くの景色を蜃気楼のように歪ませる。世界は白く、飽和していた。けたたましく鳴り響いていた蝉の声も、この暴力的なまでの日差しの中ではどこか現実感を失い、耳鳴りのように脳へと直接響いてくる。アパートの窓から見えるケヤキ並木は、深い緑色の葉の縁をわずかに茶色く焦がし、うんざりしたように枝を垂れていた。

あの交差点での一件から、数日が過ぎていた。

高橋雄斗の部屋には、外の灼熱とは対照的な、ひんやりとした沈黙が澱んでいた。エアコンの低いうなりだけが、かろうじて時間の流れを証明している。雄斗は、あの忌まわしい企業の名――「アルゴ・インダストリー」――を耳にして以来、まるで魂を抜き取られたかのように、その口を固く閉ざしてしまっていた。

彼はただ、窓の外を眺めていた。
歪むアスファルトを。力なく揺れるケヤキの葉を。時折、悲鳴のようなブレーキ音を立てて走り去っていく車を。その瞳は、何かを映しているようで、何も映してはいなかった。かつて東京のコンクリートジャングルで心をすり減らし、故郷に逃げ帰ってきたあの頃よりも、さらに深い疲労の色がその横顔に刻まれている。あの頃はまだ、怒りや絶望といった、前に進むためのエネルギーの残骸があった。だが、今は違う。完全に燃え尽きた灰だけが、静かに積もっているかのようだった。

その隣で、ソラは静かに座っていた。
彼女には、雄斗が抱える苦悩の正体は理解できない。「トラウマ」という言葉も、それが人の心にどれほど重たい傷跡を残すのかも、彼女のデータベースには存在しない。
しかし、彼女の身体は、彼女の感覚は、この部屋に起きている明確な「変化」を、否定しようのない事実として捉えていた。

世界から、色が抜けていく。

それは、比喩ではなかった。数日前まで鮮やかだったはずの、雄斗が着ているよれたTシャツの青が、今はくすんだ水色にしか見えない。フローリングの木目の茶色は、まるで日に焼けて褪せた古紙のようだ。壁に貼られたままの、健太が無理やり押し付けていった都市伝説雑誌のけばけばしい表紙でさえ、今は色褪せたポスターのように静かだった。

音も、変わった。
エアコンの作動音は、水の中にいるかのようにくぐもって聞こえる。窓の外で鳴り続ける蝉の声は、鼓膜を震わせる物理的な振動ではなく、頭蓋の内側で反響するだけの、意味のないノイズになっていた。テレビをつければ、陽気なタレントたちが何かを叫んでいるが、その言葉は意味をなさず、ただの音の塊としてソラの耳を通り過ぎていく。

そして、味。
雄斗が自分のために無言で作ってくれた冷やし中華を、ソラはゆっくりと口に運んだ。あの日、初めて卵焼きを食べた時のような、脳を揺さぶる衝撃はどこにもなかった。ただ、冷たい何かが舌の上を滑り、喉を通り、胃の中に収まっていく。それは「美味しい」でも「不味い」でもなく、ただの生命維持活動だった。栄養を摂取するという、無機質な作業。あの強烈な「心地よさ」は、どこかへ消えてしまった。

ソラは、この「心地よくない」状態の発生源を探した。部屋の隅々まで、その視線を滑らせる。そして、すぐに気づいた。原因は、一つしかない。

雄斗の周りだけ、空気が違うのだ。

まるで、彼を中心に、重たく、よどんだ灰色の何かが、ゆっくりと渦を巻いているかのようだった。それは目には見えない。けれど、ソラの肌は、その存在をはっきりと感じ取っていた。その灰色の空気は、部屋の光を吸い込み、音を鈍らせ、食べ物の味から生命力を奪っている。この世界の彩度を失わせている元凶は、雄斗の周りに漂う、この正体不明のモヤだった。

「どうして?」

ソラは、自分の内で静かに問う。
なぜ、雄斗の周りの空気は、灰色になったの?
この灰色のものは、重たい。心地よくない。
どうすれば、この灰色のものは、消えるの?

彼女は、自らの内に存在する、まだ僅かしかない経験のデータベースを、全力で検索し始めた。彼女が知る、数少ない概念。「快」と「不快」。そして、その中でも最も強烈な「心地よさ」の記憶。

二つの光景が、同時に浮かび上がった。
一つは、雨に打たれる神社の拝殿。ずぶ濡れの自分に、雄斗がそっとかけてくれた上着。その布地から伝わってきた、じんわりとした温かさ。
もう一つは、この部屋の小さな食卓。初めて口にした、黄色い食べ物。舌の上でほどけて広がった、甘くてしょっぱい、あの温かさ。

そうだ。「温かい」もの。
「温かい」ものは、心地よかった。
「温かい」ものは、雄斗がくれた。

ソラの中で、一つの仮説が形を結んだ。
「温かいものは、心地よい」
「心地よいものは、この灰色の空気を、変えるかもしれない」

それは、彼女が「からっぽ」でなくなってから、初めて自らの意思で立てた、世界に対する最初の仮説だった。そして、その仮説を証明するため、ソラは初めて、誰に命じられるでもなく、自らの足で立ち上がった。

雄斗が、窓の外を見つめたまま動かない、その一瞬の隙。
ソラは音もなくソファから立ち上がると、アパートで唯一、未知の領域であるキッチンへと、小さな探検家のように足を踏み入れた。

彼女のミッションは、「温かいもの」を作り出すこと。
そのための最初のステップは、水を扱うことだった。彼女は、雄斗がいつもやっているのと同じように、銀色の蛇口をひねった。途端、制御を失った水が激しい勢いでシンクに叩きつけられ、跳ね返った水飛沫がソラの顔と服を濡らす。彼女は驚いて蛇口から手を離すが、その動きが大きすぎて、今度は蛇口のレバーを逆方向に全開にしてしまった。轟音と共に、水が溢れ出す。シンクはあっという間に水で満たされ、その水はキッチンの床へと滝のように流れ落ちていった。ソラはただ、目の前で起きている物理現象を、呆然と見つめている。

数分後、なんとか蛇口を止めることに成功したソラは、びしょ濡れのまま次のステップへと進んだ。床は、浅い池のようになっているが、それは些細な問題だった。目的は「温かいもの」だ。雄斗はいつも、青い炎の上で、銀色の器を温めていた。
彼女は、やかんをコンロの上に置く。そして、雄-斗の動きを思い出しながら、コンロのつまみをひねった。カチカチ、と乾いた音がするだけで、何も起きない。なぜ? ソラは首を傾げ、つまみを何度も、何度も回す。カチ、カチ、カチ、カチ。
彼女は知らない。その下に、ガスの元栓という、もう一つの関門があることを。

さらに数分間の格闘の末、偶然にも何かの拍子に元栓のレバーに手が当たり、ソラはついに人類の偉大な発明である「火」をコンロに灯すことに成功した。青い炎が、まるで生き物のように揺らめくのを、彼女は畏敬の念を持って見つめていた。
やかんから、ピーッという甲高い音が鳴り響いたのは、それから間もなくのことだった。その音に、窓の外を見ていた雄斗の肩が、ぴくりと動く。

最終ステップ。
沸騰したお湯と、棚から見つけ出した緑色の葉っぱ(茶葉)を、器に入れる。雄斗はいつもそうしていた。
しかし、ここにも罠があった。棚には、よく似た形の二種類の器が並んでいる。注ぎ口のついた、少し大きめの白い陶器(急須)。そして、それよりも小さい、湯呑み。
ソラの論理では、大きい方が効率的だ。彼女は迷わず、二つの湯呑みの中に直接、茶葉をひとつまみずつ入れた。そして、そこに熱湯を注ぎ込んだ。

リビングに戻ってきたソラの手には、二つの湯呑みが乗ったお盆があった。雄斗が、ゆっくりとそちらに顔を向ける。
ソラは、雄斗の前に、ことりと湯呑みを一つ置いた。
それは、お茶と呼ぶにはあまりにもお粗末な代物だった。
ぬるま湯の中に、数本の茶葉が、力なく、頼りなげに浮いているだけ。香りもない。色も、ほとんどない。

雄斗は、訝しげにその湯呑みを見つめた。そして、無表情でこちらをじっと見つめてくるソラの顔を見た。彼女の髪が、服が、ほんの少し濡れていることに気づく。視線をキッチンの方へ向けると、床の一部が不自然に光を反射しているのが見えた。まるで、水溜りのように。
何が起きたのか。
その全ての断片が、雄斗の頭の中で一つの線として繋がった。
彼女が、自分のために、何かをしようとしてくれたのだ。
常識も、知識も、やり方さえも知らないまま、ただ、一生懸命に。

その瞬間だった。
雄斗の固く閉ざされた唇の端から、ふっ、と息が漏れた。
それは、笑い声と呼ぶにはあまりにも小さく、溜息と呼ぶにはあまりにも温かい音だった。呆れと、困惑と、そして、どうしようもないほどの愛おしさがごちゃ混ぜになった、かすかな、しかし紛れもない、本物の笑顔。
「…なんだよ、それ」
言いながら、雄-斗の口元は、確かに綻んでいた。

その、笑顔が生まれた、瞬間。
ソラの世界に、小さな奇跡が起きた。

くすんで見えていた雄斗のTシャツの青が、ほんの少しだけ、鮮やかさを取り戻したように見えた。水の中にいるように遠かった彼の声が、今、はっきりと鼓膜を震わせた。
そして何より、彼の周りに渦巻いていた、あの重たくて冷たい灰色の空気が、ふわりと揺らめいた。その中心に、まるでロウソクの灯火のような、小さく、しかし確かな温かい光が、ぽっと灯ったのを、彼女は確かに感じていた。

灰色の空気は、まだそこにある。世界は、まだ完全には色づいていない。
でも、その中に一条、温かい光が差した。
からっぽだった少女が、自らの意思で灯した、世界で最初の、優しい光だった。
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