埃【アルファポリス版】

玄道

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密室

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 令和七年 九月

 新学期が始まってすぐ、淳子の容態は急変した。

 実は、最低限の荷物と共に、大学病院に向かった。

 母は、個室に眠っている。

 ノックにも、返事がない。

「母さん?」

 ゆっくりと、ドアを滑らせる。

 病院でも嗅いだことのない、しかし実の胸をざわつかせる匂いがする。

 医療機器に囲まれ、老いた母がいた。

 機械と人間──どちらが部屋の主か、実には、判らなくなった。

 ──生きてる、ううん。不自然に生かされてる。これじゃ苦しいだけじゃない。

「母さん」

 反応はない。

「母さん! ねえ!! 母さん!!」

 ベッドの傍で、実は周囲を見回す。

 ──個室だよね、ここ。カメラもあるわけない。

「楽に……なりたい、ですか? 淳子さん」

 瞼がピクリと動いた。

 実は、己の中に産まれた悪魔に戦慄する。

 ──何をしようとしていたの? 私は。

 ──ひとりぼっちになりたいの? 誰もいない部屋に帰る日々が、死ぬまで続くのよ?

 実は、死の淵にあるのは、母だけではないと悟った。

「やだよぉ……おかあさぁん……うっ、ひぐっ、ごめ、ごめんね……こんなの……こんなのって……ないよ……」

 部屋の外から、人の気配がした。

 一瞬の後、それは消えた。

 泣き腫らした実が時計を見ると、看護師の巡回予定を、五分過ぎていた。

 ──本当に、何をしに来たんだろう、私は。

 乾いた音の後、静寂が息を吹き返した病室に、ノックの音が響いた。

 年の頃、三十前の、人懐こい目をした看護師だった。短い髪は染めず、眼鏡もない。

 淳子を清拭しながら、看護師が口を開く。

「あまり、そう言うのは感心しないです。佐々木……えっと」

 低い、掠れた声。

「実です」

「実さん。お母さんに話しかけてください、なるべく沢山。きっと聴こえてますから」

「……なん言えばいいんか、わからんっちゃもん何を言えばいいのか、わからないんですもの

「何でもいいんですよ、学校での事とか」

 ──学校。

「誰にも相談……できないんです」

 清拭の手が止まる。

「何を?」

 ぼそぼそと続ける実。

「皆、いい人ばかりなんになのに……ううん、やけんだから何も話せないんです」

「それに、誰も救われん話しか書っきらん誰も救われない話しか書けないし」

 声は次第に大きく、早く、湿っていく。

「恋人と距離も開いて」

「こんな性格やけんだから、話し相手が本しかおらんいない

「将来に、希望が持てない、それから……」

 実に、ゴム底の足音が近付き、手が振り上げられる。
 
 
わがあんた…………」

 ぎり、と奥歯を噛み締める音。

わが、いい加減にせんかあんた、いいかげんにしろよ!!」

 病室に響いた音は、風船を割る音に似ていた。

 雷が落ちた後、帯電した部屋に無言の時間が流れる。

「…………あ、その…………すみませんでした、実さん。つい」

「こちらこそ……ごめんなさい」

 清拭が再開する。

「その……ネガティブな話題は、やめて下さいね?」

聞こえちょった聞こえてたかも」

「あんたね、淳子さんを殺す気なの?」

 ──入院したこうなったのだって、私のせいなんです、もう……いっそ私が。

 ──私は、人でなしなんでしょうか?

 沈黙が漂い、少女は、視線の刃を躱そうと顔を背ける。

「いえ……今日は、もう帰ります。すみませんでした。その、誰にも言いませんから」

「ごめんなさい……ありがと。あ、一応確認だけするわ。泊まらないのね?」

「今夜は、叔父の家にお世話になりますので」

「そう……実さん?」

 ドアに掛けた手が固まる。

「その、同人誌でも書いてるの? それとも文芸部?」

「××高の文芸部です、後輩はいませんけど……さっき話した恋人と、二人だけで」


 ドアが、静かに閉まる。

 ──×高……世間狭っ。その上、文芸部って。あたしの書いたの、まだ残ってんのかな……。

 乾いた音が、病室に響いた。

 ──あの娘、これからどうすんのかな。

 ──まだ、家にガラム一本残ってたわよね。 

 ◆◆◆◆

 その夜 八時

 仁のLINEが着信を告げた。スマホに飛びつく。

『仁……ごめん、遅くに』

「まだ八時やんじゃん、実……淳子さん……どげえ容態は?」

『私……私ね……』

 その声に生気がない。

「実。今夜、あいつ親父おらんけんいないから、いくらでも話聞くよ」

 ──実……実まで、どっかに消えたり……しないで。

 ◆◆◆◆
 
 日付が変わり、午前二時。

 実と浩二は、病院から連絡を受け、病室にいた。

 「お母……さん、ごめんね、あい、実篤さねあつさんに……」

 「実」

 「…………お父さんに、会いたかった?」

 後には、医療機器の合奏と二人の嗚咽が響き続けた。

  午前五時二分

 佐々木淳子は、四十二年書き続けた物語を完結させた。
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