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3話 人でない者の街
雨が降っている。汐季がこの家に来てから七日目にして、初めて降った雨だ。この天気なら庭の水撒きも必要ないし、家の中も一通り掃除し終えてしまった。それ以外には特にやるべき事も無く、汐季は寝室の障子を開けたまま、雨に濡れる庭木をぼんやりと見つめていた。
風が吹く度かすかに香る、濡れた土の匂いに、畑ばかりだった村の光景を思い出す。これだけの土地があれば、さぞかしたくさんの野菜が育てられるだろうと想像してみるが、実際にここから見えるのは、食卓に並べるための野菜ではなく、景色を彩るための緑色だ。
「はあ……」
誰もいない庭に向けて、汐季は小さくため息を吐いた。かつては一日くらい畑仕事を休んで、何もせずにゆっくり過ごしてみたいなどと考えたものだが、いざ本当に何もする事が無くなると、こうして時間を持て余し、どうでもいいことばかり考える。人間とは勝手なものだ。
「汐季、いるか?」
再びため息を吐き出しそうになった時、廊下の方から呼びかけられて、汐季は慌てて背筋を伸ばした。
「はい、こちらにおります」
そう答え終えるかどうかという所で、勢いよく襖が開き、螢花が大股で中に入って来た。
「お仕事はもう終わったのですか?」
「今日の分はすぐに終わる。その前に少し休憩だ」
そう言って汐季のそばに寝転がると、螢花はそのまま汐季の膝に頭を乗せた。螢花は案外寂しがりだ。こうして一日に何度も仕事を中断しては、汐季の元へやってくる。何をするわけでもなく、ただ汐季のそばに居たがるのだ。
「どうして雨なのに障子を開けているんだ? 寒いし濡れるだろう」
庭の方にちらりと視線を向けて、螢花は不満気に訊ねた。
「庭を見ていたんです。雨模様も風情がありますから」
「ふうん……」
汐季の答えにあまり納得がいかない様子で、螢花はもそもそと寝返りをうち、汐季の方に顔を向けた。
「風情とか雅とか、人の感性は難しいな。こうして形ばかり真似してみても、本質を理解できているとは言い難い」
「そうですか? 螢花様は、あんなにも美しい簪を作られるのに」
首を傾げる汐季を見上げ、螢花は居心地が悪そうに身動ぎをした。
「別に、あれこそただの人真似だ。僕が今のような暮らしを始める前に、山の中で人の子が落としていった簪を拾った事があって……それがとても綺麗だったから、見よう見まねで作ってみたんだ」
「見ただけで、あれだけの物をお作りになったのですか?」
「そんなに驚くような事じゃないだろう。手本があれば誰にでも出来る」
「まさか……それなら人間は皆職人になっています。ああした細工物を作るには、本来なら長い時間を掛けて研鑽を積まねばならないのですよ。ですから、螢花様が素晴らしい才能をお持ちである事は、間違いありません」
「……ふうん。そういうものか」
素っ気ない返事をして、螢花はまたころりと寝返りをうった。心なしか、その頬が少し赤く染まっているように感じる。
「そういえば、この前渡した簪はどうしたんだ?」
横目でちらりと睨め上げられ、汐季は下ろしたままの髪に手をやった。
「あれは、大切にしまってあります。失くしたり、汚したりしてはいけないので……」
「そんな事を気にしているのか? 失くなったらまた作れば良いだけの事だ。そもそも、物というのは使う為にあるのだろうに……人の考える事は本当に分からないな」
汐季の膝の上でころころと転がりながら、螢花は不機嫌そうに唇を尖らせる。勢いのままずり落ちてしまいそうになる頭を支えながら、汐季は少し苦笑した。
「新しい物を作っていただいたとしても、螢花様に初めて貰った簪は、あれひとつだけですから。確かに物は使う為の物ですが、大切な物は失くさないよう、大事にとっておきたいのです」
それを聞いて、螢花はぴたりと動きを止めた。
「そうか。替えの効かない物だから失くしたくないという気持ちなら、分かる気がする」
「螢花様にもありますか? 失くしたくない物が」
「……うん。ずっと欲しくて、待ち続けて、ようやく手に入れたものだ」
そう言って、螢花は雨音に耳を傾けるかのように目を閉じた。そうして、そのまましばらく経つと、すやすやと安らかな寝息が聞こえてきて、部屋の中はまた静かになった。けれど、さっきまでに比べれば、寂しくもないし、退屈でもない。少し視線を落としてみれば、すっかり安心しきったような、幼い寝顔がそこにある。
螢花がこうして自分を慕ってくれている事は、素直に嬉しい。きっと弟がいたら、こんなふうだろうと思う。
伴侶という言葉には未だ馴染めないが、ままごと遊びのような今の螢花との関係は、汐季にとって悪くないものだった。
*
その翌朝は晴れだった。しかし庭には未だ雨の名残が見える。寝室の中から身を乗り出すようにして、汐季は水滴の残る縁側を拭いていた。
「汐季、少しいいか」
廊下から顔を覗かせた螢花に声をかけられて振り向く。いつもならすぐに汐季の元へ近づいてくるのに、今朝の螢花はその場に立ったままだ。
「どうかなさいましたか?」
「うん……あのな、僕は今日一日蔵にこもるから、夕飯は要らない」
「蔵……ですか」
汐季は無意識に庭の方へと視線を向けた。
寝室からでは庭木に隠されてよく見えないが、確かにこの家の庭には、大きな蔵がある。特に用事も無いので中を覗いたことも無いが、螢花はそこにこもって何をするというのか。
「良ければ何か、簡単に食べられる物を用意しましょうか」
「いや、いい。僕は大丈夫だから、とにかく君は蔵に近づかないように」
そう言ったかと思うと、螢花はパッと身を翻し、止める間もなく去って行ってしまった。
この前は汐季の方が「部屋から出るな」と言われたが、今日はまるっきり反対だ。蔵の中に何があるのか、螢花は何をするつもりなのか、興味をそそられる気持ちはあるが、さすがに蔵まで行って中を覗いてみようとは思わなかった。前回は言いつけを破って襖を開けてしまったから、今日こそは大人しくしているべきだ。
そう自分に言い聞かせながら、汐季は開けっ放しの襖を閉めるために立ち上がった。
そうして少し時間が経ち、太陽が空の一番高い場所に昇った頃、汐季は誰も来ない玄関で掃き掃除に勤しんでいた。
いつもはこのくらいの時間になると、どこからか螢花が顔を出して、休憩しようと声をかけてくれるのだが、今日はそれも無い。螢花と二人暮しでは家事だってたいしてする事も無いし、こうして一人でいると酷く退屈だ。たった数刻一人で過ごしただけでこんな気持ちになるのだから、汐季がここに来るまで、螢花はどんな思いで毎日を送っていたのだろう。
「……静かだなあ」
「まったくだ。しかし静かすぎるのも落ち着かないものだよなあ」
独り言のつもりで呟いた言葉に返事があったので、汐季は腰を抜かすほど驚いた。冷や汗をかきながら辺りを見回してみるが、誰の姿も見当たらない。
「上だよ、上」
再び掛けられた声に言われるがまま、顔を上げる。庭木として植えている桜の葉に隠れるようにして、白く大きな生き物がこちらを見下ろしていた。
「鳥……?」
まさか、この鳥が話しかけてきたのだろうか? そんな馬鹿な。
「はは、驚いているな。うちの連れ合いと出会った頃を思い出すよ」
細長いくちばしをパクパクさせて、白い鳥は愉快そうな笑い声をあげた。そして、
「うわっ」
バザバサと枝を揺らして、鳥が飛び立った瞬間、汐季は確かに見た。ほんの一瞬、鳥の姿が淡い光に包まれて、次の一瞬には赤い着物の女に変わっているのを。
「鸛良様……?」
「おっと、“様”はやめてくれ。堅苦しいのは嫌いなんだ」
そう言って地面に降り立ち、気安い調子で笑うのは、先日この家を訪ねてきた、鸛良という女性だった。
「あの、今の鳥は……」
「ああ、あれも私だよ。我々には実体が有って無いようなものだからな。その気になればどんな姿にもなれる。ある程度の修練は必要だが」
「はあ……」
汐季にはよく分からない話だが、ようするに彼女は人間ではなく、自在にその姿を変えられるということか。普通ならありえない話だが、もはや当たり前のように受け入れてしまっている自分がいる。
「ところで、螢花は今どうしてる?」
鸛良に訊かれ、汐季はハッと我に返った。
「あ、螢花様は蔵の中にいらっしゃいます。ですが、その、決して近づいてはいけないと言われておりますので……」
「ああ、大丈夫だ。事情は分かっているから」
汐季の言葉を遮って一歩近づくと、鸛良は汐季が持っている竹箒の柄を掴んだ。
「なあ汐季、螢花が出てくるのを一人で待っていても退屈だろう? その間、私と一緒に街へ行ってみないか」
「街……? 街があるのですか」
「もちろんだ。人間達の街にも負けないほど、賑やかで栄えた場所だぞ」
その言葉に、退屈でしおれかけていた汐季の心は弾んだ。狭い村の中で育った汐季は、もともと賑やかな場所への強い憧れを持っていた。様々な人が行き交い、色とりどりの暖簾を掛けた商店が隙間もなく建ち並ぶ。幼い頃に見たそんな街の光景を、今でも忘れられずにいた。
「どうする汐季。君にその気があるなら、すぐにでも連れて行ってやるぞ」
そう言いながらも、鸛良は既に答えを予期しているようで、全て見透かしたような表情で汐季の手から竹箒を取った。空になった手を握って、汐季は無言のまま考えを巡らせる。
螢花は蔵に入ってはいけないとは言ったものの、家の外に出るなとは言わなかった。それに、夕飯を断ったということは、日暮れまでは蔵の外に出てくる事も無いはずだ。それなら、その間汐季が留守にしていたって困ることは無いだろう。
「……行ってみたいです。連れて行ってくださいますか」
汐季の答えを聞いて、鸛良はニッと笑った。
「きっとそう言うだろうと思ったよ」
そう言って汐季の手を取ろうとして、鸛良はふと動きを止めた。
「そうだ。出かける前にあれを持っておいで」
「あれ……?」
「簪だよ。螢花が君に贈ったあれだ。せっかくだから着けて来るといい」
「はあ……」
人の多い所へ行くから、身だしなみを整えろという事だろうか。男が簪で髪を結っていたら、むしろ笑われるのではないかと思うのだが、鸛良はいたって真剣な様子だ。
「……すぐに支度をして来ます」
首を傾げながらも、汐季は足早に家の中へと向かった。
「鸛良さ……ん、これで大丈夫でしょうか」
簪を髪に挿して戻って来た汐季を見て、鸛良はニコリと微笑んだ。
「ああ、完璧だ。それじゃあ今度こそ行こうか」
大股で近づいて来て、鸛良は躊躇うことなく汐季の手を取った。
「か、鸛良さん……」
柔らかく滑らかな女性の手の感触に、一瞬ドキリとする。しかし次の瞬間、目を開けていられないほどの眩しい光が、二人の周囲を包み込んだ。
「え……?」
ぎゅっと目を瞑った直後、体がふわりと浮いた気がした。けれどそれは僅かな間のことで、またすぐに、しっかりとした地面の感触が、草履の裏に戻って来る。
「汐季、もう目を開けていいぞ」
すぐ近くで聞こえた声に驚いて、汐季は慌てて目を開けた。そして、信じ難い物を目にした。
「……どちら様、ですか?」
目を瞑る前と後で、一度も手を離さなかった筈なのに、目の前の相手が別人に変わっていたのだ。
「ん……? おお、すまんすまん。汐季が突然小さくなったと思ったが、私が戻ってしまったのか」
そう言って快活に笑うのは、汐季よりも背が高くて、逞しい体つきをした、見知らぬ男だった。しかしその体には、鸛良が身につけていたのと同じ、赤い鳳凰の着物を窮屈そうに纏っている。
「もしかして、鸛良さんですか?」
「ふふ、その通りだよ。転移の術はどうも不得手でな。そっちに気を取られると、ついこうして一番楽な姿に戻ってしまうんだ。驚かせて悪いな」
「転移……?」
一体どういうことかと辺りを見回して、汐季はようやく、鸛良の姿以上に大きな変化が起きていることに気がついた。
「ここは……」
そう呟いたきり、汐季は絶句した。彼が今立っているのは、螢花の家の玄関先ではなかったのだ。
「人の目から見てどうだ? この街は」
どこか自慢げな鸛良の声も、汐季の耳には届いていない。なにしろ汐季が今いるのは、さっきまでの山奥とは正反対の、賑やかな街並みの中だったのだから。
整備されたまっすぐな道がどこまでも続き、その上を綺麗な着物を身にまとった人達が幾人も行き交っている。道の両側に並ぶ商店へ出入りする者、立ち止まって挨拶を交わす者……実に様々な人がそこに居たが、なぜか誰一人として、突然この場所に現れた汐季達に注目する者はいなかった。
「私の店はここのすぐ近くだよ。行こう汐季」
呆然とする汐季の肩をポンと叩いて、鸛良はスタスタと歩き出した。汐季より歩幅の広い鸛良の背中が、みるみるうちに離れていく。
「あ、待ってください!」
帰る方法さえ分からない場所で置き去りにされては堪らない。汐季は慌てて鸛良の背中を追いかけた。
風が吹く度かすかに香る、濡れた土の匂いに、畑ばかりだった村の光景を思い出す。これだけの土地があれば、さぞかしたくさんの野菜が育てられるだろうと想像してみるが、実際にここから見えるのは、食卓に並べるための野菜ではなく、景色を彩るための緑色だ。
「はあ……」
誰もいない庭に向けて、汐季は小さくため息を吐いた。かつては一日くらい畑仕事を休んで、何もせずにゆっくり過ごしてみたいなどと考えたものだが、いざ本当に何もする事が無くなると、こうして時間を持て余し、どうでもいいことばかり考える。人間とは勝手なものだ。
「汐季、いるか?」
再びため息を吐き出しそうになった時、廊下の方から呼びかけられて、汐季は慌てて背筋を伸ばした。
「はい、こちらにおります」
そう答え終えるかどうかという所で、勢いよく襖が開き、螢花が大股で中に入って来た。
「お仕事はもう終わったのですか?」
「今日の分はすぐに終わる。その前に少し休憩だ」
そう言って汐季のそばに寝転がると、螢花はそのまま汐季の膝に頭を乗せた。螢花は案外寂しがりだ。こうして一日に何度も仕事を中断しては、汐季の元へやってくる。何をするわけでもなく、ただ汐季のそばに居たがるのだ。
「どうして雨なのに障子を開けているんだ? 寒いし濡れるだろう」
庭の方にちらりと視線を向けて、螢花は不満気に訊ねた。
「庭を見ていたんです。雨模様も風情がありますから」
「ふうん……」
汐季の答えにあまり納得がいかない様子で、螢花はもそもそと寝返りをうち、汐季の方に顔を向けた。
「風情とか雅とか、人の感性は難しいな。こうして形ばかり真似してみても、本質を理解できているとは言い難い」
「そうですか? 螢花様は、あんなにも美しい簪を作られるのに」
首を傾げる汐季を見上げ、螢花は居心地が悪そうに身動ぎをした。
「別に、あれこそただの人真似だ。僕が今のような暮らしを始める前に、山の中で人の子が落としていった簪を拾った事があって……それがとても綺麗だったから、見よう見まねで作ってみたんだ」
「見ただけで、あれだけの物をお作りになったのですか?」
「そんなに驚くような事じゃないだろう。手本があれば誰にでも出来る」
「まさか……それなら人間は皆職人になっています。ああした細工物を作るには、本来なら長い時間を掛けて研鑽を積まねばならないのですよ。ですから、螢花様が素晴らしい才能をお持ちである事は、間違いありません」
「……ふうん。そういうものか」
素っ気ない返事をして、螢花はまたころりと寝返りをうった。心なしか、その頬が少し赤く染まっているように感じる。
「そういえば、この前渡した簪はどうしたんだ?」
横目でちらりと睨め上げられ、汐季は下ろしたままの髪に手をやった。
「あれは、大切にしまってあります。失くしたり、汚したりしてはいけないので……」
「そんな事を気にしているのか? 失くなったらまた作れば良いだけの事だ。そもそも、物というのは使う為にあるのだろうに……人の考える事は本当に分からないな」
汐季の膝の上でころころと転がりながら、螢花は不機嫌そうに唇を尖らせる。勢いのままずり落ちてしまいそうになる頭を支えながら、汐季は少し苦笑した。
「新しい物を作っていただいたとしても、螢花様に初めて貰った簪は、あれひとつだけですから。確かに物は使う為の物ですが、大切な物は失くさないよう、大事にとっておきたいのです」
それを聞いて、螢花はぴたりと動きを止めた。
「そうか。替えの効かない物だから失くしたくないという気持ちなら、分かる気がする」
「螢花様にもありますか? 失くしたくない物が」
「……うん。ずっと欲しくて、待ち続けて、ようやく手に入れたものだ」
そう言って、螢花は雨音に耳を傾けるかのように目を閉じた。そうして、そのまましばらく経つと、すやすやと安らかな寝息が聞こえてきて、部屋の中はまた静かになった。けれど、さっきまでに比べれば、寂しくもないし、退屈でもない。少し視線を落としてみれば、すっかり安心しきったような、幼い寝顔がそこにある。
螢花がこうして自分を慕ってくれている事は、素直に嬉しい。きっと弟がいたら、こんなふうだろうと思う。
伴侶という言葉には未だ馴染めないが、ままごと遊びのような今の螢花との関係は、汐季にとって悪くないものだった。
*
その翌朝は晴れだった。しかし庭には未だ雨の名残が見える。寝室の中から身を乗り出すようにして、汐季は水滴の残る縁側を拭いていた。
「汐季、少しいいか」
廊下から顔を覗かせた螢花に声をかけられて振り向く。いつもならすぐに汐季の元へ近づいてくるのに、今朝の螢花はその場に立ったままだ。
「どうかなさいましたか?」
「うん……あのな、僕は今日一日蔵にこもるから、夕飯は要らない」
「蔵……ですか」
汐季は無意識に庭の方へと視線を向けた。
寝室からでは庭木に隠されてよく見えないが、確かにこの家の庭には、大きな蔵がある。特に用事も無いので中を覗いたことも無いが、螢花はそこにこもって何をするというのか。
「良ければ何か、簡単に食べられる物を用意しましょうか」
「いや、いい。僕は大丈夫だから、とにかく君は蔵に近づかないように」
そう言ったかと思うと、螢花はパッと身を翻し、止める間もなく去って行ってしまった。
この前は汐季の方が「部屋から出るな」と言われたが、今日はまるっきり反対だ。蔵の中に何があるのか、螢花は何をするつもりなのか、興味をそそられる気持ちはあるが、さすがに蔵まで行って中を覗いてみようとは思わなかった。前回は言いつけを破って襖を開けてしまったから、今日こそは大人しくしているべきだ。
そう自分に言い聞かせながら、汐季は開けっ放しの襖を閉めるために立ち上がった。
そうして少し時間が経ち、太陽が空の一番高い場所に昇った頃、汐季は誰も来ない玄関で掃き掃除に勤しんでいた。
いつもはこのくらいの時間になると、どこからか螢花が顔を出して、休憩しようと声をかけてくれるのだが、今日はそれも無い。螢花と二人暮しでは家事だってたいしてする事も無いし、こうして一人でいると酷く退屈だ。たった数刻一人で過ごしただけでこんな気持ちになるのだから、汐季がここに来るまで、螢花はどんな思いで毎日を送っていたのだろう。
「……静かだなあ」
「まったくだ。しかし静かすぎるのも落ち着かないものだよなあ」
独り言のつもりで呟いた言葉に返事があったので、汐季は腰を抜かすほど驚いた。冷や汗をかきながら辺りを見回してみるが、誰の姿も見当たらない。
「上だよ、上」
再び掛けられた声に言われるがまま、顔を上げる。庭木として植えている桜の葉に隠れるようにして、白く大きな生き物がこちらを見下ろしていた。
「鳥……?」
まさか、この鳥が話しかけてきたのだろうか? そんな馬鹿な。
「はは、驚いているな。うちの連れ合いと出会った頃を思い出すよ」
細長いくちばしをパクパクさせて、白い鳥は愉快そうな笑い声をあげた。そして、
「うわっ」
バザバサと枝を揺らして、鳥が飛び立った瞬間、汐季は確かに見た。ほんの一瞬、鳥の姿が淡い光に包まれて、次の一瞬には赤い着物の女に変わっているのを。
「鸛良様……?」
「おっと、“様”はやめてくれ。堅苦しいのは嫌いなんだ」
そう言って地面に降り立ち、気安い調子で笑うのは、先日この家を訪ねてきた、鸛良という女性だった。
「あの、今の鳥は……」
「ああ、あれも私だよ。我々には実体が有って無いようなものだからな。その気になればどんな姿にもなれる。ある程度の修練は必要だが」
「はあ……」
汐季にはよく分からない話だが、ようするに彼女は人間ではなく、自在にその姿を変えられるということか。普通ならありえない話だが、もはや当たり前のように受け入れてしまっている自分がいる。
「ところで、螢花は今どうしてる?」
鸛良に訊かれ、汐季はハッと我に返った。
「あ、螢花様は蔵の中にいらっしゃいます。ですが、その、決して近づいてはいけないと言われておりますので……」
「ああ、大丈夫だ。事情は分かっているから」
汐季の言葉を遮って一歩近づくと、鸛良は汐季が持っている竹箒の柄を掴んだ。
「なあ汐季、螢花が出てくるのを一人で待っていても退屈だろう? その間、私と一緒に街へ行ってみないか」
「街……? 街があるのですか」
「もちろんだ。人間達の街にも負けないほど、賑やかで栄えた場所だぞ」
その言葉に、退屈でしおれかけていた汐季の心は弾んだ。狭い村の中で育った汐季は、もともと賑やかな場所への強い憧れを持っていた。様々な人が行き交い、色とりどりの暖簾を掛けた商店が隙間もなく建ち並ぶ。幼い頃に見たそんな街の光景を、今でも忘れられずにいた。
「どうする汐季。君にその気があるなら、すぐにでも連れて行ってやるぞ」
そう言いながらも、鸛良は既に答えを予期しているようで、全て見透かしたような表情で汐季の手から竹箒を取った。空になった手を握って、汐季は無言のまま考えを巡らせる。
螢花は蔵に入ってはいけないとは言ったものの、家の外に出るなとは言わなかった。それに、夕飯を断ったということは、日暮れまでは蔵の外に出てくる事も無いはずだ。それなら、その間汐季が留守にしていたって困ることは無いだろう。
「……行ってみたいです。連れて行ってくださいますか」
汐季の答えを聞いて、鸛良はニッと笑った。
「きっとそう言うだろうと思ったよ」
そう言って汐季の手を取ろうとして、鸛良はふと動きを止めた。
「そうだ。出かける前にあれを持っておいで」
「あれ……?」
「簪だよ。螢花が君に贈ったあれだ。せっかくだから着けて来るといい」
「はあ……」
人の多い所へ行くから、身だしなみを整えろという事だろうか。男が簪で髪を結っていたら、むしろ笑われるのではないかと思うのだが、鸛良はいたって真剣な様子だ。
「……すぐに支度をして来ます」
首を傾げながらも、汐季は足早に家の中へと向かった。
「鸛良さ……ん、これで大丈夫でしょうか」
簪を髪に挿して戻って来た汐季を見て、鸛良はニコリと微笑んだ。
「ああ、完璧だ。それじゃあ今度こそ行こうか」
大股で近づいて来て、鸛良は躊躇うことなく汐季の手を取った。
「か、鸛良さん……」
柔らかく滑らかな女性の手の感触に、一瞬ドキリとする。しかし次の瞬間、目を開けていられないほどの眩しい光が、二人の周囲を包み込んだ。
「え……?」
ぎゅっと目を瞑った直後、体がふわりと浮いた気がした。けれどそれは僅かな間のことで、またすぐに、しっかりとした地面の感触が、草履の裏に戻って来る。
「汐季、もう目を開けていいぞ」
すぐ近くで聞こえた声に驚いて、汐季は慌てて目を開けた。そして、信じ難い物を目にした。
「……どちら様、ですか?」
目を瞑る前と後で、一度も手を離さなかった筈なのに、目の前の相手が別人に変わっていたのだ。
「ん……? おお、すまんすまん。汐季が突然小さくなったと思ったが、私が戻ってしまったのか」
そう言って快活に笑うのは、汐季よりも背が高くて、逞しい体つきをした、見知らぬ男だった。しかしその体には、鸛良が身につけていたのと同じ、赤い鳳凰の着物を窮屈そうに纏っている。
「もしかして、鸛良さんですか?」
「ふふ、その通りだよ。転移の術はどうも不得手でな。そっちに気を取られると、ついこうして一番楽な姿に戻ってしまうんだ。驚かせて悪いな」
「転移……?」
一体どういうことかと辺りを見回して、汐季はようやく、鸛良の姿以上に大きな変化が起きていることに気がついた。
「ここは……」
そう呟いたきり、汐季は絶句した。彼が今立っているのは、螢花の家の玄関先ではなかったのだ。
「人の目から見てどうだ? この街は」
どこか自慢げな鸛良の声も、汐季の耳には届いていない。なにしろ汐季が今いるのは、さっきまでの山奥とは正反対の、賑やかな街並みの中だったのだから。
整備されたまっすぐな道がどこまでも続き、その上を綺麗な着物を身にまとった人達が幾人も行き交っている。道の両側に並ぶ商店へ出入りする者、立ち止まって挨拶を交わす者……実に様々な人がそこに居たが、なぜか誰一人として、突然この場所に現れた汐季達に注目する者はいなかった。
「私の店はここのすぐ近くだよ。行こう汐季」
呆然とする汐季の肩をポンと叩いて、鸛良はスタスタと歩き出した。汐季より歩幅の広い鸛良の背中が、みるみるうちに離れていく。
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