10cm先のラブソング

村井 彰

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10cm先のラブソング

5.残業と酩酊

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 それからというもの、陽太とはなんとなくぎこちない雰囲気のまま、ライブの日から一週間ほどが過ぎようとしていた。
 亀井のことはともかくとして、今陽太と顔を合わせ辛いのは、全部大人気ない俺の嫉妬心のせいだ。過去のことなんてどうしようもないと分かっているのに、一人でいると亀井に言われた言葉を思い出して、余計なことばかり考えてしまう。
 だから、この週末は思い切って陽太と会おう。
 顔を見て、一緒に飯でも食って、それでいつもみたいにくだらない話をして。そうやって今の陽太と向き合ってみれば、きっとくだらないことで悩む暇もなくなるだろう。
 と、そう思っていたのに。
「なんっで、こういう時に限って残業するハメになるかね……」
 誰もいないオフィスで、俺はパソコンに向かって盛大な独り言を洩らした。
 時刻は既に午後十時。今日はさっさと仕事を終わらせて陽太に連絡を取るつもりだったのに、週明けの会議で使う資料にミスがあったことが終業間際になって発覚し、その修正のためにこんな時間まで居残りするハメになってしまったのだ。
 というかそもそも、俺は同僚から送られてきた情報を元に資料作成したわけで、どちらかと言えば向こうのミスなのだが、確認を怠った自分に責任がないとも言い切れない。
 やり場のない憤りを抱えて、俺は何度目か分からないため息を吐き出した。
 さすがに終わりは見えてきたが、いくら金曜の晩とはいえ、こんな時間からいきなり呼び出す訳にもいかない。陽太にだって予定があるだろうし、仕方がない、顔を見て話すのは次の機会だ。
 スーツのジャケットに入れていたスマホが震えたのは、そう考えていた矢先の事だった。

 *

 少し前に交換した合鍵で、オートロックの扉を開ける。
 陽太が住んでいるのはここの四階だが、エレベーターを待つ暇が惜しくて、俺は階段を駆け上がった。

 遡ること四十分ほど前。俺のもとに連絡を入れてきたのは、少々意外な人物だった。
 驚いて確認したスマホに表示されていたのは『kisaragi』の文字。以前会った時に一応連絡先は交換していたのだが、彼女と直接連絡を取り合うのはこれが初めてだった。

 四階分の階段を登りきった俺は、肩で息をしながら廊下を進み、もはや通い慣れた陽太の部屋へと向かう。そうして扉を開ければ、綺麗に並べられた女物のブーツと、リビングから漏れる薄明かりが目に飛び込んできた。
「キサラギさん!ごめん、お待たせ」
 リビングに向かって声をかけながら、俺は彼女の元に駆け寄る。
 すると、ローテーブルの上に肘をついてちんまりと正座していたキサラギが、俺の方を振り返った。その横のソファには、丸くなって眠る陽太もいる。
「カズイさんお疲れ様っす~。すみません、お仕事中だったんすよね?」
「いや、もう切り上げようと思ってたところだったから……」
 言いながら横目で陽太の姿を確認してみるが、若干眉間にシワを寄せているものの、それ以外に変わった様子はない。
「連絡くれてありがとう、キサラギさん。こいつ酔いつぶれたんだって?」
 俺が訊ねると、キサラギは少し苦笑した。
「そうなんすよー。この間のシングルが配信サイトのランキングに載って、そのお祝いに二人で飲んでたんすけど、気がついたらヨウちゃんだいぶお酒入っちゃってて。なんか足元危ない感じなんで送ってきたら、部屋に入るなり寝落ちしちゃったんす」
「そ、そうか……悪いな、迷惑かけて」
「いや、迷惑とかは全然。ていうか、ヨウちゃんがこんなんなるまで飲むって今までなかったんで、なんかあったんかなと思って」
 なんか……と言われれば、思い当たることはいろいろある。
 口ごもる俺を見て察したのか、キサラギは特に何も聞いてこなかった。俺より八つも歳下だというのに、こういう時の彼女はかなり大人だ。
「まあそういうわけで、一人で放っとくのも危ないし……別にうちが泊まっていっても良かったんすけど、やっぱカズイさんが居てくれた方がヨウちゃん安心するかなって」
 お節介でしたかね。と言ってキサラギは頭を掻いたが、陽太が心を許せる相手として、真っ先に俺を思い浮かべてくれたことが、なによりも嬉しかった。
「お節介じゃないよ。……俺もこいつの顔見たいと思ってたから、呼んでもらえて良かった」
 俺がそういうと、キサラギは少し笑って、床に転がっていた赤いショルダーバッグを手に取り、勢いよく立ち上がった。
「んじゃ、うちは帰るんで後はお任せします」
「あ、駅まで送るよ。もう遅いし」
「いやいや、そしたらわざわざ来てもらった意味ないじゃないすか。うちは別に平気なんで、ヨウちゃんと一緒に居てあげてくださいよ」
 キサラギは軽く手を振って、そして不意に真面目な顔になってこう言った。
「ヨウちゃん、今日はお酒入ってからずっとカズイさんの話してました。……余計なお世話かもしんないすけど、目が覚めたら話聞いてあげてください」
「キサラギさん……」
「ヨウちゃんが元気ないと、曲作る張り合いないんすよ。だから、よろしくお願いします」
 俺に軽く頭を下げて、キサラギはしっかりとした足取りで部屋を出て行った。
 そして残された俺は、無言でその場に座り込んで、陽太の寝顔を見つめることしか出来なかった。
 ずっと俺の話をしていた?こんなふうになるまで悩みながら?
「陽太……」
 小さく陽太の名前を呼ぶ。それだけでは足りずに、紅潮した頬に手を伸ばした。
 そういえば、以前にも似たようなことがあったなと思い出した時、あの時と同じように、身動ぎしながら陽太が目を覚ました。
「ん……」
「おはよう、陽太」
 まだ半分夢心地と言った様子で目を瞬かせる陽太に、俺はそっと囁きかけた。
「あれ……かずいさん……?」
「うん」
 俺が答えると、陽太は何かを確かめるように、頬に触れている俺の手を握って、
「…………ええっ?!」
 弾かれたように飛び起きた。
「な、な、なんで和威さんが……っ」
 露骨に動揺しながら、ふらついてソファの背もたれに手をかける陽太。それを見た俺は、キッチンの適当なコップに水を汲んで渡してやった。
「急に動いたら危ないだろ。ほらこれ」
「あ、ありがとう……」
 明らかに混乱しながらも、陽太は律儀に礼を言ってコップを受け取った。少し落ち着くのを待って、俺は簡単に状況を説明する。
「お前キサラギさんと飲んでて潰れたの覚えてるか?あの人がここまで送ってきて、俺に連絡してくれたんだ。ちゃんとお礼言っとけよ」
「う……明日会ったら直接言う……」
 陽太が気まずそうに、手元のコップに視線を落とす。俺は軽く息を吐いて、その隣に腰を下ろした。
 そういえばまだコートすら着込んだままだったことを思い出し、スーツのジャケットごと脱いでソファの背に引っ掛ける。ついでにネクタイも緩めながら、隣の陽太に視線を送った。
 どのみちこうして会うつもりだったというのに、いざ顔を合わせると何を話していいのか分からない。
 キサラギさんと何を話していたんだとか、あれから亀井には何もされてないかとか。気になることは山ほどあるが、それを聞いたらなんだか詮索しているみたいじゃないか?いや、そんなことを言って、本当は知るのが怖いだけなのかも知れない。
 ことん、と硬い音をさせて、陽太がローテーブルにコップを置いた。そうして少し前のめりになったまま、俺には表情を見せずに言う。
「和威さん、わざわざおれの様子見に来てくれたの?」
「ん?まあな。潰れるほど飲んで起きてこないとか言われたら、そりゃ心配だしな」
「そっか……」
 噛み締めるようにそう呟く。そして俺の方に顔を向けないままで、陽太はこの先をこう続けた。
「じゃあ、じゃあさ……和威さんは、まだおれのこと、好きでいてくれてるって思っていいの?」
 驚いて言葉を失った俺の耳に、時計の秒針が回る音だけが、やけに大きく響いていた。
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