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第一章 見知らぬ世界

2話 海の向こうには

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  鋭い声に驚いて振り向くと、そこには先程の小部屋でラギムの隣に座っていた男の姿があった。
「あんた、さっきの……」
「レクトと申します。以後お見知り置きを」
  キツネのような目を細くして、男が笑う。……いや、よく見ると口元は微笑んでいるが、目の奥は笑っていない。
「いや、あの……名乗ってもらってなんだけど、オレはここに長居するつもりはないから」
「貴方にそのつもりがなくとも、そうしていただくほかありません。諦めてください」
「諦める……? ふざけんなよ、そっちの都合で無理やり呼んどいて帰らせないとか勝手すぎるだろ!」
  レクトという男の慇懃無礼とも取れる態度に、苛立ちが募っていく。声を荒らげてレクトに詰め寄る翔真を、ラギムは憐れむような目で見上げた。
「帰らせないのではない、のだ。今しがたレクトが言っただろう。我々にはお前を帰す術がない。死人を生き返らせる事は不可能だからな」
「…………は?」
  死人? 誰が? ラギムは一体何の話をしているんだ。
「覚えていないか? お前が元々いた世界で、最後に何があったのか。お前はそこで死んだはずだ」
「最、後って……」
  オレは、大学の入学式に出席した帰りで、妹との待ち合わせ場所へ向かうためにバスに乗っていた。バスに乗って……そして……
「そうだ。バスを降りたとこで莉乃りのが待ってて、だけど、莉乃が立ってるとこに車が突っ込んで来るのが見えたんだ。だからオレは、莉乃を突き飛ばして、それで、オレの方に車が突っ込んで来て……」
  莉乃の悲鳴と急ブレーキの音が響いて、そこで翔真の記憶は途絶えている。そして目覚めた時には、ここにいたのだ。
「オレは、莉乃の代わりに車に轢かれて死んだ、のか……?」
「リノというのは?」
「オレの妹だよ。三個下の」
「妹? ……そうか、それならいろいろと得心がいくな」
  そう言って、ラギムは一人で納得したように頷いた。
「莉乃がなんか関係あんの? ちゃんと分かるように説明してくれよ……!」
  焦れた翔真がラギムの肩を掴もうとすると、それを庇うようにレクトが割り込んできた。その顔には、取ってつけたような笑顔が浮かんだままだ。
「落ち着いてくださいショウマ様。貴方をこの世界に喚んだ儀式を行ったのは私です。ですから、私の口から説明いたしましょう」
  自分よりずっと小さくて細い男に睨め上げられて、翔真はグッと息を呑んだ。引っ詰め髪のせいでツリ目が強調されているからか、正面から見つめられると少し怖い。
「結論から申し上げますと、貴方はおそらく、貴方の妹君の代わりに召喚されてしまったのだと思われます」
「莉乃の……代わり?」
「そうです。私は召喚の儀式を行う際、喚び出す対象に幾つかの条件を付けました。ひとつは『陛下と近しい姿形をした種族である』こと。もうひとつは『年若い女性である』こと……どうです? 貴方の妹君なら、どちらにも当てはまるのではありませんか」
「それは……確かに」
  翔真の答えを聞いて、レクトは満足そうに頷いた。
「さらに、召喚を行うにあたって最も重要な条件があります。それは『肉体と魂が乖離かいりした状態である』こと……つまり、あの儀式で喚び出せるのは、その瞬間に命を落とした者だけなのです」
「命を落とした者、って……それじゃ、本当はあの時莉乃の方が死んで、この世界に喚ばれてたかも、ってこと……?」
「そうなのです!」
  突然の大声に、翔真はギョッとして身を震わせた。
「レ、レクトさん……?」
「私の術は、やはり条件通りの人物を喚び出すはずだったのです! それを貴方が勝手に身代わりになって、ここへやって来ただけ……つまり、私は失敗などしていなかった! お分かりいただけましたかラギム様!!」
  今までとは別人のようなハイテンションで捲し立てたかと思うと、レクトは鼻息も荒くラギムの方へ顔を向けた。
「……まあ、レクトの術の成否など、今となってはどうでも良い。実際に喚び出されたのがショウマであるという事実は変わらんからな」
  対するラギムは、レクトとは正反対の落ち着いた表情のまま。情緒不安定なレクトに驚く様子もない。
「え、ええと……なんかいろいろ突っ込みたいことはあるんだけど……一個訊いてもいいか?」
「なんだ?」
  もはやレクトはこちらの話など聞いておらず、代わりにラギムが返事をしてくれた。
「あのさ、莉乃は……オレの妹は、助かったのか?」
  翔真には、最後の瞬間の記憶がない。自分が飛び込んだ後、莉乃がどうなったのか。今知りたい事はそれだけだった。
「お前の妹か……我々にはお前がいた世界の様子を覗き見る術は無いが、もしもお前と妹が同時に命を落としたなら、当初の予定通り、お前の妹の方が召喚されていたはずだ。だが、実際にここへ来たのはお前だけ……つまり、その場で命を落としたのはお前一人という事だ」
「ほんとか?! じゃあ、莉乃は生きてるってことなんだな? 良かった……」
  安堵の息を吐く翔真を見上げ、なぜかラギムは、整った顔をわずかに歪ませた。
「良かった、だと……? 自分が身代わりに死んで、手違いでこのような異世界に連れてこられたというのに、何が良かったんだ。妹の代わりに死ねて本望だとでも言うつもりか」
「え、いや、何もそこまで言うつもりは……自分が死ぬのはもちろん嫌だし、あの時はとにかく必死だっただけだから。……けどそれはそれとして、オレは妹のことがめちゃくちゃ大事だから、生きててくれて良かったなって……なあ、何でそんなに怒ってんの?」
「別に。怒ってなどいない」
  そう言ったきり、ラギムはむっすりと黙り込んでしまった。一体何がそんなに気に障ったのだろう。
「あの、ラギム……?」
  触れようとした翔真の手を押し退けてきたのは、またしてもレクトだった。
「まあまあ、ラギム様。もしや少々お疲れなのではありませんか? 本日は早朝から召喚の儀の準備に追われておりましたから、無理もありません。彼の処遇は追って考えるとして、ラギム様は一度お部屋でお休みになってはいかがでしょうか」
  さっきまでの取ってつけた笑顔とは違う満面の笑みで、レクトがラギムの手を取る。
「……そうだな、そうさせて貰う。レクト、翔真の事は任せる。用意した部屋で休ませてやってくれ」
「陛下のご用命とあらば」
  レクトの手を軽く振りほどいて、ラギムはさっさと長い廊下の先へ歩き去り、その中程にある階段をスタスタと上がっていった。その様子を頭を下げたまま見送っていたレクトは、ラギムの背中が見えなくなるなり、スッと背筋を伸ばして顔を上げた。その顔は、能面のような真顔であった。
「あんた、ちょっと……いや、だいぶ怖いんだけど」
「黙りなさい。私の笑顔は安くないのです。陛下がいらっしゃらない場所で見せる必要など、微塵もありません」
「笑顔ケチる人とか初めて見た……」
  呆れる翔真をジロリと睨んで、レクトはフンと鼻を鳴らした。
「私の事などより、他に気にするべき事がいくらでもあるのでは? 手違いだろうと何だろうと、貴方は今後この国で暮らすほかないのです。陛下はお優しい方ですから貴方を悪いようにはしないでしょうが、身の振り方くらいは考えておいた方が良いですよ」
「身の振り方……って言っても、オレこの国のことなんて何も知らないし」
  そもそも、ここが異世界だという事も、自分が元いた世界では死んでいるのだという事も、どれだけ言葉で説明されてもまるで実感が湧いて来ない。そんな状態でこれから先の事なんて、考えられる訳がなかった。
  だが、困り果てる翔真にも、レクトは容赦しない。
「知らなくても出来る仕事はいくらでもあります。我が国が豊かだったのは昔の話。今は資源も人手も、何もかもが不足しています。たとえ王族であろうと、怠惰を貪る事は許されません」
  厳しい言葉に、翔真は黙り込んだ。
  本当なら、翔真はようやく大学に進学したばかりの実家暮らしの学生で、生きる術について考えるのはまだ先で良いはずだった。それなのに、初めて訪れた国で、知り合いなど一人もいないこの場所で、これからずっと生きていかなくてはならないなんて。考えるだけで目眩がしそうだった。
「まあ、それも部屋で落ち着いて考えれば良いでしょう。ここでいつまでも突っ立っていられても邪魔ですからね」
「……うん」
  冷たく言い放って背を向けたレクトの後ろを、俯きながら着いていく。
  これから自分はどうなるのだろう。心の中で問いかけてみても、答えてくれる者は、当然いなかった。

  *

「すげえ……こんなデカい部屋、オレが一人で使ってもいいの?」
  レクトが案内してくれた部屋の中を見回して、翔真はレクトに問いかけた。
「元々、陛下の奥方……つまりこの国の王妃になる方のために用意した部屋ですからね」
「……ますますオレが使ってもいいの?」
「仕方がないでしょう。こんな状況は想定していませんでしたし、他の部屋は支度が済んでいません。どのみち当面は他に使用する方もいませんから、貴方に使っていただかなくては無駄になります」
  淡々と説明されてしまうと、もう何も言えなくなる。
  レクトとの会話は諦めて、翔真は与えられた部屋を改めて見回した。
  レクトが案内してくれた部屋は、先程の渡り廊下に繋がっていた階のひとつ上、城の最上階にあった。ラギムの部屋も同じ並びにあるらしい。
  そんな室内は六畳ほどの部屋が二つ続きになっていて、片方はベッドの置かれた寝室、もうひとつは二人掛けサイズの机と椅子が置かれたリビングのような感じだ。備え付けの家具はどれも切り出した真四角の石で出来ていたが、そのほとんどに綿のような柔らかい素材で出来た布が掛けられていて、冷たい印象はまるで受けなかった。実家にある翔真の部屋より、遥かに良い部屋である事は間違いない。
「さて、それでは私も失礼させていただきます。後ほど世話係をこちらへ来させますので、何かあれば彼女に申し付けてください」
「あっ、はい……ていうか世話係って」
「では」
  言いたいことだけを告げて、レクトはつかつかと部屋を出て行った。硬い足音が遠ざかって行くのを聞きながら、翔真はあっという間に一人になってしまう。
「……どうしよう」
  途方に暮れながら翔真はトボトボと寝室に移動して、壁際のベッドに腰をおろした。布の下に藁のようなモノでも敷いてあるのか、思ったよりも柔らかい感触が伝わってくる。そのまま小さく息を吐いて、翔真はスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。さすがに暑いし、何より息が詰まる。ついでにネクタイも解いて首元を緩めると、ようやく人心地つくことが出来た。
  そうしてベッドに横たわって目を閉じると、遠くから波の音が聞こえてくる。
  次々と告げられた受け入れ難い事実に脳が耐えられなくなってきたのか、それとも単に今朝からの疲れが出てきたのか。こうして目を瞑っていると、睡魔に頭の奥を引っ張られるようだった。
  そうだ。こんなのは何もかも夢で、目を覚ましたらいつもの日常に戻っているんじゃないか……なんて事を考えてみても、耳や肌に伝わってくる感覚は、馴染みのないものばかりで。
(……本当に、もう帰れないのかな)
  自分は遥か遠くの世界に来てしまったのだと。闇に溶けてしまいそうな思考の底で、そんな事を実感するだけだった。

  そうして、どれくらい眠っていたのだろう。部屋の外をパタパタと通る軽い足音に、翔真は目を覚ました。
「ん……」
  眩しさに目を瞬かせながら、翔真は体を起こした。窓の外はまだ明るいから、どうやら数分ほどウトウトしてしまっただけらしい。
「失礼いたします。ショウマ様、いらっしゃいますか?」
  その時、突然聞こえてきた若い女性の声に驚いて、翔真は慌てて隣の部屋へ移動した。するとすぐに、扉のない出入り口の前に立っているその人の姿が見えた。
「ショウマ様ですか? はじめまして。ショウマ様のお世話係を務めるよう仰せつかりました、メリノと申します」
  鈴を転がすような声で、格式ばった挨拶をして頭を下げた彼女は、とても可愛らしい雰囲気の人だった。金の髪と瞳は他の人達と同じだが、彼女は他の三人と違い、羊のようにふわふわのショートヘアをしている。歳は翔真より少し上くらいだろうか。
「あ、あの……メリノさん? そんなかしこまらないでください。オレはそんな、大した人間じゃないので……」
「まあ、そんなご謙遜を……陛下と御結婚なさる方なのですから、当然のことですわ」
「いっ……いやいやいや! 見ての通り、オレ男だから! ラギムと結婚なんてしないし、出来ないよ!」
  翔真が慌てて全力で否定すると、メリノは悲しそうに細い眉を下げた。
「そうなのですか? 陛下はそのようなこと、お気になさらないと思いますが……残念です」
「うっ……」
  罪悪感に押し潰されそうになって、翔真は思わず胸を押さえた。別におかしなことは言っていないはずなのに、どうしてこんなに申し訳ない気持ちになるんだろう。
「あの、メリノさん……」
「あ、いけない。それよりも先に、ショウマ様にお渡ししなくてはいけない物があるのでした」
「え、オレに?」
「はい。今お召しになっている物は、ファレクシアの気候に合わないとのことでしたので、お着替えをお持ちしました」
  そう言って、メリノは綺麗に畳まれた服を差し出してきた。ワインのような落ち着いた赤色に染められた、とても上品な雰囲気の衣類だ。
「あ、ありがとう。助かるよ」
「いえ。……本来なら新しいお召し物をお出ししなくてはいけないのですが、ショウマ様のお体に合う物がご用意できず、城で兵士として務めているクティヌスの方から、急遽お借りしました。お許しください」
「えっ……いや、そんなの全然いいよ! むしろごめん、面倒かけて」
  今まで会った人達の様子から察するに、この国では翔真の体型は規格外なのだろう。生まれ持ったものはどうしようもないが、それでも自分一人のために手間をかけさせるのは申し訳ない。
「あ、ていうか、クティヌスって何? さっきリズラさんも言ってたけど……」
  メリノが差し出してくれた衣服を受け取りながら、翔真はそう訊ねた。ラギムはともかく、レクトとはまともに会話できる気がしないので、話しやすそうなメリノがいてくれるうちに色々聞いておこう。
  服を抱えたまま近くの椅子に腰掛けてメリノを呼ぶと、彼女は少しためらいながらも翔真の向かいに座ってくれた。
  テーブルの上に服を置いて身を乗り出す翔真の前で、メリノは両手を膝に置いて微笑む。
「クティヌスについて、でしたね。クティヌスというのは、獣に似た姿をした種族のことです。体が大きくて武に秀で、そしてとても勇敢な方々なのですよ」
「獣って……もしかして獣人ってこと?! そんなヒトもいるんだ?!」
  ゲームや漫画で何度も見てきた獣頭の戦士達の姿を思い出して、心が躍った。そんなヒトの服を貸してもらえるのか。
  浮き足立つ翔真を見て、メリノが優しく笑う。
「この世界には、私達ファレクシアの民の他に四つの種族が暮らしておりました。翼を持つ有翼人プテリクス、全身を樹皮で覆われた樹木人デントラクス、肉体を持たない精霊人ニュムファ、そして今お話した獣人クティヌスです」
「へえ……!」
  本当にファンタジー映画の話みたいだ。彼らは一体どんな姿形をしているのだろう。言葉で聞くだけでは全く想像がつかない。
  会ってみたい。翔真の心に浮かんだ素直な思いは、しかし一瞬で打ち砕かれた。
「……ですが、彼らが存在していたのは昔の話です。かつての大災害で、彼らの住む大陸は壊滅状態になりました。災害以前にファレクシアへ移住していた獣人クティヌスのヴェーバルさんを除いて、おそらくはもう、一人も……」
  最後まで口にすることなく、メリノは静かに目を伏せた。
  ラギムも言っていた通り、この世界には、ファレクシア以外の国は存在しないのだ。窓から見える広大な海の先には、何もない。誰もいない。
  そのことを意識した瞬間、背筋にぞっと悪寒が走った。
  幼い頃、知らない街で迷子になった時のような……いや、それよりも遥かに激しい不安。寄る辺がないということが、世界と繋がっていないということが、こんなにも恐ろしいなんて知らなかった。目の前で微笑む彼女やラギム達は、一体どんな気持ちで、今日までの日々を過ごして来たのだろう。
「ショウマ様」
  言いようのない恐怖に拳を握る翔真へと、優しく呼びかけるようにメリノが囁いた。
「ショウマ様、私は……いいえ、私達は皆、貴方がこの国に来てくださる日を心待ちにしておりました」
「それは……ラギムの奥さんになってくれる人ってことだろ? だったらオレじゃないよ」
「いいえ。確かにそれも大切なことではありますが、私達はそれ以上に、“証”を求めていたのです」
「証……?」
  首を傾げる翔真を、メリノはまっすぐに見上げて頷いた。
「そうです。私達が暮らすこの小さな国以外にも、世界はあるのだと……私達が、世界から隔絶されてしまった訳ではないのだという証です。……お分かりいただけますか、ショウマ様。異なる世界から来てくださったという貴方の存在こそが、私達にとっては何よりの希望なのですよ」
「希望……オレが?」
  大した特技もない、頭が良い訳でもない、取り柄といえば少々体が丈夫なだけの翔真が、この国の人達にしてあげられる事なんて何もないのに。それでも彼女は、この存在そのものを希望だと言うのか。
  すでに滅んでしまった世界を救うことなんて、たとえ勇者にだって出来やしないのに。
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