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第五章 希望の光

1話 涙晴れるまで

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  暗闇の中に、誰かの声が聞こえる。
  その誰かは、泣いていた。小さな女の子の声だ。
(莉乃……?)
  そうだ、間違いない。これは妹の、莉乃の声だ。
  莉乃が泣いてる。またクラスの意地悪な男子にいじめられたんだろうか。あいつは体が小さくて気が弱いから、いつもいじめっ子に目をつけられるんだ。
  だから、そんな莉乃を守ってやりたくて、オレは強くなりたいと思ったんだ。
(莉乃!)
  叫んだつもりだったけど、なぜか声にならなかった。それでもオレは、泣き声が聞こえる方に必死で走った。
  水の中を走っている時みたいに、周囲の闇が手足にまとわりついて、うまく走れない。それでも走り続けていると、暗闇の先にうずくまる女の子の姿が見えた。
(やっぱり莉乃だ……!)
  肩まで伸びた長い髪が顔を覆い隠しているけど、それでも間違えるわけがない。小学生になったばかりの頃の、莉乃だ。
「お兄ちゃん……」
(莉乃、オレだよ。お兄ちゃんだよ。もう泣かなくていいから)
  そう話しかけてみるけれど、やっぱり声が出ない。それならと、手を伸ばして莉乃の頭を撫でてやろうとして、オレは気がついた。
  オレには、腕がなかった。
  それだけじゃない、足も、顔も、体そのものがない。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」
  どうしよう、これじゃ莉乃を守ってやれない。
  今、オレの目の前で泣いてるのに。
「お兄ちゃん、ごめんなさい……」
(なんで謝るんだよ……なあ、莉乃)
  何度呼びかけてみても、声は届かない。
(莉乃……オレはここにいるよ)
  だから、もう泣かないで。
  声が届かなくても、触れることができなくても、ずっとずっと、そばにいるから。


  *


「莉乃……」
  そう呟いて目を開けると、途端に暗闇は晴れて、薄暗い灰色の天井が視界に飛び込んできた。それから少し遅れて、しとしとと降りしきる雨の音が耳に入る。
  翔真は何度か瞬きを繰り返して、頭にかかったかすみが消えるのを待った。
  ここは……そうだ、ファレクシアのオレの部屋だ。どうやらオレは、自室のベッドで眠っていたらしい。けど、オレは確か、ラギムと夜の散歩に出かけたはずで、それで……どうしたんだっけ。
「ショウマ?」
  すぐそばからラギムの声が聞こえたことに驚いて、翔真はベッドの脇に視線をやった。なんだかやけに体が重くて、少し顔を動かすだけでもすごく億劫おっくうだ。
「ラギム……?」
  うまく回らない口を動かして、ラギムの名前を呼ぶ。ベッドの脇で、椅子に腰掛けたままこちらを見ていたラギムは、その声を聞いた瞬間、わずかに口元を歪ませた。
「お前は……本当に、馬鹿者だ」
「ちょ、いきなりそれは、ひどくない……?」
  まさか目が覚めた瞬間に罵られるとは思っていなかった。だが、顔をしかめる翔真を見下ろすラギムは、まるで表情を変えない。
「酷いのはお前の方だ。自分がなぜそんな状況になっているのか、覚えていないのか」
「状況、って……」
  なんでだったっけ……?
  記憶を辿りながら、重たい手を持ち上げて、自分の体に触れてみる。薄い掛け布団の下を探ってみると、腹部に包帯のような物が巻かれている事に気がついた。
「そうだ……オレ、刺されたんだ。あの、羽根が生えたヒトに」
  あれは一体誰だったのだろう。あんなヒトは島で見かけた事がないし、そもそも翼があったという事は、あのヒトはもしかして、とっくに滅んでしまったはずの……
「なぜ、私を庇った?」
  鋭い声に問われて、翔真は自分の体を見下ろしていた視線を上げた。
「なぜって、何でそんなこと、聞くんだよ」
「理解が出来ないからだ。お前はここへ来た時も、お前の妹を庇って命を落としたはずだ。そして今度は、私を庇ってそんな怪我を負った。……一歩間違えれば、ここでもまた命を落としていたかもしれない。そうなれば、もう二度と“次”はなかったんだぞ。それなのになぜ、他人のために平気でその身を投げ出すような真似をするんだ」
  他人。その言葉が、刃物で刺された時以上の痛みを伴って、翔真の体を貫いた。
  確かに自分は、ラギムにとっての何者でもない。だけど、そんな言い方はあんまりじゃないか。
「あのさ……っ」
  言い返そうとしたその時、ラギムの美しい顔が泣きそうに歪んでいることに気づいて、翔真は息を呑んだ。
「お前も、兄上と同じだ。そうやって庇われた者が……後に残された者が、どんな思いをするか、まるで分かっていない。あの日、兄に助けられた漁師の青年が、私の姿を見た瞬間何と言ったか分かるか? 『私のような者が、生き延びてしまってすみません』だ。そう言いながら、彼は何度も何度も、地面に頭を擦り付けて泣いていた。その後も彼は、抱く必要のない罪の意識に駆られながら日々を過ごしている。兄の“立派な行い”が、一人の人生を狂わせた」
  痛みを堪えるような表情で吐き出される言葉は、ひとつひとつが鋭利な刃物のようで。ラギムは、その言葉で自らを傷つけようとしているように見えた。
「……皆が、兄上を立派な王だったと讃える。確かにあの人の行いは、王として、人の上に立つ者として、誰よりも正しい行いだったのだろう。だがあの人は、父として、夫として……そして兄として、どれほど自分が求められているのか、まるで理解していなかった。王の代わりはいても、兄上の代わりには、誰もなれないのに」
  そう言って、キツく拳を握るラギムは、翔真が見た事もない苦しげな表情をしていて。それでも、とても綺麗だった。
「……あの人の行いが間違いだったなどと、この私の口で言う事は、絶対に許されない。兄上は誰よりも正しくて、その跡を継いだ私も、彼のように生きるべきで……けれど、本当は言いたかった。他人の事なんてどうでもいいから、どこにも行かないでくれと。立場も責任も全部投げ出して、ただ生きていてくれと。……あの時、嵐の中へ飛び出して行こうとする兄上に、そう伝えられていたら、どんなに……」
  言葉と共に吐き出された息が大きく震えて、そして何かを堪えようとするかのように、ラギムは目を閉じた。けれどその直後、閉じられた瞼の向こうから、堪えきれなかった涙が一筋零れ落ちる。
「ラギム……」
  ラギムの瞳はあんなにも眩しい金色なのに、そこから溢れる涙は、硝子玉みたいに透明だ。
「ラギム……やだよ、泣くなよ……」
  手を伸ばして、握り締めすぎて真っ白になった指に触れてみるけど、ラギムは何も答えてくれない。
  同じだと思った。夢の中で泣いていた幼い妹と。ラギムの心も、きっと暗闇の中で一人きりだ。
  だけど、あの夢とは違って、今の翔真には腕がある。声だって届く。
  だから、妹を抱き締めてやる事はもう出来ないけれど、せめてラギムにだけは伝えなくちゃ。
  ベッドに肘を付きながら、痛む体を無理やり引きずり起こして、ラギムの体を抱き寄せる。以前、ラギムが抱き締めてくれた時を思い出しながら、震える体を出来るだけ暖められるように、強く強く、その手に力を込めた。
「ごめん、ラギム。泣かせてごめん。辛いこと思い出させてごめん。でもオレ、他人のために命を捨てようなんて、そんなこと一回も考えたことないよ。オレはラギムのことが大事だから……好きだから、守りたいと思っただけなんだ」
「……勝手だ、そんなの」
「うん。本当にごめん。でも、ラギムが無事でいてくれて良かった」
「何も良くない……っ、お前が目覚めないでいる間、私が、どんな思いでいたと……」
「うん……心配してくれて、本当にありがとう」
  あの日、あんなにも暖かくて頼もしかった体が、今はやけに小さくて頼りない。けれど、今はそれすらも愛おしいと思った。
  こんな時に自覚するなんて、自分は本当に酷いやつだ。けれど、溢れ出してくる思いは、もう止められない。
  好きだ。この人のこと。この人のために、自分自身を全て投げ出しても惜しくないくらい。
「もう泣かないでよ、ラギム。オレ、ちゃんと無事だったろ」
「どこが無事なんだ……大体、私は泣いてない」
「いや、それはムリがあるって」
  子供のような言い分に、思わず笑ってしまう。ちょっとだけ意地悪したくなって、翔真はラギムの濡れた頬に手を添えると、その顔を間近に覗き込んだ。
  いつも真っ白に整った彫像のような顔が、今は絵の具を落としたような淡い赤に染まっている。少し腫れた瞼も、涙に濡れたまつ毛も、全てがとても人間らしくて、こんな顔も魅力的だと思った。
「や、やめろ、離せ……」
  焦った様子でラギムが翔真の手を離させようとしてくるが、残念ながら負傷していてもこちらの方が力が強い。
「かわいいなー……」
  思わず洩れた心の声を聞いた瞬間、ラギムの頬がさらに紅潮した。
「な、にを、言ってるんだ、調子に乗るんじゃない、この……」
  ラギムが本気で怒り出しそうな気配を察して、翔真は渋々手を離し、もう一度ラギムの体を抱き締め直した。その途端、ラギムがもぞもぞと抵抗してくる。
「いい加減、離せ」
「離したら、また泣き顔見えちゃうけど?」
「…………生意気だぞ、お前」
  いかにも不満げな口調が珍しくて、また笑みが零れてしまう。なんて可愛い人なんだろう。
「……ショウマ。今この場で見聞きした事は、全て忘れろ」
  そうしてしばらくした後、抵抗を諦めたらしいラギムが、ムスッとした調子で囁いてきた。
「やだよ。ラギムの泣き顔なんてもう二度と見れないかもしれないし」
「……っ、それもだがそうじゃない! 兄上について、私が話した事だ!」
「ラギムのお兄さん?」
「そうだ。……本当は、生涯誰にも言わないつもりだった。だからお前も、忘れてくれ」
  そう言って、ラギムは翔真の肩にそっと頭を乗せた。
  ラギムが本当は、兄の最期に納得出来ていないこと。普通なら当たり前のその気持ちは、今のラギムの立場では、抱く事すら許されないものだ。
  ラギムは、この国の王様だから。そしてなにより、ラギムの本当の思いを知れば、彼の兄に助けられた青年は、再び自分を酷く責めてしまうだろうから。
「……言わないよ。オレとラギムだけの秘密だ」
  翔真が答えると、ラギムはホッとしたように息を吐いた。肩に触れるぬくもりを感じながら、翔真は少し考える。
  ラギムのお兄さんのことを、翔真は何も知らない。けれど、何も知らない翔真だから思うこともある。
「……あのさ、ラギム。オレはただ話を聞いただけだけどさ、ラギムのお兄さんも、本当は立派なだけの人じゃなかったのかもなって、オレはそう思ったよ」
  ずっと気になっていた事を口に出すと、それを聞いたラギムがわずかに顔を上げた。
「いくら王様だからってさ、家族を置いて他の誰かのために行動するなんて、やっぱり簡単なことじゃないと思うんだ。……だからさ、お兄さんはただ、ラギムにかっこいいところを見せたかっただけなんじゃないかなって」
「……なに?」
  意味がわからないというように、ラギムが訝しげな声を上げる。翔真はそんなラギムの方へ視線を向けて、少し笑ってみせた。
「兄ちゃんってさ、弟とか妹の前では格好つけたいもんなんだよ。いつだって自慢の兄貴でいたいから、怖くても、辛くても、無茶して頑張っちゃうんだ。……だから、ラギムのお兄さんも、そうだったのかもなって」
  翔真の発言の意味を噛み砕くように、何度か瞬きを繰り返して……それから、ラギムはギュッと眉を寄せた。
「なんだ、それは……そんな、馬鹿馬鹿しい……」
「そうだよ、馬鹿馬鹿しいもんなんだ。見栄っ張りで、つまらなくて、すごく自分勝手で……それでも、本人とっては何より大切な事なんだよ」
  それは決して、他人のためなんかじゃない。大好きな家族に、誇りだったと、立派な人だったと思って欲しい。そんな、独りよがりで、まっすぐな気持ちがそこにあったのではないか。
「……なんて、ごめん。全部オレの想像だけど」
「いや……」
  何かを考え込むように呟いて、ラギムは翔真の背中に手を回した。
「……なんだろうな。今日までずっと思い詰めていたのが、馬鹿らしくなってきた」
「オレ、余計なこと言ったかな」
「いや。……お前に話して、良かったのかもしれんな」
  そう言って、ラギムは少し口元を緩ませた。
(あ、やっと笑った)
  今日はいろんな表情を見られたけど、やっぱり笑ってる顔が一番好きだなと思う。
「さあ、もういいだろう。そろそろ横になれ。まだしばらくは休んだ方が良い」
「うん。……あのさ、オレどのくらい寝てたの?」
「今日で三日目になるところだった」
「まじか」
  道理で体がだるいはずだ。ラギムに促されるまま、素直にベッドへ横たわろうとした瞬間、腹部に引き攣れたような痛みが走った。
「いって……」
「ほらみろ、大人しく寝ていないからだ」
「だって、ラギムが泣いてたから……」
「それは忘れろと言っただろう」
  翔真の髪をくしゃりと撫でて、ラギムは少し怒った表情で、それでもまた笑ってくれた。
「もう少しの間、ここに居る」
「ん。……ありがとう」
  こんなふうに、誰かに頭を撫でてもらうのなんて、子供の頃以来だ。
  温かな手の温度を感じながら、翔真はいつの間にか、再び眠りについていた。
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