ワールド エンド ヒューマン

村井 彰

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第四章 居場所

二話 おとぎ話の終わる時

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  あの夜から数日が経ち、マリモ男ことシャーロンは街から完全に姿を消した。姿を見かけなくなったどころか、死体が見つかったという噂すら聞かない。奴は本当に、跡形もなく消えてしまったのだ。けれど、その事について、街の住民達が騒いでいる様子もなかった。いろいろと察している筈のサラでさえ、あの男の存在については完全に口を噤んでいる。まるで、あんな男は初めから存在しなかったとでも言いたげに。
  あの男の巨体がどこへ消えたのか、誰が消したのか、俺は何も知らない。知るべきではないと思ったから、ファリスやサラに訊ねる気もなかった。
  この街では、命があまりにも軽い。人ひとり消えたくらいでは、誰も騒がないし、探しもしない。この街の奴らが、改めて化け物に見えた瞬間だった。
  だが、あの男が消えた事で、俺が救われたのもまた事実だ。俺の正体を知る者はファリス以外にいなくなった。俺はまた、変わらない日常を取り戻せたのだ。全てに目を塞いで、またいつもと同じ時間を過ごしていける。
  そう、思っていたのに。
「ファリス。もう寝るのか?」
  夜になって、眠るための支度を全て終えた俺は、風呂からあがったばかりのファリスの元へ近づいて、そう声をかけた。
  二階を通り過ぎて自分の部屋へ戻ろうとしていたファリスは、一瞬だけ足を止めて、俺の方を振り向いた。
「……明日も仕事ですからね。君も早く寝た方が良いですよ」
  ファリスはちらりと俺を見て、しかしすぐに顔を背けて素っ気なくそう言った。
「……そっか。おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
  振り向きもせずに答えて、ファリスは階段を上り、俺の前から姿を消した。足音の余韻すら消えた部屋は、耳鳴りがするほど静かで、とても寂しい。
  俺がマリモ男に襲われた夜から、ファリスは俺に触れなくなった。深く交わる事はもちろん、ほんの戯れのような軽い触れ合いさえも無い。
  その理由はまるで分からない。もしかすると、いよいよ俺は飽きられてしまったのかもしれない。厄介事を引き込む面倒な人間だと、そう思われてしまったのだろうか。
  階段の上に凝る闇から目を逸らし、俺は自分のベッドに向かった。ベッドサイドの小さなオルゴールを手に取り、それを抱いたまま、ひんやりと冷たいシーツの上に横たわる。
  触れて欲しい。俺自身を求めて欲しい。自分の中に次々と生まれてくる感情に、ひどく戸惑っている。こんな感情は初めてで、どう向き合えばいいのか、全然分からなかった。
  誰かに愛されたいと思った時、どんな言葉で求めればいいのだろう。俺にとって、愛情は一方的に与えられて利用するもので、使い切ったらまた次の相手を探せば良いだけのものだった。だけど俺は、今の俺は、他の誰でもない、ファリスに求めて欲しいんだ。
「……寒い」
  薄い毛布を頭の上まで引き上げた俺は、そのまま真っ暗闇の中で、手探りにオルゴールのネジを巻いた。ギリギリ……という錆びた音が何度か響いた直後、静寂の中にぽつりぽつりと落ちて広がるように、たどたどしい音の波紋が生まれる。
  懐かしい音が、少しずつ朝を連れて来る。大丈夫だ。この暗い街にだって、いずれ必ず太陽の光が差すのだから。
  まだ見えないわずかな光に縋って、俺はひとり、眠りについた。


  ❊


「サラさん、あんた懲りないっすね」
  翌朝、店の外で出窓を拭いていた俺は、性懲りも無く店にやってきたサラに向かって皮肉を投げつけていた。俺はあの夜以降、ひとりで出歩く事を禁じられているので、こうしてファリスの目が届く範囲でだけ行動している。
「懲りるってなに? 私はお客として来てるだけなんだけど」
「よく言うよ、通い詰めてるわりに何も買わねえくせに」
「ちゃんと気に入った時計を選びたいから時間をかけてるの。長く使う物なんだから当然でしょ」
  サラはそう言い捨てると、偉そうに腕を組んで、突き出た鼻をフンっと鳴らした。
  あの晩、あんな事があったにも関わらず、この女は相変わらずこの店にやって来てはファリスにちょっかいをかけ続けている。俺にも、ファリスにも、あの晩何が起きたのかは聞かないまま、何事もなかったかのように、サラは変わらぬ態度を貫いていた。きっと、真実を追求してしまったらいろんな物が壊れてしまうと、サラ自身も分かっているからだろう。
「……あんま言いたかないすけど、このまま通い詰めてても望み薄だと思いますよ。ファリスがあんたの事話題にしてるのなんて、いっぺんも聞いた事ねえし」
  そもそもの話、ファリスは女を性愛の対象として見ていないのではないだろうか。そうでなければ、ここまで執拗にアピールしてくるサラに、敢えて手を出さないでいる理由が無い。この女が思っているほどファリスが紳士的な男でない事は、俺自身が身を持って知っている。
  とはいえ、この女がそんな事を知る筈もなく、俺の目の前で仁王立ちしながら、サラは不機嫌そうに鼻の頭にシワを寄せた。
「そんなこと、あなたなんかに言われなくても分かってるわ。私はね、あなたがファリスに拾われる、ずっとずっと前から、ファリスのことだけ好きでいるの。……だから、ファリスの方は私のことなんて、何とも思ってないってこともよく分かってる。けど、それでも諦められないのよ」
  平べったい瞳で、真っ直ぐに俺を見据えながら、サラはそう言った。
「……しんどくならないんすか、そういうの」
「ならない訳ないでしょ。だけど、だからって何もしないでいたら、ずっと今のまま、何も変わらないでしょ? だから、少しでも私の方を見て欲しくて、悪あがきしてるのよ。後悔したくないもの」
「後悔……」
  強い口調に気圧されるように、俺はサラの言葉を口の中で繰り返した。自分からは何もしないで不貞腐れているだけの俺よりも、この女の方が遥かにしたたかで逞しい。
「ていうかさー。チヒロってファリスの事好きなんじゃないの? だからサラさんがしょっちゅう店に来るのがヤなんだよな?」
  お互いの用事も忘れて話し込む俺達の間に突然割り込んできた声に驚いて、俺とサラは同時にビクッと肩を震わせた。
「リック、おま……っ、盗み聞きすんな!」
「だって、目の前でずっと喋ってるんだからしょうがないじゃん。嫌でも聞こえるよー」
  さっきまで、いつも通り川沿いに露店を出して商いをしていたはずなのに、いつの間に俺達の真後ろまで近づいて来たのか。店の方ではひとり取り残されたリアンが、そわそわとこちらの様子を窺っている。
「……てか、お前今なんつった? 俺がファリスのこと好き?」
「あれ、違うの? ここで店出してるとさ、窓越しにそっちの店の中見えるけど、なんか距離近すぎっていうか、めちゃくちゃ親密そうだから、なんだったらもう恋人同士なのかと思ってた」
「ん、な訳あるか」
  確かに恋人同士がするような行為を散々してはいるが、それとこれとはまた別の話だ。リックの言葉に若干動揺してしまった俺をジッと見て、サラは平らな瞳を胡散臭そうにすがめる。
「……やたらと私に突っかかってくると思ったら、そういう事だったのね」
「はあっ? いやあんた勝手に納得してんじゃねー……」
  俺の言葉を遮るように、サラがギュッと顔を近づけてくる。長い鼻に小突かれそうになって、俺は思わず後退った。
「……だとしても、私は諦めないから。せいぜい油断しないことね」
  キツい目で俺をひと睨みしたかと思うと、サラはこちらに背を向け、店にも入らずスタスタと帰っていった。その背中からは、湯気のような闘気が立ち上っている……ように見える。
「…………お前のせいで、めんどくせえ事になった」
「えー?」
  俺が軽く睨むと、リックは不満げに首を傾げた。こいつは悪気がないだけに、時たま物凄く厄介になる。
「はあ……もういいわ。お前もさっさと帰れよ。リアンが困ってるだろ」
「あれ、ほんとだ。リアンごめーん」
  俺が指さした方を振り向いたリックは、二人連れの客に一度に話しかけられたリアンが、返事に困ってアタフタしているのにようやく気づいたようで、呑気な声を上げながら露店へ戻っていった。そうして一人残された俺は、やっと訪れた静けさに安堵して、再び自分の仕事に戻ろうと出窓に向き直った。
  台形に出っ張った出窓の真ん中から覗くと、ちょうど中で作業しているファリスの姿が目に入る。こうして、この街の奴らと他愛もない会話を交わして平和な日常を送っていると、だんだん何もかも夢だったような気がしてくるが、やはりあれは、間違いなく本当に起きた事なのだ。
  たとえば、ファリスがいつも愛用していた、小さなマイナスドライバーがひとつ失くなったこと。たとえば、ファリスの指に、痛々しい傷跡が残ってしまったこと。……たとえば、少しだけ近づいたと思ったファリスとの距離が、また遠くなってしまったこと。それら全てが、どうしようもないくらいハッキリと、あの日起きた出来事が真実なのだと物語っていた。
  日常に入った小さな亀裂を直せないまま、時間だけが過ぎていく。
  後悔したくないから悪あがきしているのだと、あの女はそう言った。それなら俺は、どうすればこの先、後悔しないで済むのだろう。


  ❊


  薪ストーブの中に火をつけたマッチを放り込み、小さな炎が少しずつ木材に燃え移って膨らんでいく様子をジッと見つめる。最初はマッチに火をつける事すら出来ずファリスに笑われたものだが、今となっては慣れたものだ。
  炎の揺らめきが安定してきたのを見届けて、ストーブの扉を閉め、俺はすぐそばにある自分のベッドに腰を下ろした。
  今の時刻は午後八時過ぎ。ファリスはまだ下で店じまいと明日の準備をしている。そして、それが終われば、一度自分の部屋に帰るために、必ずこの部屋を通るはずだった。俺は今、その瞬間を待っている。
「……なんで、こんな緊張してんだ」
  独り言を呟いて、膝の間でギュッと自分の手を握る。ファリスとは、もう一ヶ月近く同じ家に暮らしているのに、今さら顔を合わせる事くらいなんだって言うんだ。
  そうだ。こんなの、なんでもないことの筈だ。前と同じように、普通に話して、普通に触れ合えれば、俺はそれで良いんだから。
  いつもと同じ。いつもと……
  自分に何度も言い聞かせながら、耳をそばだてる。やがてすぐに、階段を上がってくる硬い足音が階下から響いてきた。
  知らず、肩にグッと力が篭もる。今を逃したら、また心が萎えてしまう気がして、俺は考える前に立ち上がって駆け出した。
「ファリス!」
  自分の部屋にさっさと戻ろうとしているファリスの背中に勢いのまま手を伸ばし、シャツの脇をギュッと掴む。ファリスは驚いた様子で花びらの先を震わせて、俺の方を振り向いた。
「チヒロ?」
  階段に乗せようとしていた足を下ろして、ファリスは不審そうに俺の名前を呼ぶ。その冷たくも聞こえる声音に、一瞬胸に針を刺されたような痛みが走った。
「あ……」
  声が震えている。情けない。それでも俺は、自分より高い所にあるファリスの顔を見あげて、用意していた言葉を言おうとした。つもりだった。
「……何か用ですか」
  口を半開きにしたまま、間抜けに突っ立っている俺を見下ろして、ファリスがやや呆れたように言う。俺も何か言わなくてはと思うのだが、上手く言葉が出てこない。いろいろ言ってやろうと思って考えていたのに、全部吹き飛んでしまった。
「ちゃんと言ってくれないと分かりませんよ」
  いつか、言われたのと同じ言葉。だけど、あの時感じた優しさはどこにも無い。冷たく、突き放すような響きに、ますます喉の奥が塞がれていく気がした。どうしよう、何か言わなくては。もっと呆れられてしまう。
  もしも……もしも、今日を最後に、ファリスの傍にいられなくなるとしたら。今、何を言えば、何をすれば、俺は後悔しないで済む?
「ファリス……」
  シャツを掴んでいた手を離し、少し背伸びをしてファリスの肩に回す。触れた肩が一瞬強ばったのが、手のひらから伝わってきた。
  噎せ返るほど濃密な花の香りに包まれながら、静かに目を閉じる。その瞬間、唇に触れる柔らかくて温かい花びらの感触だけが、俺の全てを支配していた。
「……なんの、つもりですか」
  永遠にも感じる一瞬の後、ゆっくりと唇を離した俺を見下ろして、ファリスは固い声でそう言った。
  なんのつもり、か。そんなの俺にだってよく分からない。俺はただ、心に浮かんできた衝動に従っただけだ。
「……一回だけで良かったんだ」
  そうだ。この一回が、最初で最後でも構わないから。
「一回だけで、良いから……あんたと、キスしてみたかった」
  たとえ唇を重ね合わせる事が出来なくても、わずかな温かさを分け合えれば、何かが伝わるような気がした。
  たとえそれが、俺の独り善がりな感情だったとしても……
「はは……っ」
  直後、幾重にも折り重なった花びらが一斉に震え、その中心から、あまりにも冷たい、全てを嘲るような笑い声が飛び出して、俺の心臓を抉った。
  この声を、俺は知っている。ファリスに拾われた日にも聞いた。
  俺を、ただの玩具として扱っていた、あの晩のファリスの声と、同じだ。
「ファ、リス……?」
  夢でも見ているような気持ちで、俺はファリスの顔に手を伸ばそうとした。けれど、花びらの先に触れる寸前に、すげなく払い除けられてしまう。
「ふ……っ、はははっ……ああ、本当に……笑わせてくれる……」
  もはや花びらだけではなく、全身を震わせながら、ファリスはおかしくて堪らないというふうに笑い続けている。どうしてそんなに笑われなくてはいけないのか、まるで分からなくて、俺はファリスを見上げながら立ち尽くす事しか出来なかった。
「キスしたい、か……ふふ、君は本当に、愚かで可愛らしい。もしもこれが、おとぎ話の世界なら、今のシーンの後に、こう続くんでしょうね……『美しい青年の真実の愛による口付けで、醜い化け物にかけられた呪いは解けて、化け物は人間の姿に戻ることが出来ました。めでたしめでたし』……ふふふ……っ」
  つらつらと紡がれていく言葉のひとつひとつが、鋭利な刃物のように鋭く尖って、俺の全身を切り刻んでいく。それでもファリスは、言葉を重ねるのをやめようとしない。
「だけどチヒロ、これはおとぎ話なんかじゃない。どうしようもない現実です。僕は永遠に化け物のまま、呪いなんて解けるはずもない。そして、君の愛も、偽りだ」
「そ、んなこと」
  俺の気持ちまで勝手に決めつけてんじゃねえよ。
  そう言ってやろうと思ったのに、ファリスが放つ拒絶するような空気に気圧されて、何も言えなかった。そんな俺をじっと見下ろして、ファリスは子供の我儘に呆れるような仕草で肩をすくめる。
「……どうやらこの有様は、僕の方にも責任がありそうだ」
  小さく呟いたかと思うと、ファリスは不意に俺を押し退けて、ベッドルームの方へと向かった。
「お、おい……どこ行くんだ」
  後を追う俺を振り返りもせず、ファリスは真っ直ぐベッドサイドへ近づいて、そこに置いてあったオルゴールを、乱暴な手つきで手に取った。
「こんな物を気まぐれに渡したばかりに、何か勘違いをさせてしまったようですね」
  俺の方を見もせずに吐き出された言葉に、酷く嫌な予感がして、俺は咄嗟に手を伸ばした。
  けれど、そうするには、少しばかり遅かった。
──カツッ
  冗談みたいに軽い音が響いて、嘘みたいに呆気なく、ファリスの手から落ちたオルゴールが、硬い床に叩きつけられた。俺のすぐ目の前で、弾け飛んだ部品のひとつがコロコロと転がって、爪先にぶつかって止まる。ファリスの足元では、オルゴールの上から弾き落とされた赤い小人が、寂しそうに横たわっていた。
  その光景は、薄っぺらい写真でも見ているような現実味のなさで、けれど、俺の足元に転がっている壊れたオルゴールだけは、嫌な現実感を伴って、そこに存在していた。
「な、んで」
「なんで? 別にこんな玩具、どうなったって構わないでしょう。こんな物を拾ったのも、君に渡したのも、僕にとってはただの気まぐれです。君だって、似たようなものだったはずですよね?」
  ……そうだ。ここへ来たのはたまたまで、ファリスの家に居着いたのは都合が良かったからで、こんな玩具を大事にしていたのは……していた、のは。
「…………俺にとっては、宝物だった。あんたにとっては気まぐれでも、ただの玩具でも、俺は……」
「それが勘違いだと言うのです」
  俺の精一杯の思いをすげなく切り捨てて、ファリスは再びこちらに背を向けた。そうして部屋の奥にあるクローゼットの扉に手をかける。
「出て行きなさい。ここはもう、君の居るべき場所ではない……君には、元いたゴミの山がお似合いですよ」
  クローゼットの中から取り出した青いストールを俺に投げつけて、ファリスは酷く淡々とした調子でそう言った。その声音には、怒りや憎しみといった感情すらない。ファリスはもはや、俺という人間に対する全ての興味を、すっかり失ってしまったようだった。
  目の前で起きている事が、なんだか全部他人事のように感じられる。これは一体、何の悪夢だろうか。こんなにも、酷く空虚な……
(いや……)
  そうじゃない。今まで見ていたのが夢だったのだ。暖かくて、穏やかで、優しい夢。
  ついに、その夢から覚める時がきてしまったんだ。
  これはただ、それだけの話だ。
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