孤島の花嫁~転生先は滅亡寸前の小国でした~

村井 彰

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第三章 日々を過ごして

1話 学び舎

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  暖かな光が差し込む教室に、チョークで黒板に文字を書き込んでいく音と、机を並べるクラスメイト達の息遣いだけが響く。こんな感じはずいぶん久しぶりだ。もしも何事も起きていなければ、今頃は元いた世界でも、こんな時間を過ごしていたのだろう。
  けれど、ここはやはり、紛うことなき異世界なのだ。今さらながらに、翔真はそれを実感していた。
「すみません、レクト先生! ちょっといいですか」
  教室に満ちる静寂を打ち破り、翔真は席に着いたままスッと手を挙げて発言した。その途端、黒板に何かを書き込んでいた手を止め、レクトが不機嫌そうな顔でこちらを振り向く。
「なんですか。くだらない用事なら追い出しますよ」
「いや、全然くだらなくないです。少なくともオレにとっては」
  真剣な表情で伝えると、レクトも一応こちらに体を向けてくれた。そうだ、翔真にとってものすごく重大な問題が起きているのだから、真面目に聞いてもらわなくては困る。
「レクト先生、オレ……文字がまったく読めません!」
「…………は?」
  翔真の言葉を聞いた瞬間、レクトが思い切り眉を寄せた。
  レクトがさっきから滑らかに書き込んでいた白い文字の数々は、翔真が見たこともない形状をしていたのだ。知っている文字に無理やり例えるなら、楔形くさびがた文字が一番近いだろうか。文字というより細かい図形のように見える。
  真顔で黒板を睨む翔真を見やって、レクトは深々とため息を吐いた。
「なんと面倒な……」
「ちょ、ひどくない?! ていうか元々はあんたがオレのこと喚び出したんじゃん! 言葉は通じてるんだから、文字も読めるようにしといてよ!」
  翔真が不満を洩らすと、レクトは露骨に顔をしかめた。
「言語とは、本来地道な学習によって習得するものです。何もせずに言葉が通じているだけ感謝していただきたいものですね。大体、異世界から人間ひとりを喚び出すという事が、どれほど困難な作業なのか、貴方に想像がつきますか? なんなら一から説明して差し上げてもよろしいのですよ。そもそも召喚術というのは、失われた古代の秘術であり……」
「あっ、すみません。オレが間違ってたので勘弁してください」
  放っておいたら無限に続きそうなレクトの話を遮って、翔真は慌てて頭を下げた。お説教はごめんだ。
  チビたチョークを手の中で弄びながらこちらを見据えていたレクトは、情けない翔真の姿を見て、何かを諦めたように息を吐いた。
「仕方ありませんね……貴方には後ほど別の課題を出しますから、今は聞き取りに集中してください」
「あ、はい……お手数おかけします……」
  翔真は身を縮めて、ぼそぼそと言葉を返した。悪い人ではないのはなんとなく分かるが、やっぱりレクトの事はちょっと苦手だ。高校時代の怖い先生に雰囲気が似ているせいかもしれない。
  結局、レクトはそれきり何も言わず黒板に向き直ってしまったので、翔真も自分の手元に視線を戻した。
  翔真が今座っているのは、今朝のうちに自分で運び込んだ、石造りの机と椅子だ。翔真の体には少々窮屈なサイズだが仕方ない。これでも机を並べている他の子供達に比べれば、かなり大きい物を用意して貰っているのだ。
  現在、城内の一室でレクトの授業を受けているのは、翔真以外に五人。その全員が、十歳前後くらいの子供達だ。中には昨日会ったミランの姿もある。
  彼らが受けているのは、基礎の歴史や地理、簡単な読み書き計算の授業ばかりだが、この世界の事を何も知らない翔真にとっては、むしろちょうどいい。そう思って、翔真は朝一番でレクトの元へ向かって直談判したのだ。自分も授業を受けたいと。
(普通に断られるかと思ったけど、オッケーして貰えて良かった……)
  自分より小柄なレクトの背中を見ながら、そんな事を考える。それにしても、受験が終わった時はもう当分勉強なんかしたくないと思ったのに、自分からこんな事を人に頼む日が来るなんて。
(またここで、一から読み書きの勉強か……まあ大学で外国語を専攻したんだと思えば同じ事かもしれないけど)
  もしも何も起きなかったとしたら、翔真は今ごろ日本の大学に通って、家族や友達と毎日を過ごしていたのだろう。
  退屈で、変わり映えしなくて、そして、とても大切だった毎日を。
  そんな事を考えた時、書き取り用に配られたチョークを握る手に、知らず力がこもっていたのを自覚する。ダメだ。今さらそんなこと考えるな。
  帰りたい、だなんて。
「ショウマ様」
  囁き声と共に袖を引っ張られて、淀みかけた思考が浮上した。慌てて視線を向ければ、隣の席から手を伸ばしてきたミランが、くりくりした瞳でこちらを見上げているのに気づいた。
「ショウマ様。読めない文字があったら、いつでもわたしに聞いてくださいね」
  ミランはそう言って、可愛らしい笑顔でにっこりと微笑んでくれる。
「あ、ありがとう……!」
  この子はなんて良い子なんだろう。薄情なレクトとはずいぶんな違いだ。
「ショウマ様。私語は慎んでください」
  翔真が幼いクラスメイトの優しさに感動していると、心を読まれたのかと錯覚するようなタイミングでレクトに睨まれてしまう。
「すみません……」
  なんでオレばっかり怒られなくちゃいけないんだと思いつつも、翔真は再び素直に頭を下げた。対するレクトはフンと鼻を鳴らし、偉そうに腕組みをしながら教室内を睥睨へいげいしている。この態度を目の当たりにして、子供達はよく泣かないものだ。
「……さて。それでは、先日の続きから始めましょう。かつてこの世界には、我が国の他に四つの国がありました。その中でも、有翼人プテリクスが暮らす高山地帯のナポスロス、獣人クティヌスが暮らす高野のペディオバティとは特に国交が盛んでしたが、その理由として……」
  壁に貼り付けられた地図を示しながら、レクトがゆったりとした口調で説明を加えていく。周りの子供達は普通に聞いているが、翔真にとっては耳慣れない単語が多い。
(とりあえず日本語でメモしとくか…… )
  レクトが淀みなく説明していく単語をどうにか耳で聞き取り、手元にある小さな黒板に書き取っていく。この世界にも紙や本はあるが、日本にあった物ほど質は良くないし、メモ書きに使えるほど流通してもいないようだ。この小さな島で全てを生産しているのだから仕方のない事だが、書き取った物を後から見返せないのは痛い。あとでレクトに資料を貸してもらえるだろうか。ああでも、文字が読めないんだった。
  そうやって頭を悩ませながら手を動かしていると、ふとレクトの話が途切れている事に気がついた。何かあったのかと顔を上げて、翔真は思わず背中を仰け反らせる。
「うわっ」
  いつの間にこちらへ近づいて来たのか、レクトが間近で翔真の手元を覗き込んでいたのだ。
「ちょ、なに」
「これは貴方の世界の文字ですか?」
「へ?」
  そう訊ねてきたレクトの瞳はやけにキラキラと輝いていて、なんだかラギムに似て見えた。
「ええと……オレの世界のって言うか、オレが住んでた国の言葉だよ。世界の共通言語はまた別の言葉で……」
「貴方の国……? 国ごとに異なる言語を使っているのですか? 共通言語というのはどういった基準で決められたのでしょう。そもそも貴方の国というのは……」
  翔真の言葉に被せるようにして、レクトが次々に疑問を重ねていく。ラギムがいないのに、こんなにテンションが高い時があるのかこの人。
  面食らって固まる翔真の周りで、子供達のくすくすという笑い声が聞こえてくる。
「先生、今はぼく達の勉強の時間ですよ」
「レクトは勉強ねっしんですね」
  子供達の声を聞いて、レクトはハッとした様子で口を噤んだ。途端に瞳のキラキラは消えて、いつものムスッとした表情に戻ってしまう。
「失礼、授業に戻ります」
  そう言ったレクトの声が、どこか残念そうに聞こえた気がして……
「あの、レクトさん。オレで良かったら、オレが居た世界のこと教えようか? その……授業料ってことで」
  翔真は思わず、そんな事を言っていた。
  翔真の提案が予想外だったのか、レクトは切れ長の目を大きく見開いて、何度か瞬きをした。
「えっと……レクトさん?」
「……なるほど、良いでしょう。では貴方には特別に、私の自室に立ち入る許可を与えます。今夜、私の部屋に来るように」
「いや、なんでそんな偉そうなんだよ……別に良いけど」
  呆れる翔真に背を向けて、レクトは子供達の前へと戻っていく。その足取りは、心なしかさっきまでも軽くて。
(この人、案外わかりやすいな……)
  翔真はそんな事を考えたのだった。

  *

「あ~……疲れた……」
  思い切り伸びをしながら、翔真はそう呟いた。小さな椅子にずっと座っていたから、体がガチガチに固まっている。けれど、それだけの思いをした甲斐はあった。
  この世界で、かつて確かに生きていたヒト達。有翼人プテリクス樹木人デントラクス精霊人ニュムファ、そして獣人クティヌス。彼らのことが、少しだけ分かったような気がする。
  全身を硬い樹皮で覆われて、一見すると樹木のような姿をした樹木人デントラクスや、肉体を持たずに精神体だけで活動する(これは翔真にはイマイチ想像出来ないが、知っている概念で言えば幽霊のようなモノだろうか)精霊人ニュムファは、生命としての形があまりにも違いすぎるため、国としても個人としても深い交流はなかったらしい。
  それに対して、有翼人プテリクス獣人クティヌスは比較的人間に近い姿形をしており、それゆえに災害以前は多くのヒトや物が国家間を行き来していたそうだ。その中には国を越えて婚姻関係を結び、他国に移り住んだ者も少なくないという。
  そのなによりの証明が、先日会ったヴェーバルだ。彼女の夫は、ファレクシアの民なのだという。
(姿形が全然違っても夫婦になれるって、なんか良いな……)
  地球に生きていた人々は、住む国によって大きく姿が違うという事がなかったから、そういう話はおとぎ話のようで、なんだかわくわくしてしまう。莉乃も案外こういう話が好きだから、教えてやったら喜ぶだろうな。
「あ……」
  当たり前のようにそう考えて、心臓をギュッと掴まれたように胸が痛んだ。
  会えないんだ、もう。そんな些細な話をする事も、二度とない。
  考えないように目を背け続けてきたけれど、もうとっくの昔に限界だった。足を止めると、堰き止めていた思いが次々に溢れてきて、息が苦しくなる。
  入学式の朝に送り出してくれた両親の顔、バスに乗りながら友人達と交わした些細なメッセージ、最後に見た、妹の笑顔。
  思い出すほどに、苦しくなっていく。
「……走ろう」
  足を止めてちゃダメだ。こうして立ち止まっていても、辛くなるだけなんだから。
  大丈夫。オレは頭を使うのはそんなに得意じゃないから、思い切り走れば悩みなんて吹き飛んでいく。
  溢れだしそうな全てを振り切るように、翔真は城の外へと駆け出していた。


  昨日ラギムに連れて行ってもらった海に背を向けて、翔真は城が建つ丘の、さらに上の方へと向かっていた。別に何か目的があったわけじゃない。ただ、まだここで見た事のない景色が見たかった。
  初めに聞いた通り、島の北側は森に覆われているようで、足を進めるごとにどんどん緑が深くなっていくのが分かった。周囲の草は徐々に背が高くなっていって、開けていた景色は木々によって隠されていく。内陸育ちの翔真にとっては海よりも馴染んだ光景ではあるが、それゆえにこんな軽装で森の深くに入ることは躊躇われた。
「一回引き返した方がいいかな……」
  足を止めてキョロキョロと辺りを見回す。昼間だというのに、空を覆う枝葉に隠されて、太陽の光は少し遠くなっていた。耳をすませば、どこか遠くの方から小鳥のさえずりが聞こえてきて、風がざわざわと木々の梢を揺らしている。こうして立っているだけで心が落ち着くような、そんな優しい光景だった。
「……っ」
  一瞬、翔真の短く整えた髪を揺らして吹き抜けた風に、海の匂いが混じっているのを感じた。森の奥から潮風が吹き込んで来るということは、この先はやはり海に続いているのか。
(……せっかくだから、海を見てから帰ろうかな)
  そう思って、翔真は森の奥へ続く小道へと足を踏み入れた。
  何度も草を踏みしだいて出来た細い道には、暖かな木漏れ日が降り注いでいた。きっと誰かが何度もこの道を通ったのだろう。その誰かも、海を見たかったのだろうか。
  道の先が少しずつ開けていくのを見て、翔真は再び駆け出していた。
  そうして、風に誘われるように向かった先には、想像通り……いや、想像以上の景色が広がっていた。
  空と海の境目も曖昧になるほど、どこまでも続いていく鮮やかで深い青。こういう色を、確かターコイズブルーと呼ぶんだ。母さんの好きな色だった。
  そんな美しい青の中心に、眩しいほどの白い石碑がぽつんとひとつ佇んでいる。そしてその傍に立っているのは、金色の……
「よく会うな、ショウマ」
  こちらを振り向いてそう言ったのは、ラギムだった。柔らかい潮風に金色の髪がなびいて、海の彼方よりも眩く煌めいている。
「ラギム!」
  名前を呼んで、ラギムがいる岬の先端へと駆け寄る。こんなところで会えるなんて、思ってもみなかった。
「ラギム、こんなとこで何してんの?」
「私か? 私は、兄上に会いに来た」
「え……」
  予想していなかった答えに、思わず足を止める。
  だって、ラギムのお兄さんは……
「そっか……ここ、お墓だったのか」
  ぽつりと零れた翔真の言葉に、ラギムは優しく微笑んだ。
「誰よりも海を愛した人だったから、最も海が近いこの場所に墓碑を建てた。姉上は雨の日でも欠かさず通っておられるが、私はどうもサボりがちでいかん」
  そう言って、おどけたように肩をすくめるラギムの向かいには、細長く切り出された石の墓標が建っていた。そこには、翔真にはまだ読めない文字で何かが彫られている。
  やっぱり、ちゃんと文字を読めるようになりたい。
  そんな思いを胸に、翔真はラギムの方へ向き直った。
「オレも、ラギムのお兄さんに挨拶させてもらっていい?」
「もちろんだ。兄上もきっと喜ばれる」
  ラギムがそう言って笑ってくれたので、翔真は彼の兄が眠る墓標の前に進んだ。
  この国での祈りの作法は分からないけれど、せめて気持ちが伝わるように、両手を合わせて目を閉じる。
  姿も名前も知らない、ラギムのお兄さん。この国の王だった人。彼が何を思い、何を託して海へと還ったのか、翔真には想像することしか出来ない。もしかしたら、彼も今頃どこか遠い世界の国で、二度と会えない家族を思っているのかもしれない。
  その場所で零れた声が、ここへ届くことはなくても。きっと海を見るたびに、大切な人達を思い出すのだろう。
「ショウマ……?」
  少し驚いたようなラギムの声に呼ばれて、翔真は閉じていた目を開けた。
「ショウマ? なぜ泣いているんだ」
  心配そうに翔真の顔を覗き込みながら、ラギムの細い指が一瞬頬に触れる。その時になって初めて、自分が泣いていることに気がついた。
「あれ、なんでだろ……ごめん、ラギム……」
  頬を拭っても拭っても、次から次に涙が溢れてくる。悲しいのか、苦しいのか、それとも寂しいのだろうか。自分の感情すら分からなくて、この涙を止める方法も見つからない。
「ショウマ……」
  戸惑ったような声で翔真の名前を呼んで、ラギムが手を伸ばしてきた。そしてそのまま、翔真の体を優しく抱きしめてくれる。
「ごめ……っ、ラギム」
「良いんだ、ショウマ。何も言わなくて良い」
  まるで子供をあやすように、何度も何度も、ラギムの手が背中をさすってくれる。その温かさにすがるように、翔真はラギムの肩に顔を埋めた。
  柔らかな髪の感触を頬に感じながら、穏やかな鼓動に身を委ねる。
  今だけで良い。この瞬間が終わったら、また頑張るから。
「ラギム……」
  だから今だけは、何も考えずに、この優しさに溺れていたかった。
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