ワールド エンド ヒューマン

村井 彰

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第四章 居場所

一話 暗い街

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  雨が、降っているようだ。

  この街に住み始めて以来、すっかり縁遠くなったものではあるが、それでも大穴の上では雨が降る。雨が降れば、僅かに差し込む光も少なくなるし、窓を開けて静かな夜に耳をすませば、遥か遠くから微かな雨音が聞こえる事もあった。
  街全体を覆う巨大な傘の下で、こうして雨に濡れる事なく、静謐な時間の流れだけを味わえるというのは、存外良いものかもしれない。元いた世界では考えもしなかった事だが、今ではそんな事を思う。
  とはいえ、それも今に限っては縁のない話だった。
「それでね、その時パメラさんが来て、シャーロンの背中にガツンとやってくれたの! あの時のシャーロンの顔、ほんと最高だったわ。ファリスにも見せてあげたいくらい」
  数分前にやって来た羊女が、店のカウンターに陣取って、ぴいぴいとうるさくお喋りに花を咲かせている今は、たとえ窓を開けていても、外の微かな雨音なんて聞こえる筈もない。いつも通り顔をストールで覆ったまま、俺は店の出窓に腰掛けて外の様子をのんびり観察していたのだが、この女が押し入ってきたせいで、それどころでは無くなってしまった。
「……サラさん。今は営業中ですから」
  ゴミ山で拾ってきたらしい懐中時計を磨きながら、マシンガンのような羊女のお喋りを黙って聞いていたファリスだが、女が息継ぎのために一瞬黙った隙をついて、ため息混じりにそう言った。
「なによ。他にお客なんて居ないんだから、少しくらい良いじゃない。チヒロだってずっと退屈そうにしてるわよ。ねえ?」
  誰もいない夜の通りをじっと見つめていた俺を振り向いて、羊女は唐突に同意を求めてきた。
「……俺の名前、覚えてたんすか」
「当たり前でしょ? 一回聞いて覚えられないほどバカじゃないわ」
  フンと鼻息荒く言って、羊女は肩をすくめた。ということは、前回この店に来た時は、俺の名前を知ったうえで居候くん呼ばわりしていた訳だ。別に事実だから構わないが。
「てか、あのシャーロンて人、明らかにサラさんに惚れてる感じでしたけど。いいんすか、そんな悪口ばっか言ってて」
「ちょっと、やめてよ。あんなやつどうだっていいわ。だってあいつ、私と話す時は胸しか見てないのよ? 明らかに体目当てじゃない。サイテーよね」
  そう言って、女は甲高い声でキーキーと捲し立てる。自分だってその体を都合よく利用しているくせに、よく言えたものだ。
「サラさん。外もかなり暗いですし、そろそろ帰った方が良いんじゃないですか」
「外が暗いのなんていつもの事でしょ? そんなに邪険にする事ないじゃない」
  不満げな声を上げながら、羊女は口を挟んできたファリスの方へ勢い良く向き直る。しかしファリスの冷めきった態度を見てすぐに口ごもり、そしてわずかに俯いた。
「……拾った子とはずっと一緒に暮らしてるのに、私とは少しのお喋りに付き合うのもイヤなのね」
  サラがぽつりと呟いた声は、雨音よりも微かで、余韻も残さず静寂の中へ溶けて消えてしまう。うるさく話し続けていた女の突然の変化に驚いて、俺達は何も言えなかった。
「……帰るわ。それでいいんでしょ」
  寂しげに言い残して、サラはパッと席を立った。
「あ、サラさん」
  咄嗟にファリスが呼び止めたのも聞かず、サラは足早に店を出て行ってしまう。あの女は案外本気でファリスに惚れているのかもしれない。だからといって、俺にはどうしてやる事も出来ないが。
「女泣かせてやんの」
「……からかうのは辞めなさい」
  少し浮かせていた腰を再び下ろして、ファリスは小さくため息を吐いた。その姿はどこか物憂げだ。
  この世界での美醜の基準など俺は知る由もないが、それでもファリスが女に好かれる理由はなんとなく分かる。綺麗好きで物腰は柔らかく、仕事ぶりも丁寧な優男。これだけ好条件が揃っていれば、仮に見た目がパッとしなかったとしても、大抵の女は良い印象を持つはずだ。
  そうだ。だから……俺みたいな奴をわざわざ拾ってみたのも、ファリスにとってはただの気まぐれなのだろう。この街には本来いないはずの珍しい人間。好きなように扱える都合のいいペット。サラは俺に嫉妬しているふうな事を言っていたが、あいつの方が立場としては対等だ。どれだけ心を通わせた気になっても、俺はファリスに飽きられたら、ここを出て行くしかないのだから。
  細く開けていた窓を閉めて、俺は小さく息を吐いた。こうして閉め切ってしまうと、暗い窓にはストールでぐるぐる巻きの俺の顔が反射するばかりで、外の景色なんて何も見えやしない。薄いレースのカーテンを引いて、俺は自分の顔から目を逸らした。
  今日はほとんど一日中、この格好で店の中に居たから、いい加減息苦しくなってきた。なにより、さっきからしばらく窓を開けたまま外を見ていたせいで、体もかなり冷えてしまっている。閉店には少し早いが、もう部屋に戻ってしまおうか。
  客用のカウンターチェアの下に落ちている“それ”に気づいたのは、出窓から降りて、ファリスに声をかけようとした時の事だった。
「なあファリス。そのハンカチ、あの人が落としていったんじゃねえの」
  俺がそう言って指さした先を追いかけて、ファリスはカウンターに手を付き、少し身を乗り出す。そこには、明らかに女物と思われる赤いハンカチが落ちていた。言うまでもなく、俺やファリスの持ち物では無い。
  大股でカウンターに近づき、ハンカチを拾い上げると、甘い菓子のような香りがふわりと広がって、ストール越しの鼻をくすぐった。
「これ、どうする?」
「……すみませんが、サラさんを追いかけて届けてくれませんか。まだ、そう遠くには行っていないと思うので」
  ファリスはそう言ってカウンターに座り直し、また小さくため息を吐いた。
「あの人ん家って、パメラ婆さんの近所だっけ?」
「そうです。もし追いつけなかったら、それはパメラさんの店に預けておいてください」
  そう言いながらも、ファリスはもうこちらを見ていない。ハンカチから目を逸らすように、また作業へ戻ってしまう。ファリスが顔を上げないので、俺も黙ってカウンター奥の壁に掛けてあるコートを勝手に取り身につけた。
「んじゃまあ、行ってくるわ」
  ハンカチをヒラヒラ振りながら声を掛けて、店の外に出る。その途端、吹き抜けた風がコートの隙間に入り込んできて、冷たい手で背筋を撫で上げた。
「さむ……」
  ストールの下で小さく呟いて、ハンカチを握ったままの手でコートの前を掻き合わせた。陽が完全に落ちるとやはり気温も下がる。俺は冷たくて寒い街の様子しか知らないが、いつかはここにも春や夏が来るのだろうか。そうだとしたら、俺は……その頃までここに居られるのか。
  川沿いに建ち並ぶ間口の狭い家々からは、微かに団欒の気配が漏れている。この辺りは街灯も少なく、夜になると本当に真っ暗になってしまうから、ほとんどの住民達は家の中に引き上げてしまうのだ。
  ここには、二十四時間ずっと営業しているコンビニも無ければ、ヘッドライトを煌々と灯して走り回る車やバイクが通る事も無い。夜がこんなに暗く静かなものだということを、俺はこの街に来てから、ずいぶん久しぶりに思い出した気がする。
  だけど俺は、真っ暗な夜が嫌いだ。夜の闇は、大事な人を飲み込んで、どこか遠い所へ連れて行ってしまうから。
  暖かな家族の気配から切り離されて、静かで寒い夜の道を歩いていると、自分が世界で一人きりになってしまったような気になってくる。寂しい。怖い。そんなくだらない気持ちに支配されるのは、こんな所に一人で居るからだ。こんなハンカチさっさと届けて、ファリスの家に帰ろう。
  ハンカチがシワになるのも構わず握りしめて、俺は足を速めた。俺がこれを届けたら、あの女はさぞかし嫌な顔をするだろうな。きっとファリスの店をまた訪れる口実にするために、わざとハンカチを忘れていっただろうから。
  まばらな街灯の明かりを求めて、光の下で息継ぎをしながら、小さな後ろ姿を探す。しかし、モフモフした白い頭はどこにも見当たらない。
  仕方がない。下手に女を探してうろつくよりも、このまま真っ直ぐ酒場まで行ってしまった方が早いだろう。
  そんな事を考えながら、顔を上げた直後。ストールで覆った耳の奥に、微かな物音が届いた。
「なんだ……?」
  足を止めて、視線を巡らせる。どこかの家から漏れてくる音かと思ったが、その割にはハッキリとした人の声に聞こえた。それも、何か揉めているような。
  なんとなく不穏な物を感じた俺は、ハンカチをコートのポケットに突っ込み、足音を殺しながら慎重に歩みを進めた。俺の右手には暗い川が澱んでいて、左手の少し先には細い路地が口を開けている。声はそこから聞こえたようだった。
「…………に……てよ」
  路地に近づく事に、声はより鮮明になっていく。これは、間違いない。羊女の……サラの声だ。
「わざわざつけて来てたの? ありえないんだけど」
  壁に背中をつけて、路地の先を覗き込む。真っ暗な道の少し先に見えたのは、やはり真っ白な羊の頭だった。しかしひとつ予想外だったのは、サラを壁際に追い詰めている、ゴツい男の存在だ。
「そうでもしないと逃げるからだろうが。店に行ってもあのババアがうるせえしよ」
  黒っぽい服装のせいで闇に沈んでしまい、その姿はほとんど見えなかったが、わずかな街灯の明かりに反射して光る巨大なビーカーと、ぼこぼことくぐもった独特の声で確信した。あいつは飲んだくれのマリモ男、シャーロンだ。
  自分より遥かにデカい男と向かい合っていても、サラは強気な様子を崩さず言葉を重ね続ける。
「逃げるに決まってんでしょ? 私、あんたの事キライだもの。だいたい、ファリスがウチの店に顔見せてくれなくなったのも、あんたが入り浸るようになってからじゃない。ほんと最悪」
「……ムカつく女だな、お前は。そんなにあの菜っ葉野郎が好きか?」
  くぐもっていてもハッキリ分かるくらい、マリモ男の声が苛立たしげに震えるのが分かる。さすがにマズいのではないかと、傍で聞いている俺は肝を冷やしたが、実際に男と向かい合っているサラの方は平然としている。
「変な呼び方しないでよ。ファリスはあんたみたいな野蛮人と違って紳士的で優しいの。好きになって当然でしょ? あんたなんかじゃ勝負にもならないわ」
  そう言って、サラは前に突き出た鼻をフンと鳴らす。対するマリモ男は何も言わない。その沈黙に不穏なものを感じた直後。
「きゃっ」
  乾いた破裂音と共に、サラの甲高い悲鳴が響いて、俺は反射的に身を強ばらせた。何が起きたのか、考える前に直感で理解する。
  あのクズ男、サラに平手打ちしやがった。
「こンのクソ女、俺が下手に出てりゃ付け上がりやがって……」
  マリモ男の声をほとんど掻き消す勢いで、ゴボゴボと激しく泡を吐き出すような音が混じり始めた。こいつらの生態なんて知らない俺でも分かる。この男が、我を忘れるくらい激怒しているという事が。
「な、なによ……そうやって殴れば言うこと聞くと思ってるの? あんたなんかの、思い通りになんてならないわよ」
  地面に座り込みながら、弱々しく震える声で、それでもサラはキッパリとそう言った。その態度が癇に障ったのか、マリモ男の肩の辺りがグッと強ばるのが見える。
  男が拳を振り上げる瞬間は、ひどくゆっくりに感じた。その一瞬に、俺の脳はいろいろな事を考えていた。
  こんな女、別にどうなったって良いだろ。俺がこの男に力で敵う筈がないんだ、放っておいて逃げた方が良い。自分から厄介事に首を突っ込むなんて馬鹿げてる。
  だから、何も見なかった事にして、このハンカチを酒場に届けて、そして家に帰るんだ。ファリスが、俺を待っていてくれる、筈だから……
『千尋! 助けて千尋!』
  その時、不意に、聞こえる筈のない声が聞こえた気がした。
  母さんが、俺を呼んでる声が。
  気づいた時には、俺は自分の思考を置き去りにして、路地の先へと駆け出していた。突然現れた俺の姿に、マリモ男がギョッとして動きを止める。一瞬無防備になったその脇に、俺は勢いのまま全力で体当たりしてやった。しかし男は少しよろめいただけで、到底弾き飛ばすには至らない。
「チヒロ?! なんで……」
  サラの驚いた声が足元から聞こえる。俺はマリモ男の方へ顔を向けたまま、横目でサラに視線を向けた。
「あー……なんでっすかね……まあ何でもいいでしょ。俺が話つけとくんで、サラさんは行っていいっすよ」
「でも……」
「いいから。そこに居られたら気が散るんで、さっさと行ってください」
  俺が強めに指示すると、サラはまだ躊躇いながらも、ようやく立ち上がって、一目散に路地を飛び出して行った。
  遠ざかる足音を聞きながら、胸の奥にじわりと後悔が滲む。一体何をやっているんだ、俺は。
  路地の外から微かに差し込む街灯の明かりに照らされたマリモ男は、もはやビーカーの中全てを覆い尽くさんばかりの勢いで、激しく泡を吐き出し続けている。そこから伝わってくる感情は、苛立ち、怒り、憎悪。この街の奴らには表情がないと思っていたが、この男はずいぶん分かりやすい。
「お前、サラに付きまとってやがったクソガキだな……?」
「いや、付きまとってねえし」
  それはお前の方だろ、という言葉はすんでの所で飲み込んだ。恋は盲目とはよく言ったものだ。このバカには本当に何も見えていないし、聞こえてもいないらしい。
「どけよガキ。殺すぞ」
  手を伸ばせば触れられる距離から投げつけられた言葉は妙に平坦なトーンで、それを聞いた瞬間、背筋に嫌な汗が滲むのを感じた。
  何の自慢にもならないが、俺も元いた世界ではそれなりに危ない橋を渡ってきた。母さんの彼氏に殴られて、殺されかけた事だってあった。
  だからこそ分かる。こいつもあのクソ野郎と同じ。本当に、人を殺せるタイプの人間だ。
「……別にさあ、俺はあんたの邪魔がしたい訳じゃないんだ。むしろあんたとあの人が上手くいってくれれば良いと思ってる。ただな、俺の方もさすがに女が暴力ふるわれてるのを見過ごす訳にもいかねえっつうか……まあ、あれだ。一旦落ち着いて話し合おうぜ? な?」
  どうにかこの場を穏便に逃れようと、俺は必死で言い訳がましい言葉を早口に紡いだ。だが頭に血が上りきったこの男には、もはや何も言っても効果は無かった。
「どいつも、こいつも……俺をバカにしやがって!!」
  悲鳴のような怒号が空気を震わせた瞬間、岩にぶち当たったような衝撃が全身を走り抜けて、俺は地面に叩きつけられた。先程の仕返しとばかりにマリモ男が体当たりしてきたのだと気づいた時には、俺に馬乗りになった巨大なマリモが、激しく震えながらこちらを見下ろしていた。
「離せ……っ」
  男に襟首を掴まれた俺は、どうにか逃げ出そうと必死に身を捩った。だがその程度の抵抗には何の意味もなく、男が横様よこざまに振り抜いた拳が、俺のこめかみを思いきり殴打した。
「ぐ……っ」
  頭蓋骨が砕けたのではないかと錯覚するほど鋭い衝撃の後、耳に電極を突っ込まれたような甲高い耳鳴りが頭の中を埋め尽くした。朦朧もうろうとする意識の中で、鉄臭い血の匂いが鼻の奥に広がる。どうやら口の中を切ったらしい。くそったれ。なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
「このガキ……ふざけた格好しやがって」
  理不尽な怒りに震えながら、マリモ男が俺の顔に手を伸ばしてくる。そして殴られた衝撃で緩んだストールの端を鷲掴みにされ、その一瞬で背筋が凍った。
「お、い、やめろ……っ!」
  俺は慌てて男を制止しようとしたが、脳震盪のうしんとうでも起こしたのか、手も舌も痺れてうまく動かない。ろくな抵抗も出来ないまま、顔を覆ったストールが剥ぎ取られるのを、俺は黙って見ている事しか出来なかった。
「あ……? なんだ、お前……」
  剥き出しになった頬に、冷えた外気が触れる。この感覚もずいぶん久しぶりだなどと、現実逃避のような思考が脳裏を過ぎった。
「お前、その顔……まさか、人間、なのか……?」
  信じ難い物を目にした様子で、男はストールを投げ捨て、俺の髪を乱暴に引っ掴んだ。
「い……っ」
  俺の髪を数本ぶちぶちと引き抜き、男は拳の隙間に挟まった髪の毛を顔に近づけて、興味深げに観察している。そしてやけに興奮した様子で、再び俺の顔を覗き込んだ。
「は……はは……っ、こりゃ良い。俺にもツキが回ってきたかもな」
「……は?」
  男が愉快そうに笑う意味が分からず、俺は顔を顰めた。巨大なマリモが楽しげにくるくる回っている光景が、心底不愉快だった。
「人間嫌いの連中にお前を売り飛ばせば、相当良い金になる。生きたまま……いや、むしろ首だけにして、ゲテモノ趣味の奴らんとこに持ってくか? あいつらの方が金払いは良さそうだ」
  下卑た笑い声を上げる男の顔の中で、デカいマリモがますます激しく回り続ける。その様子を目の当たりにしてようやく、俺は自分が最悪の状況に追い込まれている事を実感できた。
  この場で首をへし折られるよりは、人間嫌いの連中とやらに生きたまま売り飛ばされた方が幾分か希望があるだろうか。……いや、どちらにせよ、俺は二度とファリスの家には帰れないのだから、大して変わらないな。この場をどうにか逃げ出せたって、こいつに正体を知られてしまった以上、いずれは捕まる。その時、俺がファリスの元に居たら、きっとファリスまで酷い目に遭わされるだろう。
  それだけは、絶対に嫌だと思った。だから、これから俺の身に何が起きても、黙って受け入れるしかない。
「……くだらねえな、俺の人生」
  散々いろんな場所を渡り歩いて、逃げ続けて、やっと居たいと思える場所を見つけた途端、こんな汚い路地裏で、こんなクソ野郎に良いようにされてお終いだなんて。
  こんなくだらない末路は、俺のようなクズにはお似合いなのかもしれない。だけど、こんなにも唐突に終わりが来ると分かっていたなら、せめて最後に、ファリスともう少しだけ話をしたかった。他愛もない、つまらない話で良いから。あいつの声が、最後に聞けたら……
「チヒロ!!」
  聞こえる筈のない、その声が聞こえた瞬間、俺はまた幻聴でも聞いているのかと思った。強く求め過ぎるあまり、俺自身の脳が、都合の良い幻を作り出したのだと。
  目の前にいるのは、俺の首に手をかけて、今にも締め落とそうとしている無機質な男の顔。だが、水の中にぷかぷか浮かんでいるマリモは、よく見れば先程までの狂騒が嘘のように硬直している。
  一瞬、何が起きているのか分からなかった。ただ、ガツッガツッという何か固いものを抉るような音が何度か響いて、男の顔がぐらぐらと揺れる。その時になって、俺はようやく、男の顔の向こう側に、見慣れた白い花びらが見える事に気がついた。
  マリモ男の体がゆっくりと傾いで、こちらに倒れ込んでくる。男の顔が俺のすぐ横に突っ込む硬い音が間近に聞こえた。だが、俺の意識はそれよりも、目の前で逆さまにこちらを覗き込んでいる花に釘付けになっていた。
「……ファリス……?」
  俺の声を聞いた瞬間、ファリスの花びらがびくりと震えたのが分かった。
「チヒロ……良かった、無事で……」
  安堵の息を吐きながら、ファリスは俺の方に手を伸ばして、マリモ男の体の下から引っ張り出してくれた。その指先は、鋭い刃物で切ったようにぱっくりと割れて、暗がりの中でも分かるほど赤い血に染まっている。
「ファリス……? なんで……」
「サラさんが、店まで知らせに来てくれたんです」
「サラが……?」
  そうか。ただ逃げ出したんじゃなくて、俺を助けようとしてくれたのか。そんなこと、考えすらしなかった。
「すみません、チヒロ……こんな街を、君ひとりで歩かせるべきじゃなかった。こんな……」
  地面に座り込んだままの俺を抱きしめて、ファリスは繰り返しそう言った。ファリスの肩に頬を寄せると、嗅ぎ慣れた甘い香りに包まれて、心がすっと穏やかになる。けれど、俺達のすぐそばには、ピクリとも動かない男の巨体が横たわっている。
  うつ伏せになって倒れている男の後頭部──巨大なビーカーの裏側には、鋭い何かで無理やり抉ったような穴が空いていた。そしてその穴を貫通し、中のマリモに深々と突き刺さっているモノを、俺はどこかで見た覚えがあった。
  あれは、ファリスが時計を組み立てる時に使っている、小ぶりのドライバーだ。
「……ファリス、あいつ」
  俺の視線の先をちらりと見て、けれどファリスは何も言わない。
「チヒロ。帰りましょう」
  そう言って、ファリスは血が滲む手で、俺の頭を優しく撫でる。だから俺も、それ以上は何も言わなかった。
  俺はまた、あの家に帰れるんだ。
  今は、それだけで良い。
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